バス比較サイト『Bus sagasu』で、“新訂 旅と歴史”の記事を掲載して戴きました。

千代田区にある「東京大神宮」は、縁結びパワースポットとして、特に女性に大人気の神社です。
この「東京大神宮」は、本社の伊勢神宮から勧請された他の神社とは違い、東京遥拝所として建立されたので、他とは由緒が違うようです。また、神前結婚式の発祥の神社でもあるようで、意外な事実に驚きです。
更に驚いたのは、結構男性の方も多く参拝されているとともに、男女とも若いのに参拝の仕方をきちんとされているのに驚きと、ちょっとした感動を覚えました。
まだまだ捨てたもんじゃないですね、NIPPON!

ご一読願えたら幸いです。
掲載記事はこちら  『究極の縁結びパワースポット「東京大神宮」で恋愛成就!

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2015.09.16掲載
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マンゴツリー東京

東京都千代田区丸の内 丸の内ビルディング35F 2014年8月28日訪問

店舗概要

「マンゴツリー」は、タイ・バンコクの中心街、スリウォン通りの裏手に、タイスキで有名な「コカレストラン」のオーナーであるピタヤ氏が1990年、約100年前に建てられたタイ伝統の邸宅を改装して創業し、カジュアルに味わえるタイ料理のおいしさを洗練された空間でいただけるタイ料理レストランとして評判の店です。
そしてバンコク本店、ロンドンにつぐ、世界3番目のマンゴツリーとして2002年に『マンゴツリー東京』としてオープンしました。
エスニック料理レストランとしては高級店の位置付けで、伝統的なタイ料理が食べられ、現在、マンゴツリーグループブランドは、世界14カ国約70店舗あるそうです。

エントランス ペーブメント

エントランスとペーブメント

丸ビルの中のテナントですので、エントランスもスッキリした感じで、それほど敷居が高い感じはしません。

夜景 夜景

売りの夜景

内装は照明を落としたウッディな空間で、なんと言っても丸ビル35Fという立地から、100万㌦とまでは言いませんが、夜景が楽しめるのも売りのひとつです。

メインメニュー

■旬の素材を使った創作的なコース 6,480円

スモークサーモンで巻いた夏野菜の生春巻き

【冷菜】

スモークサーモンで巻いた夏野菜の生春巻き
スパイシーフィッシュケーキ レッドカレー風味 グリーンパパイヤのサラダ添え

【温菜】

スパイシーフィッシュケーキ レッドカレー風味 グリーンパパイヤのサラダ添え
トムカーガイ

【スープ】

トムカーガイ
本日鮮魚のグリル マンゴとホラパーの2色のソース

【魚料理】

本日鮮魚のグリル マンゴとホラパーの2色のソース
骨付き鶏もも肉のロースト スパイシーチリソース

【肉料理】

骨付き鶏もも肉のロースト スパイシーチリソース
ココナッツのムースグラッセ スイカとグァバのグラニテ添え

【デザート】

ココナッツのムースグラッセ スイカとグァバのグラニテ添え

感想

写真ではわかりにくいですが、冷菜はスモークサーモンが香ばしいサッパリした味で、暑い夏の前菜としては、まさにぴったりと言えるでしょう。
温菜は“フィッシュケーキ”と聞きなれない料理ですが、イギリスでは、フィッシュ&チップスと並んでポリュラーな料理だそうで、いわゆる魚のハンバーグと言ったものです。
魚の種類は失念しましたが、イギリス伝統の料理をエスニックに仕上げた逸品ですね。

スープは、定番トムヤムクンと、このトムカーガイから選ぶので、初めて食べるトムカーガイをチョイスしました。
簡単に言ってしまえば、トムヤンスープにココナッツミルクを入れたスープと言えるでしょう。ココナッツミルクと聞くと甘さを想像しますが、これは意外と甘くなく、ココナッツの香りとコクが生きたトムヤンスープのこってり版といえるでしょう。
あまり酸味も強くないので、私的には、こちらのスープの方が好きですね。比較的日本人に会いながら、エスニックの特徴は残されていると言った感じです。

魚料理は、やはりソースの味が決め手のようです。
マンゴーの甘酸っぱさが効いた美味しいソースで頂く白身魚は、爽やかな風が吹き抜けると言った逸品です。
ホラパーはパクチーなどと一緒のハーブですが、あえて言えばバジルのような香ですので、こちらも比較的受け入れやすいハーブといえるでしょう。
香りとともに、色付けとしても使用される見た目にも綺麗な料理です。
肉料理は、鶏もも肉のローストと言うことで、まさに定番とでもいえるでしょう。
スパイシーチリソースとありますが、それほどスパイシー感はなく、食べやすい一品です。

このマンゴツリーは、オープンしてから1年後と、5年ほど前と今回で3回目ですが、以前は全体的に辛いイメージがありました。
2度目の時は、初回のイメージがあり、あえて辛さ控えめにしていただいて、ちょうどいい辛さでした。今回は特に辛さの選択は聞かれませんでしたが、殆ど辛さを感じない味で、確かに美味しいのですが、若干エスニックらしさが薄れているのではと感じます。
刺激よりも風味(香り)を優先とした日本人好みの味付けに変ってきたのではないでしょうかね。
私的には、もう少しパンチの効いた味付けが欲しかったですね。

デザートは、夏らしくスイカを使ったデザートで、中々堪能できる逸品でした。

窓際席でのコーヒータイム

窓際席でのコーヒータイム

最後のコーヒーでは、窓際席が空いたので、わざわざ席を移動していただけました。ホスピタリティの感じるサービスですね。
残念ながら、この日は小雨の降る天気でしたので、夜景は今ひとつでしたが、美味しい料理と雰囲気で、ちょっとしたプチ贅沢な気分に浸れました。

2014.09.07記

第1部 神保町編《前編》

神保町といえばなんと言っても古書の街です。平たく言えば古本屋ですね。
確かに昔から本の街といえば神田神保町といわれてきたのですが、何故本の街になったのかはトンと知りませんが、そのメカニズムは単純に多くの学生がこのエリアに住むようになったからなのです。
明治維新(1868年)後、多くの大学が神田周辺に造られたのです。多くはその後神田から移転したのですが、当時は東大、学習院大、順天堂大、お茶の水大、東京医科歯科大、東京理科大、専修大、明治大、中央大、一橋大、日本大などがあったのです。 それ故に関東大震災後、本を求める学生達が古本でも良いから、と欲しがったことから古本屋が出現したのです。
昭和になるとモノが沢山生産され、本の分野でも廉価な本が出版され大量の本が一般市民にいきわたったことから、古本がかえって古書市場に流入して古本屋の更なる発展をみることになったのです。
こうした特異な成り立ちの神保町で、どのようなjapan“Cool”が見つかるか楽しみなところです。

靖国通りの古本街-1

早速、その神田神保町古本街を歩きますが、神田神保町には大凡180軒くらいの書店があるそうなので、今回は“サブカルチャー”というテーマを中心として歴史・グルメなどをアクセントに散策してみることにしました。
スタートは九段方面から東方向にある靖国通りの“専大前交差点”からスタートです。
専大前交差点 神田神保町古書街
まず見えるのが「芳賀書店本店」です。
男性天国。。。!? 「芳賀書店」
意外とスッキリしたファサードですが、この名称をきいてピンとくる方は比較的通です、恥ずかしながら^^
ここは何を隠そう、いや隠していないので有名なアダルト専門の書店なのです。しかも全国でも珍しく書店・アダルトショップでありながら風営法許可店であることなのです。 これが何を意味するかと言えば、当然堂々と100%アダルト商品を販売できるというお墨付きをもっていることなのです。
元々は1936(昭和11)年、巣鴨のトゲヌキ地蔵通りから始まったそうなので歴史的にも見るべきところのあるなの店舗で始めは古書を扱っていたのだそうです。
大戦の空襲で焼け出され神保町に移転してからは、新刊本などの販売で繁盛し始め、1961(昭和36)年には出版事業を始め、当時無名だった団鬼六や篠山紀信などを輩出したのです。
この方向性の事業が成功したことから1979(昭和54)年に支店にアダルト商品をメインとした神田古書センターを出店し、これがまた成功したことから、以降、本店もアダルトに移行し現在のような100%アダルト書店となったのです。
売り場は3階で、1階はソフトアダルトDVD、2階はハード&マニアックDVD、グッズ、そして3階は雑誌・コミック・小説となっているのです。
知っていると何気に恥ずかしい・・・!?「芳賀書店」
ここは心を鬼にしてスルーしますが、男性にとっては実にクールな書店なのです。

ワンブロック先にあるのが「@ワンダー」です。
@ワンダー
SF、映画、ミステリーなどの絶版文庫書籍や映画ポスター・パンフレットなどを扱う趣味・芸術に特化した書店です。
映画関連がたくさん!
道路に面した売り場があるというのもまさにワンダーです。
これって絶景!?
確かに車に注意しないといけないでしょうがね。
確かに車に注意を。。。
その名の通り摩訶不思議な店舗なのですが、これが現在のjapan“Cool”の原動力といえるかもしれません。

さらに古書街を進みます。
さらに古書店街を進む
数軒先に「india」という店がありますが、ここにはかつては“澤書店”という書店があった建物で、昭和3年に建てられた木造3階建ての建物なのです。
現在は貴重な看板建築
注目すべきはこの建造物で、大戦で焼け残った数少ない神保町を特徴づける「看板建築」という大正末期から昭和初期にかけての商店の代表的な建築様式で、現在は千代田区の歴史的建造物となっている神保町の歴史では外せない建造物なのです。
したがって昭和初期の神保町では、このような建造物が軒を連ねていたのです。
看板建築を良く知りたい方は、お世話になっているkshun10さんのサイト【東京冒険紀行】で取り上げられていますのでご参考にご覧下さい。

その隣にあるのは「ヴィンテージ」で、ここは半券チケットからプレスシートまで、映画に関する印刷物に特化している書店なのです。
ヴィンテージ映画は不滅です!
現在は更に演劇やサブカルチャーまで幅広いジャンルを扱っているようです。
その先の「澤口書店」は、硬いものから軟らかいものまでをモットーに品揃えしている書店なのです。
古書街も佳境に 何でもありの「澤口書店」
店頭には“絶版マンガ始めました”の案内があるのも、この店の特徴なのでしょう。
絶版マンガ、はじめましたァ~♪
神保町の古書店も徐々にジャンルとしてのサブカルチャーを取り扱う店舗が増えだしているのかもしれませんね。

そしてこのブロックの角にあるのが「矢口書店」と「古賀書店」で、この建物も先と同じように千代田区の歴史的建造物の看板建築です。
こちらも堂々の看板建築
ここはかなり重厚でヒストリックな建物として残っているようです。
しかし見どころは建物だけではありません。
「古賀書店」はクラシック愛好家に人気の老舗音楽専門店で、とにかくクラシックを中心に楽譜、伝記、専門書や研究書、音楽家の資料などとにかくその方面御用達の店舗なのです。
クラシック音楽なら「古賀書店」
一方、お隣の「矢口書店」は映画・演劇・戯曲・シナリオといった分野の専門的な書店で、特に最近は上方落語に関する書籍が充実しているそうです。
シナリオに上方落語の「矢口書店」
とにかく建物も扱っている商品もクールな歴史的な書店なのです。

路地を隔てた先に「ブンケン・ロック・サイド」があります。
「ブンケン・ロック・サイド」イェ~ィ 「ブンケン・ロック・サイド」イェ~ィ ロケンロール、ヨロシク!
まさにサブカルチャーを扱うお店として、全国のロックンロールファンが訪れるお店だそうです。
もとは俳句の専門店だったそうですが、その店主の娘さんがサブカルチャーに特化したお店に変えたのだそうです。まさに店舗の生きざまも“That's so Cool”な店舗です。
その隣にある「原書房」は、易・運命学の書籍を扱っている書店で、女性誌の占い特集では取材が引っ切り無しのお店なのです。
当たっても八卦・・・「原書房」
その一方、浮世絵や版画も扱っていて海外からの問い合わせや注文も多いのだそうです。

そして、その先に比較的大きなビルで芳賀書店の支店である“神田古書センター”があります。
古書の巣窟!?「神田古書センター」 建物はきれいなんですよね^^
このビルの中には幾つもの小さな書店が入っていますので、いくつかの書店をピックアップしてみます。
9階建てにぎっしり
まずは一番上、9階の店舗から降りて見ましょう。
エレベーターが9階に到着し扉が開いた光景がこれです。
エジソンの時代からのレコード! 「富士レコード社」
この店は「富士レコード社」で文字通りレコードを扱っているのですが、並みのレコードではありません。われわれオジサン世代の親しんだEP盤、LP盤の世界の遥かかなたのエジソンの時代からSP盤と言われるまでのレコードを扱っているのです。
したがってそれを聞くハードもこちらのような蓄音器でなければ聞けない代物なのです。
いわゆる蓄音機ってやつですか
これがビジネスになっていることが、まさにクールです。

8階は言わずと知れた「芳賀書店 神田古書センター」です。
掛け持ちの「芳賀書店」
説明はいらないでしょうが、眼と鼻の先にある本店の支店なのですが、面白いのは本店と支店とを“はしご”する人たちが多くいるのだそうです。
それだけ品揃えが豊富というあかしなのでしょうが、それを丹念に探し回るファンこそがクールなのかもしれません。
ハーレム状態「芳賀書店」
恐るべしアダルトパワーです。

7階には2軒の書店が存在しています。
階段を下りるとそこには「文献書院」があり、ここはアイドルの超レアグッズやグラビアページのある雑誌のバックナンバーといった、アイドル関連グッズを品揃えとしている書店です。
アイドルの「文献書院」
所狭しと並べられた商品をぬって奥に進むと、何とその先にもう一軒の書店である「いざわ書林」があります。
カオスの「いざわ書林」
こちらの書店は何と医学書を扱っているというのですから、まさにカオスです。
このように「いざわ書林」から戻ると「文献書院」ということになるわけです。
戻ると「文献書院」
まさに古本屋街のクールな特徴といったことろでしょう。

6階にはテナントが無いので5階に移ります。
ここには3軒の店舗があります。
子供の本の古本屋「みわ書房」、古物・鉱物を扱う「薫風花乃堂」、そして「らくごカフェ」。
「らくごカフェ」は裏から回らないと入れないようですが、2軒のお店は丁度左右半分ずつに分かれています。
「みわ書房」と「薫風花乃堂」
「薫風花乃堂」の女性オーナーの方に写真撮影の許可を求めると「なんで?」って聞かれたので「特に意味はなく趣味で」って答えると訝しげに「へえ~、どうぞ」って言われて。。。で、それで撮影した写真ですが、要するに書店ではないのです。
まさにクール
店主のクールさに脱帽です。

4階は「梓書房」と「ブックパワーRBS」という書店が入っています。
「梓書房」と「ブックパワーRBS」
こちらも左右二つに分けた店舗構成です。
特に「ブックパワーRBS」は、スポーツやファッションなどのサブカルチャー系古書店の草分け的書店だった“ブックパワーRB”という書店が閉店したことから、2007年にその店のスタッフが主に格闘技関係の商品を引き継ぎ末尾に「S」をつけてオープンした店舗なのだそうです。
まさに他を圧倒するパワー
とにかく雑誌のバックナンバーだけでも2万冊以上あるとのことですから半端ない書店なのです。
3階は動物や植物などに特化した「鳥海書房」、そして2階は漫画中心の「中野書店 漫画部」といった塩梅で、この辺りは精神的に疲れ果てて写真を撮ることすら忘れていました。
写真取り忘れたので書店名だけ
特に「中野書店 漫画部」では、戦後漫画の漫画を扱い、絶版漫画というジャンルを確立し、手塚治虫・水木しげる・藤子不二雄などの人気作家の作品は全て揃えると言う拘りがあるそうです。

最後の1階には武道・謡曲・料理というよくわからないコンセプトの「高山本店」があります。
武道・謡曲・料理というわかったような判らないコンセプト!?
とにかく創業明治8年と言われては、その存在感に圧倒されるばかりです。
創業明治8年の「高山本店」
ちょっと後でネットで調べてみると、こんな本まで有るのを知りました。
恐れ入りやの・・・、「秘伝」ですって!?
こんな世界もあるのかと知らされた、実にクールなコンセプトを持った店舗なのでした。
恐るべし神保町、そしてカオスがクールな神田古書センターでした。

古書センターカオスから抜け出した先が「神保町交差点」です。
神保町交差点 神保町交差点
この角には現在も「岩波ホール」があり、1968年に開業した220席のミニシアターです。
岩波書店 「岩波ホール」
開業時から硬派な作品が上映されるので、ついぞ20年神田に勤務していた頃、一度も訪れたことはありませんでした。
そのミッションステートメントを聞けば、まさにクールと言わざるを得ないのです。
●日本では上映されることの少ない、アジア・アフリカ・中南米など欧米以外の国々の名作の紹介。
●欧米の映画であっても、大手興行会社が取り上げない名作の上映。
●映画史上の名作であっても、何らかの理由で日本で上映されなかったもの。またカットされ不完全なかたちで上映されたもの。
●日本映画の名作を世に出す手伝い。
といった塩梅ですから、フランスのカンヌとかの潮流なのでしょうかね。
エンターテイメント性はありませんが、やはりサブカルチャーの街だからこそ、その存在感は一層際立っているのでしょう。
次回は古本街の続きと神田すずらん通りを散策します。

2013.07.13記
(第1部 神保町編《後編》につづく)


溜池山王彷徨

今回の散策は「溜池山王」周辺です。
鉄道路線図で言えば、銀座線と南北線が乗り入れている文字通りの「溜池山王駅」です。この溜池山王駅の住所が東京都千代田区永田町二丁目11-1ですから、遠くの方でも“永田町”と聞けば凡その位置はお判りになるかもしれません。
今回はこの「溜池山王駅」周辺を散策します。

溜池

この「溜池山王駅」の誕生は新しく、1997(平成9)年ということで銀座線では最も新しい駅なのです。
溜池山王駅
もともと仮称駅名は「溜池駅」だったのですが、この駅が港区と千代田区の境界に建設されたことから駅名決定が難航し、両区の地名を合成して決定したものなのです。
そのうちの“溜池”とは、江戸時代にこの地に造られた大規模な“ため池”(貯水用の池)に由来し、後に赤坂溜池町という住居表示があったのですが、現在は交差店名としか残されていないのです。したがって溜池は港区の代表として付けられた駅名なのです。
一方の山王は、千代田区側にある日枝神社が山王権現を祀る社として、古くから山王様と呼ばれていたことから、千代田区の代表として選ばれた名称なのです。
ここが唯一名称の残る「溜池交差点」です。
溜池交差点 溜池交差点
首都高速の走っている東西側が六本木通りで、その交差する南北の通りが外堀通りです。
外堀通りという位ですから、江戸時代には外濠があったわけで、家康入府前後と諸説あるものの、天下普請による江戸城の建築・整備のため、防備と水脈という意味で外濠川が開削され、その一部として元々湧水の湧く沼沢地であったことから外濠に取り込まれたのがこの溜池だったのです。

溜池交差点の安全地帯には「溜池発祥の碑」が立っています。
溜池発祥の地碑
碑文によれば江戸時代のはじめに江戸城の防備を兼ねた外堀兼用の上水源として作られ、水道の発祥地とも言われているようです。2代将軍秀忠時代には、鯉・鮒などを放流し、蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する名所となったそうです。
これについては江戸名所図会にも「往古欽命によりて、江州琵琶湖の鮒および山城淀の鯉等を、活きながらこの池に移し放たしめられたりとて、形すこしく他に異なり。また蓮を多く植ゑられしゆゑに、夏月花の盛りには奇観たり。」と記載されています。
また、図会によればこの溜池を造ったのが浅野左京太夫幸長で、この功績に対する感謝の印として榎を植えたことから、現在の赤坂一丁目にあるアメリカ大使館の前の坂を「榎坂」と呼ぶようになったのだそうです。また、溜池の北方向には辻番所で“葵”を栽培していたことから、虎ノ門2丁目の坂は「葵坂」となったのです。

溜池の変遷がこちらです。
江戸時代地図 明治時代の地図 現在の地図 《「ぶらり東京~23区巡り~」より》
江戸・明治、そして現在の地図です。確かに外堀通りに沿った外濠川の一部として大きな溜池を見てとることが出来ます。
「江戸名所図会」や広重の「名所江戸百景」にも溜池が描かれていることからも、ここが当時の名所であったことがわかります。
江戸名所図会の溜池 名所江戸百景の溜池
更に碑文に寄れば江戸時代後期には日枝神社から赤坂4丁目にかけて「日吉橋」が掛けられ、この橋は通行料金を取ったことから「銭取橋」とも呼ばれたそうです。
そして明治中期までは日吉橋のほか、古吉橋、溜池橋、葵橋が掛けられていたのです。
溜池橋 《溜池橋(国立国会図書館蔵)》
こうした歴史を持った溜池も明治初期から始まった埋め立てにより、明治44年には埋め立てられてしまったのですが、途中の明治22年に赤坂溜池町が創立され、大正10年には町会として溜池町会が発足したのです。したがってこの時点で溜池は無く、地名だけが残ったと言うことになるのです。
そしてその当時、現在の交差点にある小松ビルは「演伎座」という芝居館で人気を博したのだそうです。
KOMATSUビル
当時の新聞記事です。
「赤坂演伎座 目下興行中なる(松旭斎)天一の奇術は日々の大入にて、内外の顕官を始め諸芸人等の総見物も続々あり、三月十日迄新奇芸を差加へ開演する由」(東京日日新聞 明治31(1898)・2・27)
なかなか知りえない歴史ですが、この後小松ビルとなったときにも、確かビルの屋上にブルトーザーが置かれていました様な記憶があるのですが。。。

首相官邸

溜池の交差点から旧外濠川の外堀通りを北上します。
外堀通り
2、3分も歩くと交差点となり、右側の交差点にはバリケードと警官が配備されています。
外堀通り
この交差点を右折すると直ぐ右手が首相官邸です。
官邸方面
以前は滝が流れていたのですが、現在は停められているようですが威圧するような建物ではないところが好感持てます。
首相官邸 首相官邸 首相官邸
現在の官邸の敷地は、江戸時代では敷地内の南側が越後村上藩内藤家中屋敷で、敷地内北側は丹後峰山藩京極家上屋敷だったところです。
明治維新後は一時、一橋徳川家が使用し、明治3年には鍋島家の所有となったのです。
しかし関東大震災の被害により、この地は復興局に売却され、大正15(1926)年に総理大臣官邸の新設が決定し、昭和4(1929)年、当初は「内閣総理大臣官舎」と呼ばれ官邸が完成したのです。
その当時の写真です。
旧首相官邸
こちらが旧官邸なのですが、この当時この旧官邸と渡り廊下で連結していた公邸があったのです。官邸は首相が執務を執り行うところで、公邸は首相の住居となるのもです。
この当時の公邸は「日本間」と呼ばれ、田中義一首相が最初に入居したのを皮切りに、以降6名の歴代首相が寝起きしたのです。
その後、5.15や2.26事件などの舞台となり、犬養毅などの死者もだし、使い物にならないほど荒されれたことから、復旧はあきらめ事務所として使用し、代わりの公邸として「日本家」と呼ばれる仮公邸が作られたのです。
日本家
しかし、ここも首相が住むことなく戦災で焼失したのです。
戦後は長く吉田首相が外相も兼務したことから外相公邸が事実上の首相公邸となり、しばし公邸は必要がなくなったのです。
しかし、事務所として使われていた旧公邸も1963年から改修を行い佐藤栄作が2.26事件以来、久しぶりに移り住んだのです。
こうした背景のある公邸故に、時折軍服姿の幽霊が出ると騒がれ、森喜朗首相や羽田孜首相の綏子夫人などは霊が見えると話していたそうです。
当時の森首相からこの話を聞いた小泉首相は「幽霊なんか・・・」と笑い飛ばしたそうですが、後にお祓いをしたのだそうですから、内心は・・・、と言うことです。
こうした幽霊騒ぎがあったからか(そんなわけは無いのですが)、小泉首相時代に新官邸の建設→旧公邸の取り壊し→旧官邸の移動→新公邸への改装が行われ、現在の官邸、公邸となったのです。
結構面白そうな歴史を持っていることをはじめて知りました。

ザ・キャピトルホテル東急

首相官邸の斜め前にある建物が「東急キャピトルタワー」で、この高層ビルのメインテナントが「ザ・キャピトルホテル東急」です。
東急キャピトルタワー ザ・キャピトルホテル東急
東急ホテルズのフラッグシップを担い、首都を意味する“キャピタル”では無く、国会議事堂に近いことからあえて議事堂を意味する“キャピトル”と名がつけられたのです。
このホテルは2010年10月22日にオープンしたのですが、それ以前の歴史はかなり興味深いものがあります。
そもそもは再開発事業「永田町二丁目計画」により現在のビルとホテルが生まれたのですが、それ以前は「キャピトル東急ホテル」として存在していたのです。その歴史を見てみます。
そもそもこのホテルは1963(昭和38)年6月、「東京ヒルトンホテル」として開業しました。
東京ヒルトンホテル
これは当時アジア地区に拠点を求めていたヒルトンホテルズ・インターナショナルと国際的ホテルのノウハウを求めた東京急行電鉄の思惑が一致したことから、両者の合弁会社東京ヒルトンホテル株式会社が設立され、日本初の外資系ホテルとして開業したのです。
当然、翌年の東京オリンピックを意識したもので、地上10階建て、客室数約450室をもつ規模でした。
しかし何よりもこのホテルを有名にしたのは1966(昭和41)年6月に来日した“ザ・ビートルズ”が宿泊したことからでしょう。
ビートルズ喧騒曲とも言える一連の出来事は、当時小学生ながら何となく記憶が残っています。
そして残っていると言えば、現在のホテルの1Fには、当時ビートルズが記者会見した真珠の間のステージの壁面が再現されているのです。
東京ヒルトンホテルでのビートルズ記者会見 再現された壁面 再現された壁面
宴会が無ければどなたでも見ることは可能なそうですから、懐かしく思える方は訪れてはいかがでしょうか。
このような東京ヒルトンホテルでしたが、ヒルトン側と東急側では経営を巡って対立もあったようで、当初の契約期間であった20年を迎えた段階で、東急側は契約を更新せずヒルトンと決別し、1984(昭和59)年元日から「キャピトル東急ホテル」と改称して、東急ホテルズのフラッグシップとして運営されることとなったのです。
キャピトル東急ホテル
こうしたことからこのキャピトル東急ホテルは三大テノールや、ショーン・コネリー、マイケルジャクソンら外国人アーティストの宿泊が相次ぎ、エリック・クラプトンなどは来日時の定宿としていたのです。
また、文字通り“キャピトル”に近いことから政治家の利用も多く、当時地下3階にあった「村儀理容室」は小泉首相や安倍晋三首相(第1次)らの首相経験者が利用していたことでも知られているのです。

こうした歴史を持つホテルですが、更に時代を遡るとまだまだ興味深い歴史があるのです。
ザ・キャピトルホテル東急がある土地は、先の古地図でもわかるように元々日枝神社の境内に属した小高い丘にあり、夜には星がよく見えたことから星ヶ岡と呼ばれていた土地なのです。
しかし、明治維新により氏子が減少した日枝神社は社域を維持できなくなり、境内の一部を東京府に寄付したのです。当初東京府はこの地に麹町公園を設置する予定でしたが、明治期の財界人らの岩倉具視への提議により、1881年(明治14)年、この地に「星岡茶寮」を設立し、上流階級の社交場として活用されたのです。
大正時代に経営不振に陥ったため、関東大震災後には当時美食家で知られた北大路魯山人に貸し出され、1925(大正14)年3月に彼が主宰する美食倶楽部の会員制料亭となったのです。この辺りをモデルにしたのが漫画「美味しんぼ」ですね。
星岡茶寮 星岡茶寮
しかしこの「星岡茶寮」も戦災の空襲で焼失し、更に戦後の混乱から魯山人の手から離れた茶寮は転々とした後、東急グループの五島慶太の所有地となり、1956(昭和31)年に中国料理店「星ヶ岡茶寮」として開業されたのです。
その後、この「星ヶ岡茶寮」を廃して東京ヒルトンホテル→キャピトル東急ホテル→ザ・キャピトルホテル東急と言う変遷の中で、ホテル内に中華料理「星ヶ岡」があり続けているのも、こうした歴史を背負っているからなのです。
星ヶ岡
ここもまた歴史的には由緒ある地であることが伺えるのです。

黒澤

ザ・キャピトルホテル東急の道を挟んだ対面が衆議院第一議員会館で、この奥に第二議員会館、参議院議員会館が連なっています。
衆議院第一議員会館 衆議院第一議員会館
昨年建設されたばかりの真新しいビルなのです。
で、その隣に和風の佇まいを持った店舗があり、店頭には「黒澤」とかかれた灯明がおいてあります。
黒澤
この“黒澤”とはあの昭和の大監督、黒澤明を冠した店舗なのです。
コンセプトは「映画の感動を食で再現」ということで、世界の黒沢が客人をもてなした料理の数々を提供しているのです。
黒澤
運営しているのは(株)食文化総研「レストラン黒澤グループ」と言う会社です。

「レストラン黒澤グループ」で最初にオープン(平成10年12月)したのが永田町黒澤です。グループ最大規模の店舗で中核を担っています。
グループ一号店のため、黒澤明監督のイメージが最も強く出ている店舗で、映画の感動を食で再現し、まるで黒澤映画に迷い込んだような臨場感を楽しんでいただけると思います。
メニューは、実際に黒澤家の宴に上ったものを揃えています。黒澤監督が大のお肉好きだったことから、鹿児島直送の黒豚、黒牛、薩摩の若軍鶏など最高の食材を使用したコース料理を、黒澤流の調味料でお召し上がりいただけます。
蕎麦も永田町店の自慢です。「翁達磨」の蕎麦打ち名人高橋邦弘氏の指導のもとで腕を磨いた職人が、石臼で自家製粉した粉を丹念に手打ちした蕎麦を提供しております。高橋名人は現在も「レストラン黒澤グループ」の蕎麦・饂飩部門の顧問として定期的な指導をしています。
永田町黒澤の特徴一つとして「赤ひげ」を彷彿させる外観があります。 柱の塗りや照明にいたるまで隙のないこだわりの内装で、黒澤組の美術スタッフが 映画さながらに演出しています。店内に一歩足を踏み入れると黒澤映画に出演しているかのような雰囲気でお食事をお楽しみいただけます。
黒澤監督ゆかりの品や美術品に値する黒澤監督自筆の絵コンテなども展示し、また、器は黒澤オリジナルの有田焼を使用するなど小道具にもこだわりました。黒澤明監督を幕う世界の映画人や名士の集う永田町黒澤に、是非お越しください。
(オフィシャルサイトより)

このようにあくまで黒澤明をイメージした店舗ですが、店舗の企画・監修には黒澤明の長男であるオッサン世代には懐かしい“クロパン”こと黒澤久雄と黒澤プロダクションがあたっているので、あながちイメージだけと言うことでもなさそうです。
現在は、この永田町のほかに、「饂飩 くろさわ」「鉄板焼 Kurosawa」「欅 くろさわ」の4店舗を運営しているそうです。
店舗自体は新しいですが、黒澤明の歴史の一端に触れられる店舗といえるのでしょう。

日枝神社

「黒澤」を通り過ぎた先の交差点を左に曲がった先に「日枝神社」の大きな社号標が目に入ります。
日枝神社社号標
社号標には小さな“元”の字が付けられて「元 官幣大社日枝神社」と刻まれています。勿論、現在社格はなくなっているので“元”が付けられているのですが、戦前までの近代社格制度においては、天皇・皇族等の朝廷に縁のある神社であることを示し、つまり神社の中では最高位の神社であることを誇っているというわけです。

山王鳥居

社号標を左手に曲がると突き当りには先に訪れた「ザ・キャピトルホテル東急」のエントランスが見えます。
ザ・キャピトルホテル東急エントランス
近代的なホテルなのですが、こちら側は日枝神社を意識した和風のつくりとなっています。
その途中の右手にあるのが、石造りの立派な鳥居で「山王鳥居」と呼ばれるものです。
山王鳥居
特徴的なのは一般的な明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗った形をしていることで、山王信仰の象徴であるために山王鳥居と呼ばれているのです。
山王信仰とは、最澄が比叡山に天台宗を開いた時、唐の天台山の守護神である「山王元弼真君」にちなみ、既に比叡山の守護神として鎮座しいた日吉大神を「山王権現」と称する、神仏習合の信仰のことなのです。
したがって、この鳥居は山王信仰の本社である滋賀県の日吉大社のオリジナルの鳥居の形で、この日吉大社の鳥居を真似たものがこの日枝神社の鳥居だと日吉大社は言っているのです。ま、確かにこの形の鳥居は余り見た記憶がありませんから、珍しいということなんでしょうが、本家はこちらだよ、と日吉大社は言いたいのでしょうかね。

鳥居を抜けた先が大層な石段で、この参道が表参道である「男坂」で、左手にある坂道の参道が「女坂」です。
男坂 女坂
ここは「男坂」で一気に上がりたいところですが、あえてゆるやかな「女坂」を行きます。
女坂を上がったところに柵に囲われた夫婦岩のような石があります。
さざれ石
特に珍しいものでは無いのですが、国歌“君が代”に歌われた「さざれ石」です。
学名は石灰質角礫岩と言い、石灰石が雨水に溶け、その石灰分を含んだ水が時に粘着力の強い乳状態となり地下で小石を集めて大きくなる、まるで雪だるまのような石で、ここにある石は、国歌発祥の地と言われる岐阜県揖斐郡春日村の山中から発掘されたもので、春日村のさざれ石は天然記念物に指定されていて、その周辺は「さざれ石公園」となっているそうです。
国歌「君が代」では、細かい石・小石が岩石(巌)となり、更にその上に苔が生えるまでの過程が、大変長い年月を表す比喩として使われているのですが、国歌になる前の江戸時代には、「岩ほと成りて」の“岩”が男性器で“ほと”が女性器を表し、“成りて”が性交を指すと変形されたこともあったようです。
政治的・思想的に賛否両論ある「君が代」ですが、純粋に歴史として見るとまだまだ興味深い内容を含んでいるようです。
さざれ石の横にある建物が「宝物殿」です。
宝物殿
ここには日枝神社の所有する国宝や重要文化財が展示されています。
火曜・金曜日以外は無料で見学できますので、是非見ておかれると良いでしょう。
一見の価値は充分にありました。

社殿

宝物殿を通り過ぎて、男坂を上がったところにあるのが「神門」です。
神門神門扁額
神門には「日枝神社」と「皇城之鎮」という2枚の扁額があり、明治天皇の第7皇女である北白川房子が書かれたものだそうです。
そして門には「随神像」が安置されています。
随神像 随神像
更にその裏側には「神猿像」が安置されています。
神猿像 神猿像
どれもこれも新しいので煌びやかさはあるのですが、どうしても重厚感に欠けます。
そして正面に鎮座しているのが社殿です。
境内
そして社殿を囲うように藤棚や神塀に囲まれています。
境内 境内
その社殿の前に先ほど神門にもあった「神猿像」が建立されています。
神猿像 神猿像
この猿は日枝神社の神使で、いわゆる狛犬の猿バージョンということですね。但し、狛犬が一般的に“阿吽”なのに対して、こちらの神猿像は夫婦であるが故に、「夫婦円満」「殖産繁栄」の神として参拝者に親しまれ、撫でていく“撫で猿”ともなっているようです。
まあ、ここは気持ちよく一つ撫でておきましょう。

そして社殿に参拝です。
拝殿 本殿
この日枝神社は、鎌倉時代初期、秩父重継が江戸氏を名乗り、武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として山王宮を祀ったのが始まりだそうです。
このことは江戸名所図会では、当時の『江戸名所記』に、武蔵国入間郡仙波(現在の川越市仙波)の星野山無量寺を再興したときに、仏法王法護持と万民の反映のため、日吉山王21社の中の各7社づつの上中下社から1社づつを選んで三ヶ所の霊神を川越に勧請したと記載されています。
江戸名所図会の日吉山王神社 江戸名所記の日吉山王神社 《左:江戸名所図会の挿絵 右:江戸名所記の挿絵》

記述には、本社祭神大宮は「比叡の二宮小比叡大明神を勧請す」とあるので、上七社の日吉大社の大山咋神を祭神として勧請し、二宮は下七社の「気比の宮」、三宮は中七社の「客人の宮」とあるので、それぞれ二宮は末社・気比社の仲哀天皇、三宮は摂社・産屋神社の鴨別雷神を祀ったようです。これが現在の川越日枝神社であり、実に由緒ある社であることがを認識させられるのです。
そして時代が下って文明10(1478)年、室町時代に太田道灌が江戸の地の鎮守として、この川越の山王社(日枝神社)を勧請したのです。実際に【喜多院】散策で川越の日枝神社を訪れましたが、それはそれで立派なのですが、比べてしまうとまるで勧請したのが反対だった様に思われる規模の違いです。
その後天正18(1590)年、徳川家康が江戸に移封され、江戸城を居城としたことから道灌の勧請した山王社は「城内鎮守の社」として崇敬され始め、二代秀忠のときに場所を江戸城外に移し社殿を新築し遷祀されたのです。このとき遷祀された場所が、現在の隼町の国立劇場付近だったそうで、この地を元山王と呼ぶのだそうです。
こうして広大な神域の山王社は一般庶民にも参拝できる参道を開いたのですが、明暦3(1657)年の大火で社殿炎上したため、萬治2(1659)年、時の将軍家綱は江戸城の南西の方角、すなわち裏鬼門にあたる溜池の松平忠房の土地を没収して社地とし、鬼門封じの社として社殿を造営したのです。これが現在の日枝神社となるのです。
明治時代となり、明治元年に准勅祭社、明治15年に官幣中社、そして大正4年に官幣大社となり現在に至っており、家綱時代の萬治2年の社殿は、江戸時代初期の権現造の代表的建築として国宝となっていたのですが、戦禍により焼失したため、昭和33年に再興されたのが現在の社殿なのです。
社殿の右隣には「夢殿」があり、ここは祈願所として平成12年に新築された一番新しい社です。
夢殿

山王稲荷神社

境内の東側にあるのが「山王稲荷神社」です。
山王稲荷神社
この山王稲荷神社は、日枝神社が麹町隼町から移される前、この地が福知山藩松平忠房の邸宅であった頃、邸宅内の鎮守として祭られていたと考えられている神社です。
そして萬治2(1659)年、この地に日枝神社が造営されたとき、新たにこの稲荷社も末社として造営されたのです。
その後、大戦の戦禍のより日枝神社焼失の際には唯一戦災を免れて残った社なのです。そして日枝神社再建までの仮本殿として用いられ、現在では千代田区の指定文化財となっているのです。
そして何故か本殿が2つあります。
山王稲荷神社本殿と八坂神社と猿田彦神社本殿
一つは左側の稲荷神社本殿なのですが、もう一つ右側にあるのが八坂神社と猿田彦神社両社を合祀した本殿なのです。
そしてその前に鎮座している一対の狛犬もまた千代田区指定の民俗文化財なのです。
狛犬 狛犬
文政3(1820)年に神田神社境内にあった南伝馬町天王社に奉納されたもので、明治18(1885)年の火災で天王社が焼失し、明治34(1901)年灯篭などとともに天王社に由来するものがこの日枝神社に移転されたのです。
特にこの狛犬は、平河天満宮、築土神社とともに江戸時代の銘文を持つ貴重なものだそうです。
そしてその先には稲荷参道があり、名だたる企業が奉納しているところによれば、如何に首都東京の信仰の厚さが伺えるというものです。
稲荷社参道 稲荷社参道 稲荷社参道
ちょっと華やいだ雰囲気もまた良い風情です。

山王祭

山王稲荷神社の左右には山車庫と神輿庫があります。
右側の大きな方が山車庫で、神幸祭での山車や用具が収納されています。
山車庫
現在、江戸の三大祭といえば「神田祭」「山王祭」「三社祭」といわれていて、このうち神田祭と山王祭は江戸時代から特別な祭りとされていました。それは“天下祭り”と呼ばれ、幕府が公認していたことから御用祭りとも言われ、神輿や山車、屋台などの行列は江戸市中だけでなく江戸城内に入ることも許され、城内では将軍や大奥の女性たちが神輿行列を見物し楽しんだのだそうです。こうした将軍上覧の祭りなので天下祭りと呼ばれたわけです。
その模様が数々の錦絵に描かれています
山王祭錦絵 山王祭錦絵
神田祭は神田明神の祭りで、山王祭は山王権現(日枝神社)の祭りです。神田明神が江戸城の表鬼門にあたり、日枝神社が裏鬼門ですから、この二社が江戸の守り神とされたのです。この二大守り神の祭りですから、その規模は相当なものなのです。
その名残を留めているのが、左手にある氏子の神輿庫です。
神輿庫
いわゆる氏子各町会の神輿が納められているのですが、その町会を見れば一目瞭然でしょう。
日本橋 八重洲 銀座
日本橋、京橋、八重洲に銀座といった地名を見て取ることができるのです。
更に神幸祭の順路を見れば一目瞭然です。
神幸祭順路
日枝神社-麹町-四谷-市ヶ谷-九段-国立劇場(元山王)-霞ヶ関-皇居(坂下門)-丸の内-日本橋(摂社日枝神社)-京橋-銀座-新橋-内幸町-首相官邸前-日枝神社という順路ですから、皇居の半分のエリアであることが判ります。
一部重複するものの、神田、日本橋、秋葉原、大手町、築地といった残り半分が神田明神となるのです。
この山王祭と神田祭は1年おきに交互に行われ、今年平成25年は5月に神田祭が行われるのです。
このように祭りとしても大変な歴史を誇っているのです。

最後は山王橋を渡って外堀通りに戻りますが、この辺りがかつての溜池だったところです。
山王橋 山王鳥居 溜池跡
再び外堀通り沿いを南下すると、首相官邸への交差点となり、今回の散策も終了となります。
外堀通り 外堀通り
港区の溜池と千代田区の山王をあわせた溜池山王駅周辺散策もこれにて終了です。

2013.02.16記

千代田区に25年以上通勤していてほとんど花見らしい花見をしたことがないサラリーマン生活で、ふと思いついた花見。 一度くらい見てみようかとサクラを求めてふらふらと千代田区を歩いてみました。
千代田区といっても様々なサクラの名所があるのですが、今回は極めてオーソドックスなルートを散策しました。

千鳥ヶ淵緑道

スタートは「千鳥ヶ淵緑道」からです。
墓苑入口交差点内堀通りの交差点「墓苑入口」からスタートしました。

千鳥ヶ淵緑道千鳥ヶ淵緑道交差点を渡ると「千鳥ヶ淵緑道」」と書かれたタイル塀があり、ここから緑道が始まります。

英国大使館方面ちょうどここから斜め反対側を見ると「英国大使館」のサクラが見えます。


千鳥ヶ淵に関する案内板です。

千鳥ヶ淵周辺のご案内
千鳥ヶ淵と桜
千鳥ヶ淵のサクラはその大部分がソメイヨシノで、古くは明治14年(1881)に英国大使館前に植栽されたと記録されています。現存する最も古木となったソメイヨシノは昭和5年(1930)に植えられたものですが、多くは戦後の復興気運を背景に昭和30年代に植樹されています。
今では東京屈指の桜の名所となり、多くの方々に親しまれています。
千鳥ヶ淵緑道は、昭和40年(1965)に開通した道路を、昭和54年(1979)に歩行者を優先した緑道として整備したもので、平成21年(2009)の桜の植栽余地を確保するとともに、一年を通して自然に親しめる四季の道として再整備されました。

千鳥ヶ淵
千鳥ヶ淵は慶長11年(1606)、江戸開府とともに築かれた内堀の一つです。その名の由来は、かつて半蔵門土橋まで広がっていた淵の形が千鳥に似ているからといわれています。明治34年(1901)に代官町通りが内堀通りまで整備されたときに、新たに土橋が築かれ、半蔵濠と分かれて今の形になりました。
また、千鳥ヶ淵は旧江戸城の一部として、昭和38年(1963)に文化財保護法による特別史跡「江戸城跡」に指定されています。』

千鳥ヶ淵緑道碑ちょっと先には、同じく千鳥ヶ淵緑道と刻まれた石碑がありますが、最初に置かれた道標なのかもしれません。


ライトアップについての案内がありましたが、これも時代を反映したもののようです。

千鳥ヶ淵緑道のライトアップ 期間:3月27日(金)~4月5日(日) 時間:午後6時30分~午後10時頃
千鳥ヶ淵のさくら、太陽光で発電しLEDでライトアップしています。
(前年比)CO2排出4.2t → 0.2t(約4t減)
消費電力(時間当たり)約150KWH → 約15KWH
千代田区千代田区観光協会』

ここでまするならライトアップしなけりゃいいのに、と、つい思ってしまいますがね。

千鳥ヶ淵墓苑この先の左側の木々が生い茂っているところが、「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」です。
第二次世界大戦で海外で死亡した日本の軍人や一般人のうち、身元が不明の遺骨を安置する「無名戦没者の墓」で、1959年(昭和34年)につくられました。

千鳥ヶ淵のサクラ千鳥ヶ淵のサクラこの墓苑を過ぎた辺りから桜並木となります。

千代田区観光案内所千代田区の観光案内所なども設置され観光に一役買っているようです。


千鳥ヶ淵水上公園、千鳥ヶ淵ボート場緑道を左に大きくカーブして進むと、緑道の左手に道があります。
ここがかの有名なボート小屋がある、正式には「千鳥ヶ淵水上公園、千鳥ヶ淵ボート場」と呼ばれるところです。

ボート乗り場ボート乗り場上の展望台下部がボート乗り場(桟橋)となっていて、上部が展望台となっています。

展望台からのサクラこの辺りから写す風景がよく見るアングルの桜風景です。


桜並木桜並木ここから先はずっと桜並木が緑道の両側に続きます。

桜並木水辺のサクラ左側には赤い葉の生垣が続いていてピンクの桜と良いコントラストをなしています。また右側はは千鳥ヶ淵水辺のサクラです。

ブロンズ像その先にブロンズ像があります。

千代田区の「さくら再生基金」「さくら再生基金」の飴隣には千代田区の「さくら再生基金」のテントがあり、気持ち寄附をしたらオリジナルの桜金太郎飴をいただきました。

緑道の碑緑道の碑いよいよここで千鳥ヶ淵緑道も終わりです。 靖国通りと交差する地点に、墓苑入口と同じように碑とタイル塀がありました。


ここからは靖国通り沿いを神田方面へ向かいます。
左側に「九段坂公園」がありました。

九段坂公園
「坂の多い東京の中でも九段の坂は霞んで見える程長かった」(明治東京名所図会)というかつての九段坂は、また現在とは比較にならぬほど勾配もきつかったという。
関東大震災(大正12年)後、坂の頂上を市ヶ谷寄りに移し傾斜をゆるくする工事が行なわれ、市電(都電)が坂の中央に設置された。現在は、靖国通りの一部として車の往来が激しい。
坂下の田安門近くには、常燈明台(正式には高燈籠)という燈台がある。かつては坂上の靖国神社前にあったこの燈台の灯は、品川沖の船ばかりではなく、遠く房総からも望見されたという』

九段坂公園からの千鳥ヶ淵のサクラ「九段坂公園」から見た千鳥ヶ淵の桜です。
「常燈明台」とサクラ「九段坂公園」の靖国通り沿いの桜また、桜に囲まれた「常燈明台」と「九段坂公園」の靖国通り沿いの桜です。
靖国通りの桜並木そしてここから、歩道橋を渡って靖国神社へ向かいますが、その歩道橋から見た靖国通りの桜並木です。