幻の東京赤煉瓦駅 #4

ここまでで品川から仮駅である呉服橋駅までの開通と、中央本線の始発駅である万世橋駅が開業し、いよいよ市街高架線もその陣容が揃い始めたのです。
そして次なるは二大停車場の一つで、明治の日本が誇る中央停車場の開業を急ぐことになるのです。

中央停車場

辰野金吾は、万世橋駅を建設中に東京駅の設計に全力を注ぎ、明治43年12月に東京駅図面一揃えを鉄道院に提出したのですが、時間を遡ると、既にお雇い外国人技師であるバルツァーも中央停車場そのものの設計にも関与していたのです。
バルツァーの提案した駅舎のコンセプトは日本建築で、部分的に切石を用いた煉瓦造りながら、和風の入母屋破風や唐破風を取り入れた屋根を載せるという構造だったのです。
バルツァーの東京駅案
つまり、日本の伝統的な城郭や寺社の建築様式を駅という新しい目的に利用することでバルツァーは、自国の文化を顧みず洋風の建築様式の建物が無秩序に建てられていく東京の現状に一石を投じようとしたのです。しかしながら、この日本風駅舎案は、ヨーロッパ崇拝の時代にあった当時の日本にあっては受け入れられるものではなく、辰野金吾によれば日本を訪れた西洋婦人が物珍しさから、洋服を着ながら日本風に髪を結って日本の履物を履くような「赤毛の島田髷」と酷評したのです。
更に使い勝手にも非常に難があったようです。
駅舎は4つに別れていて、一番右の大きな駅舎が長距離鉄道用の入口(乗車)で、一番左の駅舎がその長距離鉄道用の出口(降車)で、その間何と300メートル離れているのです。そして右から2番目の駅舎が皇室用で、左から2番目の一番小さな駅舎が近距離鉄道用の出入口(乗降)だったのです。
バルツァーの東京駅案
このため改めて駅舎についての設計が行われ、当時の建築界の権威であった辰野金吾に1903(明治36)年12月、依頼されることになり、結果的に、辰野率いる辰野葛西建築事務所による駅舎設計は足掛け8年にも及ぶものとなったのです。

まず1904(明治37)年早々に第1案の設計ができあがってきました。
第1案
これは中央に皇室専用口を、両側に乗車口と降車口を配する基本的な構造はバルツァー案と同一で、これらの出入口については3階建て、それらをつなぐ部分は1階建てか2階建ての構造でした。
まるでクレムリンのような外観ですね。
この第1案は低コストだったために造られた案で、両翼の八角ドームの形態はこの時点で現れていて、このドームはほぼそのまま最終案まで残っているのです。

この後、いくらかの修正を繰り返しながら設計を進め、第2案が提出されたのです。
第2案
規模は第1案とほぼ同じで、予算の限界もあったことから屋根周りの表情を整えた程度の設計だったようです。
こちらはディズニーランドイメージでしょうか。

その後、設計作業は遅延したものの、日露戦争における勝利や、鉄道国有化の影響もあり、一気に駅舎の規模が拡大すことになったのです。それまでの予算65万円から一挙に250万円となったことから、総3階建て構造にする方針が1907(明治40)年に報じられたのです。
こうして第3案では、両翼に乗車口・降車口を、中央に皇室口を配する基本はそのままに、これらをつなぐ中間の部分を総3階建て構造としたのです。
第3案
これにより水平線が通って建物のまとまり感が生み出され、第3案での皇室口の上に小さな塔を撤去したものが最終案となり、中央停車場の設計が完了したのです。

前述したように高架橋はすでに出来上がっており、仮の呉服橋駅までは運行されていた状況なかで、駅舎工事についても設計の完了する以前の1908(明治41)年3月25日には基礎工事が開始されていたです。これは上部構造の概要が固まっていたことや、1912(明治45)年に東京で万国博覧会を開く計画があったことなどから、当局が工事速成を要望して設計完了前に着工されたものとされています。ただし、博覧会は結局予算の問題などから中止になりました。
丸の内南口付近の建設工事の様子ですが、背後を電車が通り抜けていることが窺えます。
東京駅工事
工事を担当したのは、関西を基盤とする当時新興の建設業者大林組で当然競争入札で落札したものです。この大林組の工事は大変入念で、完成後に熟練の検査官が検査をしても1つも欠点を発見できないと舌を巻いたほどで、鉄道院から褒状が送られたそうです。
東京駅工事 東京駅工事 東京駅工事
そして実質的な工事期間、5年7か月あまりで東京駅が完成したのです。

こうして1914(大正3)年12月20日に完成した東京駅本屋は地上3階、地下1階建、建築面積約7800㎡、延べ床面積約2万3900㎡で、高さは地盤からドーム上面まで約34.8 m(避雷針を除く)、中央部の軒高は約16.7 m、長さは約335 mという巨大な駅舎となりました。
東京駅 東京駅 東京駅
使用した材料は煉瓦926万6500個、セメント2万8843樽、花崗岩8万3395切、鉄材3500トン、木材1万8200尺、松丸太1万1050本に上り、作業員は延べ74万7294人で、1日平均300人強が働いていたがもっとも現場が忙しい時期には1000人近くが働いていたそうで、工事中に4人が転落事故で亡くなっています。

当時の東京駅の煉瓦の一部分が鉄道博物館に展示されています。
東京駅の煉瓦 東京駅の煉瓦
この展示煉瓦は、丸の内駅舎の北端角部に建つ八角形の塔部の外壁の一部を切り取ったもので、外壁は煉瓦2枚半分の厚みの躯体部分と、化粧煉瓦を貼った表面から作られています。
躯体煉瓦はオランダ積み(基本的にはイギリス積みト同様で端部分が違う)で、2種類の厚さの化粧煉瓦を交互に貼り付けて滑らかに仕上げているのです。更に化粧煉瓦は焼き上がりの色調をそろえるため「カッセル窯」という特別な無縁窯で焼きあがられたもので、小口積みで積みあげられています。また、煉瓦の間の目地は一般的なものより施行に手間のかかる覆輪目地という工法を用いられて、より外壁を美しく見せているのです。
このように東京駅丸の内駅舎の美しい赤色は、部材の選定から工法といった細部にわたるまで工夫され、更に丁寧な施行によって実現した美しい駅舎なのです。まさに明治の威信をかけた東京中央停車場だったのです。
因みにこの外壁は戦災で失われた3階部分の立ち上がりに位置していて、戦後の復旧工事の際、この煉瓦の上面の位置で切断・撤去されたのです。そしてこの切断面の上部に屋根をかけるために、外壁の一部が削り取られ、角材をはめ込みモルタルを流し込んで、屋根を支える基礎部分としたそうで、復元される前の貴重な3階部分の煉瓦なのです。

この様に手をかけた建設工費は「東京停車場建築工事報告」での集計では282万2005円で、その当時工事中であったステーションホテルの費用約16万円を含めると約298万円に達したのですが、明治後期の1円が凡そ現在の10,000円くらいですから、凡そ298億円の建設費ということになります。
正面から向かって右側(南側)の八角大広間は乗車口で、出札口、一等待合室、一二等婦人待合室、二等待合室、三等待合室、手荷物一時預所及鉄道案内所、小手荷物受取所、食堂、駅長室及事務室などが設置され、また駅舎背面の付属建物の中に一二等用便所洗面所、三等用便所洗面所、公衆電信電報郵便取扱所、物品販売店などが置かれていました。
南口広間 一等待合室
一方、正面から向かって左側(北側)の八角大広間は降車口で、待合室、婦人待合室、小手荷物交付所、手荷物一時預所及鉄道案内所、公衆電信電話所、小手荷物倉庫、駅舎背後の付属建物に便所が置かれていたのです。
北口玄関
中央部の皇室口の中には玄関広間、広間の両側に2か所の待合室、休憩室、また階段の上にも待合室が2室用意されていました。
皇室待合室
特に南北の八角形大広間のドーム天井には、鷲の像や十二支をモチーフにしたレリーフ、兜や鎧など日本的なモチーフをデザインした装飾などが取り付けられていて、東京駅内部の一つの見どころともなったようです。
当時のドームと現在復原されたドームです。
開業時のドーム 復原されたドーム
見事な美しさというべきでしょう。
このように明治国家の威信をかけた東京駅駅舎が今、甦ったわけです。

一方、プラットホームは丸の内駅舎側に電車発着用の2面、八重洲側に列車発着用の2面が用意されました。
プラットホーム
このうちもっとも西側(丸の内駅舎側)の電車用1面のみ幅が30尺 (9.1 m) で、他は40尺 (12.1 m) 用意され、当時としては非常に広いプラットホームで、これは天皇行幸時の歓送迎の儀式に必要な大きさから決められたものだったのです。
長さは電車用が492尺 (149.1 m)、列車用が775尺 (234.8 m) あった。乗車口・降車口・電車降車口と結ぶ3本の通路が高架下に通り、またこれとは別に皇室口から特別通路が設けられていました。
皇室専用通路
さらに手荷物運搬用の通路や、東京中央郵便局と連絡する郵便物運搬用の地下通路なども設けられていました。この他構内には客車用の留置線、洗浄線、検査修繕設備、機関庫などが配置されていました。
以上の構成で、駅舎や高架線、プラットホーム、通路などを含めた中央停車場の総工費は407万1210円だったそうです。現在のレートで換算すれば400億円プロジェクトだったのです。

ここでプラットホームのこの部分に注目してください。
架線柱
この架線柱は、このように現在の東京駅にも残されているのです。
架線柱
東京駅の5、6番線の下り京浜東北線と外回りの山手線が停まるホーム上です。
駅舎のみならずホームも戦災によってかなり破壊されていたようで、架線柱も僅かしか残っていなかったようです。
戦災時のホーム 戦災時の架線柱
隣の東海道線7、8番線のホームから見ると、復原された東京駅駅舎とともに見られるアングルで、まさに明治期の再現なのです。
現在の架線柱
そしてこの架線柱の下部は5、6番線の柱の中にあえて緑色に塗られている柱が4本あり、この柱の上部には装飾が施されていて、明治期の凝った造りが残されています。
現在の架線柱 現在の架線柱 現在の架線柱
柱に巻かれたプレートには“アンカーボルト M43.4”とあるので、基礎の打ち込まれたのが「明治43年4月」ということでしょうかね。
現在の架線柱
いずれにしても戦災によって多くが焼失した中で、駅舎以外では明治期の貴重な遺構といえるのでしょう。

こうして完成した中央停車場は皇居の真正面に駅が建設され行幸道路により直結されたのです。
行幸道路
また駅舎の中央に皇室口が設けられたことなど、完成した東京駅は「国家の中心駅」「天皇の駅」としての位置づけが強く打ち出されたものとなったのです。
皇室口
それは一方では利便性を無視した造りとなっており、乗車口と降車口が200m以上も離れたところに配置され、さらに当時の東京市街の繁華街であった日本橋に近い八重洲側には出入口が設けられなかったことに表れているのです。
このように実用性を無視した設計は、その後東京駅の利用客の急増が予想をはるかに上回るものだったとはいえ、完成して十数年で駅の機能が行き詰まることにつながり、以降絶えず改築工事が続けられるということになったのです。これは1937年(昭和12年)完成の名古屋駅が完成後60年以上にわたって大きな手を加えずに供用され続けたことに比べて、少なくとも駅舎機能としての東京駅は失敗作との評価がなされている論調もあったようです。
名古屋駅
現在の復原ブームを知ると、このような論調があったことは実に驚くべきことですね。

いずれにしてもこうして完成した停車場は建設段階では「中央停車場」と称されていたのですが、開業が迫ってくるとその名前をどうするかが問題となりました。東京にはいくつもの駅があるので、中央停車場のみを東京駅と称するのは問題があり、諸外国の例を見ても中央駅とすべきであるという主張もあり、一方では地方の人にとっては東京駅の方が分かりやすいという主張もあったのです。
そして最終的に東京駅の名を提案したのが当時の鉄道院文書課長の中川正太で、結局開業まで2週間ほどしかない1914(大正3)年12月5日に鉄道院総裁達第113号により、中央停車場を東京駅とすることが正式に発表されたのでした。
東京駅碑
そして12月18日には、来賓を招いて開業記念式典が開催されたのです。
開業式典
その2日後の12月20日から東京駅は正式開業し、一般に営業を開始すると同時に呉服橋駅は廃止となり、また鉄道開業以来の始発駅であった新橋駅は旅客営業を廃止して汐留駅となったのです。
そして100年近くの時を経て、当時の東京駅が復原されたのは周知の通りです。
復原された東京駅 復原された東京駅 復原された東京駅
明治の誇りが平成の世に甦った瞬間なのです。

そして、もう一つ外してはならないのが新橋駅で、東京駅開業と同時に高架線の上で営業していた烏森駅が代わって新橋駅となったのですが、この2代目新橋駅も東京駅と同時に駅舎の建設が行われており、東京駅より一足早い1914(大正3)年3月30日にルネサンス様式煉瓦造りの駅舎が完成していたのです。
2代目新橋駅
このように万世橋駅に近似しているのは、万世橋駅を参考に鉄道院が設計したからなのです。
いずれにしても、この東京駅が完成した時点で、「幻の東京赤煉瓦駅」の3兄弟が出揃ったことになるのです。
万世橋駅 東京駅 新橋駅
年代から言えば、左から長男の「万世橋駅」、中央が三男の「東京駅」、そして右が次男の「新橋駅」ということになるのでしょう。
こうして首都東京の鉄道も東京駅を中心に更なる発展を遂げることとなるのです。

(つづく)

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はじめに

東京駅丸の内駅舎 2012年10月1日、東京駅丸の内駅舎が1914(大正3)年の開業当時の駅舎に復原されたのは周知の通りです。
まさに大正ロマンの香り漂う赤煉瓦の駅舎は、丸の内で復元された三菱一号館とともに明治・大正にタイムスリップしたかのような美しい光景に出会えることとなったのです。様々なイベントなども行われ、東京駅周辺は華やぎ、ここしばらくは賑わい続くことでしょう。

幻の東京赤煉瓦駅 この東京駅丸の内駅舎に関して書かれた書籍の一つに『幻の東京赤煉瓦駅』(平凡社新書)があります。
著者は中西隆紀で、1947年大阪氏生まれ。多摩美術大学卒業。編集者、書籍デザイナーを経て現在ライターというプロフィールで、この書籍の概要は、当時膨張する首都・東京の駅と鉄道が大震災や戦災に耐え、どのような変遷を辿ってきたかを著したものです。
実に面白い書籍であったことから、この内容を追ってみようと思い立ったのが5年ほど前で、現在のサイトの前身であった「HIPな解毒剤」に掲載したのです。しかし思わぬアクシデントから挫折し、未完となった記事だったのです。
現在、記念碑的にこのサイトに移植しているのですが、ここでも結局未完のままの放置プレイ状況といったところなのです。
そこに今度の東京駅丸の内駅舎の復原と鉄道開通140周年の区切りとあって、折角の機会なので改訂記事により5年ぶりに完結させるのです。
そこでまずは改めて今回のテーマを著しておきます。
本書のプロローグです。

時は明治5年「汽笛一声、新橋」で有名な新橋-横浜間の鉄道発祥からずっと新橋(旧新橋駅)は常に終着駅であり続けた。確かに鉄道発祥以来、鉄路は西へ西へと延伸していった。しかし新橋から東海道方面が全通しても東京の終着は新橋。さらに下関までつながってもまだ新橋。九州鉄道が熊本まで開通してもまだまだ新橋であり続け、新橋終着は明治43年までの38年間も続いたのである。言い方を変えれば明治という時代を通じて新橋は「東京の玄関口」すなわち、明治東京の顔が新橋だったのである。

現代からは全く考えられないことですが、現在の上野駅のような高崎線・常磐線といった終着駅とは異なり、新橋駅の終着駅とは文字通りの“終着”で、乗り継ぎの鉄道が無いということを意味しているのです。
その理由は単純明快で当時の東京が既に過密都市だったからなのです。
江戸時代に100万人都市だった東京の、そのまた中心部ですから簡単に路線を引ける状況ではなかったのです。更に当時の政府の要望が日本縦貫優先と先進国並みの建築水準を持つ鉄道施設というかなりハードルの高いものであったのも理由のひとつです。
この難題を一気に解決しようとしたのが「東京中央駅」と連動した「高架アーチ群構想」で、これこそが日本の首都としての威信と美観を兼ねた“幻の東京赤煉瓦駅”が著した国家プロジェクトだったのです。
江戸時代の鎖国が終わり、欧米に追いつけ追い越せという明治の人々の力と精神力を知ることのできる端的な例と言えるでしょう。
まずは、140周年を迎える鉄道の開業から紐解いていくことにします。