宿場町絵図

宿場町絵図

桶川宿は、江戸から「板橋」「蕨」「浦和」「大宮」「上尾」に続く六番目の宿で、日本橋から十里余りです。健脚な当時の江戸の人々ならほぼ一日の行程で、ちょうどマラソンの距離とほぼ同じです。
中山道は、徳川家康が1590年江戸に本拠を置いた後、五街道の一つとして整備されました。三代将軍家光により参勤交代の制度が確立した1635年頃に、この桶川宿は成立していたようです。
宿場成立時には58軒であった戸数は、特産の紅花が取引されるようになる1800年には247軒に達して、町としての姿となったのです。
その後、桶川宿は、「中山道もの」と呼ばれた麦や紅花の集散地として栄え、幕末には家数も347軒に達しています。
明治期以降は、高崎線桶川駅の開業とともに、宿場としての役割を終え、埼玉県中央部における麦の集散地として繁栄しているのです。

旧中山道桶川宿散策

当時の宿場町のエリアの端には木戸が設置されていました。
南側の木戸があったところは、かつての中山道(現・県道164号線)と、かつての川越街道の交差点あたりです。

木戸跡(下)の碑と旧中山道 木戸跡(下)の碑と旧中山道

木戸跡(下)の碑と旧中山道

木戸跡の記念碑からスタートします。

右側の家の屋根には、煉瓦のしょうき様が祀られています。

屋根の上のしょうき様 屋根の上のしょうき様

屋根の上のしょうき様

これは鬼瓦と同じ、所謂、悪霊退散といった魔除けなのです。

武村旅館

左手にあるのが「武村旅館」です。

武村旅館

武村旅館

江戸末期の天保年間(1840年頃)には36軒の旅籠があり、文久元(1861)年頃には、この武村旅館も存在していたようです。

武村旅館

当時の間取り

当時の間取りは現在も受け継がれていて、嬉しいことに現在でもビジネス旅館として営業しています。
木造三階建ての建物は、国登録有形文化財(建造物)に認定されていて、リーズナブルな価格で利用できるそうです。

浄念寺

武村旅館の少し先にあるのが「浄念寺」です。

浄念寺 浄念寺 浄念寺

歴史ある山門と梵鐘・仁王像


朱の見事な山門を見ることが出来ます。「新編武蔵風土記稿」にも記された元禄14(1701)年に再建された歴史ある山門です。
また、梵鐘は寛保元(1741)年に鋳造されたもので、桶川宿中に鳴り響いたようです。しかしながら大戦で供出され、現在の梵鐘は昭和40年製だそうです。
仁王像は明和5(1768)年に開眼されたもので、こちらも歴史を誇っています。

浄念寺

浄念寺本堂

室町時代後期の天文15年に開創したと言われているのですが、新編武蔵国風土記稿では、室町時代初期(1360年頃)に修行のための庵をもとに、戦国時代に寺院にしたのが初めと記載されているようです。
開創した頃から地元との関係が深かったようで、桶川宿を治めた西尾隠岐守吉次から寄進を受けていたのです。

浄念寺 板石塔婆

板石塔婆

浄念寺 石塔

供養塔と石碑群

境内の一画に板石塔婆が置かれています。
最も古いものが正和4(1315)年で、最も新しいものが天文19(1550)年のものです。その中の中央にある一番大きな板石塔婆が、浄念寺の礎となった庵を作った朗海上人を供養するものです。

島村家住宅土蔵

桶川駅前通りとの交差点の角にあるビルの奥にあるのが「島村家住宅土蔵」です。

三階建ての土蔵 三階建ての土蔵

全国でも珍しい三階建ての土蔵

桁行六間、梁間三間の木造三階建ての土蔵で、江戸時代後期の天保7(1836)年の建築で、観音開きの扉口があり、外部は黒漆喰壁保護のためにトタンを被せています。

鬼板に刻まれた屋号

鬼板に刻まれた屋号

屋根は瓦葺で箱棟に仕上げられ、両端の鬼板には「○の中に木」の屋号が刻まれ、当時としては豪壮な高級建築のようです。

旅歴メモ -木嶋屋総本家-

嶋村家は屋号を「木嶋屋総本家」と呼ばれ先祖は上村の農家嶋村膳右衛門より出家し、文次郎(四代目)が商人を志して商売をはじめ、材木、白縞を売買して木嶋屋を名乗りました。
後に最も木嶋屋を繁栄に導いたのが、源右衛門(五代目)の時で、この頃から穀物問屋、紅花での取引で大きな富を築いたのです。
所有していた田畑は、畑88反、山林40反で、畑は小作人28人に貸して収穫時には米俵200俵を大八車で納められたそうです。小作人は大八車で米を昼時に納めると必ずサバの煮付けを頂くのが楽しみだったようです。

紅花は当時近隣から集めて江戸経由で京都に販売していたのですが、後に京都と直接取引きとなりました。毎年京都から紅花を扱う商人が、桶川宿木嶋屋総本家へ紅花の買い付けに来ていたのですが、不幸にも京都から買付けに来ていた勢州(三重県)の林彦門が病で命を落とし、木嶋家の墓地に墓石が建てられたそうです。

この珍しい三階建ての蔵は、江戸時代初期及び明治期のみに建築されたもので、全国でも50例程度が現存しているだけのようです。
この要因は、江戸初期(1651年)に三階建築禁止令が出され、以降、三階建ての建築が規制されたためのようです。

埼玉県に分布する三階建て蔵

埼玉県に分布する三階建て蔵

県内には深谷市、上福岡(明治期)、入間市(大正期)、所沢市(昭和期)のあわせて5軒だけで、この蔵は県内では最古です。

お助け蔵縁起

お助け蔵縁起

そして、ここでは三階建て蔵を立てる際と同時に、二階建ての土蔵も建てられました。それは天保7年が全国的に凶作の年で米価が沸騰し、各地に百姓一揆が起こった年だったのです。これらの土蔵は、この期に飢饉に苦しむ人々に仕事を与えるために建てられたことから「お助け蔵」と言い伝えられているのです。

樹齢170年の銀木犀 樹齢170年の銀木犀

樹齢170年の銀木犀

蔵の近くには樹齢170年の銀木犀が満開で、甘酸っぱい香りを漂わせていました。

三階建て蔵の内部の構造 三階建て蔵の内部の構造

三階建て蔵の内部の構造

土間は切妻造りで、内部は太い松の木が屋根を支えています。

月に1回見学できる内部公開 月に1回見学できる内部公開

月に1回見学できる内部公開

蔵の中は毎月第一土曜日に一般公開され、「江戸時代生活用具資料館」として、蔵に保管してあった各種の用具などが展示されています。

時代的な人形

ひな人形などの時代的な人形

時代的な人形

首が無い人形

享保雛などを初めとした、人形などが飾られています。首が無いのは特に意味があるわけではなく、単に虫食いでなくなってしまっただけのようです。

収蔵していた用品を包んだ新聞紙 収蔵していた用品を包んだ新聞紙

収蔵していた用品を包んだ新聞紙

包んでいた新聞紙自体、貴重な展示品になるのですから驚きです。

昭和の時代も懐かしい

昭和の時代も懐かしい

そしてリアル世代として懐かしいものも沢山展示されています。
個人の所有で個人の管理では限界もあるでしょうが、これからも多くの方に触れていただきたいものです。

「助蔵」

現在の母屋

蔵の前にある現在の嶋村家のビルには「助蔵」という中華料理店があります。
一度、寄って見たいですね。

嘉永10年創業のお茶処 嘉永10年創業のお茶処

嘉永10年創業のお茶処

隣には嘉永10年創業とあるお茶屋があります。
嶋村米茶舗と書かれているので、もとは嶋村家の店舗だったようですが、現在は違う経営者のようです。

矢部家住宅店蔵

嶋村家から少し北上すると「矢部家住宅」があります。

矢部家住宅

矢部家住宅

矢部家は屋号を「木半」(木嶋屋半七)といい、主に穀物問屋を営んでいたそうです。
明治17年の建立で、桶川宿に残る唯一の店蔵で、桁行5間、梁間3間、黒漆喰塗りの重厚な構えで、棟札には川越の「亀屋」建築などに係わりの深い大工や左官の他、地元の大工、鳶が名を連ねているそうです。
矢部家住宅 鳥おどし

烏おどし

屋根の鬼瓦の上から鋳鉄製の棘状の棟飾りが出ているのが特徴だそうで、これは「烏」または「烏おどし」とも呼ばれ、鳥よけと言われているものです。

紅花商人寄進の石燈籠

紅花商人寄進の石燈籠

紅花の取引も行い、桶川の稲荷神社境内に残る「紅花商人寄進の石燈籠」に刻まれた24人の紅花商人の中に名を連ねており、当時の繁栄を偲ばせています。

小林家住宅主屋

旧中山道を挟んで矢部家住宅店蔵の前にあるのが「小林家住宅主屋」です。

小林家住宅主屋

小林家住宅主屋

元は穀屋(古久屋)吉右衛門が、江戸時代末期の建てられた旅籠(宿屋)で、天保11(1840)年、または嘉永5(1852)年の建立と考えられているようです。
小林家住宅主屋 間取り図

旅籠当時の間取り

小林家住宅主屋

旅籠の特徴である2階の出窓

その後、小林家が建物を買い取り、材木商を営みました。それに伴って改修され、旅籠当時の間取りは図面に残っているのみですが、外観は建築当時の姿です。
現在は、半分が材木商で、半分はパン屋になっています。

桶川宿本陣遺構

本陣とは江戸時代参勤交代の際、大名が使用するための宿場に設置された宿泊所です。

桶川本陣遺構 桶川本陣遺構 桶川本陣遺構

桶川本陣遺構


この桶川宿本陣は、加賀百万石前田家の宿所とされたほか、水戸藩主徳川斉昭(15代慶喜の父)も利用したそうです。
また、文久元(1861)年には江戸に向う皇女和宮が宿泊したことでも有名な本陣です。
桶川宿本陣建物(c)桶川市

桶川宿本陣建物(c)桶川市

わずかに一般公開の日もあるようですが、殆ど中には入れません。
明治天皇桶川行在所碑

明治天皇桶川行在所碑

また、明治天皇もこちらの本陣跡で休まれたようで、埼玉県内の中山道筋では、唯一の本陣遺構だそうです。

小高家屋敷稲荷社

桶川本陣遺構の裏手には「小高家屋敷稲荷社」があります。

小高家屋敷稲荷社

小さな稲荷社

桶川宿商家店先絵馬

桶川宿商家店先絵馬

小高家の稲荷社には、多くの絵馬が奉納されていました。その中で特別に掲額されていたものに、桶川市の文化財「桶川宿商家店先絵馬」があります。
当時の小高家は紅花を扱い繁昌しており、絵馬は、文久3年(1863)に上州館林の米屋勝右衛門(現在の美智子皇后の本家にあたる正田家)と近江商人の小泉栄助・利七から奉納されたものです。
この実物は桶川歴史民俗資料館に展示されています。

中山道宿場館

本陣遺構の旧中山道を挟んだ、斜向いには「中山道宿場館」があります。

中山道宿場館中山道宿場館

中山道宿場館

一種の観光案内所で、桶川宿や中仙道についての展示などがあります。
ポストカードの印刷 ポストカードの印刷

ポストカードの印刷

ここには三色印刷で、ポストカードが作れる体験コーナーがあります。
中山道桶川宿が、ガリ版刷りの原理で、自分で刷れるのです。結構、大人でも楽しめますが、私のはかなり汚い絵葉書となりましたね。
桶川ゆるキャラ

桶川ゆるキャラ

桶川のゆるキャラのお見送りで、中山道宿場館を後にします。
結構、濃厚な内容でしっかり学ぶにはいいところです。

今回の桶川宿巡りはここまでです。
他に見所がありますが、ここまでかつての宿場町の名残が多いところも少ないでしょう。
貴重な宿場の佇まいですので、これからも是非、残していただきたいものだと思います。

2014.09.10記
スポンサーサイト

以前から欲しいと思っていた自転車を購入しました。
以前いわゆる“ママチャリ”と呼ばれる家庭用自転車はあったのですが、自分用の自転車が欲しくていくつかの種類を検討しました。その結果街中などでの散策に活用できる自転車として“ミニベロ”といわれる小径車をチョイスしたのです。しかしながら街中の散策によいとしてもちょっと離れた街では、その街に行くだけでも一苦労でもあり、ここは効率を考えて自動車に乗せられる「折りたたみ」式にしたのです。(決して電車で、とは思わないのです;;)
幸いにも自家用車が1ボックスなのでスペースは充分確保できることから渡りに船ということもありでした。
調べてみるとミニベロ、特に折りたたみはその構造から耐久性や運動性能に劣るようですが、その中では「BROMPTON」や「DAHON」製の信頼性が高いようです。
BROMPTON DAHON
しかしそれに比例してコストも高いので、三日坊主に終わる可能性にある私にその賭けはリスキーでした。
単にコスト面から見ると10,000円を切るような折りたたみミニベロもあるのですが、流石に信頼性もさることながら、幾ら車載といえども重量の軽い車種を絞り込むと、アルミフレームの車体の折りたたみミニベロが両者の条件をを最低限満たすことができるようでした。

6月16日、輸入車専門の店が久喜市菖蒲にあったことから、買い物のついでに立ち寄ってみたのです。
特に対象としたのが自動車メーカーブランドのミニベロで、「ジープ」「シボレー」「ルノー」などがあります。
ネットで検索すると自動車メーカーブランドの自転車は・・・、云々とあまり良い評判は見られませんでしたが、速さや距離を目的とする本格的な自転車を求めているわけでもなく、オッサンのポタリングには見た目が重要ですので、これらの手ごろなブランド車が一番いいんです。
更に目移りしそうなミニベロが数々あったのですが、その中で選んだのが「ローバー」ブランドでした。
ROVER
アルミフレームで車体重量も12kgを切り説明によれば、まあそこそこの耐久性ということで、あとは好みの問題でブリティッシュグリーンのローバーを選択したのです。
価格も30,000円程度と手頃なことから購入を決定したのですが、なんと嬉しいことにちょうど父の日でもあったことから、二人の娘がプレゼントしてくれることとなったのです。
実にラッキーなタイミングでした。
早速テスト走行をしたのですが、実際に本格的に乗るのはその一週間後となったのです。

サイクリング・ヴギ

このところ優れない天気が続く中、6月22日土曜日は前日までの天気予報がはずれ、朝から天気も良く初サイクリング日和でした。ルートは以前から計画していた上尾市から桶川市にかけての荒川流域のサイクリングです。
何十年と運動らしき運動もせず、ましてここ2~30年ほどは自転車に乗ったことも無いのですからサイクリングと言ってもどれだけ走れるのか全くわかりません。確かに最近はジムのエアロバイクで30分ほど走ることもあるのですが、何と言っても機械と自然の中でのサイクリングは環境が全く違います。
そんなこともあって自分の体力を把握するためにも今回のサイクリングは良い試走となるのです。

先に今回の予定コースを見ていただきましょう。
予定サイクリングルート
当然ながら折りたたみの特徴を活かして、まずは自宅から自動車で15分くらいの上尾丸山公園に向かい、丸山公園で自転車に乗り換えて西方向に進んでサイクリングロードを目指します。
荒川沿いの「県央ふれあいんぐロード」(上尾エリア内では「上尾サイクリングロード」)を北上し、途中、樋詰橋で荒川を渡り桶川市に至り、途中から右折して北上し一気にホンダエアポートに向かいます。
ホンダエアポートで一休みして更に北上し、県道12号線を右折して太郎右衛門橋を渡り、川田谷に出てから再び右折して「県央ふれあいんぐロード」を南下します。
途中、泉福寺で休憩し榎本牧場でジェラートを食べる定番をしてから丸山公園に戻るという、凡そ12~3km程度のサイクリングです。
15km程度とは言ったものの、実際に走って見なければ完走できるのか未知数です。途中リタイアしたらどうやって戻ろうか、などなど不安はかなりあるのですが、まあ、なんとかなるのでしょう。
ということで、いよいよ出発です。

上尾サイクリングロード

到着した「上尾丸山公園」では“しょうぶ祭り”が開催中でした。
上尾丸山公園
少し散策とも思ったのですが、気持ちは彼方に馳せていますので帰りに廻ってみることにして自転車の組立を始めます。
ROVER組立 ROVER組立 ROVER組立
組立といっても中央で折れている部分を延ばし、やはり折られているハンドル部分を立ち上げるだけですので、ものの5分も掛らない作業です。
ROVER組立 ROVER組立
一応、サイクリングビギナーとして位置や動力・制動部分のチェックをしてから、いざスタートです。

一般道を西へ進むと“サイクリングロード”の案内板が出現します。
スタート サイクリングロード入口 サイクリングロード入口
南北のコースがあるようですが、予定したコースは方角的に北に向いますので“北コース”へ向います。
ホンの少し走ると小高い丘の上に四阿が現れます。
アッピーお休み処
「アッピーお休み処」と言うことなので、上尾市がサイクリングロードの休憩所として設置したものだと思われます。
見晴しは良いのですが、自転車を担いで上がるのでちょっと面倒です。
アッピーお休み処
ここからは河川敷を走るサイクリングロードに相応しい光景となります。
サイクリングロード
舗装されたサイクリングロードは片側1車線といった感じで難なく対向車とすれ違う余裕はあるのですが、他の方とは圧倒的なスピードの差がありますので、ビギナーとしてはすれ違うだけでも緊張ものです。
対向車
そして周りが静かなので意外と自転車のロードノイズが大きいのをはじめて知りました。後から追いついてくる自転車がそのロードノイズで追いつかれるのが判るのです。そう考えるとiPodで音楽を聴きながらというわけにはいきませんね。
そんな初めての体験をしながら走ると右手に榎本牧場が見えます。
榎本牧場 榎本牧場
榎本牧場】は上尾グルッと名所図会で訪れましたが、裏にサイクリングロードがあるのですから、休憩がてら立ち寄って名物のジェラートを食べる気持ちがよく判りますね。
今回は帰りに再び寄ってみるつもりです。

風景は益々河川敷らしい長閑な雰囲気の中を進みます。
県央ふれあいんぐロード
自転車は“私なりに”順調で、相変わらず対向車と追越車に多少の緊張を覚えながらも、実にウキウキさせられる気持ちのよい体験を満喫します。自転車、あるいはサイクリングが流行っているのも納得ですね。
そして見えたきたのが「樋詰橋」という小さな橋です。
樋詰橋
いわゆる洪水が起きると水浸しになる“冠水橋”で、大型車は無理ですが一般車は通れる橋でこのあたりはもう桶川市となります。 橋の下を流れるのが荒川です。
“荒ぶる川”荒川がこんなに長閑なのも良いものですね。
荒川 荒川
ここからはサイクリングロードと別れ、樋詰橋を渡って最初の目的地であり「ホンダエアポート」を目指します。
光景は水田のある河川敷の風景に変わります。
水田風景 河川敷
この辺りはちょうどエアポートの南方向に当たるので、盛んに上空を飛行機が飛交ってくのを見ることができます。
エアポートからの飛行 エアポートからの飛行
いよいよサイクリングも佳境となります。

ホンダエアポート

本来はここから右折して畦道のような道を進むのですが、昨日までの雨のため道はぬかるんでいて水溜りが沢山できています。ま、クリーニングすれば済むことですが、やはり“おニュー”の自転車をあまり泥だらけにするのは、という心理からとりあえずもう少し先に進んで舗装道路を行こうと決めたのです。
河川敷を進む
しかし行けども行けども畦道ばかりで、ちょっとの不安を感じ始めた矢先にやっと右折のできる道に到着しました。
道路の左側には「さいたま武蔵丘陵森林公園自転車道」と言う標識が現れました。
さいたま武蔵丘陵森林公園自転車道
ネットで調べてみるとなんと、江戸川区の葛西臨海公園から埼玉県の熊谷市までの約90kmにも亘る壮大なサイクリングロードだったのです。
ゆっくり走っていると何台かには追い越しの際に注意喚起のベルを鳴らされるので、迷惑になるのも申し訳ないのでサイクリングロードと並行する土手の上の道を進むことにしたのです。
土手上の道 サイクリングロードと管理用道路
少し先には「海まで52.0km」の標識があり、さすが海無し県だなあ、と再認識させられたのでした。
標識

しばらくサイクリングの爽快感を味わいながら進んでいきます。
まさに田園風景です。
河川敷を進む 田園風景
しばらく進むと左手にコンクリートの大きな建物が現れます。
埼玉県防災航空センター
「埼玉県防災航空センター」と言うようです。
ここは防災ヘリによって消防活動を行うための拠点で、ヘリコプターなどの機体の購入は埼玉県が行い、ヘリに搭乗して活動するのは埼玉県市町村内の消防隊員、そしてヘリの操縦・整備を民間の本田航空㈱に委託するという官民一体の施設なのですが、建物的には本田航空の社屋なのです。
ヘリコプターの姿は見えませんでしたが、セスナの機体が格納されているのを見ることができました。
格納庫
そしてこの施設の反対側が「ホンダエアポート」なのです。
ホンダエアポート
滑走路に近づいて見ます。“吹き流し”のある空港らしい光景です。
ホンダエアポート 吹流し
このホンダエアポートは1964年3月にホンダによって開設された軽飛行機専用の飛行場で、、おもな業務は以下の通りです。
●本田航空による遊覧飛行、ライセンス取得スクール、航空写真、広告・宣伝飛行の機体の発着
●埼玉県、栃木県防災ヘリコプターの運航
●飛行船の発着
滑走路の全景です。
滑走路全景
当たり前ですが、こんな小さくてもちゃんと管制塔があるのです。
管制塔 管制塔
タイヤの着いた移動式の管制塔って言うのもなかなかお目にかかれないでしょうね。
多くの軽飛行機がありますが、中にはこんな機体も。
軽飛行機
やはり小振りでも飛行場と言うのはそそられるものです。
エアポート
しばらく飛行場を眺めていると南の方角から落下傘部隊が。。。
スカイダイビング スカイダイビング
ここホンダエアポートの滑走路の側には東京から最も近いドロップゾーン(降下地点)があり、首都圏におけるスカイダイビングのメッカとなっているのだそうで、それを運営しているのが「東京スカイダイビングクラブ」で、1回に10人とか15人とかがダイビングするようです。
ちょうどダイバーを乗せた飛行機が戻ってきたようです。
着陸機 東京スカイダイビングクラブ
このように身近なエアポートとして、1日中見ていても飽きることはないホンダエアポートなのです。

南側からは大きな爆音が聞こえるので行って見ます。
こちらは「桶川スポーツランド」のサーキットで、様々なフリー走行が楽しめるサーキットなのだそうです。
桶川スポーツランド 桶川スポーツランド 桶川スポーツランド
エアポートに戻り帰り際、別の爆音が聞こえるので行ってみると、こちらはラジコンバギーのサーキット場です。
ラジコンコース ラジコンコース ラジコンコース
これも結構見ていても飽きないものですね。
楽しみ方一杯で、これで横の荒川でボートでもできれば陸、海、空を楽しめるエリアになるのですが。
ホンダエアポート
ちょっとオジサンには楽しい場所でした。

桶川分教場

ホンダエアポートを後にして、再びサイクリングロードに戻り北に進みます。
土手の上のサイクリングロードですからとても気持ちが良いです。
サイクリングロード
しばらく進むと県道12号線と交差します。
交差点
標識にあるとおり、真っ直ぐ進むとサイクリングロード、左が川越方面、右が桶川方面となります。
標識
ここからは海まで53.9kmですから、このサイクリングロードを約2km走ったことになります。
標識

もう一つ看板があり、ここには「熊谷陸軍飛行学校 桶川分教場」と記載されています。
案内板
どうやら桶川には訓練場のようなものがあったようで、それも特攻隊に関連しているようです。折角知ったので立ち寄って見ることにします。
まずは県道12号線を桶川方面に進みますが,右に見える大きな橋「太郎右衛門橋」を渡ります。
太郎右衛門橋
人の名前らしき橋名ですが、もともとここには“渡し”があり、その運営者の名前をとって名付けられたものだそうです。
かなり長く大きな橋です。
太郎右衛門橋
元々歩道はなったのですが、交通量が増えたことから上流側だけに歩道が付け足されたので、下流側にある先ほどのホンダエアポートは道を挟んでしか写真を撮ることができないのです。
太郎右衛門橋

太郎右衛門橋を渡って橋の袂を側道に沿ってUターンすると看板があります。
案内板
案内のまままっすぐ正面に進むと道の両側には「境界杭 陸軍」と説明された杭がところかしこに立っています。
境界杭
かつてこの辺りが陸軍の敷地だったことを物語っているのです。
「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡」と書かれた看板のかかった古い建物が眼に入ります。
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡
奥に入ると一回り大きい建物があり、そこには「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場本部兵舎跡」と書かれています。
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場本部兵舎跡熊谷陸軍飛行学校桶川分教場本部兵舎跡
ここが主要な建物だったのでしょう。

この桶川飛行学校とは、昭和10年に開設された熊谷陸軍飛行学校の桶川分教場として昭和12年に開設された学校で、当初は下士官、その後少年飛行兵や学徒動員の大学生などが教育を受けたのだそうです。
今日は土曜日なので一般公開されていて、建物内を見学することができます。
兵舎内 建物
建物の造りはまさしく学校の造りで、こういった当時のトイレなども残されているのです。
トイレ
戦後は大陸からの引揚者などの住居として使用され、敷地は国、建物は桶川市の所有だったそうです。平成19年に最後の住民が転出した際、当初は更地になる予定だったのですが、「NPO法人 旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会」が署名活動を行い、平成22年桶川市がこの土地を購入し存続されることになったのです。

当時の建物や様々な展示物も大変興味をひかれるのですが、特筆すべきは会の名称でもある“語り継ぐ”ということでしょう。
展示品 展示品
先の通り当初は飛行兵を育てるための教育の場であったのですが、戦況が険しくなってきた頃の昭和20年2月以降は特攻隊の訓練基地として使用された事なのです。
その特攻機にかかわった元整備員の方が、ここで当時の話をしてくださいます。
現在北本市に在住の柳井氏によると、特攻攻撃の訓練は現在のホンダエアポートの滑走路から本田航空社屋に向かう途中の、堤防上に立っていた吹き流しをめがけて急降下、急上昇を繰り返し行ったようです。 先程見たあの“吹き流し”が当時のイメージを伝えていたものだったのかも知れませんね。
そして昭和20年4月、この桶川の特攻隊員12名が鹿児島県の知覧基地から出撃することとなり、整備のため柳井氏を含めた整備員5名が同乗することとなったのだそうです。
その12名がこちらの“第79振武隊”と呼ばれる部隊で、柳井氏はこの中の山本少尉の特攻機に同乗したのだそうです。
第79振武隊
振武隊とは、特攻部隊のうち九州から出撃した部隊の名称で、台湾から出撃した部隊は“誠飛行隊”と呼ばれていたのです。
何故このような事になったのかと言えば、この当時は特攻をするにも機体が少ない為、陸軍として初めて練習機を塗り替えて特攻機に使用したためだったのです。したがって柳井氏は、ここ桶川を離陸し岐阜県にある陸軍各務原飛行場で一泊し、下関市の小月飛行場に向かったのだそうです。
途中、特攻隊員の山本少尉の出身地である京都では、超低空飛行で実家の辺りを2,3回周り、翼を大きく振って別れの挨拶をしたのだそうです。
そして小月飛行場に着くと翌日試運転を行い機体を隊員に引き渡したのです。その際山本少尉からは労いの言葉をかけてもらい整備員は列車で帰ったそうです。
4月7日特攻隊は知覧に到着し、昭和20年4月16日第79振武隊として沖縄の海に散ったのです。
この時の12人の寄せ書きは現在、知覧特攻平和会館に残されているそうです。
因みに山本少尉の隣の高橋少尉は戦死月日、戦死場所などが記載されていませんが、この方の機は敵機の攻撃に遭い小島に不時着し、一旦知覧に戻り再出撃するはずだったのですが、飛行機が無く再出撃の機会がなく存命されたのです。
第79振武隊
今の時代からしてみれば生きてて良かったということになるのでしょうが、当時は逆に生きているがためにつらい思いもされたとのことでした。
まだまだ興味深いお話をいくらでも聞くことができるのですが、すでに1時間以上たっていますのでこの辺りで失礼させていただきました。
平和そのもののようなホンダエアポートがこの様な歴史を持っていたとは思いもよらぬことで、驚きと感動のひと時を過ごさせてもらいました。

泉福寺

桶川分教場を後にして、太郎右衛門橋をくぐってここからは再び県央ふれあいんぐロードを南下します。
同じようにここでは河川敷を走り、振り返ればこのような光景となります。
太郎右衛門橋 県央ふれあいんぐロード 県央ふれあいんぐロード
しばらく進むと高台(土手上)に到着します。
ここからはホンダエアポートを荒川越しに見ることができます。
ホンダエアポート ホンダエアポート
そして反対側に重厚感ある仁王門を見ることができます。
仁王門
ここは「泉福寺」です。
開基は平安時代まで遡り、天長6(829)年淳和天皇の勅旨によって慈覚大師円仁によって開山されたのです。大師自らが薬師如来、地蔵菩薩、阿弥陀如来の三尊を刻み本尊として祀ったと言われているようです。
しかし源平の乱により伽藍を含め全てを焼失したのですが、鎌倉時代の文暦元(1234)年、信尊上人とその4人の弟子によって中興され、その弟子の4人の内の一人尊海は、川越の喜多院、中院などを復興したことにより、関東談林が開花したことからこの泉福寺が関東天台の祖山といわれているのです。
その後、戦国時代再び焼失するのですが江戸時代になって朱印地5石と不入地4万坪を受け、宝暦2(1752)年には山門、鐘楼を除いて殆ど完成され、現在の建物は概ねこの時代のものなのだそうです。

さてその仁王門ですが、左右の阿吽の仁王像はなんと石像です。
仁王像 仁王像
もしかしたら石像で見るのは初めてかもしれません。結構珍しい部類なのでしょうか。
そしてその奥が「阿弥陀堂」です。
泉福寺阿弥陀堂
縁起にあったように薬師如来、地蔵菩薩、阿弥陀如来の三尊を祀って開山されたのですが、そのうちの木造阿弥陀如来坐像だけが奇跡的に現存しているのです。
木造阿弥陀如来坐像 《案内板より/(C)桶川市教育委員会》
そしてその胎内には弘長2年(1262年)の銘文が刻まれていて鎌倉時代の作であることが判明したのです。
現在は重要文化財に指定されていて、阿弥陀堂の前の耐火収蔵庫内に安置されているのです。
耐火収蔵庫
最後に本堂をお参りして後にしたのです。
本堂
こんな身近に名刹があったとは大変驚きました。

泉福寺を後にして、ここからは大分疲れも出始めたことから若干ショートカットして一般道を進みます。
一般道にも見どころは結構あるのですが、ここは一目散といった感じですが、やはり上尾サイクリングロードの名物榎本牧場のジェラートは食べないわけには行かないでしょう。
榎本牧場 ジェラート
以前にも一度食べて美味しいことは保証付きですので、今回は「プリ・・・」、名前を忘れてしまいましたが、キャラメルとアーモンドとミルクを混ぜたジャラートをいただきました。
サイクリングの途中で食べるのは、一層美味しさがアップと言う感じです。
ここからは一気に飛ばして上尾丸山公園に戻ってきました。
最終的には15kmほどのサイクリングで本格的な方には鼻で笑われるくらいの距離ですが、私的には目一杯でした;;。

《今回のサイクリングルート》


より大きな地図で “サイクリング・ヴギ” ~上尾・桶川荒川流域散策~ を表示

それでも爽快感と心地よい疲労とともに気持ちはヴギ・ウギのリズムで、ちょっと病み付きになりそうな初サイクリングでした。
上尾市もサイクリングの街として活性化を図っているようなので、これからもローカルブームに載ってしまおうと目論んでいます。

2013.07.01記

べに花ふるさと館

6月26、27日の土日に開催された埼玉県桶川市の「べに花まつり」を訪れました。
当然こんな無学の私でも「紅花」の名前くらいは知っており、主としては染料や脂としてかつては使用されていた花というくらいの知識ですが・・・。 ただ、写真などでは何度も見たことはありますが、実際に「紅花」を見たことはありません。
そういった程度のレベルですから、絶好の機会とばかりに「べに花まつり」を散策することにしたのです。

訪れたのは6月26日の土曜日。当然ながら梅雨空のうっとしい季節ですが、どうにか今日1日は降水確率も低いようなので、何とかべに花をゆっくり見ることができるでしょう。
桶川市といえば上尾市の隣接市で実に車で15~20分でいける距離です。それゆえにそれほど早く行く必要も無いので、AM9:30過ぎに我が家を出発し、AM10:00ちょっと前には到着しました。
比較的珍しいであろう「べに花まつり」を楽しんでみることにします。

最初に訪れるのは今回の「べに花まつり」のメイン会場ともなっている「べに花ふるさと館」です。
「べに花ふるさと館」とは桶川市の運営している施設で、様々なイベントや行事、体験学習、展示・発表会などが多面的に活動できる施設で、2000年7月にオープンし今年10周年を迎えた施設です。
AM10:00といえども結構早めだったので、まだ、それほどの集客はなかろうとたかをくくっていたのですが、かなりの人出ので、駐車場はすでに満杯で臨時駐車場の方に回されました。
こう言っては何ですが、意外と人気のあるイベントなんですね。認識不足をお詫びします。
臨時駐車場からは歩いて4、5分といったところでしょうか。ところどころに案内の方も居て、判りやすくなっています。

べに花ふるさと館

モッタリモッタリと歩いて「べに花ふるさと館」に到着です。
べに花ふるさと館入口の前にはこういったイベントには今や定番のフリマがズラッと並んでいて、イベントの雰囲気を盛り上げています。

べに花ふるさと館長屋門フリマを見ながら進むと入口とも言うべき「長屋門」が出迎えます。

「長屋門」は近世諸大名の武家屋敷門として発生した形式で江戸時代に多く建てられた門です。諸大名は、自分の屋敷の周囲に家臣などのための長屋を建て住まわせていましたが、その一部に門を開いて、一棟とした物が長屋門の始まりだそうです。 その後、長屋門は上級武士の住宅の表門の形式として広く利用されるようになると同時に、郷村武士の家格をもつ家や、苗字帯刀を許された富裕な農家・庄屋でも長屋門は作られたのでした。
したがって武士以外の身分で長屋門を持つ家は資産家のシンボルの一つでもあるわけです。

べに花ふるさと館母屋「長屋門」を抜けると広い中庭があり正面に2階建てのメイン施設と思しき建物があります。結構大きな建物です。

べに花ふるさと館左手には様々な草花を販売している露店です。

べに花ふるさと館べに花まつりべに花ふるさと館べに花まつり右側には休憩スペースとともにステージが設置されています。
「べに花まつり」のアトラクションの一つとしてパフォーマンスがすでに始まっているようです。

べに花ふるさと館べに花まつり中庭をグルッと取り囲むように様々な露天が立ち並んでいます。但し、所謂一般的な露天商ではなく地元の方や団体が行っているようです。

それではとばかりに正面にある2階建ての建物に入ってみます。所謂、「長屋門」に対して「母屋」と呼ばれている建物だそうです。 1階はお土産物の販売と蕎麦、うどんのお店になっているようです。ここは結構有名らしくリーズナブルで美味しいと評判のようで、この日もたくさんのお客で行列をなしていました。
食事をするつもりはないので、2階の喫茶コーナーでお茶でもと上がってみました。
べに花ふるさと館畳敷きの喫茶コーナーでなかなか情緒のある喫茶室です。

べに花ふるさと館長屋門喫茶室から見ると「長屋門」の大きさが良く分かります。

何か飲み物を呼び鈴を押しても何の返事もありません。何度か呼んでも返事がないので、きっと1階が忙しいので2階の喫茶は対応できないのでしょう。 ちょっと休憩だけさせていただいて、再び中庭に戻りました。

べに花ふるさと館B級べに花まんじゅうそれでは中庭の露天で飲み物を購入しようと物色していると目に飛び込んだのが「B級べに花まんじゅう」です。

べに花まんじゅうは桶川市観光協会推奨品でもあるようで、かつて町興しのために桶川市商工会女性部が作り出したものだそうです。現在では数社から販売されているようですが、昨今のブームで何となく〝B級〟とつくとどうしても食べてみたくなるというおかしな現象があり、この「B級べに花まんじゅう」を食べてみることにしました。
この露天は桶川市が運営しているらしく後ろの建物のなかで饅頭を作っていて、ほかほかの饅頭が食べられるのです。
べに花ふるさと館B級べに花まんじゅうほかほかの饅頭は美味しく、実に素朴な、饅頭らしい饅頭とでもいいましょうか、何となく懐かしいような饅頭でした。

ちょっと祭りの雰囲気を楽しんだ後はべに花を観賞に行きます。

べに花畑

「べに花ふるさと館」を出てべに花畑に向かいます。
ふるさと館からはシャトルバスが出ているようですが、出発したばかりのようだったので、歩いてべに花畑を見ることにしました。
べに花畑歩いてすぐのところに最初の「べに花畑」があります。

結構広い畑に緑のベースに黄色とオレンジ色のグラデーションが美しく映えています。
これが「べに花」なのです。
べに花べに花開花すると「黄色」で時の経過とともにオレンジ、赤色となって終るそうです。
確かに赤色の花は大分元気がありませんから。

しばらく「べに花」をじっくり眺めて先に進みます。

ここから10分くらいのところに2番目のべに花畑があります。
べに花こちらには「べに花の郷 桶川市」「べに花まつり」と染め抜かれた幟が立っていて、改めて「べに花まつり」なのだということを認識させられます。

べに花こちらも先ほどの畑と同じくらいの広さでしょうか。

確かに綺麗なことは納得しますが、やはりバラや菖蒲・アジサイなどに比べて品種がないことから鑑賞としてはちょっと物足りなさがありますね。どちらかと言えばラベンダーやコスモス的ではありますが、香りやイメージでどうしてもべに花の鑑賞価値はファーストインプレッションしかないように感じます。
べに花写真の趣味のある方にとっては、ある意味腕の見せ所といったところかもしれませんが…。

やはり、鑑賞というよりは実用の花でしょうね。

べに花ここから1、2分で今回のふるさと館周辺の最大の広さのべに花畑です。

ここには祭りについての説明があります。

べに花の郷桶川へようこそ!!
江戸時代、中山道桶川宿は宿場町として栄えるとともに、農産物の集散地として賑わっていました。
なかでも「べに花」は、桶川宿を中心とした地域の特産物として「桶川臙脂」の名で全国的に知られていました。
桶川市は、この「べに花」を市のシンボルに、「ふるさと創生事業」として「べに花の郷づくり事業」に取り組み、明治時代に消えてしまったべに花を、多くの方々のご協力を得て現代によみがえらせています。
桶川ロータリークラブが山形県河北町からもらい受けたべに花の種は、地元の農家の方々が丹精込めて栽培され、平成6年以来、毎年美しい花を咲かせてきました。
べに花が咲き誇る景観を演出してきたこの畑は、べに花の可能性を探る栽培試験圃場として生まれ変わりました。
平成11年5月 桶川市べに花の郷づくり推進協議会』(現地案内板説明文より)

知ってか知らずか、関係各位の努力も知らずにべに花は飽きてしまうなどとトンデモな発言をしてしまい…。
一旦は桶川市からべに花は絶滅したのですね。それをここまで作り上げたということ知らずに軽はずみみのいってしまったことを深く反省する次第です。
甦ったべに花といえば、歴史的にも十分意義のあることとなるのでしょう。改めてべに花畑をじっくりと観賞し、歴史とその努力をかみしめなければなりません。
べに花ということでこのべに花畑には櫓が組まれていて少し高い位置からべに花を見ることができるのです。

べに花こういったちょっとしたところにも紅花の価値・意義を知ってほしい現われともいえるのではないでしょうか。


ここに記載されている「桶川臙脂」について説明されたパンフレットがあります。

桶川臙脂
中近東を原産地とするキク科の一年草である紅花は、飛鳥時代には日本に伝わり、平安時代には「末摘花」として源氏物語にも登場します。
紅花は江戸時代を通じて、現在の山形県にあたる最上地方が全国でも屈指の産地として知られていました。江戸時代も後半に至ると、京都、大阪や江戸などの都市を舞台として、華やかな町人文化が花開きました。紅花は晴れ着の染料や化粧料として需要が増し、新たな産地が求められるようになりました。
このような背景のもとに天明・寛政年間(1781~1801)に江戸の商人柳屋五郎三郎の召仕太助・半兵衛が最上紅花の種をもたらし、桶川の紅花生産が始まったと伝えられています。
最上地方の紅花は3月下旬から4月上旬に種を蒔き7月に収穫したのに対し、桶川地方では気候が温暖であるため早く収穫することができました。このため、「桶川臙脂」の名で世に知られた桶川地方の紅花は「早庭もの」と呼ばれ、幕末には、最上紅花を上回る相場で取引されたと伝えられています。
当時紅花から紅を採り、染料として用いることは京都を中心に行われていました。そのため、桶川の紅花もその消費地である京都の商人によって買い付けられ、桶川宿の商人たちは農民からの買い継ぎを行っていました。
安政4年(1857)に当時の紅花商人たちによって寄進された石燈籠には、24名の買い継ぎ商人の名が刻まれ、当時の紅花取引の隆盛が偲ばれます。』(パンフレットより)

〝臙脂〟は文字通り〝えんじ色〟で、中国の紅花の一大産地である「燕支山」にちなみ、紅花染めをこの名で呼んだそうです。
現在、上尾市と桶川市の境界あたりにある須田家は当時紅花の仲買問屋であった豪商で、現在紅花関係の文書が約400点ほど残されていて、須田家古文書として上尾市の文化財となっているように、桶川市では紅花がきっても切れない重要な産物・産業であったことが偲ばれます。
べに花最後にもう一度紅花畑を見て戻ることにしました。

べに花シャトルバス帰りは「べに花ふるさと館」まではシャトルバスで戻ることとしましょう。