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「高窓の里の百体観音堂」は、ジャンルAで6,680票を獲得して第17位にランキングされました。

かつて養蚕の盛んだった児玉地方。蚕を育てる際、換気のために付けられた高窓の家並みが残る児玉町小平の里に、成身院百体観音堂はあり、児玉三十三霊場の一番寺。
成身院は真言宗豊山派の寺で、1342~45(康永年間)年に元空上人によって開かれたと言われる。百体観音堂は1792(寛政4)年浅間山噴火の死者の霊を弔うために創建され、高さ約20mの外観は二階建てだが、内部は三層という珍しい造りになっているのが特徴。一階に秩父三十四観音、二階に坂東三十三観音、三階に西国の三十三観音の計百観音を奉っていることからこの名が付いたとされる。中央の本尊を中心に回廊をらせん状に上ることから、通称「さざえ堂」とも呼ばれている。
(本書より)

本書の掲載時点では児玉郡児玉町でしたが、2006年に本庄市と合併したため現在は本庄市児玉町となっています。
本庄市へは【ヘラ釣のメッカ間瀬湖と骨波田の藤】【児玉秋祭り四角太鼓】【塙保己一】【雉が岡城址の塙記念館】【本庄まつり】に続いて実に6回目の訪問となります。
合併したことで市は細長くなり、本庄市役所周辺には当時国道17号線を使用し、児玉地域には関越道を利用していました。
今回も関越道を利用しているのですが、北本まで圏央道が延びたことから特に渋滞が無ければ約1時間半で到着する近さとなっているのです。

高窓の里

本庄児玉ICで関越道を降り、一般道を進むこと20分ほどで児玉エリアに到着です。
県道287号線を進むと途中小山川を渡りますが、この小山川河畔の桜が「こだま千本桜」として名高い桜の名所なのです。

こだま千本桜

残念ながら見頃は過ぎていた千本桜

約1000本植えられていることから命名された文字通りの桜の名所ですが、既に満開も過ぎちょっと残念な時期でしたが、それなりの情景は見ることができました。

まずは「ふるさとの森公園」に駐車して散策の開始です。

ふるさとの森公園

公園内の桜と蓮池

園内には蓮池があり、ここまた華麗な風景を演出しています。

その蓮池の傍らに記念碑が建てられています。

景観賞の碑

景観賞の碑

これには「彩の国2008景観賞受賞 児玉高窓の里」と記載されています。
案内板によればこのあたりの東小平地区は古くから養蚕が盛んで、養蚕農家の屋根には「高窓」と言われる換気用の越屋根が設置されていて、現在でもこの地域にはその民家がまとまって残っていることから「高窓の里」と呼ばれているのだそうです。

確かに見える限りでは4棟の民家が残されているようです。のんびりした佇まいに往時の繁栄した養蚕農家の牧歌的な雰囲気が、どこか原風景として見えてくるのは歳のせいでしょうか。

高窓の里 高窓の里 高窓の里

高窓の里の光景


景観賞を受賞するのも頷けるところです。

高窓の里こだいら案内板

「高窓の里こだいら」の案内板

先ほどの案内板には「高窓の里こだいら」とあります。
この児玉町小平地区の見所が記載されている地図で、百体観音の他にも見所は多い様なので、今回は小平地区でまだ訪れていない場所も合わせて散策することにしましょう。

高窓の里の景観を楽しんでいると、高窓の民家の手前に山門を見ることができます。

高窓の民家と仁王門

高窓の里の山門

この山門が今回の主役である「百体観音堂」のある成身院の山門のようです。まずはこの山門から散策を始めることにします。

成身院

山門までのんびり春の陽気を楽しみながら歩いてみます。

仁王門仁王像

立派な山門は「仁王門」

かなり大きな山門は朱の四脚門の仁王門で、かなり凄みのある仁王像が奉られています。
この仁王門と仁王像は宝暦9(1759)年の建立で、特に仁王像は創建時の姿を残しているそうです。

そしてこの仁王門沿いから見える範囲が成身院の境内となります。

成身院境内

小さな門が中門で、
桜の木の上に見える擬宝珠が観音堂

右側の仁王門の隣に見える小さな門が中門で、丘の上の桜の木の上にちょっと出ている擬宝珠が百体観音堂の尖塔です。
かなり広い境内であることが判ります。

中門の先の右手に本堂があります。

成身院本堂

近代的な成身院の本堂

成身院は真言宗豊山派の寺院で平等山成身院といい、本尊は不動明王で児玉三十三観音の第一番なのです。
中興開基は第四代鎌倉公方の足利持氏という由緒ある寺院で、江戸時代は仁和寺を本山とする談林(学問所)で、檀家を持たない寺院として、現在の児玉三十三観音の10寺院をはじめ、100ヶ寺を末寺としていたほど栄華を誇っていたのです。

旅歴メモ -古代寺院- 成身院の隣の本庄市児玉総合運動公園の片隅に、「東小平中山廃寺 木造搭跡(礎石群)」があります。
東小平中山廃寺 木造搭跡(礎石群)

復元された木造搭跡(礎石群)

この周辺にあった東小平中山廃寺は金堂(仏堂)を中心に講堂や搭によって構成されていたそうで、この礎石群は廃寺のなかで状態が良かった搭跡の礎石を移築・復元したものです。
この寺院は8世紀後半(奈良時代)の建てられた三重塔と見られ、瓦や仏堂の礎石などと一緒に出土したものです。
この古代寺院は、10世紀の中頃(平安時代)に周りの竪穴式住居とともに焼失し、住民も寺院も山の麓に下りて現在の伽藍となったとも考えられているのです。

現在の本堂は文政7(1759)年に建てられた庫裏を、昭和48年に改修されたものです。
観音堂へは階段を上っていきますが、その途中に古びた堂宇があります。

三仏堂

三仏堂

寛永元(1624)年建立のものですが、明治・昭和に修理が行われたそうです。かつてはこちらに室町時代造立の三仏が安置されていたのですが、現在は防犯上、観音堂に一緒に安置されているそうです。

シャガ 仏搭

寺院らしいシャガの群生と仏塔

この辺りには「シャガの群生」を見ることができます。
学名の種小名はjaponica(「日本の」という意味)ですが、中国原産でかなり古くに日本に入ってきた帰化植物なのです。
数々の古い仏塔とともに、寺院らしい花といっても良いかもしれませんね。

百体観音堂-1

ここからは桜に彩られた百体観音堂を見ることができます。

百体観音堂

桜に彩られた風情の良い観音堂

しかしながら観音堂へは直接入れませんので、一旦「ふるさとの森公園」の管理事務所に向かいます。

観光農業センター

管理事務所

ここで拝観の受付をしていただけます。
拝観料300円でパンフレットを受け取り、スタッフの方の案内で観音堂に向かいますが、ここで概略をご案内していただけます。

文化財

再びスタッフの方と一緒に観音堂に戻ります。

百体観音堂

桜と観音堂のコントラストが素敵です。

この時期は格別な風景が見られる時期なのです。やはり春の訪れとともにやってくる桜の花見は、日本人の心に訴えるはかなさの感傷課も知れませんね。

先ずは観音堂の前の仏像からです。

唐銅造大日如来坐像

高さ85cmの「唐銅造大日如来坐像」

観音堂の前にあるのが「大日如来坐像」で、台座に「御鋳工武州金屋住倉林治兵衛国義 補鋳工野州佐野住丸山林八長輝」と刻まれています。
これは児玉町金屋の鋳物師が郷土に残した数少ない文化遺産として貴重なものなのだそうです。

旅歴メモ -金屋の鋳物- 鋳物の発祥は河内国丹南郡(現在の堺市の一部)を本拠地とした「河内鋳物師」といわれていて、この影響を受けた鋳物に大久保鋳物(新潟県柏崎市)、佐野天明鋳物(栃木県佐野市)、高岡鋳物(富山県高岡市)などがあり、これにより東日本に河内鋳物が伝わったのです。
台座に刻まれた「補鋳工野州佐野住・・・」はまさしく佐野天明鋳物の鋳物師で、この佐野天明鋳物が児玉に伝わったのではないかと推測されます。
そして鋳物師が児玉にも移り住み、当時、鋳造所のことを「金屋」と呼んでいたことから、この名が地名となったのではないかと考えられるのです。

次は観音堂に吊り下げられている大きな「鰐口」です。

鰐口

直径180cm、重さ750kgの大きな「鰐口」

寛政7(1795)年の刻印があるそうで、観音堂建立と同じ時期に作られたもので、観音堂が火災で全焼した際、唯一残ったものだそうです。
実際に打っていただき、その重低音を耳に刻みました。
先の大日如来坐像と鰐口は市指定の文化財ですから、見逃すわけにはゆきませんね。

そして鰐口の付近は非常に精緻な彫刻で飾られています。

経年のため随分と色彩は落ちてしまっていますが、往時は煌びやかな仏教彫刻が眩しかったことでしょう。また、天井には天上画が描かれていますが、こちらもかつては絢爛豪華な天上画が見られたものと思われます。

彫刻 彫刻 天井画

観音堂の彫刻と天上画


江戸時代の花火の筒

江戸時代の花火の筒

隣には古びれた花火の筒が何気なく置かれているのですが、こちらは江戸時代のものだそうです。

そして観音堂を改めて間近で見学します。

百体観音堂 百体観音堂 百体観音堂

歴史を感じさせるが、所謂凝った二階建ての観音堂


なかなか風格を感じさせる建物で、どっしりとした重量感を感じる二階建ての観音堂としか見えないのですが、実はこの建物は三層二階建ての珍しい建造物なのです。

サザエ堂

ここからいよいよ観音堂に入ります。
横の入口を開けていただき、先ずは一緒に入館して説明をしていただけます。

日本三大さざえ堂

日本三大さざえ堂写真

先ず注目はこちらの写真でタイトルは「日本三大さざえ堂」となっています。
元々この観音堂は二階建てながら三層になっていると聞いているのですが、この三層が「さざえ」に関連しているのです。

こう言った観音堂は、江戸時代後期の東北から関東地方に見られた特異な建築様式の仏堂で、堂内は回廊になっていて、順路に沿って観音像が配置され堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっているのです。
これは「釈迦の二代目である迦葉尊者が、釈迦の葬儀の後から駆けつけ、棺を三匝もしくは七匝した」という古事に由来するもので、インドの礼法では右繞三匝(時計回り)の礼が最高の礼法であるといわれているからなのです。
特に右は浄身浄肩(右手を仏の手)、左は不浄(左手を自分の手)と言って、袈裟や衣で左肩を覆い、右肩を出しているのは、所謂浄身を中心に右廻りにすることで、最高の礼を尽くすという意味を持っているからなのだそうです。

この礼法にのっとり観音堂も右回りに三回匝る(めぐる)形式で参拝できるようになっているのです。
したがってこのことから本来このような観音堂を「三匝堂(さんそうどう)」というのですが、螺旋構造や外観がサザエに似ていることから、親しみをこめて「さざえ堂」などと呼ばれているのです。

旅歴メモ -さざえ堂- 現在日本で現存する「さざえ堂」は、弘前禅林街の栄螺堂(青森県弘前市)・旧正宗寺 三匝堂(福島県会津若松市)・長禅寺 三世堂(茨城県取手市)・曹源寺 本堂(群馬県太田市)・成身院 百体観音堂(埼玉県児玉町)・總持寺(西新井大師)三匝堂(東京都足立区)・大正大学 すがも鴨台観音堂(東京都豊島区)の7ヶ所確認されているようです。
会津サザエ堂

会津のさざえ堂

特にこの中で著名なのが旧正宗寺 三匝堂、つまり「会津のさざえ堂」で、外観や内部構造などはまさしく「さざえ」で、国の重要文化財に指定されているのです。

太田サザエ堂

太田のさざえ堂(c)さざえ堂 曹源寺

現在、現存するさざえ堂の中から、歴史、規模、一般への公開などの観点から選ばれたのが「日本三大さざえ堂」で、会津のさざえ堂、太田のさざえ堂(群馬県太田市)と共に、この百体観音堂は児玉のさざえ堂と呼ばれているのです。
因みに会津は国指定、太田は群馬県指定ですが、児玉が市指定となっているのは、成身院が現在無住の寺だからということが影響しているようで、価値的には埼玉県指定となっても全くおかしくは無いのです。

2014.04.20記(後編につづく)

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はじめに

「ヘラ釣のメッカ間瀬湖」はジャンルAで7,415票を集め、第14位にランクされました。

児玉町小平にある間瀬湖はヘラブナ釣のメッカとして知られ、湖面に突き出た桟橋や水面に浮かんだボートの上では、ほぼ1年中釣りが楽しめる。一人釣り糸を垂らす人、仲間と腕を競う人など、太公望には根強い人気がある。
間瀬湖は1937(昭和12)年、利根川水系の間瀬川をせき止めて造られた日本初のコンクリートダムの灌漑用人造湖。周囲約2km、水深は最大で20m、満水時の湖水面積は7万㎡と、それほど大きくはないが、湖畔を囲む約300本の桜が湖面に映える春景色は見もの。
(本書より)

また、同様に「骨波田の藤」は同ジャンルで7,263票を獲得して第16位にランキングされました。

児玉郡児玉町高柳の長泉寺境内にある。1959(昭和34)年に県の天然記念物に指定され、児玉地方の名所として親しまれている。ムラサキナガフジなどの大半の藤は推定樹齢二百数十年、1991(平成3)年日本植物保護推進会の調査で最古のものは推定650年と確認されている。
藤棚は、大きいいもので紫色の藤が2棚、白色が1棚、毎年5月中旬になると、棚から満開の藤の房が2mほど垂れ下がり、見ごろを迎える。境内は藤の花特有の香りが立ち込め、県内外から訪れた行楽客の目と鼻を楽しませている。
(本書より)

埼玉ふるさと100選の頃はまだ児玉郡児玉町で、かつて児玉郡は昭和19年まで、本庄町(一部を除く現在の本庄市)、児玉町を始めとした2町14村で構成されていましたが、昭和29年に本庄町を中心に1町12村が合併してが本庄市となり郡より離脱します。
そして昭和62年時点では町制施行により児玉町、美里町、上川町、神川町の4町となりますが、平成18(2006)年に児玉町が本庄市と合併し、改めて本庄市が発足し児玉町もまた郡より離脱したのです。

現在までこの100選では、【本庄まつり】、【雉が岡城址の塙記念館】、【塙保己一】、【児玉秋祭り四角太鼓】で訪れていますが、本庄まつり以外はすべて選定された時点では児玉郡だった場所なのです。
本庄市より児玉郡の方が歴史が長いのですから、名所と考えられる場所は旧児玉郡に多いということが言えるでしょう。そして今回もその旧児玉郡にあった「間瀬湖」と「骨波田の藤」を訪れることとなったのです。
何故このタイミングかといえば、当然藤の開花が見られる時期であるためで、間瀬湖は説明にもある通り桜の時期もよいのですが、特に桜が選定されているわけでもないので、この時期に一緒に巡ることにしたのです。
この旧児玉郡での100選にはもう一つ「高窓の里の百体観音堂」があるのですが、こちらも見所が沢山ありそうで、時間的にもすべてを巡るのは難しいと判断し今回はこの2ヶ所となったのです。

5月13日の日曜日、天気も上々の中、いつもよりは若干遅い9時前に自宅を出発します。 いつもの通り関越道を北上するのですが、最近は圏央道が桶川まで延びたことから随分と時間短縮ができるようになりました。
今回で都合4回目の本庄市散策ですが、魅力は尽きないようです。

本庄市観光協会】http://www.honjo-kanko.jp/

はじめに

「児玉秋祭り四角太鼓」はジャンルBで6,599票を獲得して第8位にランクされました。

児玉町で毎年11月3日に行われる児玉秋祭り。同町では仲町、本町、上町の各町内会が山車、新町が屋台を所有しているが、これらが児玉駅前交差点で向き合い、お囃子の競演をするのが「四角太鼓」で、山車に灯がともる夜には、祭りも最高潮を迎える。
競演をするお囃子はすべて町内会によるもので、後継者育成も兼ね、大人から子供までが演奏を繰り広げる。1999(平成11)年、仲町町内会の山車の頂上に43年ぶりに人形が飾られたこともあり、祭りに対する町民の期待も膨らんでいる。
(本書より)

「児玉秋祭り四角太鼓」が行われる児玉町は、このふるさと自慢で選出された時点では児玉郡児玉町でした。
しかし、2006年本庄市と合併したため本庄市児玉となっていますが、児玉郡が消滅したわけではなく、現在も児玉郡には美里町、上里町、神川町の3町が残っていいます。
この様に現在の本庄市で繰るとすると、今回の本庄市散策は3度目となります。
最初はジャンルBでの【本庄まつり】で2008年11月に訪れています。既に3年が経過しています。そして2度目がジャンルAでの【雉が岡城址の塙記念館】とジャンルDでの【塙保己一】です。こちらが昨年、2010年1月でしたのでここからも既に2年近くの年月が経過しようとしていて、今更ながら時の過ぎ行く早さを実感します。

さて今回の祭りですが、児玉町の東石清水八幡神社の例大祭ですから、地域としては【雉が岡城址の塙記念館】で一度訪れたエリアとなります。
訪れたのは11月3日で、当然1年に1回の祭りですから、このときを逃せば訪れるのは来年となってしまうので今年は何としても訪れるつもりでいました。
今回もまた車での移動とし、祭りは午後からのようなので今回は比較的遅めのAM10:00頃自宅を出発しました。
天気も良く祝日なので多少は渋滞も覚悟はしていたのですが、遅めの出発で関越自動車道も一般道も殆ど渋滞もなくAM11:30には関越道本庄児玉ICに到着してしまいました。
秋晴れの天気のなか、9月の芝大神宮に継ぐ祭り散策です。

本庄市オフィシャルサイト】http://www.city.honjo.lg.jp/


はじめに

「塙保己一」はジャンルDの”県ゆかりの人物”で2位の「荻野吟子」の得票数10,936票の倍以上の22,962票という断トツで第1位にランクされました。

児玉町出身の江戸時代中期の盲目の国文学者。塙保己一は、1746(延享3)年現在の児玉町保木野に生まれた。7歳の時に眼病を患い失明したが、15歳の時に江戸に出て雨富検校須賀一の門人になった。18歳の時に名を保木野一に改め、30歳で勾当に就くと同時に保己一と改名した。
保己一はその後、萩原宗固について和学・歌学を、川島源八郎に神道を、山岡明阿に律令を、品川東禅寺僧考首座に医学を、それぞれ学び、24歳の時に賀茂真淵の門に入った。本居宣長らととも親交を結んだという。
38歳の若さで検校となった保己一は、水戸藩の依頼で「大日本史」を校正、また、中世以降の日本の文献を集めて校訂、分類し、約40年かけて大編さん史「群書類従」(全665冊)を完成させた。
48歳の時には、幕府に願い出て国学の研究の場である「和学講談所」を開設。わが国の国学の発展に大きな影響を与え、のちに盲人の最高位である「総検校」になった。
1821(文政4)年76歳で死去。江戸四谷安楽寺に葬られた。
現在、児玉町には国指定の史跡にもなっている塙保己一生家や、保己一が生涯大切に持っていたとされる母手縫いのきんちゃくなどを集めた記念館などもあり今でも郷土の偉人として親しまれている。
(「埼玉ふるさと自慢100選」より)

同じ100選のジャンルAの【雉が岡城址の塙記念館】 で新年も明けた2010年1月16日に本庄市児玉を訪れ、児玉は「塙保己一生誕の地」とあって様々な興味深い見聞をしました。
こちらのジャンルDに関しては保己一個人をクローズアップし、本庄市児玉以外の縁の地へも訪れたものを含めて散策しています。

学生の頃の歴史の教科では恐らく多くの人が「塙保己一」=「群書類従」というパブロフの犬状態でしょうが、それ以上の知識を持ち合わせている人は極々限られた人たちだけだと考えます。そういう私自身もその程度での知識しかなく、埼玉県出身ですら知りませんでしたから。
折角、本庄市を訪れて多少なりとも「塙保己一」の一端に触たのですから、これを機にもう少し掘り下げてみたいと思います。
今回、本庄市は勿論、四ツ谷、九段、渋谷を廻って保己一の生涯を辿ってみました。

map本庄市オフィシャルサイト】 http://www.city.honjo.lg.jp/


はじめに

「雉が岡城址の塙記念館 」はジャンルAで10,061票を獲得して第7位にランクされています。
本書の説明から。

中世末期、関東管領山内上杉氏によって築かれた雉岡城。別名八幡山城とも呼ばれ、現在は桜の名所としても親しまれている。1968(昭和43)年城跡の丘に、同町出身の国学者・塙保己一の偉業をたたえて記念館が建てられた。
同館は、県指定歴史資料約100点を含む保己一の遺品約200点を展示。中には、保己一が生涯大切に持っていたとされる母手縫いのきんちゃくや江戸に出るときに衣類を入れた「御宝箱」、保己一が編さんした「群書類従」の版木や刊行資金を借りたときの借用証などもあり、当時の様子がうかがえる。
(本書より)

100選に選ばれた当時はまだ児玉郡児玉町でしたが、2006年の合併により現在は本庄市となっています。
本庄市へは一昨年の2008年11月3日にジャンルBの【本庄まつり】で訪れました。
「本庄まつり」は、JR高崎線の本庄駅近辺の金鑚神社の例大祭として行われる祭りですので、もともとは合併前の本庄市の祭りです。
今回の児玉行きは同じ本庄市といっても、JR八高線の児玉駅を中心としたエリアで結構離れた場所にあります。また、お祭りにしても児玉では「本庄まつり」と同じ11月3日に「児玉まつり」(両方とも100選に選ばれています)がありますので、合併によって同じような祭りが2つ存在することになったのです。

さて今回の「雉が岡城址の塙記念館 」は先のJR八高線・児玉駅からそれほど遠くない場所にあるのですが、今回は今年1月9日に納車になったばかりのホンダ「フリード」の最初の長距離ドライブとういうことで、車で出かけることにしました。
フリード フリード
出かけたのは、ちょうど納車された1週間後の2010年1月16日の土曜日です。
朝8:00に自宅を出て、もうすっかり定番となった東松山ICから関越自動車道でまずは本庄児玉ICへ向かいます。今回はナビの使用方法含めたテストも兼ねています。なにせ今までナビが付いていませんでしたから。
特に混雑も無く9:30頃には本庄児玉ICに到着しました。右方面が本庄駅方面で、左方面が児玉駅方面ということで、JRの本庄駅と児玉駅のほぼ中間にICがあるといったロケーションです。
ICからは国道462号線を行けば児玉駅で、駅を通り過ぎて暫すると第一の目的地である「雉が岡城址」に到着です。
何も考えずにナビ通り行けば済むのですから実にコンビニエンスです。
新しい車での初長距離ドライブと、今年最初の100選散策とちょっと気持ちはハイテンションです。

マップ 本庄市オフィシャルサイト】 http://www.city.honjo.lg.jp/


はじめに

【 本庄まつり 】はジャンルBで得票数 11,647 票を獲得し、第3位にランクされました。
本書の説明です。

本庄市の金鑚神社秋季例大祭「本庄まつり」は、人形や彫刻、華麗などんちょうで飾られた賢覧豪華な10基の山車が呼び物。
10基の山車のうち8基は市の指定文化財で、1872(明治5)年から1924(大正13)年にかけて建造されたもの。2基は平成になってから追加された。
毎年11月2日,3日に行われ、12万人以上が訪れる。子供たちも参加して、お囃子が打ち鳴らされる。最終日の3日には中山道を山車が巡行、夜には市民プラザに山車10基が集結してクライマックスを迎える。』

本庄宿の総鎮守である金鑚神社の祭礼は、もとは9月29日に行われていました。明治初期に、明治天皇誕生日の11月3日に変更され、今日にいたっているそうです。
2日の宵祭は各町で山車が曳き廻されます。
3日未明、触れ太鼓が渡御の道順を廻り、午前11時頃、山車が神社前に集合し中仙道を巡行、駅前通りでは人形を迫り上げ練り歩きます。
夜は市民プラザに勢揃いし、囃子の叩き合いを行なって祭りが終わります。

現代の都市では警備やビジネス等の都合2日以上に渡るお祭りは難しいようです。したがって町興し的に出来上がったお祭りは比較的1日で終わるケースが多いようですが、伝統的お祭りの場合は宵祭りが行われているようです。
この本庄祭りも古くから伝わる伝統のまつりです。非常に興味深いお祭りとなるでしょう。
そんな思いで、2008年11月3日(祝)本庄に向かいました。

例によって我が自宅上尾から本庄へは一直線。行田や深谷と一緒で、鉄道ならJR高崎線、自動車なら国道17号線、どちらも一本です。昨日の2日は飯能まつりに行き、若干の・・・大層の疲れゆえ自動車で行くことにしました。
出発はAM10:00です。
国道17号線をひた走り、鴻巣を過ぎて行田バイパス、熊谷バイパスを通り・・・やはり三連休は混むのかなあ(渋滞するほどでは無いが)と思っていると、今日は深谷~熊谷間で駅伝開催中で午前中は17号線は通行止めでした。
バイパスなので比較的スムーズに走り、深谷バイパスを抜けるとまもなく17号本線に合流。そこから15~20分ほどで本庄に到着しました。

本庄市オフィシャルサイト】 http://www.city.honjo.lg.jp/