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「竹間沢車人形」はジャンルBで得票数1,713票を獲得して、第31位にランキングされました。

明治初期から三芳町竹間沢地区に残る文化財、伝統芸能。人形遣いが、「轆轤車」と呼ばれる箱車にまたがって、一人で人形を操るのが特徴。大正時代に一時衰退したが、昭和40年代に復活し、現在保存会、後援会が伝統を守っている。
文楽の人形はもともと、三人の使い手が一体の人形を操るが、車人形はこれを一人でできるように考案された。現在、首、手、足、箱車などの人形のほか、衣装、台本、小道具などが町歴史民俗資料館に残され、県有形民俗文化財に指定されている。
(本書より)

三芳町地図

入間郡三芳町

「東京から一番近い町」とは三芳町オフィシャルサイトで使われているコピーですから、基本的に間違いはないのでしょう。おそらくその定義は所謂“市区町村”の呼称にあたる「町」のことで、当然、○○市○○町のことではないわけです。それから言えば入間郡三芳町ですから、間違いなく「町」となるのですね。
そこで実際にどのくらい近いのかといえば、国道254号線で東京23区の北端である「新東埼橋」から三芳町「資料館入口」までの約9.5kmなのだそうです。
この人口約38,000人の「東京から一番近い町」三芳町はサツマイモの生産地として知られているのですが、今回はこの三芳町の伝統芸能の一つである「竹間沢車人形」を訪ねる散策です。
自宅からも車で1時間もかからないところですので比較的近いのですが、中々モチベーションも上がらずに行きそびれていたのですが、2014年1月19日に「竹間沢車人形」の公演があると知り、このチャンスを逃がす手はないと勇んで訪れたのです。

竹間沢地区の歴史と文化-1

公演はPM2:00からですが、少し早めに出発し竹間沢を散策するつもりで、自宅を9:30過ぎに出発しました。
上尾、浦和から所沢方面に向い、10:30には目的地・三芳町竹間沢に到着です。

三芳町立歴史民俗資料館

最初は三芳町の歴史・文化を知るために「歴史民俗資料館」を訪れます。

旅歴メモ -三芳町竹間沢- 三芳町の歴史はいたってシンプルで、たった2行の判りやすい歴史です。
1889(明治22)年)4月1日 - 入間郡上富村、藤久保村、竹間沢村、北永井村の4村が合併し三芳村が成立する。
1970(昭和45)年)11月3日 - 町制施行により三芳町となる。
現在の三芳町もその歴史が続いているようで、それは三芳町には、町立上富小学校、町立三芳小学校、町立藤久保小学校、町立唐沢小学校、町立竹間沢小学校の5校の小学校があり、三芳小学校の地番は三芳町大字北永井343番地で、唐沢小学校の地番は三芳町大字藤久保410番地2ですから、まさしく4村が現在でも町のコアとして続いていると言うことになるのです。

竹間沢地区は三芳町の南端にあり、この竹間沢地区のシンボルとして歴史民俗資料館があるのです。

三芳町立歴史民俗資料館 三芳町立歴史民俗資料館

三芳町立歴史民俗資料館

他の市町村と比べて、それほど大きな資料館ではなくこじんまりとした陣容ですが、それでも綺麗に整備されています。
エントランス

資料館エントランス

入館料は無料ですが、残念ながら写真撮影は禁止ですので写真はここまでです。

資料館資料

資料館パンフレット

展示室は1室のみですが、パンフレットによれば「拓く」をコンセプトに“産業(さつまいも)”、“教育(寺子屋)”、そして“芸能(竹間沢車人形)”をテーマに構成されているそうです。
このうちの産業と教育についてはいずれ同じ100選で選出された「三富新田」で訪れてみることになりますので、今回はあくまでも竹間沢とその歴史・文化を中心に探ることにします。

郷土芸能資料

三芳の郷土芸能パンフレット

ここでは今回の主目的である芸能(竹間沢車人形)について、前もって学習しておきましょう。
パンフレットによれば、三芳町の伝統芸能はやはりかつての4村にあったもので、上富・北永井・藤久保にそれぞれの“囃子”が残されているそうです。
上富囃子 北永井囃子 藤久保囃子

左から上富・北永井・藤久保のお囃子(c)「三芳の郷土芸能」パンフレットより


竹間沢囃子 竹間沢里神楽

竹間沢の“お囃子・里神楽”(c)「三芳の郷土芸能」パンフレットより

そしてここ地元竹間沢には、“お囃子”の他に“里神楽”も伝承されているのです。
入間郡に伝承される祭囃子の系統の多くが神田囃子の流れを汲んでいて、その中には旧来のゆったりしたテンポの“古囃子”と、幕末、明治期に創作された速いテンポの“新囃子”の2種類があり、竹間沢・藤久保・上富は古囃子で、北永井は新囃子なのだそうです。
また、神楽には一つの神社だけに伝えられる神社付きの“社殿神楽”と、家元を中心に神楽師集団を構成して、各地の祭礼に招かれて奉納する“里神楽”の系統があり、竹間沢の伝承する神楽は後者で、前田家が代々その家元を務めていたそうです。
これら4つのお囃子と里神楽は三芳町指定無形文化財に指定されていて、里神楽の神楽面・面芝居、衣装は埼玉県指定有形民俗文化財に指定されています。

竹間沢車人形

竹間沢車人形パンフレット

そしてもう一つ竹間沢に伝承されているのが「竹間沢車人形」です。
資料館にも人形や道具が展示されているのですが、撮影禁止なのでパンフレットなどの写真を借りながら理解していきましょう。
凡その車人形に関連する歴史は以下の通りです。
天保年間(1830-44): 西川古柳によって車人形が創案される
安政年間(1854-60): 竹間沢に車人形が伝わる。「吉田三芳座」旗挙げ(初代座元左近)
明治19年(1886): 民部が二代目座元になる。(この間、興行がますます盛んになる)
大正10年(1921): この年を最後に興行の記録が途絶える
昭和46年(1971): 埼玉県による人形芝居用具緊急調査。車人形の用具が発見される
昭和47年(1972): 竹問沢串人形復活上演(6月18日)
昭和48年(1973): 車人形伝承者前田近逝去。(これ以降、三芳町内外で公演を行う)
昭和50年(1975): 竹問沢串人形用具一式が埼玉県有形民俗文化財に指定される(3月31日)
平成03年(1991): 竹問沢車人形保存会が「文化ともしび賞」を受賞
平成05年(1993): 竹間沢車人形復活20周年記念公演
平成15年(2003): 竹問沢串人形芝居が三芳町無形民俗文化財に指定される(2月26日)

旅歴メモ -車人形- 「車人形」は、江戸時代末期の天保年間(1830-1844)に、多摩郡大神村(現・東京都昭島市)の造り酒屋に奉公していた武蔵国高麗郡阿須村(現・飯能市)に生れた西川古柳(本名・山岸柳吉)によって考案された人形芝居です。
その頃の江戸には、説経節にあわせて操る簡単な一人遣いの人形芝居があったのですが、大阪から文楽人形芝居が進出して衰微の一途をたどっていた時代でした。
大阪と江戸で文楽を学んだ古柳は、衰微していた人形芝居を盛り上げようと、碁盤人形の技術をヒントに江戸人形芝居を活かした車人形を創始したのです。
この車人形の特徴は「一人で一体の人形を操る」「人形遣いは底に車のついた小箱に腰掛けながら演技すること」の2点で、これにより文楽人形にはない速さ、簡易さを発揮し、その頃多摩地方に流行していた説経節と結びつきながら、人気を集めて急速に広まったのです。
江戸時代の終わりから明治時代には盛んであった車人形ですが、現在全国で伝承されているのは、創始である西川古柳座の「八王子車人形」、更に「奥多摩川野車人形」、そして「竹間沢車人形」の三座を残すのみとなり、調布市布田には人形芝居の道具のみが残されているのです。

この車人形がいかにして竹間沢に伝わったのでしょうか。
それは竹間沢の神楽師前田佐吉(芸名は左近)のもとに、西多摩都二宮村(現・東京都あきる野市)古谷家の長女ていが嫁いできたのがきっかけでした。ちょうど幕末に近い安政年間(1854-1860)のはじめのことです。
ていの父親は人形芝居家元の六代目“薩摩若太夫”で、前田家ではていの実家の応援を得て人形芝居を習得し、前田家では左近を初代座元とする「吉田三芳座」を組み、ていが三味線をひき説経節を語り、各地を廻ったのです。
明治19年に左近が亡くなると、息子の信忠(芸名・民部)が二代目となり、興行はますます盛んになっていったのです。
しかし、時代の流れとともに娯楽も多様化したことから興行も衰退し、ついに大正時代に興行は中止となったのです。

こうして一旦竹間沢の車人形は姿を消してしまった歩ですが、その約50年後に前田家の納戸の隅から車人形の用具がほぼ無傷で発見されたのです。
これは埼玉県による人形芝居用具緊急調査によるもので、最後に車人形を演じたことのある二代目民部の長男・次男の信次と近が存命だったこともあり当時の調査も順調に進んだのです。

前田益夫氏

車人形を操る前田益夫氏
(c)三芳町立歴史民俗資料館

そして昭和47(1972)年に“近”をはじめ、“信次”の子・益夫などが中心となって半世紀ぶりに人形芝居が復活したのです。
それからは竹間沢車人形保存会を中心に様々な活動が行われれるようになり、三芳町においては勿論、全国的にも貴重な車人形を伝承している竹間沢は歴史・文化的に重要なエリアとなったのです。

三芳町には郷土芸能の歴史・文化のほかに、当時の暮らしぶりを伝える文化財があります。
それは移築復元された茅葺きの民家で、竹間沢の「旧池上家住宅」と上富の「旧島田家住宅」の2棟があり、両民家とも三芳町の有形文化財に指定されており、現在では見ることの少ない伝統的な建築技法と、懐かしい農家の雰囲気を後世に伝えているのです。
その一つの「旧池上家住宅」が、資料館の敷地内に移築されているのです。

旧池上家住宅

旧池上家住宅

この古民家は江戸時代の終わりから明治時代の初めに建てられたものだそうで、茅葺・寄棟造りの大屋根とともに9間取りを部屋を持つ大型の民家で、藍玉の生産によって得た財力を物語っているのだそうです。
ケヤキ材の「大黒柱」

ケヤキ材の「大黒柱」

多用された「スギ」「桧」

多用された「スギ」「桧」

土台の「栗」

土台の「栗」


この古民家の主旨は末代までも使える住居で、そのために各所で用途に適した材料が使用されているのだそうです。

土台、大黒柱、装飾用柱などなど、いかに長年の使用に耐えられるかを前提にして考えられていたのですね。
必要な部分には大いに投資する、そんな構図が見えてくる古民家でもあるようです。

この後は、資料館周辺の竹間沢地区を散策してみます。

竹間沢こぶしの里

案内板

竹間沢案内板

資料館の裏手にある案内板を見ると近くに鎌倉街道があるようなので、竹間沢散策とばかりにノンビリ歩いて見ることにしました。
竹間沢こぶしの里 こぶしの里と鎌倉街道

こぶしの里と鎌倉街道

2~3分も歩くと「竹間沢こぶしの里」なる入口が現れ、その先には整備された散策路に「こぶしの里と鎌倉街道」なる標柱を見ることができます。
古の鎌倉街道

古の鎌倉街道

この散策路が、かつての鎌倉街道で往時の雰囲気をそのまま残すような風情です。

旅歴メモ -鎌倉街道- 埼玉県内の鎌倉街道は、東京都府中市から所沢・坂戸・嵐山に向う「上道」と、東京都北区から川口・与野・栗橋に向う「中道」が通っていたと考えられています。
となると三芳町には鎌倉街道は通過していないことになるのですが、鎌倉街道には沢山の脇道があり、そのうちの一つに「羽根倉道」があります。
この道は鎌倉街道の「上道」と「中道」をつなぐ役目の道で、所沢-志木-与野-大宮-上尾-蓮田を経て加須市方面に抜ける脇街道で、三芳町の鎌倉街道はこの羽根倉道といえるでしょう。

古井戸山の石仏

古井戸山の石仏

鎌倉街道“羽根倉道”跡を進むと左手に小さな社があります。「古井戸山の石仏」と言うそうです。
馬頭明王像

小さいほうが「馬頭明王像」でした

1758(宝暦8)年に造立された「馬頭明王像」だそうで、所謂馬頭観音です。文字通り馬頭観音は馬などの家畜の守護神として信仰されたものです。また、一方の地蔵菩薩立像は“古井戸地蔵”と呼ばれ、1779(安永8)年に造立されたものだそうです。
まさに「鎌倉街道」が通っている故に、このような石仏がこの場所に祀られたのは、まさしく交通の要所としての鎌倉街道沿いであったからと考えられているのです。

この石仏を左方向に進んだところが「竹間沢こぶしの里」です。

竹間沢こぶしの里 崖線上の鎌倉街道

崖線上が鎌倉街道

ちょっと奥に進むとこぶしの里が崖の下にあることがわかります。そして崖の上が鎌倉街道なのです。
説明によれば毎年春にはこぶしの花が白く咲き染め、崖線の下を水源とする3ヶ所の湧水が小さなせせらぎとなって池に流れ込む風情が楽しめるのだそうです。
したがってここにはこぶしの咲く3月や新緑の5月、さらにはホタル舞う7月頃が良いそうですが、全くの季節はずれの1月では寒々しさがやたら強調されるだけのようです。

崖下のこぶしの里 湧き水 ほたるの里

崖下におりた光景と湧水

崖下に下りるとこのような光景が展開します。そしてこの細い流れが湧水なのです。
この湧水、江戸時代においては山下用水として水田地帯を潤し、湧水の近くには水車もあったそうです。より一層の風情でしょうね。

池

湧水が集まった池

その湧水が集まっているところがこちらの池で、近くには四阿もあり季節の良い日にはのんびり休めるでしょうが、今日はとても身体を休める場所ではないようです。
山下用水 山下用水 山下用水

池から流れ出る小川

そして池から流れ出る用水が一直線に流れています。まさにこのような光景で山下用水が流れていたのでしょう。
崖上からの池

崖上からの池

再び崖上に昇り資料館に戻りますが、季節に良いときにまた訪れてみたくなる不思議な魅力のある「こぶしの里」でした。

2014.01.28(後編につづく)

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はじめに

「出雲伊波比神社やぶさめ祭」は得票数1,323票で第39位にランクされました。

『国の重要文化財に指定されている出雲伊波比神社は、毛呂山町のほぼ中央、臥竜山上にある。
流鏑馬は疾走する馬上から的に弓を射る鎌倉時代からの神事。1600(慶長5)年代から現代まで綿々と伝えられてきた。県内でほかに今でも残るのは萩日吉神社しかない。
奉納は毎年11月3日の文化の日。乗り子は町内の小・中学生の男の子だ。陣羽織に金のはかま、烏帽子をつけた華やかな衣装に身を包み、神社脇の馬場を疾走、二の矢をかみ、一の矢を放つ。板的を打ち抜くと観衆から拍手が上がる。』(本書の説明より)

11月3日は文化の日ということもあるためなのか、各地で祭りやイベントが開催されます。
このやぶさめ祭は、毎年春と秋の2回行なわれていていますが、秋がメインの祭りです。昨年訪れようと思っていたのですが。スケジュールの都合が付かなかったため今年は、との思いでした。
そのような中で、昨年、奇しくも11月3日に訪れた【まなびピア埼玉2009】の毛呂山町のブースで、2010年はやぶさめサミットを開催するという特別なイベントも行なわれるとの情報を得られたことから、是非とも来年は(今年のことですが)訪れようと早くからスケジュールを確保していました。

時の流れるのは早く、あっという間に1年が過ぎ去り「やぶさめ祭り」を迎えることになりました。
11月3日は晴の特異日といわれるほど、今年の3日も快晴で気温も比較的温暖で、祭り日和といったところです。
「やぶさめ祭り」のスケジュールに寄れば、祭りのなかのさらなるメインイベントが「的(まとう)」といって、所謂、矢を放って的を射る行事が朝と昼過ぎに行なわれるのです。
朝行なわれる「朝的(あさまとう)」はAM9:00からとのこと。ということは最低でもAM8:30位には到着していなければと、そこから逆算するとAM7:00から7:30頃には自宅を出なければならないということになるわけで、必然的に我が家では無理な話となるので、まあ「夕的(ゆうまとう)」が見られれば・・・、といったゆるゆるのスケジュールとなるのです。
そうとなれば自宅を10時過ぎにでも出れば十分よい時間なのですが、折角行くので周辺も散策したいという願望もあり、余り早く出るのはつらいけれど、余りゆっくり過ぎるのも時間がもったいないという訳の判らない葛藤の中で導き出した時間がAM8:30出発なのです。
この中途半端な30分も、こうしておけば仕度の遅いオバサンが、いつものようにもたもたしても9:00には出発できるという、画期的なシステム(古からずっとされていた)なのです。ということで、結局9時10分前くらいに自宅を出発した訳です。
天気も快晴で、それほど寒くもない行楽日和に毛呂山に向かって出発したのでした。

map毛呂山町オフィシャルサイト


はじめに

入間郡越生町の越生まつりは1,365票を獲得してジャンルBで37位にランクされました。

『八坂神社の祇園祭・天王様の名で親しまれてきたが、1989(平成1)年に町制施行百周年を記念して、越生まつりと改名された。
7月末に行われる祭りの主役は6基の山車。明治から昭和初期にかけて新調し購入したもので、人形付の江戸型や屋台型などそれぞれ特徴がある。
夕方になると出しのちょうちんにあかりが灯され、引き回しが始まる。山車と山車が出会うと、お囃子の競演をする引き合わせ(ヒッカワセ)が行われる。役場広場に6基が勢ぞろいすると花火が打ち上げられ、ひと夏の夜を華麗に演出する。』

埼玉県のお祭りは伝統がある祭りほどパターンは一緒で、山車が主役です。神輿が主役の比較的新しいお祭りとはここが大きくことなるところでしょう。
今までにも県内のいくつかのお祭りを見てきましたが、大抵東京(江戸)から譲り受けた山車が現在でも大いに活かされているのです。そのようなお祭りの一つに今回の越生まつりも位置づけられているようです。

越生には今年の3月3日に【越生梅林】を観に行きましたので、ほぼ半年振りくらいでしょうか。前回は3月といえども雪もちらつく寒い中の訪問でしたが、今回は打って変わって暑さの中の訪問です。
勿論、越生といえども梅林とは場所も違い季節も違うのですから、また違う印象を受けることでしょうが、それも楽しみの一つではあります。
毎年7月の第4土・日曜日に行なわれるようで今年は7月25.26日となります。スケジュールの都合7月25日(土)と決めましたが、梅雨明けがされた関東地方ながらここ1週間ほどずっと天気が優れません。25日も天気予報では曇り模様。折角のお祭りなので好天の元で観られれば良いのですが。

今回の越生まつりは駅前ということもあり、久しぶりに電車で向かうことにしました。
まつり自体のスケジュールが夕方5時からなので、多少の散策を含めてAM11:00頃自宅を出ました。例によって一旦JR大宮駅にでて、JR川越線で川越駅へ。川越駅から東武東上線の坂戸駅で東武越生線に乗り換え、終点の越生駅に到着というルートです。
東武東上線は何度か乗っていますが、東武越生線は始めてです。
そのような興味も含めて2度目の越生行きも実に楽しみです。

map入間郡越生町オフィシャルサイト】 http://www.town.ogose.saitama.jp/


はじめに

越生は「おごせ」と読み”加須”同様、難解地名の一つでもあるそうです。
この越生の梅林は、7,446票を獲得してジャンルA部門にて第13位にランクされました。
本書の説明から。


関東三大梅林の一つとして知られる越生梅林。春には越辺川(おっぺがわ)の清流に沿って、約千本の白梅が咲きほころび、越生町内の2万5千本の梅とともに、ほのかな香りが町を包む。古い木では樹齢600年近い。
開花は2月中旬ごろからで、見ごろは3月上旬・中旬、毎年盛大な「梅まつり」が催され、近県からの観梅客でにぎわう。
江戸時代からすでに梅の名所として知られ、明治以降も田山花袋や野口雨情、佐々木信綱ら数多くの文人もこの地を訪れ、詩歌を残した。
1940(昭和15)年県指定名勝となっている。

梅といえば春を告げる花のイメージで、生花は勿論、香りや実を楽しめる一粒で3度美味しいような花です。
関東近辺に住んでいる人は梅といえば”水戸の偕楽園”をまずは思い浮かべることでしょう。事実私自身もそうですし、実際に水戸へ足を運んだこともありました。
今回の100選が無ければこの先、知る由も無かったかもしれませんでした。
埼玉県の誇る”梅”を見に、たまたま代休の取れた3月3日(火)に越生梅林に向かいました。

当日の天気は”曇り時々雪”という天気に若干の躊躇があったものの、雪中観梅(こんな言葉があるのだろうか?)もおつなものではないかと出かけました。
”越生”とは正式には埼玉県入間郡越生町です。当日はかなり冷え込んでいたので一にも二にも車で向かいます。
上尾からは荒川・入間川をまたいで川越に入り、川越から県道39号川越坂戸毛呂山線で文字通り鶴ヶ島市、坂戸市、入間郡毛呂山町までの一本道です。毛呂駅を過ぎてから県道61号線に乗り換えると、そのまま越生梅林に到着します。
平日ともあって道路も川越を過ぎるとかなり空いており、9:30に出発し10:30を少し過ぎた程度で到着できました。
天気も少し明るくなっていたので、何とか楽しい散策が出来るのではないかと期待したいところです。

map入間郡越生町オフィシャルサイト】 http://www.town.ogose.saitama.jp/




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