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現在の所沢市と三芳町にまたがる広大な原野を1694(元禄7)年、川越城主となった柳沢吉保が開墾。開拓事業は3年目の元禄9年に終了した。
短冊が並んだような独特の地割は、中国・宋時代の手法を利用したとされる。縦横に延びる道路に面し、間口40間(72m)、奥行き375間(675m)、面積5町歩(約5ha)の地を1戸分とした。
道路側から宅地、農耕地、山林の順に区切り、1戸ごとに畑の中央に耕作道を設けて境界とし、防風を兼ねた茶の木を植え、整然とした地割が作り上げられている。
(本書より)

川越いもの産地だけに、やはり味覚の秋に訪れたいと、サツマイモの販売が始まった9月16日の祝日に訪れました。 サツマイモの収穫も始まったばかりですが、それでもシーズン到来とばかりに町は活気ずいています。

サツマイモ街道

三富新田は、入間郡三芳町と所沢市にまたがる広域エリアです。
上富・中富・下富地区があることからあわせて「三富」と呼ばれており、上富が三芳町で、中・下富が所沢市となります。
まずは所沢市にあるサツマイモ始作の地に向かいます。

サツマイモ始作地の碑

サツマイモ始作地の碑

サツマイモ始作地の碑

住所では所沢市となりますが、工場の敷地内に記念碑がたてられており、現在の「川越いも」の栽培が始まった地を記念したものです。

サツマイモは江戸時代初めに日本に伝来し、九州に広まったと伝えられています。鹿児島の薩摩藩を由来として「サツマイモ」と呼ばれていることからもわかるとおりです。
このサツマイモは、痩せた土地でもよく育ち、旱魃にも強い作物として、荻生徂徠の建議を受け入れた八代将軍・吉宗が青木昆陽に命じて栽培のテストを行い、有効であることが実証されたことから、江戸近辺でも栽培されるようになったのです。
そんな時代、この南永井村は、江戸時代に開拓された新田でありながら、地力が低いうえに、灌漑用水が乏しかったため、夏の旱魃には特に弱い土地でした。
サツマイモの噂を聞きつけた南永井村の名主の吉田弥右衛門は、1751(寛延4)年、息子・弥左衛門を上総国(千葉県)に派遣して、200個のさつまいもを買い付け、栽培をはじめました。これが周辺の村にも伝わり広く栽培されるきっかけとなったのです。
そのような経緯から、この吉田家の敷地内に記念碑が建てられたのです。

文化財保存の辞碑

文化財保存の辞碑

左にある碑は「文化財保存の辞」で、当時の記録を刻んでいます。

さつまいも造り始めの事
寛延四年二月廿八日江戸木挽町川内屋八郎兵衛殿世話にて かつさ国志井津村長十郎方へ弥右衛門参り さつまいも二百二而代五百文買落銭其壱分二朱懸り申し候
四代名主 吉田弥右エ門

吉田家には「弥右衛門覚書」とよばれる古文書が伝わっており、所沢市の指定文化財となっています。

三富新田

記念碑から三芳町に入ったところが、町の目抜き通りである「ケヤキ通り」です。

ケヤキ通り

ケヤキ通り

見事なケヤキが植樹されているのですが、実はこのケヤキは通りにケヤキを植えて「ケヤキ通り」を作ったのではなく、道路沿いの各屋敷がケヤキを植えて境界とした結果、ケヤキ通りになってしまったというユニークな通りです。

この通りの中央辺りに「旧島田家住宅」があります。

旧島田家住宅

旧島田家住宅

江戸時代文化・文政期(1804~1829)に建築されたと考えられる茅葺屋根の民家住宅で、三富の開拓が豊かになったことを表す大型の家屋で、周辺の子供たちを集めて寺子屋を開設したこともあったそうです。

敷地内には「埼玉県指定旧跡 三富開拓地割遺跡之碑」があり、まさに今回の主テーマである「三富新田」が、この「ケヤキ通り」を中心に残っているのです。

埼玉県指定旧跡 三富開拓地割遺跡之碑

埼玉県指定旧跡 三富開拓地割遺跡之碑

元禄7(1694)年、長年にわたり争いを繰り返してきたこの周辺の土地は、幕府の判断により川越藩の領地であると認められたことから、当時の川越城主である柳澤吉保は荻生徂徠の建議を受け入れ、筆頭家老曽根権太夫ら家臣に新田開発を命じたのです。
約2年かけて開発した結果、上富91屋敷、中富40屋敷、下富49屋敷の合計180屋敷の新しい村が出来上がり、古代中国の孔子の教えに基づき“豊かな村になるように”と「富」と命名されたのです。

三富新田解説板

三富新田解説板

そして屋敷の地割もまた、中国・北宋の王安石の新田開発法を参考にしたといわれているもので、大きな特徴は、幅6間(約10.9m)の道の両側に農家が並び、その1軒の農家ごとに畑、雑木林が面積が均等になるように短冊型に並んでいるという地割で、例えば上富村では、1戸の間口が40間(約72.7m)、奥行き375間(約681.8m)、面積5町歩(15000坪=約49500平方m)となっているのです。

そしてその短冊形が道路側より、屋敷地、耕作地、雑木林の順になっているのです。

屋敷地

屋敷地

屋敷地
屋敷の周りには、竹・カシ・ケヤキなどが植えられました。竹は、地面に根をよく張るため地震に強く、また農具や生活に使うものを作る竹細工の材料になります。カシは農具の柄になり、その実は飢餓のときの非常食になります。ケヤキは建材として大切に育てられ、家にとって必要な時以外はけっして切ることはありませんでした。これら屋敷林を育てたことにより、保水力が上がったと考えられているのです。

耕作地

耕作地

耕作地
一日の耕作の目安として、5畝単位に区切られていました。乾燥した畑の土は、春と冬の季節風により巻き上げられてしまうことがあります。そこで、畑にウツギを植えて風を防ぎました。その後、お茶が商品作物としての価値が高まると、ウツギから茶の木に変わり、「畦畔茶」として春先の重要な作物となったのです。

雑木林

雑木林

雑木林
薪炭材として利用しやすく、葉が堆肥として醗酵しやすい木が選ばれて代々の農家が育ててきました。主な木の種類は、コナラ・クヌギ・エゴです。エゴの木は、杭に利用されました。冬に落ち葉を掃き集めて一年以上かけて堆肥にし、それを畑に投入して土を作ってきました。「一反の畑に一反のヤマ」と言われるように、よい作物をつくるためには平地林からの恵みは欠かせないものなのです。

短冊形の境界の畦道

短冊形の境界の畦道

これが三富新田の地割といわれるもので、先人たちの知恵が詰まった開拓だったのです。

しかしながら、開拓された当初は根本的に土地が弱く、さらに水が不足していた現状があり、決して手放しで喜べる状況ではなかったのです。

サツマイモの栽培

こうして耕地だけは整った三富新田ですが、まだまだ手放しで喜べる状況ではありませんでした。
その大きな問題が水です。

共同深井戸

共同深井戸

本来、吉保の新田開発計画には野火止用水の例を見習って、箱根ヶ崎の池から水を引く予定でしたが失敗に終わったため、仕方なく三富全域で11ヶ所の深井戸が彫られ、数軒が共同で利用するこことなったのです。
しかし、日照りの時などは井戸が枯れてしまうため、結局、約4kmはなれた柳瀬川まで汲みに行くこともあったそうです。
こうしたことから三富地区では特に水を大事にし、風呂の代わりにやわらかいチガヤ等の草で体の汚れをふき取ったと言う「カヤ湯」などの話も残っています。

このように厳しい自然条件の中で目をつけたのが、当然、南永井のサツマイモで、早速、サツマイモの栽培を始め、根気良く土地を耕した結果、徐々に耕地からの収穫量もあがってきたのです。
そして時の川越藩主・松平直恒が将軍徳川家治に川越地方でとれたサツマイモを献上したところ、非常に美味しかったことから「川越いも」の名を賜り、以来、「川越いも」ブランドとなったのです。
また、寛政年間には“つぼ焼き”の焼芋屋が繁盛し「栗よりうまい十三里」として「川越いも」の名が広まった。
これは、当時、江戸から川越までが約13里あったことから「栗(9里)+より(4里)=13里」をもじったものです。
この後、サツマイモの栽培を飛躍的に発展させたのが、当時、埼玉県木崎村(現さいたま市)の主婦山田いちが、偶然発見したサツマイモの突然変異種である「紅赤」で、従来のものよりはるかに甘くて美味しかったことから、いち早く三富新田では、この品種を取り入れたのです。
この紅赤は栽培が非常に難しく、関東ローム層の赤土の埼玉県三芳町の三富新田しか生産地として残らなかったことから、紅赤を「富の川越いも」とブランド化したのです。

現在は、品種改良が進んで多くの品種がつくられるようになり、紅赤の占める割合は僅かですが、それでも歴史的な品種であることと、正月料理の定番として僅かに栽培されているのです。
そして現在、「川越のサツマイモ」が全国的に著名となったのが、現在の皇太子が幼稚園の頃に川越にサツマイモ掘りに来られ、川越の芋ほりが観光化されたことによるのです。

庭先販売所 庭先販売所

庭先販売所

現在、このケヤキ通りには30以上の農園があり、サツマイモの収穫時期には、庭先販売所として直売されています。
個人農家の販売 個人農家の販売

個人農家の販売

このように多くは個人農園で、それぞれの農園で栽培している品種もまちまちですので、いくつか眺めるのも良いでしょう。

また、農園の一つにはカフェを経営している農家もあります。

OIMO cafe

OIMO cafe

秋のプレート

秋のプレート

農家を改造したカフェの「OIMO cafe」です。カフェですので、食事はランチだけですが、旬の野菜を使用したランチプレートが人気で、この時期はサツマイモを使った「秋プレート」です。

サツマイモの収穫小屋

サツマイモの収穫小屋

こちらも当然、三富新田で、こちらの販売所がサツマイモの収穫小屋のようです。
耕作地から見た収穫小屋

耕作地から見た収穫小屋

そして耕作地から見るとこのように、屋敷林に囲まれていることがわかります。

このように旧跡・三富新田で、その歴史と味を堪能できるケヤキ通りは、現在では非常に貴重なエリアと言えるでしょう。

神社・仏閣散策

三富新田の歴史とサツマイモの魅力を知った後は、周辺の見所を散策してみます。
江戸時代に開拓された三富新田ですから、特別深い歴史があるわけではありませんが、やはりサツマイモにまつわる興味深い歴史が楽しめます。

木の宮地蔵堂

805年、坂上田村麻呂が北国遠征の際に武蔵野で道に迷ったところを地蔵菩薩に助けられ、その加護に感謝して建立されたと伝承されている「木の宮地蔵堂」です。

木の宮地蔵堂

木の宮地蔵堂

1642年に堂宇が焼失したため、三富新田開拓後の1696年に再建され、現存する地蔵堂は1777年に改修が行われたものです。
主要建材の殆どにケヤキを使用し、木造の地蔵菩薩が安置されている内陣の天井には107枚の植物画が描かれているという、当時の三富新田の経済的な豊かさを表わしており、現在は町指定文化財となっています。

旅歴メモ -縛られ地蔵- 木の宮地蔵は、「富の地蔵様」として古くから親しまれてきました。
ある時、この富の地蔵様が夜になるとこっそりお堂を抜け出し、村々に出没すると言う噂が広まりました。
噂が三富以外の村にも広まり始めると、流石に頬って置くわけにもいかないので、地蔵尊を鉄の鎖で縛ってからは、二度と地蔵尊が夜に出歩くと言う話は聞かなくなったそうです。

地蔵堂の裏手に廻ると「石の地蔵尊」が祀られた奥之院があります。

木ノ宮富地蔵大菩薩

木ノ宮富地蔵大菩薩

ここに祀られている「石の地蔵尊」は、江戸時代初期に製作されたもので、入間東部地区では最古のものだそうです。
背面には、寛永19(1642)年に木野目郷(現・川越市)の長者であった杉山長五郎から寄進されたものと刻まれています。
この寛永19年は、地蔵堂が焼失したと伝えられている時期で、その直後に奉納されたもののようです。
いずれにしても三富開拓の50年以上前に、人も住まない武蔵野に、このような地蔵が信仰を集めていたあったとは、実にこの周辺の歴史がわかる貴重な石地蔵です。

地蔵堂の傍らには大きな記念碑が建立されています。

甘藷の碑

甘藷の碑

これは「甘藷の碑」で、サツマイモの生みの親である青木昆陽を顕彰した記念碑です。
先に三富の農業におけるサツマイモの歴史、及びサツマイモ始作の件を知りましたが、明治の末期、三芳町の上富を中心に、青木昆陽に感謝の意を表す碑を建てようという計画が持ち上がり、昭和18年に三富の住民たちによって建立されたものです。
当然、青木昆陽は外せない恩人とも言えますから。

多聞寺

多聞寺は、元禄9年に柳沢吉保が三富新田として上富・中富・下富村を開村した際に、一寺一社の制に基づいて、開拓農家の檀家寺として上富に多福寺(木宮地蔵堂)を、そして中富に祈願所・鎮守の守として多聞院(毘沙門社)を建立したのです。

多聞院本堂の本尊は大日如来で、境内にある毘沙門堂には、高さ約4cmの純金の毘沙門天が祀られています。

毘沙門堂

毘沙門堂

伝承によると、武田信玄が兜の中にこの毘沙門天をおさめて戦陣に臨んだということで、川中島の合戦の時には上杉謙信の刀から危うくのがれたという逸話もあるほどご利益のある毘沙門天像だったそうです。
そして信玄の没後、吉保の手に入り、武運長久を祈ってこの毘沙門堂を建立し、安置したのだそうです。

寅の狛犬 寅の狛犬

寅の狛犬

毘沙門堂の前の石像は、犬ではなく寅の狛寅です。これは毘沙門天の化身とされる虎にちなんだものなのです。

身がわり寅

身がわり寅

身がわり寅

奉納された身がわり寅

更に身に降りかかる災いを化身とされる寅に託する「身がわり寅」があり、毎年5月1日に「寅まつり・大般若経転読会」が催されています。

そして毘沙門堂の周りにはたくさんの寅が奉納されているのです。

鬼の悟り

鬼の悟り

子育・水子地蔵菩薩立像

子育・水子地蔵菩薩立像

傘地蔵

傘地蔵


境内には、多くの石像などが祀られています。

かわらけ当て

かわらけ当て

一角には「かわらけ当て」があり、的にめがけて素焼の皿を割ると開運につながるといいうものです。

境内

境内

更にこの境内は立体曼荼羅をイメージして植え込まれたとされる23種類300株の牡丹が咲く名所としても知られ、通称「牡丹の寺」として親しまれています。
また、山百合、泰山木、八角蓮、蝋梅、などの花が咲くとともに、秋の紅葉もまた美しいと評判です。季節ごとに訪れるのも一興でしょう。

神明社

この神明社は、毘沙門社と多聞院が創設されたのち、境内に神仏習合の慣わしにより、1761年に勧請されたものです。

神明社

神明社

村民から産土神社として崇敬しましたが、明治2年に至って神仏分離令により473坪を分割し、同年社格制定の節、旧三ヶ村の鎮守であったことから、村社に列せられたのです。
そして明治45年には、享保年間には幕府直轄領として開発された所沢新田、久米新田、神谷新田、堀兼新田、北田新田、岩岡新田にある七社が合祀され、現在に至っているのです。

そして境内の一角に異彩を放つ社があります。

いも神様いも神様

いも神様

これは「いも神様」で、三富が「川越いも」の本場であることから、平成18年、いもを作り初めた255周年を記念して、吉田弥右衛門の功績を称えるとともに、関東のサツマイモ作りの元祖である甘藷先生と合わせて『甘藷乃神(いものかみ)』として建立したものです。
やせた土地でも丈夫に育ち、干ばつや病虫害などにも強いサツマイモは生命力の象徴のいも神さまの御利益には、健康・家内安全・子孫繁栄・開運などがあり親しまれています。
また、、サツマイモを抱いた狛犬と撫でいもは、東京オリンピックの聖火台を制作した故鈴木文吾氏に監修、制作したものだそうです。
実に三富らしい守り神ですね。

このように三芳町・所沢市の三富地区のうち、特に三芳町の上富では現在もサツマイモ農家として賑わっているのはうれしいことです。
歴史と伝統、そして食文化の一端を担う三富新田が、この先も残っていくことを願いたいものです。

2014.10.10記
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