バス比較サイト『Bus sagasu』で、“新訂 旅と歴史”の記事を掲載して戴きました。

文京区にある「東洋文庫ミュージアム」は、東洋文庫の美術館。とはいっても、中途半端な美術館ではありません。
国宝や重文の書籍などが手に取るように眺められ、各国の東方見聞録やシーボルトのNIPPONなど、貴重な西洋書籍も盛りたくさん。
また、解体新書やターヘルアナトミアの原本といった、まさか日本で見られるとは思いもしなかった驚きの蔵書も。
そして圧巻は、約24000冊を収蔵するモリソン文庫の本棚!
そのほかにも楽しい仕掛けや、小岩井農場のカフェといったグルメもあっていう事なし。
とにかく一度見て頂くと、その凄さがわかりますよ。

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ご一読願えたら幸いです。

怒涛の24000冊!新デートスポット文京区「東洋文庫ミュージアム」

2015.09.10掲載
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旅のサイト【たびねす】に掲載された『東京大学でハチ公に再会!全米が涙した愛情物語のあるべき姿がここに』のフルバージョンです。 概要は記事をご参照ください。

東京大学ストーリー

東京大学の起源は、1684年に江戸幕府が設立した天文方と、1858年に江戸の医者の私財によって設立された神田お玉ヶ池種痘所、そして1797年に創設された昌平坂学問所です。
明治になり、これら江戸幕府直轄の3つの教育機関が、明治元年に開成学校、医学校、昌平学校として復興しました。
この3つの機関がのちに、東京開成学校と東京医学校となり、1877年にこの2つの学校が合併して『東京大学』となったのです。
校名に“大学”の名称を付けたのは日本で初めての学校でしたが、学士の学位を授与する機関としては、札幌農学校(現・北海道大学)についで2番目なのです。

東大の門は歴史への入り口

この東大の設立される前からあったのが、現在、東大の俗称ともなっている『赤門』です。
赤門は、旧加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門で、1827年に第12代藩主前田斉泰が第11代将軍徳川家斉の第21女、溶姫を迎える際に造られたもので、現在は重要文化財となっています。

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全国的に有名な赤門ですが、『正門』ではありません。
その正門は、赤門の並びの本郷通り沿いにあり、築地本願寺の設計で知られる伊東忠太により、1912年に完成されたもので、こちらは登録有形文化財です。

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それ以外にも東大には多くの門があります。
東大医学部の代名詞になっている『鉄門』、旧前田家邸宅であった煉瓦造りの懐徳館の遺構を使用した『懐徳門』、周辺の町の門の意匠を取り入れた『西片門』などは歴史を背景とした門の数々です。
また、本郷キャンパスの隣にある農学部にな『農正門』等があり、門を辿るだけでも、興味深い散策なのです。

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校舎は中世ヨーロッパ浪漫

キャンパス内に入ると、歴史とその構造に目をひかれる校舎が点在しています。
正門からのペーブメントの先に聳えているのが東大のシンボルと云われる『東京大学大講堂』で、東京都の登録有形文化財第1号で、安田財閥の創始者・安田善次郎の寄付によることから、通称「安田講堂」と呼ばれています。

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全国的に知れ渡ったのは1967年の東大紛争によるTV中継で、その後、長い間荒廃状態でしたが、1991年より使用され、1996年に国の登録有形文化財となりました。

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この安田講堂は、東京大学建築学科の建築家で、後に総長となる内田祥三氏が基本設計を行ったもので、関東大震災後のキャンパス計画により、キャンパス内の多くの建造物を手掛けているのです。

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キャンパス内にある内田設計の中でも、『法文1号館』をはじめとして登録有形文化財に登録されています。

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これらの数多く存在している建造物に共通する特徴が“ゴシック様式”であることです。
これらの建造物を総称して“内田ゴシック”と呼び、中世フランスにタイムスリップしたかのようなヨーロッパ美と中世浪漫に包まれているのです。

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建物以外の建築物もクラシックな雰囲気を醸し出しています。
Daiwaユビキタス学術研究館や弥生会館などは、近代的な建築物でありながら、キャンパスの景観に見事にマッチしています。

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自然と文学に彩られたオアシス

キャンパスのなかで一番古い歴史を誇っているのが『三四郎池』です。

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加賀藩前田家が、大阪夏の陣後に現在の東京大学(一部)およびその周辺地を将軍家から賜り、1629年、前田家3代藩主利常の時に御殿と共に庭園が整備されました。
この庭園が“育徳園”と呼ばれ、その後の補修により、江戸諸侯邸の庭園中第一と称せられたのです。そして池の形が「心」という字をかたどっていたことから、“育徳園心字池”と正式に名づけられたのです。
後に夏目漱石の小説“三四郎”の作中で、三四郎と美禰子が出会った場所が、ここ育徳園心字池であったことから、以来、この作品にちなんで三四郎池と呼ばれるようになったのです。

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緑多いキャンパスのなかでも、特にここは緑濃い場所で、開発の進むキャンパス内にあっても、その歴史的価値と共に、癒し空間として貴重な存在なのです。
ここからは、ほとんどキャンパスの建物も見えませんし、都会にありながら騒音もほとんど聞こえないまさに都会のオアシスなのです。

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すっかり子ども達の遊び場となって、庶民の癒しの場になっている三四郎池なのです。

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ハチ公と博士の再会の農学部

農学部のある弥生キャンパスに2015年3月に建立されたのが『ハチ公と上野英三郎博士像』です。

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生粋の秋田犬として東大農学部教授上野栄三郎博士のところにやってきたのが1924年1月です。身体の弱かったハチを大変可愛がり、当時の農学部のあった駒場や渋谷駅にいつも送り迎えをされていたのです。
1925年5月、博士が大学で急死したのは、ハチが博士に飼われてから17か月の時で、その後、朝夕渋谷駅に博士の姿を求め続けたハチはご存知の通りです。
この美談によって作られたのが渋谷駅の忠犬ハチ公の銅像で、戦争による金属供出されたため、現在は2代目です。これは恩を忘れぬ犬として戦前の修身教育に利用されたものであることから、東大の像は、ハチ公が再び博士と会えた本来の姿である、喜びを表しているのです。

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銅像の前には“農学資料館”があり、農学部の様々な功績が展示されているのですが、この資料館の中には、上野博士の銅像と共に、ハチ公の“脾臓・心臓・肺・肝臓”が残され展示されているのです。

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まさに、ハチ公と博士の90年ぶりの再会に相応しい場所なのです。

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キャンパスは見どころ満載の名所

まだまだ見どころの多い東大です。
キャンパス内には、東大に貢献した工学博士・古市公威像やジョサイヤ・コンドル像などが立てられています。

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中には入れませんが、三四郎池同様旧前田家所縁の『懐徳館』も都会のオアシスで、その基礎の遺構も残されています。

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『東洋文化研究所玄関前獅子像』は、昭和20年度から公開されたものです。

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『赤門書庫』のエントランスポーチと階段跡で、大正期に作られた史料編纂所です。

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『ポンプ跡』も残っています。

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様々なベンチも楽しさを演出しています。

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壁やフェンス、更に瓦まで凝った装飾が見所です。

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まだまだ見どころは尽きないのですが、いずれいせよ東大生だけに独り占めさせておくには、もったいないキャンパスです。

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2015.06.20記

駿河台、いわゆるお茶の水周辺のクールな文化を訪ねた後は、二つの“聖”を結ぶ聖橋を渡って千代田区から文京区に入ります。
湯島といえば過日訪れた「湯島天神」がまさに湯島の代名詞ですが、特に第3部の湯島・外神田編では、日本の今と昔のクールな文化を探訪します。

第3部 湯島・外神田編《前編》

スタートは当然聖橋からです。
御茶の水駅の反対から見た「聖橋」です。
聖橋
右側のトンネルは地下鉄・丸の内線で、ちょうどここだけ地上に出てくるのです。
その先に段々となった塀と一部の屋根が見えますが、そこが二つ目の“聖”なのです。
聖橋
早速、行ってみることにしましょう。

湯島聖堂

聖橋を渡り始めると、丁度トンネルから丸の内線が出てきました。
丸の内線
神田川を渡るためだけに外に出てくる地下鉄なので、日中は見るチャンスは少ないかもしれませんね。
丸の内線
神田川を渡ったところから文京区となり、橋の途中の右手にもう一つの“聖”である「湯島聖堂」へ向かう階段がありますので下りてみます。
聖橋 湯島聖堂
「湯島聖堂」は儒学に傾倒した徳川5代将軍綱吉が1690(元禄3)年ここにを創建し、孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自ら“論語”の講釈を行うなど学問を奨励したのです。
その後、1797(寛政9)年幕府は敷地を広げ、孔子の生まれた地名、中国魯の昌平郷を取って「昌平坂学問所」を開いたのです。この学問所は、明治維新(1868年)までの70年間官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を担っていたのです。
明治維新後は新政府の所管となり、1871(明治4)年に文部省、国立博物館(現東京国立博物館・国立科学博物館)、師範学校(現筑波大学)、女子師範学校(現お茶の水女子大学)、そして日本初の図書館である「書籍館」(現国立国会図書館)などが設置され近代教育発祥の地となったのです。
現在の聖堂は江戸時代に4回の火災に遇い、その都度再建されたのですが、最終的に関東大震災で焼失したのです。そして1935(昭和10)年、鉄筋コンクリート造りで寛政の頃のものに復元され現在に至っています。なお、入徳門は1704(宝永元)年に建てられたものがそのまま残る文化財となっているそうです。

早速、聖堂に向かいます。
樹木が生い茂り都会のオアシスとでも言うべき緑あふれる敷地です。
湯島聖堂
左手にあるのが文化財である「入徳門」です。
入徳門
孔子を祀った学校としては以前栃木県足利市の【足利学校】を訪れましたが、まさに同じ形態と考えて良さそうです。
“大学(いわゆる学校)は諸学徳に入る門”という意味でしたね。
この「入徳門」だけが江戸時代の建造物ですが、かなり手が入れられて全く古い物には見えません。
入徳門
入徳門を入った右手には「水屋」がありますが、これも入徳門と同時期の建造物なのだそうです。
水屋
正面にはゆったりとした石段が連なっています。
石段
石段を登ったところにある二つ目の門が「杏檀門」です。
杏檀門 杏檀門
「杏檀門」はまさに孔子の霊廟に入る門のことをいい、杏壇とはかつて孔子が弟子に学問を教えた講堂跡のことに由来しているのでした。
そして杏檀門を潜り抜けるとそこは孔子廟で、正面に見えるのが「大成殿」です。
大成殿 大成殿 大成殿
重厚さに圧倒されそうです。
中国の大成殿では中央に孔子を祀り、左右には四配として孟子・顔子・曽子・子思子の四賢人を祀っているそうですが、ここでは見ることが出来ませんでした。
大成殿
まさに壮大な歴史絵巻を見ている気分になりますが、気になったのは屋根の上の霊獣です。
鬼□頭
鯱のようなものは「鬼□頭」という竜で、頭から鯨のように水を噴き上げているのは、火災から建物を守る目的だそうです、が。。。
そして棟の四隅に鎮座しているのは「鬼龍子」という霊獣で、顔は猫型ですが腹に鱗があり聖人の徳に感じて現れる霊獣なのだそうです。
鬼龍子
これは足利学校の大成殿にはいませんでしたね。

大成殿をお参りして入徳門に戻ります。
入徳門をでて再び先に進みますと、左側に「楷の樹」が植栽されています。
楷の樹
足利学校にもあった木で、大正4年林学博士・白澤保美博士が中国曲阜市にある孔子の墓所に植えられている木の種子を持ち帰り、東京目黒の農商務省林業試験場で苗に仕立てられ、儒学に関係の深い所に頒ち植えられたものなのです。この時植えられたのがこの湯島聖堂や足利学校などだったので、ここにある楷の樹は日本でも最も古い部類の「楷の樹」ということになるのです。
そして正面にあるのが「孔子像」で、1975(昭和50)中華民国台北市のライオンズクラブから寄贈されたもので、重量約1.5トンの孔子の銅像では世界最大のものなのです。
孔子像 孔子像 孔子像
隣にはその由来が書かれているようです。

その先にあるこちらの建物は(財)斯文会の事務局棟ですが、ここにも魔よけなのでしょうか霊獣が構えています。
(財)斯文会の事務局棟 魔除け
そして前にある門が「仰高門」で、曲阜の孔子廟では西方にある門で、ここでは一般見学者用の正門となっているので、反対から抜けてきたことになるのです。
仰高門
足利学校よりは当時の史跡など残存するものも少ないのですが、やはり日本で最初の学問所である「昌平坂学問所」跡ということで、その後の日本の文化の根幹をなす教育の出発点としてクールなスポットであるといえるでしょう。

日本サッカーミュージアム

二つ目の“聖”を散策してからは「サッカーミュージアム」に向かいます。
本来はスポーツのひとつでしかないサッカーなのですが、現在日本においては大相撲、野球につつく第3のスポーツ文化と言っても過言ではないようなので、その総本山ともいうべき日本サッカー協会に向かうのです。
湯島聖堂からは、国道17号線、本郷通りを北西の方向へ向かいます。
本郷通り
左手には東京医科歯科大学、大学病院が大きな敷地を占めています。
東京医科歯科大学
次の信号のある交差点が「サッカーミュージアム入口」の交差点で、この交差点を右折します。
「サッカーミュージアム入口」の交差点 「サッカーミュージアム入口」の交差点
この本郷通りと交差する通りが「サッカー通り」と言われる通りで、南方向に進んで神田川沿いの外堀通りの交差点からサッカーミュージアムまでの通りをいうのです。
サッカー通り
ここまでの歩道はサッカーボールをイメージした六角形の形状のデザインです。どうせなら六角形と五角形の組み合わせでと誰しも思うのでしょうが、子供でもその組み合わせは平面上ではできないことを知っていますよね。
サッカー通り
ここからはサッカーミュージアム、いわゆる日本サッカー協会のJFAと八咫烏のロゴをはっきり見ることができます。
JFA
幼稚園の塀の壁画を眺めるとその先に「日本サッカーミュージアム」の大きなビルが現れます。
幼稚園 日本サッカーミュージアム
このミュージアムは2002年FIFAワールドカップ日韓大会の開催を記念してJFAのビルに設けられたミュージアムで、愛称は「11+」(イレブンプラス)と言うそうです。
日本サッカーミュージアム 日本サッカーミュージアム

早速入館すると、1階には今回のワールドカップ予選突破の日本代表達のバナーがお出迎えしてくれます。
1F展示室 1F展示室
そのほかには様々なトロフィーやグッズ、そして各種の情報を提供するフロアとなっているようです。
1F展示室 1F展示室 1F展示室
さすがに飛ぶ鳥を落とす勢いのJFAの太っ腹と言いましょうか、この種のミュージアムとしては珍しく映像以外の被写体であれば写真はOKなので撮り放題というのが嬉しい限りです。
奥には日本のサッカーの歴史を振り返る写真展示があり日本サッカーの歴史を俯瞰で知ることができます。
日本のサッカーの歴史
隣には“ヴァーチャルスタジアム”としてサッカースタジアムを模した展示スペースがあります。
ヴァーチャルスタジアム ヴァーチャルスタジアム
Jリーグ発足以来のメインタレントが掲出されていますが、振り返ればやはり“カズ”の功績は大きかったような気がしますね。
Jリーグ黎明期
個人的にはやはり2006年の浦和リーグ制覇がエポックメイキングでしたね。
レッズ優勝
発足当時にファンクラブに加入(当時三菱の仕事を担当していたので無理矢理・・・)した私としては、苦節・・・年の思いでしたが、これ以降熱が冷めはじめましたね。
ベルディやマリノスの発足当時のユニフォームや、ドゥンガ・ジーニョといったスターのサインが展示されています
ヴェルディユニフォーム マリノスユニフォーム ドゥンガとジーニョ
そしてJリーグ最初の試合球の展示もあり、実に懐かしさが溢れるスペースでした。
Jリーグ最初の試合球

1階から地下1階の展示室に移ります。
階段にも沢山の資料画像が展示されていますが、さすがに最近では「なでしこ」の活躍は見逃せませんね。
なでしこジャパン なでしこジャパン
地下1階はグッズショップなどがありますが、一角に「日本サッカー殿堂」のコーナーがあります。
「日本サッカー殿堂」のコーナー 「日本サッカー殿堂」のコーナー
殿堂入りの方たちのレリーフが飾られていますが、個人的にサッカーへの興味を喚起されたフェイバリットプレイヤーを一人挙げればこの人「杉山隆一」です。
杉山隆一
“黄金の左足”といわれた左ウィングの名選手でした。
釜本とペアで語られることが多いのですが、“いぶし銀”的な存在で東京、メキシコの2つのオリンピックでの活躍が印象的でした。また、僅か8シーズンのJSLリーグでしたが、三菱の中心としての活躍も見逃せませんでしたね。
とにかくこの人の存在を知ってから、野球少年だった私にサッカーの面白さを感じさせてくれたのですから、その印象は非常に強かったのです。
皆さんそれぞれの思いが浮かんできそうなコーナーでした。

この後は有料の展示室である地下2階に向かいます。
地価1階で入場料¥500を支払って入場します。
チケット
地下2階のフロアは全部で11のゾーンに分かれており、それぞれテーマを持った展示がされています。
最初に目に入るのはゾーン1で、ここはとにかくこのミュージアムが出来たきっかけともなった“2002年ワールドカップ日韓大会”に関する様々な資料などにより構成されており、ワールドカップ初開催と言う感動が甦ってきそうなゾーンです。
ゾーン1“2002年ワールドカップ日韓大会” ゾーン1“2002年ワールドカップ日韓大会” ゾーン1“2002年ワールドカップ日韓大会”
ゾーン2は世界の著名選手がサッカーとであった頃のエピソードが展示され、ゾーン3では“3D映像”を見ることができます。
ゾーン2 ゾーン3
映像はNGですので、子供達が右隅で見ているところの写真です。
ゾーン4では2002年の大会のロッカールームを再現し、当時のユニフォームなどの展示と合わせて、そこで存分にワールドカップに浸ってもらう構成です。
ゾーン4「2002年の大会のロッカールーム」 ゾーン4「代表ユニフォーム」
ゾーン5はフェアプレイ精神の展示で、日本代表が受けてきたフェアプレイ賞の数々が展示されています。
ゾーン5
ゾーン6~7はメインともいえる“ヒストリーウォール”という、時系列ごとのパネルと数々のモノの展示です。
日本サッカーの始まりの、いわゆる黎明期の頃の歴史が記載されています。
ゾーン6~7“ヒストリーウォール” 黎明期の頃の歴史
その中で注目は右手前に写っている“水色のユニフォーム”です。
現在、サッカー日本代表のユニフォームは“サムライブルー”とまで一般的になった青が基調のユニフォームがファーストユニフォームとなっています。
一般的に考えてみると、やはり日本の場合は赤が基調になるケースが多いでしょうが、どんな理由でこのブルーがユニフォームとなったのでしょうか。 その理由は協会にも資料が無いので、はっきりとはわからないのだそうです。
そこで推測してみました。
まず黎明期での日本代表は日本の選抜チームではなく、大学やクラブなどの単独チームで構成されていたことから、代表ユニフォームも各チームのものをそのまま使用していたようです。
日本代表としての初の国際試合であった1917(大正6)年の極東選手権では、東京高等師範学校(現在の筑波大学)が日本代表として出場した為、東京高等師範学校ユニホームである海老茶色のシャツ(黒のパンツ、白の鉢巻)をそのまま使用したのです。 しかし、その後の1930(昭和5)年の極東選手権では、東京帝国大学のライトブルーのシャツがそのまま使用され、見事優勝を果したのです。
このユニフォームは、先のゾーン4にあった歴代のユニフォームの中のこちらのユニフォームでしょう。
東京帝国大学のライトブルーのシャツ
そしてその6年後の1936(昭和11)年にサッカーとして初出場したベルリン五輪では、早稲田大学主体の選抜チームが日本代表となったことから、淡い青色のシャツとなったのです。
早稲田大学単体であれば恐らく臙脂(えび茶色)色となったのでしょうが、選抜と言うことからスクールカラーははずされ、勝手な推測ながら極東選手権での優勝に肖って淡い青色となったのではないでしょうか。
そしてそのオリンピックでは当時ドイツ・イタリアと並ぶ優勝候補の一つであったスウェーデンとの試合で日本が勝利し、ヨーロッパ各地でも「不可能なことが起きた」と報道・絶賛され、巷では「ベルリンの奇跡」とも言われたゲームを行ったのです。
このように極東選手権での優勝、更にベルリンの奇跡、どちらも淡いブルーであったことから、以降、日本代表のユニフォームは縁起が良いとの“縁起担ぎ”でブルーが基調となったのではないかと考えられるのです。
先の写真のユニフォームはその“ベルリンの奇跡”を起こしたセンターフォワード・川本泰三のユニフォームなのです。
オフィシャルサイトにもそのユニフォームが掲載されています。
川本泰三のユニフォーム 《(C)日本サッカー協会》
現在のブルーとは大分イメージが違い、かなり軽やかな感じを受けますね。
こうして動き出した日本代表は、後のオリンピック東京大会でベスト8、そして次のメキシコオリンピックでは銅メダルを獲得することになるのです。
オリンピック東京大会 メキシコオリンピック
メキシコ大会の時の代表のサインボールや、銅メダルが展示されているのも誇らしげです。
銅メダル サインボール ユニフォーム
この時のフォワードが杉山隆一や釜本邦茂だったのです。
メンバー表
その後の発展を語ると紙面がいくらあっても足りませんので、後は実際にパネル展示を見に行っていただくことにしましょう。
ヒストリーウォール ヒストリーウォール
ゾーン8は国際親善や国際貢献などの展示で、ゾーン9には様々なトロフィなどが展示されています。
ゾーン9
そして最後のゾーン10には、ワールドカップトロフィ(当然レプリカ)が展示されているのです。
ゾーン10「ワールドカップトロフィ」 ゾーン10「ワールドカップトロフィ」
いつの日か、このカップが日本に来る日がやってくるのでしょうかね。
かなり見どころ満載のミュージアムです。
そして本来の最後のゾーンである11は企画展示室となっていて、この日はワールドカップ予選通過ということもあって、歴代の日本代表のワールドカップに関する展示がなされていました。
ゾーン11企画展ワールドカップ日本代表の歴史
時系列に俯瞰するとそれもまた新たな感動が沸いてくるようです。
ワールドカップ日本代表の歴史 ワールドカップ日本代表の歴史 ワールドカップ日本代表の歴史
数々の感動を起こしたワールドカップですが、今回もとにかくは予選突破で実にめでたい限りですね。
ワールドカップ予選通過
サッカーファンなら既に訪れた方も多いでしょうが、スポーツファンなら一度は訪れても決して損は無いと思います。
クールなサッカー日本代表を身近に感じられるよい機会かもしれませんね。

最後に“大日本蹴球協会”発行の機関紙「蹴球」第1号に面白い記事があったので、引用させていただきます。
機関紙「蹴球」第1号 《(C)日本サッカー協会》
この機関紙1号は1931(昭和6)年10月23日に発行されたもので、その前年の1930年に第1回のワールドカップが開催されたことから、このワールドカップに関して、千野正人(慶応大学サッカー部創設の発起人の1人)氏の記載したものです。
なお、旧漢字・旧ひらがなは変換しています。

ワールド・カップの話
(1)ワールドカップにおいては殆ど知られていない。ワールドシリーズの野球のトロフィーだろうと早合点する人もあろう。
実はワールドカップ即ち蹴球の世界選手権杯なんである。蹴球関係者として迂闊なことだが大分初耳の人もあろうと思う。断っておくがオリンピック大会の蹴球選手権とは全然無関係のものである。
将来あるいはデヴィス杯に於けるがごとく、このカップを日本へ取ろうと躍起になる時代が来るかもしれない。最も現在の国際蹴球連盟は広い意味のプロフェッショナルを認めていることであり、なおこの他蹴球に対する態度には多分の疑問を有していることであるから、日本として直ちにこれに参加することの正否は別問題である。
(2)カップの由来を述べたいにも何分骨董的なものではないから歴史的な物語はないが、今後色々な逸話や珍談が織り込まれて行くことと思う。黒い手や白い手或いは黄色い手に捧げられて何れは世界的に有名なものとなるであろう。カップは一昨年始め、連盟により拵えられたもので、希●の神話にでも出て来さそうな女神の立像に似ている。また見ように依っては両手を上げたお釈迦様の立姿にも似て幾分東洋趣味なデザインでもある。写真の上での単なる想像であること勿論である。
連盟がこの世界蹴球選手権の開催を決議したのは一昨年あたりのことで昨1930年度を第1回とし4年ごとに挙行することになっている。世界的な天変地変でもない限り続行すると立派に特別規定を設けているから、元より一時的なものではない。(後略)

これ以降、ルールや規約、加入条件、参加条件などについて事細かにワールドカップを説明しています。
そして最後の章にはユニフォームについても言及しています。

(11)各チームの戎衣(ジュウイと読み、戦争に行くときの軍服のことを言う。転じてサッカーの戦いに行くユニフォームのことのようです)は前もって届け出た所属協会所定のものに限られている。ところがあるゲームで双方が紛らわしいカラースを着ている場合は抽選によって何れか一方がカラースを変更しなければならぬ。これは至極当然なことで、従来我が国ではこの点が比較的なおざなりにされているように思う。赤い襷を掛けさしたりして天地外観のよいものではない。これは協会届出カラースの不備不完全にも依るが、この解決法としては、先ず主催者で一揃いのカラースを用意しておくこと或いは参加チームが自発的に別種の一揃いを準備するより仕方あるまい。(後略)

現在の日本サッカーの隆盛を予感できたのでしょうか。
いづれにしても黎明期の日本のサッカー文化の状況がわかる貴重な資料です。
全文を読みたい方はサッカーミュージアムウェブサイトにアーカイブがありますので、お読みになられたらいかがでしょうか。

サッカーミュージアム・ヒストリカルアーカイブ】http://www.11plus.jp/history/

霊雲寺

サッカーミュージアムを後にして、サッカー通りをそのまま北上します。
現在では「サッカー通り」となっていますが、この先の坂道は「傘谷坂」と言い、傘つくりの職人が多く住んでいた窪地であったことから傘谷、傘坂の名前が着いたのだそうです。
傘谷坂
サッカーミュージアムの直ぐ隣にある保険・証券関連の会社では、すっかりサッカーに便乗している風情です。
傘谷坂
また、その反対側の道沿いにはオシャレで小振りな「KAGAYA」というスーパーマーケットがあるのですが、ふと見ると何と「SINCE 1912」と記載されています。明治45年、あるいは大正元年の創業ですからまさに100年の歴史をもつスーパーなんです。
「KAGAYA」 「KAGAYA」
現在この加賀屋はレストランや割烹など多角経営しているようですが、このスーパーが本社なので、ここから歴史と発展をきざんだのでしょう。
湯島はやはり侮れませんね。

傘谷坂を上りきったところが湯島2丁目交差点で、ここを右折して次なる目的地「霊雲寺」に向かいます。
左手に広そうな境内と、立派な本堂が見えてきます。
霊雲寺
山門も中々立派な造りです。
霊雲寺
この「霊雲寺」は、1691(元禄4)年に浄厳律師覚彦により創建された寺で、浄厳は柳沢吉保の帰依を受け、時の江戸幕府将軍徳川綱吉から現寺地を得て霊雲寺を開創したのです。
江戸幕府から朱印状を受けるなど幕府の保護を受け、関東における真言律宗の中心的な寺院で、当時は本堂のほかに、惣門・潅頂堂・地蔵堂・大元堂・観音堂・鐘楼・経蔵、そして学寮までもあった江戸時代の名刹だったのです。
その様子は当時の江戸名所図会の挿絵にも描かれており、「灌頂能 闇よ利 以てて さく良哉=灌頂の闇より出でて桜哉」と宝井其角の俳句がそえられています。
霊雲寺
“灌頂”とは昔インドで国王の即位や立太子の儀に、四大海の水をその頭頂に注いだ儀式が由来し、密教では頭に水を灌ぎ,その人物がある位に進んだことを証する儀式のことですが、現在一般的に行われている墓石に水を注ぎかけることといえば判り易いでしょう。
その灌頂が当時の江戸ではここ霊雲寺では著名であったことを表しているのです。
それ以外にも霊雲寺では、絹本著色弥勒曼荼羅図・絹本著色十六羅漢像 16幅・絹本著色諸尊集会図・絹本著色日吉山王曼荼羅図(以上鎌倉時代)、絹本著色天帝図(中国・元時代)の重要文化財が残されているのです。
現在は、本堂・地蔵堂・鐘楼などしか残っていませんが、その境内の広さを見ればかつての隆盛を偲ぶことができそうです。
霊雲寺 霊雲寺
この後は外神田方面に戻ります。

2013.07.23記
(第3部 湯島・外神田編《後編》につづく)


はじめに

平成25年2月8日から3月8日までの丁度1ヶ月間、湯島天神では第56回湯島天神梅まつりが開催されていました。
4年前に埼玉県越生の越生梅林で購入した我が家の「酔心梅」も八部咲きで、そろそろ春の訪れも近いなあ、と思いつつ寒さで鼻炎に悩まされている昨今でした。
酔心梅 酔心梅
さて、この湯島天神ですが、個人的には浅からぬ因縁がありまして、思いおこせばほぼ40年前のことです。
当時私は高校生で、大学受験を控えた受験生真っ盛りということもあり、小学校からの親しい友人3人とともに合格祈願を込めて高校3年の冬、大晦日に4人で初詣兼合格祈願に湯島天神を参詣したのです。
勿論、友人同士で行くのですからそれ程の緊迫感もなく、どちらかと言えば遊び半分といった気分です。その現れが参拝後に焼肉屋でたらふく焼肉を食べたことからも伺えるのですが。。。
そして運命のJR御徒町駅です。
帰りは4人で授与された破魔矢をもって、気分もよろしくJR御徒町駅で帰りの電車を待っていたホームで突如それは起こったのです。
な、なんと、こともあろうに私の破魔矢についていた絵馬がホームに落ちてしまったではないですか。「いやあ、縁起悪!」とか、「マジ、マジか~(笑)」とか、「ドンマイ」等など、慰めとも中傷ともつかない言葉の数々。。。
と、言いながらもまあ、笑い話と言うことでその場はおさまったのですが、蓋を開けてみれば、な、何と私だけ不合格で浪人、ほか3人は現役合格という何とも辛い結果となってしまったのです。
ありがちな記憶違いかとも思うのですが、現在でも珠に4人で飲むとこの話しが必ず出ますから夢や幻ではなかったようです。
湯島の道真さんは恐らく「努力が足らない」「油断大敵」といった戒めのつもりだったのでしょうが、自分の努力不足は棚に上げて、「ここは御利益がない!」とばかりに責任転嫁をしたことは私の性格上、言うまでもないことです(汗)
その後、翌年の受験では亀戸天神に参詣して何とか合格したことから、その後、二人の娘の合格祈願を初めとして、受験祈願には亀戸天神に参詣し事なきを得たことから、以来湯島天神を訪れることはなかったのです。
昨年は観梅に亀戸天神を訪れましたが、まあ、そろそろ封印も解こうか、ということから、実に40年ぶりに訪れる湯島天神ということになったのです。

湯島天神

この梅まつり、第56回とあるようにほぼ私と同年代の歴史を持ているのですが、先の理由からあえて行かなかったものを、何故急に行くことにしたのかというと、愛読させていただいている四季歩さんのブログ【四季歩のつれづれ】で、この湯島天神の「ガス灯」を知ったからです。
その「ガス灯」は点灯するガス灯としては都内唯一のものという、まさに文明開化の象徴が残っていることに魅かれたのです。
どうせ仕事の途中でちょっと寄れる場所にあることから、平日のお昼時に訪れたのです。

東京メトロ千代田線の湯島駅を下車して5分ほどで湯島天神に到着しますが、その間駅前からは「白梅商店街」が続いていて、こんなそそるパン屋さんもあって、じっくり散策したい気持ちになる商店街でした。
白梅商店街 白梅商店街 白梅商店街
商店街の角を曲がって突き当たったところが、湯島天神の急な石段である「男坂」です。かなり苦労するという石段ではありませんが、それなりに急ではあります。
白梅商店街 男坂
男坂を上がった右手に緩やかな石段があります。こちらが「女坂」です。
女坂 女坂
得てして男坂と女坂が揃いであるところは多いのですが、スペースの関係で女坂が無いのはわかるのですが、女坂があれば男坂を作る必要があるのでしょうかと、常々素朴な疑問があり、男でも女でもゆっくり昇れればそれでいいのではないかと思うのですが、「てやんでえ~、べらぼうめ!」と気の短い江戸っ子には気に食わないのでしょうかね。
まあ、埼玉都民ですから江戸っ子の気持ちがわかってたまるか!、といった気持ちではあるのですが(汗)。

男坂を上がった先に鳥居があります。
鳥居
ここから女坂を通してみた風景が、江戸時代の安藤広重の「湯島天神坂上眺望」に描かれているのです。
湯島天神坂上眺望 湯島天神坂上眺望
江戸時代はここから上野の不忍池が見えたのですが、現在はこのようにビルで阻まれているのは仕方ないでしょう。
それでも何となく名残が有りそうで無さそうで、実にイライラする場所です。
そしてその女坂の右手が梅園となっています。
女坂の梅園
まだ、満開ではありませんが、ほのかに甘い香りが癒されます。
ここで甘い香りを楽しみながら、女坂を上り下りするのも一興かもしれません。

鳥居をくぐった直ぐ左手にお目当ての「ガス灯」があります。
ガス灯 ガス灯
梅まつり期間中は露店が一杯でていますので、ガス灯もわかりにくいのですが、まさに文明開化の復元なのです。
案内板によれば、もともとこの境内には5基のガス灯があったのですが、1965(昭和40)年までにすべて撤去されたのだそうです。
しかしながら“湯島の白梅”という唄の歌詞に「青い瓦斯(ガス)燈」が登場するほど有名なガス灯だったことから、東京ガスの協力によりこのガス灯が新たに設置されたもので、都内唯一の点灯する屋外のガス灯となったようです。
そう聞いて調べてみると、全国には結構たくさんのガス灯が残っていて、更に東京にも他に幾つも残っているのです。
日本ガス協会のサイトの【ガス燈のある街】では東京都の千代田区・和田倉噴水公園、三菱一号館 一号館広場、港区・日本ガス協会ビルディング、品川区・御殿山ヒルズ、 「ねむの木の庭」公園 の5ヶ所にあるようです。
品川区・御殿山ヒルズ 《品川区・御殿山ヒルズ(C)日本ガス協会》
因みに埼玉県にはさいたま市・さいたま市役所と飯能市・能仁寺にあるのですが、以前「浦和のうなぎまつり」でさいたま市役所を訪れた際に偶然にもこのガス灯が写っていました。
さいたま市役所
それはさておき、この案内板が設置された頃は都内唯一だったと言うことになるのですが、全国のガス灯を訪ね歩くというのも面白そうな企画になりそうですね。
余談ながら、この歌詞の元となった新派『婦系図』(原作・泉鏡花)は、尾崎紅葉の『金色夜叉』、徳富蘆花の『不如帰』とともに明治の三大メロドロマといわれているようですが、実際のところ『婦系図』のテーマは社会派ドラマであって、決してメロドラマではない事をはじめて知りました。

梅まつり

兎にも角にも目的の一つである「ガス灯」を見たので、これから観梅となります。
鳥居を抜けた参道の右手に立派な社殿があります。
社殿
と言うことは、男坂から上がってきた石段と、そこから続く参道は表参道ではないと言うことです。
観梅の前に参拝を済ませますが、この湯島天神は458年創建と伝えられていることから相当な歴史をもった古社なのですが、菅原道真を勧請して合祀したのが南北朝時代の1355(正平10)年なので、これをもって創建としている説もあるようです。
湯島天神を有名にしたのは江戸の享保期の三富の1つであった富くじ興行によるもので、明治時代は先の『婦系図』とそれによる観梅、そして現在では受験の神様として親しまれているのです。
受験シーズンもピークを過ぎたようですが、この絵馬の数々を見れば如何に多くの受験生が訪れていたかが伺えるのです。
合格祈願の絵馬
まあ、かつて私も不本意ながら(まだ、根に持っている・・・)神頼みの一人だったのですが。。。
この立派な社殿は老朽化のため1995(平成7)年に再建されたものなので、新しく綺麗なのです。
当時、参拝したころの様子は全く覚えていません。大晦日の夜中、ごった返す中のことでしたから。。。

この立派な社殿ですが、注目はこの紋です。
神紋 神紋
神社にも当然神社固有の紋があり“神紋”というもので、一般的には、その神社に縁のある植物や縁起物、または公家や武家の家紋が使われています。その中でも有名なのが菅原道真=梅ということから使用されている天満宮グループの梅紋なのです。
ここ湯島天神の社紋も梅の紋で「加賀梅鉢」紋を神紋として採用しています。
「加賀梅鉢」紋
名前からも推測されるとおり、加賀百万石の前田利家を祖とする前田家が菅原道真の末裔だと言う(根拠は全く無い)ことから作られた紋なのです。
ただし、天満宮グループの梅紋も各社によって違います。
例えば太宰府天満宮は「梅花」紋、京都北野天満宮は「星梅鉢」紋といった具合で、同じ梅でも各社違った紋を採用しているのです。
太宰府天満宮「梅花」紋 京都北野天満宮「星梅鉢」紋
特にこの梅の紋は人気があり、現在でもそのバリエーションは100種類以上あるそうですから、近くの天神さんを訪れた際には神紋に注目されてみてはいかがでしょうかねえ。

拝殿の右手にはその大宰府から贈られた本物の梅鉢が飾られています。
太宰府天満宮『梅の使節』 太宰府天満宮『梅の使節』
「奉納 太宰府天満宮『梅の使節』」と記載された豪奢な梅です。
流石に本社の威光は強いものがあるようです。
社殿を反時計周りに移動すると、右手にはお守りの授与所があり、社殿の右側にはこれもまた奉納された紅白の梅が飾られています。
お守り授与所
これもまた風情のある可憐な盆栽です。
奉納された紅白の梅 奉納された紅白の梅

本殿も立派ですが、その周りの絵馬も梅も見事です。
本殿 本殿 本殿前の絵馬と梅
婦系図でも“湯島の白梅”とある通り、ここ湯島天神の境内には白梅が多いのですが、所々にある紅梅が綺麗なアクセントとなっています。
湯島の白梅 アクセントの紅梅 アクセントの紅梅
突き当たりにある石段が「夫婦坂」という裏参道です。
夫婦坂
ここには重厚な山門が設置されていますね。
本殿の左手には梅祭りのためのステージが設置されています。
梅まつりステージ
様々なイベントが行われているようですが、ちょうどこの日にはキングレコードの原田悠里のキャンペーンが行われていました。
新曲キャンペーン
流石にこういった場所は演歌のキャンペーンにはもってこいの場所のようです。
その前には綺麗な折り紙が展示されています。
折り紙展示 折り紙展示
この近くに「おりがみ会館」があることから、展示されているようです。
日本の文化ですから、機会があれば一度訪れてみたいところですね。
やはり梅まつり期間はウキウキさせられるような、煌びやかな空気に包まれています。

湯島の白梅

ここからが最後の観梅です。
境内の中央にある梅園を中心に約300本の梅の木が植栽されていて、その80%が白梅なのです。
境内の梅園
境内点描です。
白梅の数々。。。
白梅の数々。。 白梅の数々。。 白梅の数々。。
女坂を上から眺めるとこのように綺麗に見えます。
女坂俯瞰
アクセントの紅梅も良いですね。
アクセントの紅梅 アクセントの紅梅 アクセントの紅梅
こんな紅梅も天神社らしいアングルなのかも。
天神社らしいアングルの紅梅 天神社らしいアングルの紅梅
梅園は日本庭園になっています。
日本庭園
様々な碑もたくさん奉納されており、これらの説明はオフィシャルサイトに掲載されています。
こちらの梅は「ウメ“思いのまま”」という梅の木で、別名“輪違い”といい、枝の中で、白・絞り・紅と咲き分ける品種なのだそうです。
「ウメ“思いのまま”」
写真ではわかりにくいですが。。。
こうした風情も賑やかで良いものです。
梅園の光景
そして、やはり天神さんには無くてはならない撫で牛です。
撫で牛
梅園の周りにもたくさんの絵馬とともにこのような枝垂れ梅も風流です。
枝垂れ梅
絵馬と言えば合格祈願ですが、境内の露店にも合格祈願にあやかった露店があります。
「合格大福」に「合格甘酒」
合格大福 合格甘酒
また、極めつけは「合格箸」です。
合格箸
合格=五角、つまり五角形のスベリ止め箸だそうで、創業明治12年の歴史とともに洒落も効いていて一押しグッズです。
この露店の並んでいる参道が表参道で、その先にある鳥居が正式な表鳥居です。
表参道
この鳥居は銅製の鳥居で、寛文7(1667)年のもで、現在は都の指定文化財です。
銅製の鳥居
あまり綺麗には写せませんでしたが、甘い香りと、露店の香ばしいかおりが相まって、湯島天神の梅まつりは今年も終了となります。

ライトアップ

こういった機会もあまりありませんので、会社の帰りがけに夜の観梅と洒落込んで見ました。
梅まつり期間中は梅園もライトアップされているのです。
夜の部もまた境内点描です。
男坂に女坂、ライトアップされた梅林もまた綺麗なものです。
男坂 女坂 女坂の梅園
もう一つの坂である夫婦坂はライトアップと雪洞でまた違った風情です。
夫婦坂 夫婦坂 夫婦坂
社殿は全て閉じられていますが、参拝に来る方はまだ多いようです。
拝殿 本殿
なかなか神秘的な雰囲気です。
昼間見た「ウメ“思いのまま”」や枝垂れ梅もまた落ち着いた風情の中にたたずんでいます。
「ウメ“思いのまま”」枝垂れ梅
昼間と違い参拝者も少ないので、落ち着いて観梅ができます。
観梅 観梅
昼間と同じアングルながら違った表情はこちらでも見られます。
天神社らしいアングル梅園 梅園 梅園
更に昼間の女坂の上からのアングルです。
女坂俯瞰女坂俯瞰
中々見事な情景に時のたつのも忘れそうです。
観梅 観梅 観梅
そして最後はやはり「ガス灯」で締めくくります。
ガス灯 ガス灯
やはり夜のガス灯のほうが趣がありますね。
湯島天神から帰りはJR上野駅に戻りましたが、途中の不忍池と弁財天も幻想的で素敵な夜景でした。
不忍池 弁財天
江戸と明治と昭和の歴史を残している湯島天神で、観梅以外の見所はまだまだ沢山あるので、次の機会にまた訪れてみたいですが、やはり合格祈願の場合は亀戸にしておきましょう(汗)

2013.03.11記