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増上寺から移築された三門の文化財を見学し、本堂を参拝すると概ね境内の半分です。
後編は、境内の東半分を散策します。

弁天堂

本堂の横の石段を上がると『弁天堂』が見えてきます。

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それなりの由緒の有りそうな弁天堂です。

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この弁天堂は滋賀県彦根市古沢町の清凉寺にあった経蔵で、井伊直孝の息女が直孝の追善供養の為に建立したものです。
1659~1693年の間に建てられたと推定され、1948年に移築され弁天堂になったものです。
祀られた弁財天は上野不忍池弁天堂の本尊から勧請されたもので、このあたりにも西武グループの力を感じます。

弁天堂の脇には1つの燈籠といくつかの石仏があります。

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その中の燈籠には「増上寺 桂昌院殿」と記載されています。

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桂昌院は、3代将軍・徳川家光の側室で5代将軍・綱吉の生母で、この石灯籠も増上寺から移築されたものなのです。

鐘楼堂

弁天堂の手前にあるのが『鐘楼堂』。

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元々は奈良県の興福寺から京都府の高田寺鐘楼として移築され、それを再移築したのもです。

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元々興福寺にあったということから、それなりの由緒があったのもかもしれませんが、この鐘楼堂がどのような経緯でここに移されたのかは不詳ですが、明治期の廃仏毀釈の影響で興福寺も一時は廃寺寸前にまで追い込まれた歴史があったので、そのあたりに理由があるのかもしれませんね。
全くの推測ですが。

どちらかと云えばあまり装飾もない素朴で質素な鐘楼堂ですが、「山寺の春の夕ぐれ来て見れば 入相の鐘に花ぞ散りぬる」と寂然法師の歌が掲げられているのが目を引きます。

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狭山不動尊では、鐘はこの世の中で一番大切な宝物・文化財として昔竜宮城から人間の世界へ持って来たと考えており、鐘の音が、すべての善神を招いて、すべての悪魔を追放するものと考え、志によりいつでも鐘をついて良いとしています。
そう言った鐘を象徴した唄が掲げられているようですが、梵鐘が竜宮城からやって来たものだとは、初めて知りました。

大黒堂

鐘楼堂の左手の一段高いところにあるのが『大黒堂』。

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この堂宇は、柿本人麿所縁の地である奈良極楽寺境内に建立されていた人麿の歌塚堂で、当時の歌人たちが歌会を開いた堂宇と伝えられています。
昭和38年にこの地に移転され、大黒天を祀った大黒堂となったのです。
祀られた大黒天も上野寛永寺参内の見明院に奉安されたものを遷座したのもだそうです。

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先の弁天堂同様に別の意味での西武グループのパワースポットと云えるかもしれません。

羅漢堂

大黒堂の右手にある石段を上ると由緒ありげな『羅漢堂山門』があります。

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見た目は意外と質素ですが、やはり葵の紋が目を引き付けます。

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この羅漢堂山門は、昭和29年に虎ノ門の元田中平八邸から移築した門です。
田中平八とは、明治期の実業家で生糸・為替・洋銀・米相場で巨利を得て“天下の糸平”と呼ばれた豪商です。
没後、墨田区の木母寺に伊藤博文の揮毫による「天下之糸平」の石碑が建立されたほど、名声があったのは確かですが、それにしても門の葵紋は解せませんね。
“天下の糸平”と呼ばれた頃は江戸時代末期の慶應年間ですが、すでに徳川家の力はない頃です。しかも糸平の若い頃は“天狗党の乱”に加わったほどの尊王攘夷派ですから、徳川家の威光をありがたがるとも思えませんし。。。 

羅漢堂山門があれば羅漢堂があるのですが、残念ながら囲いがあって中には入れません。

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しかし囲いの隙間から除くと、境内随一ではないかと思われる景観を目の当たりにします。

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このずらりと並んだ灯籠は『唐金灯籠』で、やはり芝増上寺の台徳院(秀忠)霊廟に建てられたもので、全国の大名から献納されたものです。
重厚感、バランス見事な光景に時の立つのも忘れそうです。

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そして中央にあるのが『羅漢堂』です。

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明治の元勲井上馨が還暦祝賀の際に、明治天皇・皇后からの下賜金を基として明治28年内務大臣の時、井上馨邸内に建立されたものです。
発起人が山縣有朋・伊藤博文・大隈重信等で、三井・鴻池・住友・岩崎その他の財界の名士により寿象と共に奈良二月堂の経堂を模倣し、名工根本茂樹によって造られたものだそうです。
その後、昭和20年の戦災でこの堂宇だけが残ったため、当時の当主井上三郎氏が寄贈し、ここに移築されたのです。

銅板葺きの構造が唐金灯籠とよく合っています。

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いずれにしても門、燈籠、本堂と各地から由緒あるパーツを集めた見ごたえのある羅漢堂なのです。

第二多宝塔

大黒堂や羅漢堂のあるエリアの左側の一角にあるのが『第二多宝塔』。

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室町時代中期の1535年、兵庫県東條町天神の椅鹿寺に播磨国守護赤松満男教康が建立したものだそうです。

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赤松教康とは、室町時代中期の武将で、父赤松満祐と共に室町幕府6代将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱の中心的な人物で、後の応仁の乱にも深く関わるなど戦国時代の到来の一因を作った人物なのです。

史実から見ても戦国時代到来を偲ばせるような多宝塔と云えば聞こえが良すぎるでしょうか。

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康信寺

第二多宝塔の左手にあるのが『康信寺』。

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元々この堂宇はユネスコ村の時代に孔子廟として建立されたものだそうです。

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論語の中にある孔子の徳を仰ぎ見るという意味の“仰高”の扁額が当時をしのばせます。
しかし、ユネスコ村無き後の仏教寺に孔子廟はおかしいとのことで、“清浄院釈康信”という堤康次郎の戒名から康信寺と命名されたのです。
当時は、孔子・孟子・子思子の3聖像があったそうですが、現在は寺内に安置されているものと思われます。

桜井門

第二多宝塔と康信寺の前の参道を進むと両側にずらっと石灯籠が並んでいます。

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今まで見てきた石灯籠と同様、芝増上寺から移転された石灯籠群です。
主には清揚院宛が多いようで、両側に対のものとして残されているのもあるようです。
ここだけでも十分重厚感が漂います。

石灯籠の先にある門が『桜井門』。

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この門は奈良県十津川の桜井寺の山門として建立されたものだそうですが、桜井寺は幕末天誅組本陣として利用されたこともある歴史ある寺院です。
天誅組とは、江戸時代の末期の尊王攘夷志士の一派で五條の変を起こしたのですが、1か月余りで壊滅した組織でした。

以上、見てきたように『狭山不動尊』は、寺院自体の由緒はわずかながら、堂宇を参拝するだけで歴史や文化財としての価値を見出すことのできる仏閣の見本市のようなものです。
西武ライオンズの必勝祈願寺として名高いことから、初詣にも多くの参拝客があるそうですが、一度、「お寺の明治村」を訪ねてみてはいかがでしょうかね。

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2016.02.14記

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1975(昭和50)年に建立された『狭山不動尊』の歴史は、寺院としては大変新しい部類です。
それでありながら境内の伽藍にはいくつかの文化財や歴史ある堂宇がひしめいている摩訶不思議な寺院で、さしずめ愛知県にある“明治村”のお寺版と云っても過言ではないほどです。
一体、どうしてこのような寺院が存在するのか、そのキーワードが《増上寺と西武ライオンズ》なのです。

狭山不動尊の歴史

『狭山不動尊』の正式名称は「狭山山不動寺」です。実にストレートな名称は、味気ないと共にある意味昭和世代の合理性かもしれません。
そして何よりも重要なポイントが開基が堤義明氏であること。ご存じの通り堤義明氏は、西武鉄道グループの元オーナーで、父は西武グループを一代で築き上げた堤康次郎氏、兄は元西武百貨店会長・小説家の堤清二氏です。

話は太平洋戦争前の時代に遡ります。
創建は不詳ながら現在の芝増上寺は、室町時代の1393年に、当時現在の麹町あたりにあった光明寺が浄土宗に改宗した時が実質的な開基と云われています。
そして入府の折に増上寺前を通りかかった家康が、当時の上人と対面したのがきっかけとなり、その後、増上寺は徳川家の菩提寺として繁栄し広大な境内を有することとなったのです。

当時の境内を見ると一目瞭然ですが、中央にあるのが現在の本堂で、左側に2代将軍・台徳院(秀忠)とその妻・崇源院(江))が埋葬されている「南御霊屋」、右側が家宣、家継、家重、家慶、家茂が葬られていた「北御霊屋」です。

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明治時代になると徳川幕府の崩壊と明治維新後の神仏分離の影響により規模は縮小し、境内の内の広範囲が芝公園となったのです。
それでも太平洋戦争前には、台徳院(秀忠)霊廟、崇源院(江夫人)霊牌所、文昭院(家宣)霊廟、有章院(家継)霊廟が旧国宝(建造物)に指定されており、その壮大さは日光東照宮に引けを取らないものだったのです。

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しかし、太平洋戦争で昭和20年の2度の空襲により、本堂をはじめとして北廟68棟、南廟28棟が被災し、その建造物のほとんどを焼失しました。
多大なる被災により増上寺の再建は極めて困難となり、その再建に尽力したのが当時堤康次郎氏率いる西武グループで南北御霊屋を西武グルーブに売却したのです。
この売却に先立ち霊廟に祀られていた遺体は、昭和33年(1958年)調査発掘され、その後桐ヶ谷斎場にて火葬された後、現在の増上寺安国殿裏手の徳川家墓所に埋葬されたのです。
そして、かつての南御霊屋には1964年の東京オリンピックに合わせて東京プリンスホテルが建てられ、北御霊屋は芝ゴルフ場、芝ボーリング場などのエンタテイメント施設が造られたのですが、後に芝ゴルフ場、芝ボーリング場は廃止となり、現在のザ・プリンスパークタワー東京となっています。

この時戦災をまぬがれて、かろうじて残った建物群がありました。
台徳院霊廟の門4棟と有章院霊廟二天門、文昭院霊廟奥院中門(鋳抜門)、そして崇源院霊牌所の一部だけが残っていたのです。
そこで堤氏は文化財保存の意味をこめて、これらの焼け残った建造物を移築したのです。
台徳院霊廟の惣門は、ザ・プリンスパークタワー東京内に、有章院霊廟 二天門は東京プリンスホテル内に残されたのですが、台徳院霊廟の残りの勅額門、丁字門、御成門3棟と増上寺にあった燈籠などが、1951年に西武が開いた遊園地《ユネスコ村》のあった所沢に移築されたのです。因みに崇源院霊牌所の一部の唐門は、鎌倉の建長寺に移築されました。
遊園地とは云ってもユネスコ村は、現在の東武ワールドスクエアのような世界各国の建物を集めた当時としては画期的なテーマパークで、その日本の代表的な建造物として先の3門が移され、同時に文化財保護のために保存されたのです。
そしてユネスコ村の一角に昭和50年狭山不動尊が建立され、当時のユネスコ村はその後、廃止され現在はユリ園になっています。

狭山不動尊の境内

ユネスコ村にあった建造物が、どのような経過で狭山不動尊の建立に結びついたのかは分かりませんが、当時の西武鉄道グループのオーナー堤義明氏が、親しかった上野寛永寺の助力により天台宗別格本山として建立されたのです。
そしてこの建立に当たって、先の3門以外にも境内の堂宇がほとんど移築されたものであったのが、現在に至っており、これが狭山不動尊が寺版“明治村”と呼ばれる所以なのです。

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そしてユネスコ村の前に1963年に竣工したアマチュア野球用の《西武園球場》を立て直し、1979年にできたのが現在の西武ドーム球場で、現在、西武ライオンズの必勝祈願の寺院として知られています。

勅額門

狭山不動尊の山門とも云えるのが『勅額門』で、西武ドーム球場の目と鼻の先にあります。

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この『勅額門』が、先の増上寺からい移築された三門の内の一門です。
『勅額門』は、増上寺の台徳院(徳川秀忠)廟に建立されていたもので、寛永9(1632)年、孝養報恩の志をのべたいと三代将軍徳川家光が建てたものです。
構造は、江戸時代初期の四脚門で切妻造り銅板葺きで、「台徳院」と書かれた額が、後水尾天皇の筆によるものなので勅願門という名前であり、現在は《旧台徳院霊廟勅額門》として重要文化財に指定されています。

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大分、老朽化して色柄も多少褪せていますが、往時の絢爛さを偲ぶには十分でしょう。

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勅額門の隣にあるのが『ご神木』。

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イチョウの木ですが、江戸城を築いた太田道灌が構えていた城山城跡にあったもので、江戸時代から崇敬され、関東大震災時に、この大樹の下で多くの人々が難を逃れた名木です。
区画整理の際、樹齢500年の大木を伐採せず、社会科の教材としてここに移植して保存されているのです。

御成門

勅額門を抜けて石段を上がると『御成門』があります。
これも三門の内の一つで、こちらも《旧台徳院霊廟御成門》として重要文化財です。

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勅額門と同じ寛永9(1632)年に家光により台徳院(徳川秀忠)廟に建てられたもので、こちらは飛天の彫刻や絵画が描かれているのが特徴で、格天井の中央に丸い鏡天井が設けられており朝鮮渡来の天人門と云われているそうです。

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不動寺本堂

御成門前から左手に進むと不動寺本堂となりますが、その前には不動寺の『総門』が鎮座しています。

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直線を組み合わせた総けやきで作られた総門は、長州藩主毛利家の江戸屋敷に建てられていた門を移築したものです。
武家屋敷の門にふさわしい質実剛健、威風堂々たる姿です。

その奥が『不動寺本堂』です。

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この本堂、よく見ると結構新しくきれいです。
元々、本堂は京都東本願寺から移築された七間堂でしたが、不審火で焼失し2001年に再建されたものなので新しいのです。

目を引くのがそのご利益の多さで、本尊の不動明王のご利益がこれほどまでとは。。。

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新しい本堂ながら、その本堂をぐるりと囲う石灯籠は年代ものです。

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それもそのはずで、周囲の石灯籠はすべて三門と一緒に増上寺から移設したものだからなのです。

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「清揚院」とは、甲斐甲府藩主徳川綱重のことで、三代将軍家光の三男ですから五代将軍綱吉の兄で、六代将軍家宣の父です。
宝永7(1710)年9月14日と刻まれており、綱重が亡くなったのが1678年9月14日ですから33回忌の折に奉納されたのもののようです。
このように本堂の周りには清揚院の石灯籠9基の他、桂昌院(3代将軍家光の側室・5代将軍綱吉の生母)が10基、文昭院(6代将軍家宣)が7基、そして惇信院(9代将軍家重)が1基、計27基の石灯籠が配置されているのです。

増上寺には、大名寄進の石灯籠が最多時1000基を超えたと云われ、天災・空襲などで相当数が破損・消滅したものの大半が現在の西武ドーム球場付近に運ばれたのです。
その後、1977年までに計641基を寄進の形で移設し、ここから先の寄進先は、北は北海道、南は静岡まで多岐にわたっていますが、プライバシーの問題と再移転もあり西武側からの寄進先の公表はされないままです。
港区教育委員会の独自調査によれば460基が確認され、愛好家の調査では500基以上の所在が確認されたと云われています。

ある意味では、増上寺の土地取得においてのキナ臭い話もありますが、600基以上の石灯籠を壊すことなく、兎にも角にも500基以上の文化財とも云える石灯籠が残っているのですが、西武様々と云えなくもないでしょう。

第一多宝塔

本堂の右手にあるのが『第一多宝塔』。

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弘治元(1555)年大阪府高槻市梶原にある畠山神社に建てられていたもので、美濃国の林丹波守が建立したと伝承されています。
慶長2(1607)年の墨書がある桃山時代の建物で、埼玉県の有形文化財に指定されています。

この多宝塔の前にある2基の石灯籠は、「台徳院」つまり二代将軍秀忠の霊廟に寄進されたものです。

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多宝塔の後ろにあるのが『桂昌院宝塔』で、増上寺から移設されたものです。ただし、現在の墓所は増上寺で、ここにあるのは塔のみという事になります。

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丁子門

本堂の裏手にあるのが、三門の内の最後の一門である『丁子門』。

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二代将軍秀忠の正室で、三代将軍家光の生母である崇源院(江)の廟所である崇源院霊牌所の通用門です。
他の三門とおなじ寛永9年に家光が建立したもので、極彩色の彩色と彫刻が見事で重要文化財です。

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その先には書院『清明閣』があります。

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これはは開山後の昭和52(1977)年に建てられたもので、狭山不動尊で数少ない新築の建造物です。
とはいっても30年が経過していますので、それなりの風格はあるようです。

狭山不動尊の知られざる歴史は後半につづきます。

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2016.02.06記(後編につづく)


はじめに

「所沢の焼き団子」は、ジャンルCで5,856票を獲得し、第7位にランキングされました。

所沢の街並みの中に、香ばしい匂いを漂わせる焼だんご。由来は定かでないが、一説では太田道濯が江戸城を建築中、武蔵野でのタカ狩りの帰途、所沢に立ち寄った際に地元の人がだんごを焼いたのが始まりといわれる。
一方、300年余りの伝統を持つ「三・八の市」で、近在の農家が有り合わせの米の粉をだんごにして露店で売ったのがだんご屋になったらしいとの説も。
こねた米粉を直径3cmほどに丸めてふかし、竹の串に4個ずつ刺して炭火で焼き、生醤油につけて仕上げるのが伝統。
(本書より)

前回の「武井武」に引き続き、またまた難題です。
まあ、手っ取り早く“団子”を食べてちょこちょこっと記事を書くという手もあるのですが、今までの流れからここだけ手を抜くのは性格的にできないことから、何か散策のテーマを考えることにしたのです。
所沢の焼き団子
所沢観光協会で調べたところ所沢は「航空発祥の地」だそうで、これはそそられるテーマだとばかりに“航空散策”しながら団子を食らうという一見何のつながりもない様に思えるテーマですが、それはそれ、これはこれとばかりにこじつければ良いことです(汗)

折角の散策ですから飛行機見て、団子食って、だけではない“らしい”コースをということで、今回は結構事前調査に時間をかけました。
そこで考えたポイントが、1.航空・飛行機・人物など、2.飛行機にまつわる地域・建造物・史蹟、3.飛行機とグルメをなのです。
それを更にコース化すると、航空公園駅-航空発祥記念館-航空公園-旭橋-縁の和菓子店・料理店-所澤神明社-所沢焼き団子(1)-新光寺-ファルマン通り-所沢焼き団子(2)-所沢プロペ-所沢駅というコースが浮かび上がってきたのです。
と、言ったものの観光協会にあったお勧めルートという声も無いことも無いのですが、それは。。。
特に航空発祥記念館では、なんと現存する唯一の飛行できる“零戦”がアメリカから来日し展示中という、ビッグイベントも開催中のようで、またとない散策日和となりました。
航空発祥記念館の零戦
2013年新春第2回目の散策はこうして所沢に決定したのです。

年も明けた2013年1月12日(土)、天気の良い3連休の初日に所沢へ出かけました。
前回の与野七福神巡りを車でサクッと終わらせ、更に正月休みでたっぷりリバウンドした身体を元に戻すためにあえて電車で行くとにしたのです。
しかしながら、以前の川越のように埼玉県の東西の電車連絡は非常に悪いのでうんざりするところもあります。
いつもの様にニューシャトルで大宮駅にでてから、JR埼京線で武蔵浦和駅、JR武蔵野線で新秋津駅、新秋津駅から徒歩で西武池袋線の秋津駅、更に秋津駅から所沢駅、そして西武池袋線所沢駅から西武新宿線航空公園駅といった具合に、4つの乗換えで約1時間半かかって航空公園に到着というありさまです。
それでも真っ青な空の下での散策は、実に気持ちの良いものとなりそうです。

所沢地図所沢市オフィシャルサイト】http://www.city.tokorozawa.saitama.jp/
所沢市観光協会】http://www.tokoro-kankou.jp/

(つづく)


埼玉県所沢市有楽町13-8  2013.01.12訪問訪問

店舗概要

所沢散策の1ヶ所として立ち寄ったのですが、当初は“割烹”と名の付くとおりフォール大佐御用達という由緒だけの散策のつもりでした。
所沢は明治44(1911)年の100年前に初の飛行場が完成し、日本で最初の飛行機が飛び立った“飛行機発祥の地”なのです。
その初飛行に先立つ30年ほど前の明治15(1882)年に創業した130年の歴史を持つ割烹なのです。
当時この飛行場で飛行指導にあたったフランス将校や陸軍航空隊御用達の料亭でしたが、およそ50年ほど前からは一般の庶民も入れるようになり、2年ほど前からランチも始めたのだそうです。

店舗内外観

狭い路地を歩いていくと「美好」と書かれたアーチが見て取れます。
美好
その右にある落ち着いた佇まいの和風なつくりの料亭が「美好」ですが、建て直されたのか料亭、料亭した雰囲気ではなく、比較的カジュアルな感じを受けるエントランスです。
美好 美好 美好
中に入っても近代的なつくりなのか、畏まって入る必要もないようです。
美好
帳場には古い写真が飾られています。
古写真
こちらは創業当時の写真ですが、どうやら創業時は西洋料理の店「美好軒」としてオープンしたようです。それ故に外国人たちの御用達になっていたのでしょう。
古写真
こちらにはそのフォール大佐らの写真が飾られています。
古写真
そして湯川秀喜博士や新渡戸稲造など多くの著名人が訪れていたのです。
古写真
料亭なので基本的には座敷ですが、左手の一画がテーブル席になっています。
座敷 テーブル席
窓にはこのようなオブジェもあり、料亭ながら西洋風の雰囲気も醸し出しています。
オブジェ オブジェ
中庭は日本庭園となっており、実に風情の良い佇まいで、まさに料亭の為せる業といえるでしょう。
中庭
注目は庭にある立派な松の木です。
松の老木
大女将(であろう・・・)によるとこの松の木、飛行場よりも、美好よりも古い樹齢200年位の松だそうです。以前は少し離れたところに16本あったのですが、大戦の空襲で殆どが焼けてしまい、残った松の木をここに移植したのだそうです。
所沢を見つめて来た歴史ある松の木なのです。

メインメニュー

料亭のラーメンセット 【料亭のラーメンセット】1,260円
ごまだれ豆腐、厚焼玉子、ご飯、香の物、もみじおろし付

感想

オーダーには悩みました。 やはり歴史を重視した西洋料理の中の「フォールカツレツ」は由緒あるメニューでしょう。
洋食メニュー
しかし、現実的にはこちらの「旬なカキフライ定食」にもそそられます。
旬のカキフライ定食
ということで決めかねてたのですが「拝啓 暑いっちゃラーメン、寒いっちゃラーメン・・・ 敬具」「世界に1つの料亭ラーメン」のコピーに惹かれ、結局“料亭のラーメンセット”となったのです。
広告屋ながら、今更ながらに“キャッチコピー”の重要性を認識させられたのは言うまでも無いことです。
更にコピーはこのように記載されています。
メニューコピー
この「ルイボスティー」とは、南アフリカ産の健康茶のことで、ノンカフェイン・低タンニン・坑酸化作用で美容・健康に良いお茶なのだそうです。
ここで今回1回食したところで健康に効くわけではないでしょうが、結構最近注目されている健康茶だそうなので、そこに目をつけたところにマーチャンダイジングの鋭さを感じます。
その麺がこちらの茶色の麺となっているのですが、僅かながら漂う茶の香が清涼感を醸し出し食欲をそそります。
ルイボスティー麺
そして白濁したスープは動物系の脂ではなく、酢の色なのだそうです。
白濁酢スープ
したがって“スーラー”ほどの強烈な酸味はなく、軽い酸味に香ばしいゴマの香りがマッチして、サッパリした中にコクが広がっています。
そして更にコクを出しているのが、チャーシューならぬ鶏の唐揚げです。
あえてスープでぐずぐずにならないよう衣が硬めに揚げられていて、サクッとした食感もまた嬉しいトッピングです。
そしてワカメ・ネギ・カイワレ・なると・ニンジンといったトッピングは味と見た目にこだわった料亭ならではのラーメンといえるかもしれません。
サッパリした味わいも良いのですが、紅葉おろしを入れてピリ辛で食べるのもまた2度美味しいです。 これも料亭でなければ考えない薬味でしょう、意外と合うものですね。
付け合せは、まあ料亭としてのご愛嬌ですが、玉子焼きがポテトサラダに変わってしまっているのは、ちょっと残念ですが、大人の事情というものしょう。
ご飯もついているので、よほどでなければ若い方でも足りるボリュームです。
病み付きになるというものではありませんが、話題性とレア感で一度食してみるのも悪くないない美味しさのラーメンで、随所に料亭らしい趣を感じさせるラーメンセットでした。
大女将、若女将、そして仲居さんがそれぞれ気さくで、説明を頂いたり感想を聞かれたりとなかなか料亭とは思えないフレンドリーな対応で、老舗料亭といえども敷居が低く、そして腰も低いなかなか素敵な料亭でした。
次はやはり洋食を食べてみたいですね。

2013.01.13記

第12回 国際バラとガーデニングショウ 開催概要

世界有数の"バラ"と"ガーデニング"の華麗な祭典
国際バラとガーデニングショウ組織委員会(毎日新聞社/NHK/スポーツニッポン新聞社)は、世界のバラと美しいガーデニングをご紹介する国内最大規模の祭典「国際バラとガーデニングショウ」を1999年以降、毎年開催しています。
この催しは、バラとガーデニングが持つさまざまな魅力をご紹介しながら、新しいライフスタイルを多くの人々にご提案し、自然と共生しながら、新しい文化の魅力を再発見していただくことを目的としており、海外からもユニークなイベントとして高い評価を受けています。
会場の構成は、その回毎のテーマにふさわしいシンボルゾーンを中心にガーデンデザイナーによる新たな庭造りの提案や、世界のナーサリーのすばらしいバラたちのご紹介、またはバラの魅力に惹きつけられその世界で淡々とまたは情熱的に活動をされている方々の作品またはその人となりを展示展開しております。他にもガーデンマーケット、フローラルステージでのイベントプログラム、そしてプロ・アマを問わず募集しているバラとガーデンコンテストの展示など、盛りだくさんです。
会期中は約100万輪のバラの花と芳しい香がご来場の皆様をお迎えいたします。(オフィシャル委員会より)

■名  称:第12回 国際バラとガーデニングショウ(International Roses & Gardening Show 2010)
■会  場:西武ドーム [展示面積:13000㎡]
■会  期:2010年5月12日(水)~17日(月)
■主  催:国際バラとガーデニングショウ組織委員会(毎日新聞社/NHK/スポーツニッポン新聞社)
■共  催:(財)日本ばら会 
■後  援:外務省、農林水産省、国土交通省、(財)国際花と緑の博覧会記念協会、駐日英国大使館 貿易・対英投資部、オランダ王国大使館 農業・自然・食品安全部、ブルガリア共和国大使館、埼玉県、所沢市、さいたま市、川越市、川口市、秩父市、飯能市、狭山市、鴻巣市、深谷市、入間市、新座市、日高市、横瀬町、立川市、昭島市、小平市、東村山市、西東京市、東大和市、清瀬市、東久留米市、英国王立園芸協会日本支部(RHSJ)、RHSJコンテナガーデニング協会、日本ハンギングバスケット協会、(社)日本造園学会、(社)ランドスケープコンサルタンツ協会、(財)都市緑化基金、プリンスホテル
■協  力:(財)日本花普及センター、(社)日本家庭園芸普及協会、(社)日本植木協会、(社)日本施設園芸協会、(社)日本造園建設業協会、(社)日本造園組合連合会、(社)日本種苗協会、家庭園芸肥料・用土協議会、日本園芸商協会、サンケイリビング新聞社、日本ばら切花協会、コピーライツアジア
■協賛社:ピーロート・ジャパン、ハイポネックス ジャパン、アサヒビール株式会社、日本航空、青山、崎陽軒、京樽、ベネッセコーポレーション、伊藤園、ホーチキ、赤城自然園
■企画運営:NHKエデュケーショナル、NHKアート、西武鉄道




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