旅のサイト【たびねす】に掲載された『 徳川発祥の地!東照宮も縁切寺もある群馬「太田市」新田家系図買い噂の真相は?』のフルバージョンです。
概要は記事をご参照ください。

新田荘遺跡

「新田荘(にったのしょう)」は、平安時代末期の12世紀中頃に成立した新田氏の荘園です。
源義国の子新田義重は、旧新田郡南西部の早川流域・石田川流域を再開発して19郷を支配下におき、その後さらに37郷を開発し、旧新田郡のほぼ全域と旧太田市の南西部を荘園化したのです。

鎌倉討幕で有名な新田義貞は、義重から8代目に当たります。
現在、国指定史跡となっているのは、この「新田荘」に関連する寺社境内・館跡・湧水地など11の遺跡から構成されています。
今回は、その内の「徳川発祥の地」を巡っています。

その系譜の概略です。
新田義重から始まった新田氏の一族は、新田荘の各地に館を構え、それぞれの郷村名を名乗り、子を山名(高崎市)、里見(高崎市)にも配して勢力を広げています。なお、義重の子で長楽寺を開いた徳川(得川)義季(世良田義季)は、後に、江戸幕府を開いた家康が、その子孫であるとして徳川氏を名乗ったため、始祖として崇められたのです。

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第8代が新田義貞で、元弘3年(1333)に弟の脇屋義助ら新田氏一族とともに生品神社で挙兵し、鎌倉幕府を討幕したことは余りにも有名です。
義貞がその後戦うこととなった足利尊氏は、新田義重の弟足利義康に始まる足利氏のやはり第8代です。また、新田氏第2代新田義兼の娘と足利氏第2代足利義兼の子義純との間の子が岩松時兼(岩松氏初代)で、戦国時代の金山城主岩松家純はその子孫となります。
ちなみに、岩松氏の子孫新田俊純は幕末に新田氏一族の棟梁として新田官軍を率いて討幕運動に加わり、明治16年(1883)には男爵に列せられています。

一方、系譜を逆にたどると、新田義重の父は源義国で祖父は源義家という源氏の本流につながっているのです。
したがって、鎌倉幕府を開いた源頼朝、足利幕府を開いた足利尊氏は、新田家の一族なのですが、新田家だけが不運な道を辿ったのですが、家康が新田家の子孫となったことから、江戸幕府は、新田家の家系になるのです。

総持寺

総持寺は、二町四方(一辺約200㍍)の規模を有した惣領家クラスの新田館跡に建てられた寺で、別名を「館坊」といいます。

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居住者は、新田荘の立荘者で、新田一族の始祖である新田義重居館説、本宗家新田政義の失脚後一時期新田氏を代表した世良田頼氏(徳川義季の子)居館説、新田義貞居館説などがあるそうです。

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梵鐘(市重文)は、関東三大祭の一つ世良田祇園の宵宮に、普門寺の梵鐘と呼応して屋台の引きさがの合図に使用されていたものです。

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太田市歴史公園

太田市歴史公園は長楽寺・東照宮・資料館からなる公園で、新田荘遺跡の中心をなす施設です。

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長楽寺

長楽寺は、新田氏の祖新田義重の子、徳川(新田)義季を開基とし、日本臨済宗の祖栄西の高弟栄朝を開山として、承久3年(1221)に創建され、寺の正式名称は、世良田山真言院長楽寺といいます。

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鎌倉時代は、約6万坪の境内に塔頭寺院が軒を並べ、多くの学僧が兼学修行に励んだといわれます。
室町時代の初期に日本五山十刹の制度が成立すると、長楽寺は十刹の第7位になりました。しかし、新田氏の衰退とともに長楽寺も荒廃してしまったのです。

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長楽寺の開山栄朝をまつる『開山堂』には、中央には栄朝の塑像が安置されており、かつては伝徳川義季夫妻像等が安置されていたそうです。

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新田氏一族の慰霊塔、岩崎新田氏の累代の墓、歴代住職の墓などがあります。

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江戸時代建立と云われる県重要文化財の『太鼓門』は、文字通り太鼓が掛けられ、時報や行事等の合図に使用されていました。

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慶安4年(1651)3代将軍家光によって再造された県重要文化財の『三仏堂』は、過去・現在・未来を護持する三世仏が安置されています。

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江戸時代、天皇や幕府の使いが参向する時にだけ使われた県重要文化財の『勅使門』は、それ以外開かれなかったので、「あかずの門」とも呼ばれています。

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『勅使門』の前にあるのが『渡月橋と蓮池』で、蓮池は心という字をかたどって造られ、別名心字池と呼ばれています。
また、渡月橋北の池底が竜宮に通じているという不思議な伝説も残っているそうです。

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この後、長楽寺が再び隆盛を迎えるのは、江戸時代です。

世良田東照宮

『世良田東照宮』は、3代将軍家光のとき日光東照宮の大改築にあたり、天海によって旧奥社拝殿などが世良田に移されたものですが、それは、家康の先祖が新田家であることを由来しているのです。

『御黒門』は、江戸時代は、家康薨去日4月17日・正月17日に開扉されたそうです。また、地覆長押をまたいで参拝すると良縁が成就すると伝えられています。
左側には『番所』があります。

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“徳川家康公の先祖は、新田氏の始祖である義重から新田荘の内、当地「世良田」他5カ郷を譲り受けた子の義季である。義季は5カ郷内にある利根川沿いの押切を徳川と改称し、 徳川義季と称した。承久3年(1221)世良田郷を開発した義季は臨済宗長楽寺を開基し、世良田の義季とも称された。寛元4年(1246)頃、亡くなり同寺境内に葬られた。その後、頼氏・教氏・家時・満義と後継。 次の政義・親季・有親は、南北朝時代に南朝方として活躍したが、9代目の親氏に至り北朝の猛勢により徳川郷を追われ同志 や一族の居所を頼りに出国。諸国を流浪の後、松平郷に身をよせ郷主在原信重に入婿し、松平親氏と称した。 それから7代を経て家康公は誕生した。家康公は三河一国を統一した25歳の時、松平姓から 徳川・世良田を開発した徳川義季にあやかり、徳川に復姓した。
また松平家二代泰親は世良田三河守、同三代信光は世良田二郎三郎、同七代清康は世良田次郎三郎、家康公第四子忠吉は世良田下野守、尾張家三代綱誠は元服時に世良田、徳川七代将軍家継は幼名時に世良田鍋松君と先祖の姓である世良田を称していた。 ”(世良田東照宮より抜粋)

この由来が一応、正式な由来のようです。
しかしながら、この根拠を巡っては諸説なのですが、そのうちの一つが系図買い説です。

この当時の松平家康は、三河国の戦国大名で、ほぼ三河一国を手中に収めていた時期でした。
この地盤を固め、家臣団の統制をしていく上での自分自身の権威つけも必要であったのです。そこで朝廷に改姓の許しを得て、更にに従五位下三河守の叙任を受けて権威づけを行った。
この時に松平家康から徳川家康となったのですが、この改姓は家康個人だけに許されたものであったことです。
ここで重要なのは、まず改姓について先例のない申請に対して正親町天皇は躊躇したのですが、調査の結果、新田氏系得川氏が二流に分かれ、一方が「藤原姓」となったという先例が発見されたという理由で許されたことと 、松平一族が徳川に改姓したのではないことから、徳川の系譜自体が信憑性を感じられないという事です。
このことから系図買い説が生まれてきたのです。

いづれにせよ、新田義季が徳川家の祖であるという事となり、江戸時代の将軍家から新田家、および長楽寺も篤く庇護されることになったのです。

世良田東照宮境内の一の鳥居の先の拝殿は、遠目でも煌びやかな雰囲気がただよっています。

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拝殿前には前橋藩、川越藩、忍藩などから奉納された石灯籠が並んでおり、時の威光が窺えます。

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境内の右手にある社務所にお守りなどがあり、そこで拝観料を支払うと社殿域に入れます。

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その入り口が『徳利門番』で、徳利の重みで扉が開閉する仕組みである。

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徳利門番の前にあるのが『御供水井戸』で、お宮へお供えする水を汲み用いた井戸で、平成15年に再建されました。

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井戸の後ろにあるの『資料館』で、撮影はできませんが、重要文化財の太刀(刀身鎌倉末期了戒作・拵沃懸地銀装菊花紋散)御金幣、家康公の「御鎧召初式」に用いられた甲冑、三十六歌仙図(群馬県指定重要文化財)、神饌器具、狛犬、棟札など、貴重な宝物が展示されています。

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大きな『鉄灯籠』は、元和4年(1618)総社藩主秋元越中守長朝の命により造られた、高さ4.95mの当時では日本一大きい鉄燈籠で、明暦4年(1658)当宮へ奉納された重要文化財です。

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そして煌びやかな建物が『世良田東照宮』拝殿です。
寛永16年(1639)天海大僧正は徳川家康公から御下命されていた長楽寺を臨済宗から天台宗へ改宗復興し、三代将軍家光公は先祖の遺徳と当地方の守護神として、二代将軍秀忠公造営の日光東照宮奥社(神廟=多宝塔 ・唐門・拝殿)を移築。本殿は新築し、東照宮を勧請されたのです。
同21年(1644)10月11日には正遷宮が盛大に斎行され、同年12月には群馬県下の神社でも高禄の200石の御朱印が寄せられた。以後、大小15回による社殿の修復は幕府の財政により賄われて来、世に「お江戸見たけりゃ世良田へござれ・・・」と俗謡を生んだ建築物なのです。

日光東照宮奥社拝殿として元和年間(1615~1623) に造営され、寛永17年(1640)~同19年、この地に移された『拝殿』は、桃山時代の特色をよく表している重要文化財です。

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規模はそれほどではありませんが、煌びやかな彩色とすぐれた彫刻に目を奪われます。流石に日光東照宮だけのことはありますね。

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拝殿内には三十六歌仙が飾られています。

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拝殿の後ろには、拝殿移築時に日光東照宮奥社神廟前にあった門を移築した『唐門』に付随し透塀が本殿を一周しています。

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その『本殿』は、世良田東照宮が造営された時に建立されたものです。

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伝左甚五郎作、狩野探幽彩画の彫刻「巣籠りの鷹」がある重要文化財です。
家康公の嗜み(鷹狩り)をよく表した彫刻で、松の木に作られた巣に3羽のひな鳥が籠り、左右の親鳥が ひな鳥の育成を見守る家族愛を表しているそうです。

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境内には、ほかにも注目する見どころがあります。

東照宮が鎮座した際に神域を守るために作られた『南御門』。

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『普光庵跡』は、長楽寺の基礎を固めた名僧第5世月船海のために建てられた塔所です。

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長楽寺別院として鎌倉時代に境内に建立された真言院の儀式に用いるために設けられた『真言院井戸』。

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樹齢不明、根元周囲が4.40メートルの『群馬県一太いソメイヨシノ』

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古くから当地世良田に鎮座する開運、商売繁盛の『開運稲荷社』。 平成8年に再建されたものです。

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『日枝社』は、東照宮勧請時に日光山より移遷され、江戸時代は幕府により十数回の修理が行われ、平成25年に修理されました。

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太田市立新田荘歴史資料館

歴史公園の最後の施設が『新田荘歴史資料館』
昭和60年に開館した東毛歴史資料館を名称変更して平成21年4月にリニューアルオープンされたもの。

資料館の前庭には、可愛らしい埴輪の出迎えがあります。

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そして資料館とその前にある銅像が悲劇のヒーロー『新田義貞像』。

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展示は古代から現代までですが、特に中世の新田一族の資料などには貴重な展示物があります。

また、興味深いのは『新田猫絵』
この猫絵は、「八方睨みの猫」「新田猫」と呼ばれ、養蚕飼育には大敵であるネズミを駆除する魔除けとして信仰されました。
これは“新田の殿様”として知られた、新田岩松氏の4代の当主が描いたもので、関東一円に残されています。

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一度は必見の歴史公園でした。

満徳寺

江戸時代、時宗の尼寺であった徳川満徳寺は、鎌倉の東慶寺と並んで縁切寺として著名でした。
男女差別が厳しかった当時にあって、不法な夫(男性)から妻(女性)を救済するという縁切りの特権が認められた、いわゆるアジール(避難所)は、満徳寺と東慶寺の世界に二つしか存在しませんでした。

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世界に二つの東慶寺と満徳寺が、江戸時代を通じて縁切寺として存在しえたのは、徳川家康の孫娘千姫にかかわる由緒によります。
東慶寺は、千姫が助命をかなえた豊臣秀頼の娘天秀尼(二十代住職)の入寺にあたって、家康から縁切寺の制度を特別に許可されました。
満徳寺は、千姫自身が入寺し、離婚後再婚した例にならって、両寺とも古くからの縁切寺法の特権が再確認されたと伝えられています。
満徳寺は、徳川氏発祥の地にあり、徳川氏の先祖が建立した寺であり、千姫が満徳寺に入寺したことにより、さらにこの由緒が強調され、寺格を高めることとになったのいです。

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満徳寺は檀家を持たず、徳川家の庇護にのみ依存していたので、明治維新を迎え、江戸幕府が瓦解するとともに、明治5年(1872)に廃寺を余儀なくされました。
もう一つの縁切寺である鎌倉東慶寺が、最後の尼僧が逝去した後も、男僧の寺として存続しているのと相違します。
その後の満徳寺は、本尊・位牌類を維持管理しながら、『満徳寺遺跡公園』として。当時の満徳寺を復元しているのです。

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境内の牡丹園も丁度見頃でした。

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『満徳寺資料館』は、満徳寺に残った本尊や開山上人座像、歴代将軍の位脾、御朱印状などを展示しています。

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面白いのが資料館内の“縁切・縁結厠”です。
右の白が縁切り用、左の黒が縁結び用で、縁切札・縁結札をそれぞれに流して、白黒をはっきりさせて、自分の人生を一歩前進させていただきたいとの意味が込められているのだそうです。

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何年か後には公園には、更に多くの建造物が立っている事でしょう。

徳川家発祥の地は、極めて興味深い歴史の残る町でした。

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2015.06.14記
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