【美里さらしいの井戸】は、ジャンルAで得票数5,121票を獲得して第25位にランクされました。

万葉集にも詠まれているとされる美里町広木の県指定史跡。「さらし井」は、長さ275㎝、幅80㎝、深さ25㎝ほどの井戸で、奈良時代、朝廷に差し出す布をさらした湧水。
さらし井を詠んだ「三栗の中に回れるさらし井の絶えずかよはんそこに妻もが」は、万葉集の巻九に収められ、「那賀の地を巡り流れているさらし井のように絶えず通おう、そこに恋人がいたらよいのに」と訳される男女の恋歌。当時の女性たちの共同作業のほか、悩みを訴え、愛を語る社交の場として親しまれていた。
(本書より)

春近い2016年3月16日、児玉郡美里町を訪れました。
美里町を訪れるのは、2009年8月に【猪俣百八燈行事】で訪れて以来ですから7年ぶりとなります。
猪俣百八燈行事が行われた高台院周辺は美里町の南部でしたが、さらし井の井戸は北部にあるので、結構離れている位置関係です。
歴史的に見るべきスポットが多くある美里町ですので、今回は文化財を巡りに花曇りの一日、美里町に向かいます。

水殿瓦窯跡

最初に訪れたのが国指定史跡の『水殿瓦窯跡』。
道路の脇に何の前触れもなく現れた標柱でその場所を知ることができますが、近辺にはすぐその跡を見つけることができませんでした。

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周りを見渡すとちょっと遠目にポツンと建物があります。

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花の方に目が奪われがちですが、何となくある建物が実は遺跡なのです。

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近づいてみれば、碑や案内板があるので、やっとここが『水殿瓦窯跡』であると確信したのです。

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この『水殿瓦窯跡』は、鎌倉時代に瓦を焼いた窯跡で、調査の結果4基発見され、その内3基はそのまま保存(埋められ)され、1基だけが発掘された状態で残されています。
建物の中に地面を掘った平窯で、長さ3.3メートル、幅1メートル、深さ1.2メートルの窯跡です。

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ここで生産された瓦は、鎌倉まで輸送され寺社などの建物に使われたそうです。特に鎌倉にあった永福寺に使用されたことが判明しています。この永福寺は、源頼朝が平泉の中尊寺などを参考に建立した寺院で、京都宇治の平等院鳳凰堂ような建物だったと考えられています。
現在は寺跡しかありませんが国指定史跡となっています。

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その永福寺の復元図と窯の写真、及び永福寺の瓦が美里町にある『美里町遺跡の森館』に展示されています。
何と写真OKだとのことで感謝、感謝です。

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このように鎌倉時代の文化の一端を担った『水殿瓦窯跡』なのです。

十条条里遺跡と長坂聖天塚古墳

水殿瓦窯跡と同じ北部にある史跡が『十条条里遺跡』と『長坂聖天塚古墳』です。

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大化の改新により実施された《班田収受法》を学校で習ったことを覚えていますか。
かいつまんで云えば、戸籍などに基づいて、政府から受田資格を得た貴族や人民に田が与えられ、死亡者の田は政府に戻されるシステムで、与えられた田は課税対象で、その収穫から租庸調の“租”が徴収されたのです。
この班田収授法の遺跡が埼玉県指定史跡『十条条里遺跡』で、碑が立っている場所から見渡せる耕地に、条里区画が残っていたのです。

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“条里”とは班田収受法に基づいて行われた地割制度で、広い土地を6町(654メートル)ごとに線を引いて碁盤の目の様に区画したのです。
東西を“条”、南北を“里”と名付けることで、地番の代わりになるのです。この名称の“十条”もこの“条”にあたるものなのです。
かつては実際の条里地割が残っているところが幾つもあったそうですが、現在は新しい区画による耕地に変貌した為、昔の面影はありません。
しかし、この『十条条里遺跡』の一部は、現在の区画の中に保存され、地中には、かつての畔や溝が残されていると考えられているそうです。

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嘗ての歴史を偲ぶしかない場所ですが、これぞ歴史ロマンとでも云いたいところです。

十条条里遺跡から更に東方向にあるのが『長坂聖天塚古墳』。

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美里町は県内でも古墳の多い町で、羽黒山古墳群、塚本山古墳群、諏訪山古墳群、普門寺古墳群、広木大町古墳群等があり、いずれも県選定重要遺跡となっています。
その中でも『長坂聖天塚古墳』は、諏訪山古墳群に属し埼玉県指定史跡になっています。
この古墳は、直径約50メートルの円墳で、昭和49年の調査では、粘土槨や木棺直葬など6つの埋葬施設が発見されたそうです。

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出土した遺物は、第一埋葬施設から菱雲文縁方格規矩鏡や直刀、竹製櫛、などが、ほかの埋葬施設からは獣形鏡や滑石製模造品やガラス小玉などが出土しています。
特に菱雲文縁方格規矩鏡は埼玉県内最大の銅鏡で、これらの出土品は、『美里町遺跡の森館』に展示されており、一括して埼玉県県有形文化財に指定されています。

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これらの出土遺物がから古墳の築かれた時期が4世紀末~5世紀初めと考えられています。

美里さらし井と伝大伴部真足女の遺跡

美里町の広木地区の中央あたりを、東西に貫いているのが古の鎌倉街道で、中世の面影がどことなく滲みだしている風情です。
その鎌倉街道と志戸川の交差するあたりに1本の氷柱があります。

“史蹟曝井”“眞足女遺蹟”入口と刻まれています。

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ここから志戸川沿いを南下すると『旧跡 さらし井』です。

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志戸川に掛かられた石橋の先の一角がその旧跡です。

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とにかく目に付くのは右側にある社で、「もう危ないんじゃない」と思えるくらい朽ちてます。
これが重要なのかどうか、結局良く分かりませんでしたが、っま、佇まいとしては申し分ないかもしれません。

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案内板によれば、“曝井”は美里町広木の枌木川の端にある岩に囲まれた湧き水だそうです。
曝井とは織布を洗い晒す井戸のことで、これらの織布は“租庸調”の調庸布として小堤に献納されたのです。そしてここで詠われたのが万葉集の第9巻に収められており、この場所には1845年に建立されたものと、新しく建てられた歌碑があります。

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『三栗の中にめぐれる曝井の絶えず通わんそこに妻もが』

本書の説明にもあるように「那賀の地を巡り流れているさらし井のように絶えず通おう、そこに恋人がいたらよいのに」という恋歌で、井戸は共同作業所であり若い女性が集まることから、男女交歓の場所ともなったということです。
まあ、ロマンチックなとも思える内容ですが、ちょっと目先を変える違う訳し方もできるようです。
直接さらし井とは関係ありませんが、《幸の神と竜: 古代が分る鍵》(著者: 谷戸貞彦)に面白い訳があります。
この書は、モヘンジョダロも女神について書かれた章で、“首輪に付いた三つの実”は男性のシンボルを暗喩しており、日本ではそれを《三栗》と云い、三つの栗の外側の二つの栗を“フグり”(陰嚢)に例え、真ん中の実を“オハセ”(男性器)を意味しているというのです。
すると、『三栗の中にめぐれる曝井の…』は、《井》は“ホト”(女性器)の代わりに使われる言葉で、《さらし》は、“さらす”と云う意味で多くの男性を迎えるという意味になるらしい。従って《さらし井》とは“遊女”を意味していると云ってるのです。
そこで歌を再び訳すと「多くのオハセを迎える女が居るよ。妻がそこにもいるようなものさ。続けてお世話になりたいものだ。」となるようです。
こうなると恋歌とはちょっとニュアンスになるのですが、まあ、教育委員会が許さないでしょうね。

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鎌倉街道を中心とした鎌倉時代の中にポツンと奈良時代が混じっている広木地区なんです。

そしてさらし井の先の『常福寺』は、創建が天平年間で弘紀郷の領主檜前舎人石前が建立したと伝えられています。

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境内の観音堂には百体観音が安置されており、その中の《阿弥陀如来座像》は平安時代藤原期の定朝様式を伝える美しい仏像として町指定の文化財になっています。

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ここにも奈良の時代が息づいています。

常福寺から志戸川沿いを更に南下すると『伝大伴部真足女の遺跡』があります。

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この一帯の地番は“大字広木字御所ノ内”と呼ばれていて、それは防人檜前舎人石前の館跡であったからで、ここからは分かりませんが、堀形の田畑に囲まれた90メートル四方の遺跡があったそうです。
檜前舎人石前は先の常福寺を建立した人ですね。

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そして檜前舎人石前の妻の真足女が、防人に赴くことになった夫に対して詠んだ歌が“防人の歌”として万葉集第二十巻に載せられており、その歌碑が立っています。

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『枕太刀 腰に取り佩き まかなしき 背ろがまき来む 月のしらなく』

“枕大刀を腰に帯びて、愛しい夫が帰ってくるのがいつになるのか分からず不安です。”と云う意味で、当時、埼玉から九州に行き、防人として勤めてまた戻ってくるのですから、まあ、大抵帰ってこない確率の方が高いのではないでしょうかね。
そんな心情を吐露したもので、1200余年後の現在でも感動の止まない歌と云われています。

この一帯はまさに天平浪漫が余すところなく漂っています。

美里町遺跡の森館

“遺跡の森総合公園”は、木部山古墳群の周囲を整備して作られた公園。

園内には、総合グランド、テニスコート、ターゲットバードコート、ゲートボール場、体育館などがあり、文化施設としては、5つの古墳で構成されている木部山古墳を始め、大ホールのあるコミュニティセンター、そして考古資料を展示している『遺跡の森館』があります。

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このように古墳が残されているのがミソです。

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前述したとおり、撮影OKでしたので撮らせて頂きました。
エントランスにはモダンな壁画やタイムカプセルなど、ワクワクするような演出です。

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館内の展示は、古代からの考古資料や美里町の史跡などを紹介しています。

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興味深い展示は数々ありますが、前述した水殿瓦窯跡と長坂聖天塚古墳の出土品以外に注目の展示物です。

瓦塔・瓦堂

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甘粕地区の東山遺跡から発見された小型の塔と堂で、平安時代の作といわれ寺院の五重塔や金堂に似せて作られています。これは寺院を建てる代わりに作られたもので、信仰の対象として大切に建物の中に置かれていたと考えられているもので、現在、国指定重要文化財です。

金属製小型宝塔・小型持蓮華

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高さ4㎝位の金属製小型宝塔と小型持蓮華です。広木地区の上宿遺跡から金・銀・銅・鉄・金銅と異なる材質のものがセットで出土したもので、現在は県指定重要文化財です。

その他、美里町の土地柄古墳から出土した土器などが多く、とにかく考古学ファンにはたまらないお宝でしょう。

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古墳の街、美里町の歴史を満喫して散策も終了です。

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2016.04.07記
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