fc2ブログ


毛呂山町散策

天気が良くて行楽日和とあっては、いつもの通り関越自動車道は渋滞状況なので、今回は多少近くもあることから高速には乗らずにのんびり一般道を走りました。
以前、越生に行ったときにやはり高速を使わなかったことから、途中毛呂山町を通過しましたが、そのときは道を知らべるのが非常に厄介でした。今回はナビがあるので実にコンビニエンスに毛呂山までドライブができます。
妙にナビのありがたさを改めて実感するドライブでした。

歴史民俗資料館

最初に訪れたのは「歴史民俗資料館」です。
予定通り10時少し前に到着です。ここでは毛呂山町の歴史・文化財はもとより流鏑馬についての展示などがあるので、是非とも予習として見ておきたいところです。
毛呂山町歴史民俗博物館 建物を見ると、こういっては失礼ながら、かなり立派なので驚きました。

毛呂山町歴史民俗博物館 エントランスを入るとロビーになっていて、早速そこに大きな流鏑馬の像が置かれています。

流鏑馬像 「ゆずと流鏑馬の町 毛呂山町」のコピー通り、町のシンボルとしてこの迫力ある流鏑馬像が置かれているようです。

やぶさめサミットスローガン 常設展示室の入口には「成功させよう!! やぶさめサミット」とスローガンが掲げられています。
ある意味では町挙げての一大イベントですから何をおいても成功させなればなりませんでしょう。

ここでこの「やぶさめサミット」の概要だけ調べておきます。

サミットの内容は、シンポジウムと交流展です。
シンポジウムは10月31日に行なわれたようで、「やぶさめを守る 伝統文化を後世に伝えていくために」をテーマに記念座談会も含めて行なわれました。その後、流鏑馬行事「稽古じまい」を見学して当日は終了したようです。
また、交流展は10月31日から11月3日(今日までですね)までの間、やぶさめ交流展として毛呂山町福祉会館で、やぶさめサミット参加団体の流鏑馬衣装などを展示しているそうです。これは、後で是非みたいものです。
こういった内容でシンポジウムが行なわれたようです。

まずは常設展示室を見学します。
常設展示室は基本的に年代ごとに別れていて、一番手前が古代期です。
展示室 縄文時代では毛呂山町では遺跡も発見され、随分と土器なども出土しています。
弥生時代の遺跡は殆どないようですが、古墳時代の古墳群は相当な古墳数が見つかっているようで、毛呂山町には大類古墳群、川角古墳群、西戸古墳群の3つの古墳群があり、あわせて90以上の古墳が存在しているそうです。

すべてが越辺川流域に存在しているそうなので、母なる川の偉大さといったところでしょうか。

次のコーナーは勿論、中世時代ですがその途中に突如として企画展が現れます。
桂木寺 木造伝釈迦如来坐像 現在は「桂木寺木造伝釈迦如来坐像」秋の特別公開が11月28日まで行われています。

この桂木寺 木造伝釈迦如来坐像についてはオフィシャルサイトに説明があります。

『桂木寺 木造伝釈迦如来坐像 (埼玉県指定文化財) 伝釈迦如来坐像
毛呂山町大字滝ノ入にある桂木寺の木造伝釈迦如来坐像は、平安時代初期をやや過ぎた10世紀後半の作と考えられ、埼玉県ばかりでなく関東でも最古の域に属する貴重な仏像とみられています。
材質はカヤ材で一木造(一本の木から造られている)。大きさは像高74.4cm、膝張55.6cm、膝奥43.3cm。頭巾を被ったような頭髪部、大きく見開いた眼、張りのある強い頬、広い肩幅、厚みのある胸部及び腹部・膝、胎内内刳り面に見られるノミの鋭い刃痕などが特徴で、平安初期に近い時代の作と認められました。
また、桂木寺周辺は、古くから山岳仏教の栄えた地域であり、江戸時代からゆずの産地とされています。』(歴史民俗資料館サイトより)

流石に古墳の多く存在する町だけあって、貴重な歴史、遺物が眠っていますね。
この坐像はずっと寺の本尊として残っていたものではなく、昭和54年末に発見されたものだそうです。
発見当時の写真が横に展示されていますが、表面に彩色がされていたり指が欠けていたそうで、かなり痛みが酷かったようですが、修復によって現在のように綺麗な姿で見ることができるのです。
現在はこの資料館に保存委託されていて、時折公開されるようですが貴重な機会でした。

ここから元の常設展に戻って中世の展示です。
毛呂山町の中世の歴史の中心となるのが、地元の領主の毛呂氏です。

毛呂氏の活躍
藤原氏の血筋を引く毛呂氏は、鎌倉幕府の樹立期には源頼朝の側近として活躍した御家人でした。
やがて、南北朝以降の東国内乱の時代を迎えると武者として幾多の合戦にもその名を残します。
16世紀、戦国大名の後北条氏の関東支配が進むと毛呂氏はいち早く後北条氏に属して活躍しましたが、後北条氏の滅亡とともに毛呂氏の在地領主としての役割も終焉しました。 』(歴史民俗資料館サイトより)

特にここには毛呂顕繁が大永8年(1528)に出雲伊波比神社の再建を記した毛呂大明神棟札が展示されています。
毛呂大明神棟札 出雲伊波比神社の歴史の一端をうかがい知ることができる展示物です。

そして、この毛呂山は鎌倉時代の側近としての御家人毛呂氏の領地ですから、当然鎌倉街道があるのが道理で、毛呂山には上道である鎌倉街道が通っている町で、特に当時「苦林野」と呼ばれていた越辺川流域の大字苦林・大類・川角地区の鎌倉街道沿いには、史跡や文化財も残されているようです。
板碑 更にここ毛呂山には多くの板碑が残されていて、それらのレプリカが展示されています。

これらもまた中世の毛呂山町の栄華を偲ぶ一つではないでしょうか。

近世においては、毛呂山周辺は天領となったため、特筆するべき歴史や文化財などはあまり無いようです。 このように中世に栄えた町であったから、特に流鏑馬行事が伝統として残されてきたのかも知れませんね。
途中、またまた変わった展示品があります。
天皇・皇后ご来訪際の休憩用の椅子 ある意味何の変哲も無い椅子ですが、これは昭和39年当時の皇太子・妃殿下(現在の天皇・皇后)が毛呂病院に来院された折に休憩時に座られた椅子なのだそうです。

当時の毛呂病院の院長室にあったものが、いつの間にか「いるま野農協毛呂山支店」に移管され、現在この資料館に保存されているのですが、椅子の底に「昭和参拾九年拾壱月弐拾日 皇太子殿下御座(御休憩室)毛呂病院長室」と書かれた布が縫い付けられていたことが、この椅子が残存してきた理由のようです。

やぶさめコーナー そして最後に流鏑馬のコーナーがあり、衣装の展示や、祭りの様子のビデオが見られ、実際のやぶさめを見るのが楽しみになってきました。

柚子とやぶさめの町・毛呂山ですが、この資料館を見学して歴史を知る町としても十分堪能できることがうかがい知れました。

歴史民俗資料館周辺

資料館を出て次なる場所へ進もうと駐車場に戻る途中の、資料館の敷地の一角に大きな桶?・・・樽?・・・、のようなモノが置かれていたので行って見たところ、この大きな樽は醤油樽でした。
毛呂醸造指導所(通称:吉野川醤油)の大樽

毛呂醸造指導所(通称:吉野川醤油)の大樽
毛呂醸造指導所とは、吉野川周作氏が大正12年(1922)ごろ、毛呂山町毛呂本郷に設立した、醤油を共同で醸造する企業のようなものでした。醤油は当時、高価な調味料だったため、吉野川氏は家庭でできるより安価な自家製醤油の製造を思い立ち、同指導所を開くともっぱら農村に自家用醤油を普及するため「吉野川式自家用醤油」という独自の製造法をもって多くの醤油作りの職人(技術員)を育成・輩出し、農村に自家用醤油を普及に努めました。
やがて自家製醤油搾りの風景は、農村の冬の風物詩となるほど自家製醤油は普及し、昭和30年ごろをピークとして指導所も発展していきました。この大樽はその頃指導所で使われていたものです。指導所が大規模な醤油醸造をしていたことがわかります。』(現地案内板説明文より)

極々一般的な醤油が高価な調味料で、しかもそのために自家製の醤油を作ることを指導しようという吉野川氏の努力と熱意が感じられますね。
ビジネスとしてならともかく、ある意味ボランティアでしょうから、その心意気天晴れといったところでしょうか。

西戸2号墳 その大樽の隣には古墳のようなものがあり、西戸2号墳という案内板がありました。

西戸2号墳
毛呂山町の越辺川流域にある古墳群のうち、最も上流にあるのが西戸古墳群です。この古墳は明治26年(1893)に一度発掘されましたが、平成2年度に再び本格的な発掘調査を行い、このたび資料館に石室を移し、発掘調査時の状態に復元いたしました。
発掘調査の結果、古墳の周りに掘られる溝(周溝)は発見されず、墳丘を河原石で覆う葺石が古墳東側でわずかに見られたものの、本来どのような形の古墳であったかは判りませんでした。
石室は、凝灰質砂岩の切石を用いて築いた横穴式石室です。凝灰質砂岩は東松山市を中心とした比企地方の岩殿丘陵に見られることから、当初から石室構築材として切り出された可能性があります。明治期の発掘により、石室の天井や壁の一部は原型を留めていませんでした。石室は、全長2.15m、最大幅1.53mでほぼ南に開口していました。石材に切り込みを入れ、石と石とが互いにかみ合わさっているほか、1段目と2段目の石材との間に扁平な石を外側からはさみ、やや内傾を保ちながら積み上げる技術も見られました。墳丘の構築のようすは、石室外側の砂利(裏込め)と黒色の封土が交互に盛られていることでよく判ります。
西戸2号墳は、6世紀末から7世紀初頭に築造されたようですが、石室内から8世紀頃の遺物が出土していることや、3人以上の人歯も確認されていることから、横穴式石室の特徴の一つである追葬がなされたと考えられます。
越辺川流域の古墳は。、石室に多くの河原石を用いる傾向がありますが、凝灰質砂岩の切石も用いられていることで、古墳時代後期の多様な埋葬施設をうかがうことが出来ました。なお、石室内から出土したガラス小玉、須恵器長頭壺、金環等の副葬品は資料館に展示されています。
平成10年3月 毛呂山町歴史民俗資料館』(現地案内板説明文より)

ちょうどこれを読み始めたときに、資料館のスタッフの方が来られて説明をしていいただけました。
ここにも書かれているのですが、この古墳は違う場所にあったものを、ここに移動・復元したものです。
西戸2号墳 特に石室の内傾した積み方の技術などの説明をしていただきました。

ちなみに、後日この復元古墳を調べたところ、この古墳を復元した企業がネット上で見つけました。 地域文化財研究所といい、千葉県の印西市にある企業です。
この企業の業務内容は、1.史跡保存整備及び遺跡の移築等に関する業務、2.埋蔵文化財に関するコンサルタント業務、3.埋蔵文化財発掘調査及び整理調査に関する業務、4.建築の設計、施行監理に関する業務とあります。
発掘調査などは、てっきり考古学の教授が中心となって、学生や主婦などのほぼボランティアがするのかと思っていましたが、こういった企業が請け負うこともあるのですね。

参考:【株式会社地域文化財研究所】http://www.chibun.co.jp/moroyama.html

西戸2号墳の説明をきいたところで、スタッフの方からこの近くにある古墳へ案内しましょうとの申し出をいただいたので、ここは遠慮なく案内していただきました。
資料館の裏手から外へでると、すぐ近くに雑木林があり、その雑木林に通じている道がなんと鎌倉街道だったのです。
鎌倉街道 資料館の説明にあった鎌倉街道・上道です。
資料館から5分も歩かないうちに鎌倉街道が走っているのですから、まさに歴史の道にある歴史資料館といえるでしょう。

更にその鎌倉街道沿いの左手の辺りが古墳群なのだそうです。
川角古墳群 若干写真では判りにくいのですが、草木の中にわずかながらこんもりと盛り上がっているところが古墳だそうです。

この周辺は、先の古墳群の説明から言うと川角古墳群で、約40基以上の古墳があるそうです。年に何回かは資料館の方々で古墳周辺の伐採・草取りなどをされているそうで、仕事とはいえ頭の下がる思いです。
しかしながら常に綺麗なコンディションではないので、木々や草花の中からそれ程大きくもない古墳を探し当てるのは大層難しいのであろうと思っていたのですが、現在は空中から電波(だったと思いますが)をあてて地形の凹凸を見分けるのだそうです。1cm単位で地面の起伏が判明するそうなので、新たな起伏が見つかり次第、ロケハンし古墳かどうかを調査するのだそうです。実に科学的な調査なんですね。
また、スタッフの方が言われるには、先の西戸2号墳のように副葬品が出土するのはまれで、殆どこのあたりの古墳は江戸時代以前に盗掘されていたようです。まあ、文化財といわれて保護されるようになったのが最近のことですから、とおっしゃっていました。

そこでこの文化財保護について少し調べてみました。
文化財保護は、明治維新時の明治4年5月の太政官布告「古器旧物保存方」が起源とされているそうです。その後、政府による宝物調査や古美術調査が全国で実施されるなど具体的な保護の取り組みが行われ、明治30年には「古社寺保存法」、大正8年には「史蹟名勝天然記念物保存法」、昭和4年に「国宝保存法」、昭和8年に「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」が次々と制定され、保護体制が強化されてきました。
そして戦後の昭和24年1月の法隆寺金堂壁画焼失を契機に、昭和25年5月30日に議員立法により「文化財保護法」が成立したのです。
この法律は、わが国最初の文化財保護に関する全般的・統一的な法律で、戦前の関係法令が統合され、無形文化財までを加えた制度の拡充が図られたもので、この後、社会情勢に応じて昭和29年・昭和43年・昭和50年・平成8年・平成11年・平成17年と改正されながら現在に至っているのです。そして、現在では国のみならず地方自治体レベルでも「文化財保護条例」などを制定し、文化財を守る取り組みが続けられているのです。

この様に実際に文化財保護が整備され始めたのが戦後ということですので、それ以前に盗掘や荒しなどがあっても仕方ないことでしょうね。まあ、現在これだけ法整備がされていても文化財を荒らす輩がいるのですから、最後は良心の問題なのでしょう。
この資料館の周辺は文化財や史跡などが多く残っており、散策するには実に興味深い土地のようで、機会があれば是非毛呂山の文化財巡りをしたいものです。

説明を終えて資料館に戻ったところで、スタッフの方から倉庫を見せていただきました。
資料館の倉庫 その倉庫には何と自家製の醤油が醸造されているのです。

醤油醸造用の器具 自家製醤油 嘗て毛呂山が自家製醤油の盛んな町だった頃の名残をとどめるように、資料館の方々が毎年醸造されているのだそうで、昔ながらの用具と製法で作られていて、現在は発酵中のようですが、匂いを嗅ぐと実に香ばしいかおりが漂っていました。

この醤油は来月12月に一般の方々に販売されるそうで、実に面白い趣向は、この資料館ならではの試みでしょう。
最後にやぶさめ祭りの概要や駐車場の場所などお聞きして資料館を後にしました。
興味深い内容と、丁寧な説明に感謝し、資料館を後にしました。

滝ノ入ローズガーデン

資料館から毛呂山駅周辺の市街地を抜けて郊外にある「滝ノ入ローズガーデン」を訪れました。
住吉神社 入口の手前には小さな「住吉神社」があります。

住吉神社 創立は未詳で、ご神体はなく高さ5寸余りの立像が安置されているそうです。

その横のローズガーデンの入口は、バラのアーチになっています。
滝ノ入ローズガーデン・エントランス 手作り風の看板が長閑な情景とマッチしています。

秋バラ このバラ園は2000年に滝ノ入地域の活性化である「もろもろ町おこし事業」の一環としてこの地区の人たちを中心としたボランティアによって始められたそうです。面積は約3000平方メートル、バラの本数約1500本、品種約400種ある立派なバラ園です。

ちょうどこの日は秋のバラ祭りが開催中で、切花なども販売されているようです。
滝ノ入ローズガーデン 秋バラ 残念ながら秋バラは終わりかけているのか、かなり咲いているバラは少ないようです。
それでもいくつかは綺麗な花を付け、芳しい香りを楽しむことができます。

随所に手造りの趣を残す庭園ですが、特長としてはバラのアーチが多いことでしょうかね。
滝ノ入ローズガーデン・アーチ 滝ノ入ローズガーデン・アーチ 滝ノ入ローズガーデン・アーチ 結構長いアーチもあり、見頃ともなれば華麗な光景が見られるのでしょう。

円形庭園 一番奥には、芝生に囲まれたラウンドした造りの庭園もあり、かなり手を掛けているのも見て取れます。

秋バラ 滝ノ入ローズガーデン・アーチ メジャーなバラ園と比べれば見劣りするでしょうが、周囲の自然に囲まれたバラ園というのもそう多くはないでしょう。

春の時期のバラを見に来たいものです。

関連記事
スポンサーサイト





コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks