国内旅行案内『トラベルラウンジ』で、“新訂 旅と歴史”の記事を掲載して戴きました。

横須賀は米海軍基地と海上自衛隊が共存する街。
その横須賀港には、日米の普段見られない超ド級の艦船が停泊しており、その艦船や米基地の様子を垣間見ることができるのが《YOKOSUKA軍港めぐり》です。
45分間のクルーズで驚きの光景を目の当たりにします。

ご一読願えたら幸いです。
掲載記事はこちら 『日米の超ド級艦船が見られる日本唯一のクルーズ《YOKOSUKA軍港めぐり》

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2015.12.18掲載
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横須賀ストーリーの最終章は、やはり米軍基地でしょう。
これまで開国から横須賀製鉄所の建設が始まり、横須賀造船所、そして日本海軍の横須賀鎮守府と歩んだ歴史を見てきました。
そしてその歴史も敗戦以来、それらの施設はすべて米軍に接収されあため多くを見る機会がずっと減少したのは歴史のあやと言うべきものでしょう。
隠されれば見たいのが人間の性で、以前、福生の横田基地での一般公開では多くの見学者と共にひと時を堪能したのですが、横須賀基地では地理的なこともあり、その機会は中々訪れませんでした。
しかし何気なくHPで見つけた「日米親善ベース歴史ツアー」なるものに応募したのがきっかけで、参加の機会が得られたことから先駆けとして先月の散策を行ったのですが、今回はその仕上げともいうべき歴史ツアーへの参加なのです。
簡単に参加資格を得られたツアーですが、毎年4回開催されていて1ツアーで150名しか参加できないとのことで、参加後に知ったところによると平均倍率10倍とかで、初めて応募して1回で当選するとは奇跡と言われて、改めて籤運の無かった自分を褒めてやりたい気分になりました。

当選通知

当選通知

結構細かい規定があることは判ったのですが、最低限パスポートか写真付き住民基本台帳カードの提示がないと入国(一応アメリカなので)できないとのことで、遥か以前にパスポートの切れていた私達は、急遽、住基カードの申請を行ったのです
埼玉県上尾市役所で申請したところ使用目的を聞かれたので、「横須賀の・・・」、と話したところ、その職員も知っていたの位なのでかなり有名なのかもしれません。
そんなこんなで11月2日、今回は家内と二人で三連休の最初に日に再び横須賀に向かったのです。

日米親善ベース歴史ツアー -上-

見学先は「アメリカ海軍横須賀基地」通称・ベースと呼ばれているエリアで、軍港めぐりでも有名な場所です。しかしなんと言っても米軍基地=アメリカあることとともに、機密事項が多いことからおいそれと入ることは叶わないことから、このようなツアーや一般公開のイベントなどが年間を通して行われているのです。

イントロダクション

集合場所はJR横須賀駅で、AM8:30~集合と言うことから自宅を6:00過ぎに出て8時過ぎに到着しました。
今回のツアーの150名は9:00、9:30、10:00の3つのグループに分かれ、私たちは9:00のグループとなったのです。

JR横須賀駅 JR横須賀駅

JR横須賀駅ホームとエントランス

先月横須賀駅に訪れた際は外からだったのですが、今回は電車での訪問ですのでホームからの情景を見ることができ、まさしく階段のない駅を実感しました。
この写真のホームは。左側が2番線で、右側が3番線です。
現在は1番線はなく、かつては左手に見える段差が1番線で皇室などの専用ホームだったそうです。流石に鎮守府のあった横須賀ならではの歴史です。
更にホームの柱の多くはレールを利用したものだそうで、まさに横須賀の歴史といっても良いでしょう。

ツアーバッチ

バッチすらも年季が入っているのです

定刻どおりの9:00にツアーは開始され、9:00グループの50名は更に14、5人のグループに分かれ、その際にツアーバッチが渡されます。
ツアールートは「ヴェルニー公園」~「どぶ板通り」を経てベースに向い、その間ガイドスタッフの方から様々な説明を聞くことができるのですが、今回は前回訪れた時【横須賀ストーリー Part2 ~10,000mプロムナード~ §1】に知った以外のことを記載しておきます。
因みに、ガイドスタッフの最初の挨拶では、このツアーはあくまで歴史を知るためのツアーであって、艦船に乗船するとか、アメリカンなグルメを堪能するツアーでない事を強調されていました。
結構、勘違いして不満を漏らす人が多かったようで、空気というより、主旨が読めない人に釘をさしていると言うことです。

歴史的な塀

残され塀

早速ツアーが催行され、最初のポイントは横須賀駅の先の交番の横にある変哲もない“塀”からです。
極々普通の“塀”なのですが、実はこの塀はかつて現在のベースが横須賀鎮守府だったころの、鎮守府のエリアの境界をなしていた塀なのです。
歴史的な塀

邪魔にならない処だけ奇跡的に残されています

裏から見ると高速道路の下に100mくらいだけ残されており、この塀は前回見た公園内に残っている遺構「逸見門」につながっていたものなのです。
駅前ロータリーを整備する際にその部分だけ撤収されたのでしょうか。

今日は生憎の曇天ですが、久しぶりの横須賀で早速の潜水艦2隻に心も躍ります。
また、先月見た南極観測船「しらせ」はいませんので、巡業に行っているのでしょうね。全国行脚しているらしいですから。

横須賀本港の潜水艦 横須賀本港 横須賀本港

久しぶりの横須賀本港


ツアー光景

ツアーの光景

そしてこんな感じでツアーは始まるのです。

桟橋

このような桟橋があったとは。。。

公園のボードウォークの下にある階段はかつての桟橋だったところだそうです。
大型船は着岸できないので、沖に船泊まりして小さな船に乗り換えて下船するのですが、そのための桟橋なので階段が設置されていたものなのです。

逸見門

何度見ても微笑ましい詰所の形状

逸見門

左側に塀があった

先に説明のあった「逸見門」ですが、基本的に当時の横須賀鎮守府の正門だったそうです。したがって入隊する人はこの辺りの旅館に泊まり、翌日この門から入隊する歴史的な門だったのです。
逸見門につづく塀があったロータリー

現在のロータリー沿いに塀があった

そして衛兵のいた詰所の一片の出っ張りにあの交番横の塀が続いていたのです。

FENCEの向こうのアメリカ FENCEの向こうのアメリカ

まさにFENCEの向こうのアメリカ

湾沿いに戻ってベースを眺めます。
岸壁沿いに見える「B」の文字のあるところがこれから行くドライドックで、2、3と建物に書かれているのがドック番号です。
期待感が高まるばかりです。

横須賀海軍工廠の跡地

横須賀海軍工廠の跡地

左手前方に見える建物は現在の「ショッパーズプラザ横須賀」で、この地はかつての「横須賀海軍工廠」があったところです。
その施設は1978(昭和53)年まであったそうですから、比較的最近まで残されていたのですね。
因みに撤去費用は約8000万円で、スクラップとしての売却代が約9000万円で「やや残る勘定」だったのだそうです。

旅歴メモ -横須賀海軍工廠-
明治期の横須賀海軍工廠

明治期の横須賀海軍工廠

1866(慶応元)年、江戸幕府が横須賀製鉄所として建設し、その後、明治政府によって帝国海軍所管「横須賀造船所」となり、1884(明治17)年横須賀鎮守府設置とともに直轄造船所となり、1903(明治36)年「横須賀海軍工廠」となり、呉海軍工廠と共に多くの艦艇を建造したのだそうです。
終戦後は米軍に接収されるも、1959(昭和34)年に返還され、住友機械工業に払い下げられたのです。
ガントリークレーン

シンボルに相応しいフォルムのガントリークレーン
(c)横須賀写真館

この工廠のシンボルは「ガントリークレーン」と呼ばれる、レール上を移動可能な構造を持つ門型の大型クレーンだったそうで、1913(大正2)年に造られたものでした。

ヴェルニー公園の最後は幾つも並んだ記念碑の数々です。

「国威顕彰」の碑

「国威顕彰」の碑

その中の一つに「国威顕彰」の碑があります。
占領下時代の逸見門

敗戦後の占領下時代の逸見門と碑

形は戦艦の艦橋を模した形状で、元々は逸見門を入ったところにあったそうです。
ガイドの方の写真に寄れば門を入った正面に設置されているのがわかるでしょう。ちょうど逸見門に続く塀も白くて綺麗だったようです。
更に現在の碑には銅板の説明板が取り付けられていたのだそうですが、現在は全くありません。
これは終戦後、内容的に不都合な内容だったためか、或いは当時銅板が高値で売れたことから取られたのか不明ですが、いずれにしても何かしらが書かれていたそうです。

戦艦長門碑

戦艦長門碑

また注目はその隣にある「戦艦長門」の碑です。
長門は横須賀鎮守府所属の戦艦で、開戦初期は大日本帝国海軍の連合艦隊旗艦として連合艦隊司令長官 山本五十六大将が座乗しており、その後も海軍のシンボル艦として存在していたことは知っていましたが、敗戦後の行方については全く知りませんでした。
米軍に接収された長門

終戦時、唯一生き残り米軍に接収された長門

ビキニ環礁での7月25日の実験光景

ビキニ環礁での実験光景。赤丸の艦が長門

この「長門」、敗戦後は米軍に接収され、あのビキニ環礁での原爆実験に供されて沈没したのだそうで、現在でもビキニ沖で眠っているのです。
なんとなく切ない終焉ですね。

ヴェルニー公園を後にしてからは「どぶ板通り」を見学です。

ベース正面ゲート

ここから見えるベース正面ゲート

横須賀芸術劇場の先のどぶ板通りを進みますが、ここから国道16号線の先に見える2本のポールが、ベースの入口で、この場所はツアーでいつも説明するポイントなのだそうです。

旧海軍下士官兵集会所跡碑

旧海軍下士官兵集会所跡碑

その先にあるのが「旧海軍下士官兵集会所跡」碑で、横須賀芸術劇場がかつての集会所跡だったことは前回で知りましたが、よくよく考えてみると何故敷地外に立てられたのでしょうか。
昭和11年の集会所

昭和11年の集会所(c)横須賀写真館

集会所前の国道16号線

集会所前の国道16号線(c)横須賀写真館

集会所から撮影した国道16号線の行進の様子が写されていますが、道路沿いにはあの“塀”が繋がっているのが見て取れます。

バザール

準備が進んでいるバザール

どぶ板通りは今週「どぶ板バザール」が開催されるようで、既に準備が始まっていました。
見学後にバザールに立ち寄って見ることにしましょう。

有名人の手形

左「雪村いずみ」・右「MALTA」

前回見逃してしまったどぶ板通りの有名人の手形ですが、今回は「雪村いずみ」とアルトサックス奏者「MALTA」の手形を見ることができました。

明治天皇横須賀行在所跡碑

以前は全く気が付かなかった記念碑

向山行在所

向井行在所方向

しばらく進んで通りを左折して16号との交差点角に「明治天皇横須賀行在所跡碑」があります。
これは明治天皇が横須賀に来られた時を記念して建立されたもので、この通りの反対側の丘の上に泊まられたそうです。

旅歴メモ -行在所- 明治天皇は横須賀造船所の視察のため度々横須賀に来られたそうです。特に明治4年、6年、8年には向山行在所(海軍兵学校教師館)に宿泊されたようです。
これはこの当時、横須賀までは船で来たためにどうしても宿泊する必要があったためで、これ以降は汽車で来られるようになったので、例の1番線から横須賀造船所に向い日帰りで視察できるようになったのだそうです。

ここまでが触り部分で、ここからが今回のメインイベントである「ベース歴史ツアー」が始まります。

FENCEの向こうのアメリカ

ここから先にあるゲートがベースの入口なのですが、あまりにも写真を撮ってはいけないとのガイドの言葉から、かなり萎縮して写真はしばらくありません。
ゲート前で4グループに分かれた9:00班が合流して、初めてここで入国用のチェックを受けます。

入国用のシール

このシールが無いと入国できません

まずはパスポートか住基カードを提出して入国用のシールを受け取ります。
そしてベースの方の挨拶と一緒にツアーを廻る水兵の方が紹介されます。一応、監視役ということから一層緊張してしまいます。

ここでは特に写真撮影に関する注意が主で撮影禁止に関するものです。
1.ゲート
2.迷彩服を着た守衛など
3.潜水艦と修理中の艦船
以上とのことですが、以前も違反した人がカメラを没収されたとのことで、またまた緊張してしまいますが、兎にも角にもゲートをくぐり、無事アメリカに入国しました。

無事に入国し50名はまず1ヶ所に集合し、ガイドの方から説明を受けます。

見学用資料

見学用資料

見学ルート

見学ルート

ツアーのルートはおおよそ7kmで地図上では赤いルートとなり、約5時間程度の時間を要します。

見学ポイントは以下の通りです。
1.正面ゲートセレモニー、2.関東大震災の碑、3.横須賀製鉄所・工廠庁舎沿革の碑、下士官クラブ、4.第1号~第3号ドライドック、5.泊船庵の碑、6.港湾管制ビル、7.第6号ドライドック、8.フードコート(昼食)、9.コサノバーク(コミュニケーションタイム)、10.終戦時米軍上陸地点、11.将校クラブ、12.海軍病院、13.皇后陛下行啓の碑、14.旧海軍病臨門柱、15.横須賀鎮守府跡、16.基地内労働者感謝の碑、17.正面ゲート
準備万端でスタートです。

関東大震災の碑

関東大震災の碑

上部にはそのときの時刻が刻まれています

記念すべき最初のポイントが道路越しに見える「関東大震災の碑」で、昭和2年に建立されたものです。
当時はレンガ造りの建物だったことから多くは壊滅的な被害だったようで、艦船の炎上、燃料タンクの爆発などもありここもまた被害は甚大だったそうです。

歴史ツアー アメリカン

あえて和を醸し出したところがアメリカン

ツアーはこのように奥へ進み徐々にアメリカの雰囲気が漂ってきます。

横須賀製鉄所・工廠庁舎沿革の碑、下士官クラブ

白亜の建物が「下士官クラブ」です。

下士官クラブ 下士官クラブ 下士官クラブ

下士官クラブとモニュメント


CPOは「CHIEF PETTY OFFICERS CLUB」の略称で、所謂下士官と呼ばれる人が入れるクラブなのです。
錨のモニュメントも誇らしげです。

旅歴メモ -下士官- 良く聞く「下士官」ですが、一体下士官ってどんな階級の人を言うのでしょうか。
基本的な概念は時代や国によって微妙に違いはあるのですが、士官(将校)の下で、兵(兵卒)の上に位置する階級で、ビジネスでは中間管理職ってところでしょうか。
米国海軍では、Chief Petty Officer (CPO)、Petty Officer First Class (PO1) 、Petty Officer Second Class (PO2)が下士官に当たるのですが、これを日本語にすると現在の海上自衛隊の1等海曹、2等海曹、3等海曹に当たるようです。
と言われてもピンとこないので、これを更に大日本帝国時代の海軍では上等兵曹、一等兵曹、二等兵曹となり、陸軍の階級で言えば、曹長、軍曹、伍長に該当するのです。
因みにその上の士官は、帝国海軍時代では少尉以上を言い、下士官から士官になるためには士官養成のための学校に入る必要があり、旧日本軍の陸軍では陸軍士官学校、海軍では海軍兵学校がこれにあたり、現在の自衛隊では防衛大学校、幹部候補生学校がその役割を担っているのです。

9.11慰霊碑

9.11慰霊碑

クラブの前にある碑が「3.11慰霊碑」で、左の二本の塔が当時のトレードセンターを表しています。

横須賀製鉄所・工廠庁舎沿革の碑

横須賀製鉄所・工廠庁舎沿革の碑

更にクラブの前には「横須賀製鉄所・工廠庁舎沿革の碑」があります。
関東大震災で崩壊した初代庁舎に代わって建てられた新庁舎の竣工を記念して昭和2年に建立された記念碑です。
碑は初代庁舎の用材を用いられたもので、中段の年号の記された石は庁舎の鏡石として彫刻されたもので、土台は庁舎の礎石だったものです。更に下部の煉瓦は庁舎建設担当のフランス人・ボエルが製鉄所の窯で製造されたものなのだそうです。

旅歴メモ -造船所から海軍工廠へ-

明治10年代には、横須賀造船所ではその最新の機械と技術を駆使し、造船だけでなく民間工場の機械部品の製造や修理を行うなど民間工業の発展の手助けをしています。明治 20 年代以降、本格的な軍備拡張が始まると、軍艦の建造・修理が中心になっていきます。
明治36年(1903)には「横須賀海軍工廠」と改称され、多くの艦船を建造し海軍の発展の中心的役割を果たします。昭和20年(1945)までその規模を継続的に拡充してきました。
(ツアーパンフレットより)

いよいよここから本格的な見学が始まります。

2013.11.11記(つづく)


横須賀ストーリーPart2は、Part1の翌日の10月13日(日)に行ったポタリング散策です。
タイトルにあるとおり、10,000m、所謂10kmのサイクリングロードが横須賀の海岸線沿いに整備されています。自転車専用のCRではありませんが、海沿いを走るコースとして風光明媚で爽快なサイクリングが楽しめるコースなのです。
正式には「うみかぜの路 海と緑の10,000メートルプロムナード」と呼び、1.歴史とショッピングの道、2.緑とスポーツの道、3.海辺の散歩道、4.海と遊ぶ道の4つに分かれています。
海無し県からやって来た者にとっては、文字通り光り輝く眩しいくらいの素敵な散歩道なのです。

歴史とショッピングの道 -前編-

最初のコースは“歴史とショッピングの道”で、JR横須賀駅から三笠公園までのプロムナードです。
横須賀市のメインストリートと言っても過言ではない通りです。

JR横須賀駅

三連休と言いながらも日曜日の早朝だけあって駅前はまだ閑散としています。

小さいながらも白を貴重とした清楚な駅舎

小さいながらも白を貴重とした清楚な駅舎

JR横須賀駅ロゴマークが海軍との関わりを物語っています

ロゴマークが海軍との関わりを物語っています

この横須賀駅は1889(明治22)年6月に、大船~横須賀間の横須賀線開通に伴い開業し、終戦までは全国的に極めて重要な駅だったそうです。
それは鉄道唱歌で「汽車より逗子を眺めつつ/はや横須賀に着きにけり/見よやドックに集りし/わが軍艦の壮大を」と唄われたように、現在のアメリカ海軍基地内に明治17年設けられた横須賀鎮守府などの諸施設のある重要な海軍基地だったからなのです。
当初、陸軍は砲台等を構えた観音崎を終着駅としたかったようですが、予算的な問題でこの駅が横須賀線の終着駅となったのだそうですが、いずれにしても横須賀線と横須賀駅は海軍、陸軍の軍部にとって重要な駅だったと言うことなのです。
因みに横須賀~久里浜間はやはり軍の要求によって昭和19年4月に開通したのです。

海軍カレーのゆるキャラ「スカレー」のお出迎え

ゆるキャラ「スカレー」

平坦な駅構内が見受けられます

平坦な駅構内が見受けられます

現在の駅舎は1940(昭和15)年に改築された駅舎ですが、改築前の姿を比較的継承し、日本では数少ない階段の無い駅として有名で、1997(平成9)年には“階段が一つも無い平坦な人に優しい駅”として関東の駅百選に認定されたのだそうです。

ヴェルニー記念館

横須賀駅のすぐ目の前が「ヴェルニー公園」で、その先が横須賀本港です。

ヴェルニー記念館 ヴェルニー記念館

ヴェルニー記念館

公園入口付近に「ヴェルニー記念館」があります。
ヴェルニーは明治時代、ここ横須賀で所謂“お雇い外国人”として造船などに功績を残したフランス人なのです。

そのヴェルニーを記念して建てられたこの記念館は、彼の故国フランスのブルターニュ地方の住宅の特徴を取り入れた建物を模して造られました。

案内板のブルターニュ地方の住宅

案内板のブルターニュ地方の住宅

その特徴とはドーマーウィンドー(屋根窓)、屋根に突き出た煙突、急勾配の屋根と石造りの外壁で、その特徴を生かした記念館自体もフランスの文化を知る上で貴重なものなのです。

旅歴メモ -レオンス・ヴェルニー-
レオンス・ヴェルニー

レオンス・ヴェルニー

ヴェルニーは、1837年12月2日にフランス中央山岳地帯のアルデシュ県オブナで生まれ、23歳で造船大学を卒業後、海軍造船官としてブレスト工廠で船舶の修理などを担当しました。
フランスが自国の東洋貿易を守るため、上海(中国)で砲艦を建造することになった時、ヴェルニーは、その責任者に抜てきされ2年間その任務に就きました。
その後、当時の駐日公使ロッシュから「日本に造船所を建設することになったので、ぜひ」という依頼が届き、彼は一時フランスに帰国して、資材や作業に従事する人たちの準備を整え、慶応2(1866)年6月に来日、横須賀に着任したのです。
以来、帰国するまでの10年半、激動の日本にあって造船業に励み、明治9(1876)年ようやく日本人の手で造船事業ができるようになった時、彼は帰国したのです。

記念館のドーマーウィンドーから見える軍港

記念館のドーマーウィンドーから見える軍港

このヴェルニーの功績を讃え、ヴェルニー記念館が作られたのですが、この記念館のメイン展示は“スチームハンマー”で、“スチームハンマー”とは蒸気の圧力で鍛造(叩いて金属を鍛える方法)するための工作機械で、ヴェルニー記念館に保存されているものはプレス容量が0.5トンと3トンの2台あるのです。

0.5トンスチームハンマー

0.5トンスチームハンマー

3トンスチームハンマー

3トンスチームハンマー

このスチームハンマーはオランダから輸入され旧横須賀製鉄所で使用されていたもので、0.5トンは1971(昭和46)年、3トンは1996(平成8)年まで稼動されていました。
第二次世界大戦後、旧横須賀製鉄所が米軍横須賀基地となったためスチームハンマーも米軍に接収されたのですが、1971(昭和46)年に返還され、現在は貴重な文化遺産として重要文化財に指定されているのです。
なお、当時の旧横須賀製鉄所及び港湾施設(ドック)は現在も現存し、米海軍の船舶修理施設として使用されているのです。
スチームハンマースケールモデル

スチームハンマースケールモデル

記念館ではスケールモデルのスチームハンマーで実際に稼動するところを見られるようになっているほか、様々な資料が展示されています。

ヴェルニー公園

記念館を出て公園を散策しますが、公園の前に広がる港湾風景が絶景です。

港湾風景パノラマ写真

港湾風景パノラマ写真

大まかに言えば中央から右側が米海軍基地で、左側が海上自衛隊基地と考えてよいでしょう。
米海軍イージス艦「ジョン・S・マッケイン」

米海軍イージス艦「ジョン・S・マッケイン」

南極観測船「しらせ」

南極観測船「しらせ」

右手に見える“56”と記載された艦艇は米海軍の「ジョン・S・マッケイン」のイージス艦で、左手に停泊しているオレンジとホワイトのツートンカラーの美しい船体の艦船は南極観測船「しらせ」です。
「ジョン・S・マッケイン」は満艦飾がされていますが、独立記念日やクリスマスでも無いのに不思議ですね。
海上自衛隊艦船

海上自衛隊艦船

南極観測船の先では海上自衛隊の艦船がタグボートによって方向転換している様子も見られます。
イージス艦や南極観測船がこのような間近に見られるのは、横須賀ならではの大きな魅力ですね。

ヴェルニー公園

ヴェルニー公園

この公園は1946(昭和21)年に市民公園として開園し、臨海公園として多くの市民に親しまれてきたのですが、公園の対岸にフランス人技師ヴェルニーが建設に貢献した横須賀製鉄所跡地が望めることなどから2000(平成12)年にヴェルニー公園と改称したものだそうです。
臨海公園からヴェルニー公園となって、ちょっとオシャレっぽくなった感じです。

旅歴メモ -横須賀製鉄所- 幕末になって江戸の近海に外国船がしばしば現れるようになると海防が叫ばれるようになりました。特に黒船来航以降、軍艦や船舶の購入や建造・修理のために浦賀に造船所が開かれましたが、より海軍の拡張のためには更なるインフラが必要になったのです。
そのための新しい製鉄所(造船所)建設のため、幕府の勘定奉行小栗上野介忠順と目付栗本瀬兵衛(鋤雲)らは、フランス公使レオン・ロッシュとともに、幕府の重臣たちを説きふせ、この事業の実現を図ったのです。
建設地は、当時、湾の形に変化があって要害の地であり、風波の心配もなく湾内も広くて深い、また、景色も優れ、フランスのツーロン港に似ているなどの理由から三浦郡横須賀村に確定したのです。
明治初期の横須賀製鉄所(造船所)全景

明治初期の横須賀製鉄所(造船所)全景

敷地は約246,000㎡で、当初の計画では4年間で製鉄所1ヶ所、艦船の修理所2ヶ所、造船所3ヶ所、武器庫および宿舎などを建設し、予算は総額240万ドルというビッグプロジェクトだったのです。
1865(慶応元)年に建設が始まり、明治維新によって造船所(製鉄所)の一切は明治政府に引き継がれドックや船台などが次々と完成していったのです。
その後、横須賀製鉄所は、横須賀造船所、海軍造船所、横須賀海軍工廠と名称を変え発展を続け、数々の軍艦を建造した施設と造船技術はとても優秀なものでしたが、1945(昭和20)年以降は米海軍の基地となり、今日に至っています。

園内は、庭園としての憩いと安らぎの場と、史跡としての興味深い側面を提供してくれます。
憩いと安らぎの場としてはなんと言ってもフランスの品種を中心とした130種・約2000株のバラが彩りを添えていることです。

そろそろ秋バラの季節です そろそろ秋バラの季節です そろそろ秋バラの季節です

そろそろ秋バラの季節です


この日は海風と共にバラの香りも芳しい日でした。
そしてまた港を一望するボードウォークやフランス式花壇と噴水、更に洋風四阿などもあり、のんびり時を過ごすのには絶好のロケーションのようです。

ボードウォークのバラと街灯

ボードウォークのバラと街灯

噴水から見えるバラと軍港

噴水から見えるバラと軍港

オシャレな四阿

オシャレな四阿


もう一方の史跡としての側面の一つがこちらです。

帽子を被った衛兵詰所

帽子を被った衛兵詰所

旧・日本海軍横須賀港逸見門の衛兵詰所だそうです。
右側が「逸見上陸場」左側は「軍港逸見門」と表示されていて、明治末期から大正初期に建造されたもののようです。高さは約4mで、屋根は銅葺き、本体は八角形の鉄筋コンクリートで、外壁にタイルが張られている凝ったものです。
ホームズの帽子を被ったような形状が何となく微笑ましいですね。

二つ目はいわずと知れたこちらの銅像です。

ヴェルニーと小栗の胸像

ヴェルニーと小栗の胸像

開港碑

開港碑

横須賀の功労者としての位置付けは、毎年「ヴェルニー・小栗祭」が開催されている様子からも伺えます。

旅歴メモ -小栗上野介忠順-
小栗上野介忠順

小栗上野介忠順

小栗家は代々徳川家に仕えた旗本で、忠順は小栗家12代目の当主として優れた才能と人格を兼ね備えていたそうです。
1860(安政7)年、日米修好通商条約批准書交換のため幕府が遣米使節団を派遣した際、目付(監察役)として抜てきされ、使節団の一員として渡米しました。この際、彼は日本人で始めて地球を一周し帰国したのです。
その後も外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行など幕府の要職を歴任し、数々の業績を残してきましたが、新政府軍と最後まで戦うべきと主戦論を強く主張したため、すべての役職を罷免され、領地であった権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町)に隠居しました。
倉渕村から寄贈された烏川水沼川原の記念石

倉渕村から寄贈された烏川水沼川原の記念石

そして慶応4(1868)年、忠順は何の取調べをされることもなく、新政府軍によって権田村の烏川水沼川原で斬首されたのです。小栗上野介忠順の墓(群馬県指定文化財)は仮住まいをしていた倉渕村の東善寺にあり、忠順が斬殺された烏川のほとりには「偉人小栗上野介、罪なくして此所に斬らる」と彫った碑がひっそりと建っているそうです。

海軍の街、横須賀に相応しい様々な日本海軍縁の碑です。

「ロシア海防戦艦沖島」碑

「ロシア海防戦艦沖島」碑

日本海軍の象徴「軍艦長門」碑

海軍の象徴「軍艦長門」碑

横からみると艦橋になっている「国威顕彰」碑

超弩級軍艦「軍艦山城」碑
艦型「国威顕彰」碑

海軍終息から五十周年記念「海軍の碑」

海軍終息から五十周年記念「海軍の碑」


正岡子規の文学碑

正岡子規の文学碑

最後は正岡子規の文学碑で、「横須賀や只帆檣の冬木立」と書かれています。
1888(明治21)年8月、子規は夏季休暇を利用して、友人と汽船で浦賀に着き、横須賀・鎌倉で過ごしました。碑の句は、横須賀港内に連なる帆檣“はんしょう(帆柱のこと)”の印象を詠んだものだそうで、当時の横須賀の様子を良く表している句なのです。

製鉄所から日本海軍、そして米海軍基地と変遷している横須賀の歴史そのものといっても良い、ヴェルニー公園と横須賀本港なのです。

YOKOSUKA軍港めぐり

いこいの広場 軍港めぐり

多目的広場と軍港めぐり

ヴェルニー公園の南端には「いこいの広場」という多目的広場があり、その先に「YOKOSUKA軍港めぐり」の発着場があります。
文字通りアメリカ海軍の艦船や海上自衛隊の艦船を間近で観ることができる日本でも唯一のクルージングツアーで、今回は前日の12日に乗船した様子です。

軍港めぐり発着所 軍港めぐり発着所

軍港めぐり発着所

発着所では既に前のクルーズ船が戻ってきています。
1階のキャビンと2階のデッキがあります

1階のキャビンと2階のデッキがあります

今回は初めてなので風が強かったのですが、あえてデッキに乗り出港です。
軍港めぐりルート

軍港めぐりルート《(C)パンフレットより》

この軍港めぐりは、文字通りアメリカ海軍施設と海上自衛隊施設を巡るコースで、かなり人気の高いクルージングなのです。

米海軍イージス艦「ジョン・S・マッケイン」

米海軍イージス艦「ジョン・S・マッケイン」

早速、アメリカ海軍基地に係留されている艦船の数々を眺めます。
イージス艦が日本で知られるようになったのは、湾岸戦争の頃でしょうか。その後、福井晴敏の小説や映画化された「亡国のイージス」によってより知名度が上がりましたね。
イージス艦の証である八角形のレーダー

イージス艦の証である八角形のレーダー

イージス艦の特徴はなんと言ってもその“イージスシステム”と呼ばれる戦闘システムで、そのシンボル的な存在が八角形のレーダーなのです。
したがって艦橋に八角形の亀の甲みたいなものがついていれば、基本的にイージス艦といえるのでしょうね。
朝見た米海軍イージス艦「ジョン・S・マッケイン」もより身近に見え迫力満点です。

とにかく謎ばかりの潜水艦

とにかく謎ばかりの潜水艦

そしてその先の右手に見えるのが・・・、せ、潜水艦です!
その役割のとおり秘密裏の航海が多いわけですから、名前などもあるのかどうかも判りませんが、とにかく本物のサブマリンです。

改修中の「フィッツジェラルド」

改修中の「フィッツジェラルド」

潜水艦の先にはやはりイージス艦が停泊していますが、特に改修中の姿を見られるのは珍しいとか。。。と、クルーズ船から説明がありました。
イージス艦三兄弟

左から 「シャイロー」「ステザム」「フィッツジェラルド」

その奥にはイージス艦三兄弟のそろい踏みです。最もイージス艦はもっとあるようですが。

軍港めぐりのハイライト

軍港めぐりのハイライト

そして今回のメインがこのクレーン・・・、ではなく。。。
このクレーンは、横須賀配備の空母「ジョージ・ワシントン」専用のクレーンで、本来ならここにジョージ・ワシントンが停泊しているはずなのですが、残念なことに2013年9月13日に任務のために出港してしまったそうです。
勿論、行き先などは極秘事項ですから不明ですが、案内に寄れば12月頃には帰港するのではないかということです。
空母「ジョージ・ワシントン」

空母「ジョージ・ワシントン」
《(C)Hatena フォトライフ》

本来ならこのような雄姿が見られるはずだったのですが・・・ ちょっぴり残念でした。

一旦米海軍基地を離れて横須賀湾のある“追浜”に向うと。大きな妙な船体を見ることができます。

横須賀湾と鮮やかな「RUBY ACE」号

横須賀湾と鮮やかな「RUBY ACE」号

ここは日産自動車追浜物流のあるところで、ここから車輌を船積みしており、この大きな船体は自動車輸出用の船だったのですね。
流石に横浜は日産の本拠地だけあって、岸には沢山のクルマが留め置かれています。
どう見てもラブホでしょ!

どう見てもラブホでしょ!

その隣にはゴージャスな建物があり、まるで海上の宮殿、、、とも言えそうなリサイクルプラザ「アイクル」という横須賀市のリサイクル施設なのだそうです。
まあ、お洒落と言えばオシャレですが。。。

ここから先は海上自衛隊のある長浦港となります。

掃海母艦「うらが」

掃海母艦「うらが」

早速見えてきたのが、浦賀水道をその由来とした掃海母艦「うらが」です。掃海母艦とは機雷の除去を行う掃海艇に対して燃料や物資の補給を行う艦船で、アフガニスタン、パキスタン、ベトナム、ペルシャ湾などに派遣されたそうです。

港の中央にポッカリ浮かんだ潜水艦は海上自衛隊のサブマリンです。

これもまた謎の潜水艦!? これもまた謎の潜水艦!?

これもまた謎の潜水艦!?

桟橋に係留されているのではなく、4つのブイにつなげられているのは、この艦は廃艦となったため解体までの間ここに係留されているのだそうです。
潜水艦は他の艦艇に比べて海の中を航行するので気圧の影響を受けやすく船体がボロボロになってしまうことから、海上自衛隊では潜水艦の寿命は20年と義務付けているからなのです。
ここまで近くでは滅多に見られない非常に貴重な光景なのだという説明でした。

世界でも珍しい掃海艇

世界でも珍しい掃海艇

この2艇は磁気機雷に感応しないよう世界でも珍しい木造で建造された掃海艇「やえやつ」「つしま」です。
更に木造船としては世界最大の1000トン以上と言う大きさで、このクラスの木造船を保有しているのは現在ではアメリカと日本の2国だけのようです。
しかしながら現在は職人の高齢化などで木造建造も難しくなり、FRP製に替わっているそうです。

クルーズは狭い海域を進みます。

新井掘割水路

新井掘割水路

ここは新井掘割水路と呼ばれるところで、もとは箱崎半島の最も括れたところで、現在はここを水路として長浦港と横須賀本港との航行に使うショートカットになっているのです。
日米管理下の燃料庫地帯の両国の国旗

日米管理下の燃料庫地帯の両国の国旗

現在は小島となっている半島の先は、燃料庫地帯として米軍施設基地となっていますが、日米の管理下にあるようです。

旅歴メモ -新井掘割水路- 1854(安政元)年、公郷村名主永嶋庄兵衛は、幕末の海上交通が増えたのにともない半島先端にある暗礁が危険なため、多額の費用をかけ半島前方部に掘割を377m掘削し水運の便をはかり、これにより武蔵国野島浦(現在の横浜市金沢区)から横須賀村への航路が作られたのです。
このときの土石は江戸品川に運ばれ、台場築造に使われたと言われています。(旧掘割)
その後、1885(明治18)年に長浦に海軍の水雷営などが置かれてから横須賀港との交通が頻繁になり不便となったため、翌年の明治19年新たな掘割工事を行い、明治22年に完成開通したのです。
これにより旧掘割は埋め立てられたのです。

水路を抜けると横須賀本港で、ここにも多くの海上自衛隊の艦船が係留されており、クルーズの最後を飾るのが砕氷船「しらせ」です。

横須賀本港の海上自衛隊艦船

横須賀本港の海上自衛隊艦船

美しい姿の砕氷船「しらせ」

美しい姿の砕氷船「しらせ」

今日朝にも見ましたが、実際に帰国した際はドロドロに汚れて、現在の姿は見る影も無いそうです。
更に帰国しても、全国を巡回しているので意外と横須賀で見ることは珍しい部類なのだそうです。
今回は意外と貴重なショットをみることができたようです。

ヴェルニー公園

ヴェルニー公園

待ちわびる乗船客

待ちわびる乗船客

ヴェルニー公園前を通過して、軍港めぐりもこれで終了で、次の乗客が待つ発着場に到着となります。
中辛でコクがある、意外と美味なイージス艦カレー 中辛でコクがある、意外と美味なイージス艦カレー

中辛でコクがある、意外と美味なイージス艦カレー

因みにこのクルーズを説明するスタッフが実に上手で、現在の横須賀名物は「海軍カレー」ではなく「海上自衛隊カレー」だというので、つい土産に購入してしまいました。
3種類アソート(C)軍港めぐりHP

3種類アソート(C)軍港めぐりHP

「護衛艦きりしまカレー」「護衛艦ひゅうがカレー」「砕氷艦しらせカレー」の3種類があり、実際にその艦で食べられているカレーなのだそうです。
一度ご賞味あれ。。。

ここからは国道16号線を進みます。

2013.10.24記(次章につづく)


「これっきり・・・」ではない横須賀ストーリーの第1章として、10月12日(土)に訪れた横須賀散策の模様です。
海と密接に関係のある街、横須賀は歴史と海軍の街として夙に有名ですが、特に今回の散策の後押しをしたのがイベントとポタリングでした。
「浦賀」と聞いて何を連想するかといえば、やはり“黒船”でしょう。
黒船来航時に対応に当たったのが浦賀奉行で、問答の末にとりあえず近隣の当時は小さな漁村であった久里浜に上陸させることになった故にペリー上陸の記念碑や記念館は久里浜にあるのですが、一般に来航地は浦賀沖とされているようです。
汐風を浴びながらの歴史散策もまた一興と言うことで、Part1では「浦賀」を散策します。

浦賀の玄関口:燈明堂

最初に訪れたのが海の町・浦賀を代表する「燈明堂」跡です。

現在は公園となっている燈明堂跡

現在は公園となっている燈明堂跡

突端が燈明崎

突端が燈明崎

浦賀港入口にあたる燈明崎の先端に江戸時代に建てられた和式灯台があったのです。
江戸時代の建立といわれると、幕末の外国船がやってくるようになったから建てられたものと思っていたのですが、江戸幕府が開かれた直後の1648年には造られたというのですから、あくまで浦賀港での船舶の安全を図るためのものだったようですね。

風情ある和式灯台

風情ある和式灯台

木造建築が自然に優しい

木造建築が自然に優しい

灯台としての役割を担った燈明堂は石垣を土台として二階建ての建物でした。階下は番人小屋で、階上は篝火ではなく灯明皿に菜種油で灯され、7.2kmにその光は達したそうです。
当初は勘定奉行の所管で、後に浦賀奉行管轄となり、明治になって神奈川府と変遷していったのです。
経費は1690(元禄3)年までは幕府が賄っていたのですが、以降は東浦賀の干鰯問屋が負担したのだそうですから、当時浦賀の町は漁業が盛んで繁栄していたのでしょう。


kanageohis1964様より大変貴重なご意見をいただきました。
本文では、この燈明堂は“灯明皿に菜種油で灯され”と記載したのですが、本来は干鰯問屋が干鰯を作った時に出て来る魚油が正しいのだそうです。

kanageohis1964様のサイトに丁寧に詳しく解説されていますので、是非ご一読下さい。
地誌のはざまに】 http://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-77.html#teisei

現地案内板 現地案内板

燈明堂の現地案内板の該当記述

この記述は現地の案内板よりの内容でしたが基本的に誤りがあったようですね。横須賀市教育委員会の記述でも鵜呑みにしてはいけないということでしょうね。
kanageohis1964様、ありがとうございました。また、今後ともよろしくお願いいたします。

2013年12月2日追記


日本初の洋式灯台である初代の観音崎灯台の模型

初代の観音崎灯台の模型

そして1853(嘉永6)年ペリー艦隊の来航時に艦隊の航行の目安となった燈明堂は開国後、皮肉なことに欧米各国の船が往来し始めると、この程度の灯台では非常に危険であると考えられ、1869(明治2)年に日本初の洋式灯台である観音崎灯台が建設されたことにより、1872(明治5)年にその使命を終えることになったのです。

旅歴メモ 慶応2年5月、幕府はイギリス、フランス、アメリカ、オランダとの間に改税約定を結んだのですが、その第11条に灯明台を作らなければならないとうたわれており、その場所には、相模国三浦郡三崎及び観音崎が示されており、この要請により、幕府瓦解後の新政府である明治政府により観音崎灯台が建造されたのです。
廃止後も建物は残っていたのですが、1895(明治28)年以降崩壊し石垣のみが残されていたのです。
そして1968(昭和43)年に市の史跡とされ、1989(平成元)年に復元され、現在は公園として整備されているのです。

燈明堂パノラマ写真

燈明堂パノラマ写真

青い空に青い海、そして緑の樹木と自然に囲まれた中の和風の建物が、江戸時代を彷彿とさせてくれます。
歴史を偲ばせる供養塔

歴史を偲ばせる供養塔

更にもう一つ江戸時代の名残であるのが、ここの立てられている供養塔です。
これはかつてここが浦賀奉行所の処刑場だった場所で、当時は“首切場”であった事の名残なのです。
現在の浦賀の町並み

現在の浦賀の町並み

燈明崎海岸線

燈明崎海岸線

左手は現在の発展した浦賀の町並みを見ることができ、右手は綺麗な海岸線と自然の織りなす風景美を見ることができます
燈明堂周辺を描いた絵図

燈明堂周辺を描いた絵図

ただし、この風景美も歴史を持っていて、突き出た突端には幕末期に千代が崎台場が造られており、またこの背後の山にも平根山台場が造られていたそうです。

旅歴メモ この平根山台場は、1837(天保8)年に日本人漂流民を送り届けに来航したアメリカ商船モリソン号を、異国船打払令の基づいて砲撃した最初の台場で、後に「モリソン号事件」として有名となったところなのです。

観光としても歴史としても実に興味深い浦賀に相応しい場所なのです。

幕末期日本の番人:浦賀奉行所

次に訪れるのは、燈明堂の最初の所管であり、ペリー来航時の対応を取った「浦賀奉行所」です。
といっても現在に残っているわけでは無いのですが、その跡が残されているのです。
現在の西浦賀5丁目~6丁目にあたる、かつては「川間」と呼ばれた地に奉行所があったのです。
「川間」とは文字通り川と川の間にある土地といわれています。
この地域は、かつてあった大きな平作川と川のように見えた浦賀湾の入り江の間にある土地だったことに由来するのです。

そしてここに当時下田にあった「下田奉行所」が、船舶の航行の増加した浦賀に1720(享保5)年、移転してきたのです。
奉行所の主な業務は、船改め、海難救助ですが、幕末にかけてその重要度は増し、享保5年から慶応4年までの150年間に53人の奉行が務めたのだそうです。

奉行所跡の標柱

奉行所跡の標柱

残されている石垣

残されている石垣

ここが奉行所跡で、現在は堀の石垣と石橋の板が残されているだけです。
浦賀奉行所復元模型

浦賀奉行所復元模型

江戸時代の奉行というと町奉行、寺社奉行、勘定奉行などを連想しますが、この浦賀奉行は江戸以外の幕府直轄領(天領)のうちの重要な場所に置かれ、その土地の政務を司った“遠国奉行”の一つで、幕末時点では京都町奉行・大坂町奉行・駿府町奉行の各町奉行と、長崎奉行・伏見奉行・山田奉行・日光奉行・奈良奉行・堺奉行・佐渡奉行・浦賀奉行・下田奉行・新潟奉行・箱館奉行・神奈川奉行・兵庫奉行があったそうです。
建物の様子から見ても大変重要な施設だったと言うことなのです。

為朝神社境内

為朝神社境内

為朝神社社殿

為朝神社社殿

このように下田から移転した浦賀奉行所は、大変に忙しい時期を迎えるのですが、下田移転と共にやってきた文化が近くの「為朝神社」に残されている“虎踊”および“横須賀の虎踊”なのだそうです。
虎踊

虎踊

何故二つあるかといえば、前者は県指定重要無形民俗文化財で、後者は国選択無形民俗文財だからです。
このような踊りがこの為朝神社の特設舞台で踊られるのだそうです。

東福寺の山門 東福寺の本堂

東福寺の山門と本堂

また当時歴代の浦賀奉行が就任すると必ず参拝に訪れたのが「東福寺」で、ここには「海難除けの観音様」が祀られている為だったようです。
東福寺の観音堂

東福寺の観音堂

浦賀湾を望む

浦賀湾を望む

この観音様には江戸時代初めに西浦賀の淡路屋治兵衛の廻船が大しけに逢い難破しそうになった時、船頭等が観音様に無事を祈ると海は穏やかになり助かったと言う伝説があったのです。
それゆえに赴任時の恒例となったのでしょう。
浦賀にやって来た「下田奉行所」は様々な歴史をこの地に残して行ったようです。

浦賀奉行所の出先機関:船番所

当時の船番所跡

当時の船番所跡

浦賀奉行所が船舶や外国との政務を行うところであれば、当然実務を行う場所があるはずで、それが浦賀湾沿いにある「船番所」なのです。
勿論、名残は何もありませんが、現在の浦賀病院の辺りが“船番所跡”です。
当時の船番所の復元模型

当時の船番所の復元模型

異国船を取り巻く船番所の警備船

異国船を取り巻く船番所の警備船

船番所とは簡単に言えば海の関所で、江戸へ出入りする全ての船の乗組員と積荷の検査をする“船改め”を行い、江戸の経済を動かすとも言われた重要な出先機関だったのです。
しかしながら繁忙期は1日に50隻以上の船が出入りしていたため役人だけでは手が足りず、廻船問屋と呼ぶ人たちに委託されたのだそうです。
この廻船問屋は下田の時代から委託されていて、奉行所の移転に伴い浦賀に来た通称・下田問屋が63軒、西浦賀に22軒、東浦賀に20軒の合計105軒で行い、この業務に就いたときだけは足軽役となったことから名字を名乗ることが許されたのです。
更に外国船の対応も多忙を極め、慶応4年に奉行所がなくなっても“船改め”だけは継続し。1872(明治5)年まで続けられたそうです。

旅歴メモ 1720(享保5)年に伊豆下田にあった奉行所が浦賀に移転されたのは、江戸へ出入りする船の積荷を厳しく管理し、江戸の物価の安定を図るためでした。
この船の検査を“船改め”といい、これを行ったのがこの船番所だったのです。と、同時に海の関所でもあるのですから積荷のほかにも「入り鉄砲に出女」の検査もし乗組員もチェックしたのです。
特に積荷の中でも生活必需品の米、塩、味噌から木綿や薪までの11品目は3ヶ月ごとに集計され、幕府の勘定奉行に提出されていたのですから、いかに物価の安定に気を配っていたかが伺えてきます。

ウッドデッキが気持ちよい港湾緑地

ウッドデッキが気持ちよい港湾緑地

現在、ここには船番所の名残は何もなく港湾緑地としてウッドデッキや四阿なども整備された実に気持ちの良い場所です。
歴史を偲ぶ陸軍桟橋

歴史を偲ぶ陸軍桟橋

そしてここから突き出たL字形の桟橋が「陸軍桟橋」と呼ばれた昭和10年代にできた歴史ある桟橋で、かつて船番所があった位ですから、船の停泊がし易いところだったという由縁かもしれません。
そして大戦後は、この桟橋に南方からの引揚者数十万人がここから上陸した思い出深い桟橋なのだそうです。

旅歴メモ
引揚記念の碑

引揚記念の碑

引揚者は56万人に及んだそうですが、特に終戦後の昭和21年に華南方面からの引揚船内でコレラが発生し、以降、続々と感染者を乗せた船が入港したため、久里浜に設けられた浦賀検疫所に直接上陸させたのだそうです。
そして昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖により、この地での引揚業務も終了したのです。

一つの桟橋にも江戸から昭和に続いた歴史が残っていたのです。

黒船来航:ペリー上陸

「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」とは、緑茶の銘柄である「喜撰」の上物を意味する“上喜撰”の茶を4杯飲んだだけなのに、(カフェインの影響で)夜眠れなくなると言う表向きの意味と、わずが4杯(船を時に杯とも数えることから)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる、という意味をかけて“黒船来航”を揶揄している有名な狂歌です。

浦賀にやって来た黒船以前の外国船

浦賀にやって来た黒船以前の外国船

勿論、これが詠まれた黒船来航以前にも多くの外国船(出島でのオランダ船は除いて)が出没しているのです。

そして1853(嘉永6)年6月3日、アメリカ艦船・サスケハナ号、ミシシッピー号、プリマス号、サラトガ号が通商要求に浦賀沖に黒船が現れたのです。

こちらが浦賀湾

そしてこちらが浦賀湾

黒船来航ジオラマ

黒船来航ジオラマ

こちらが久里浜湾

こちらが久里浜湾


黒船から見た情景で、左側が久里浜湾で右側が浦賀湾となるのです。当時は浦賀の方が栄えていたことから、基本的には黒船が現れたのが浦賀沖と言われるようになったのです。
ペリー乗艦の旗艦サスケハナ号

ペリー乗艦の旗艦サスケハナ号

久里浜上陸の絵

久里浜上陸の絵

こうして現れた船上のペリーに対して幕府はまず浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣し来航の目的を探り、その信書を渡すと言う目的は把握したもののペリー側は与力の階級が低いと拒否し、検討を重ねた幕府は6月9日に久里浜上陸を許可し、浦賀奉行所の戸田・井上奉行が会見し国書を受け取り、返答を1年後として艦隊は嘉永6年6月12日に江戸を離れたのです。
黒船の江戸湾航行図

黒船の江戸湾航行図

勿論、6月3日~12日(旧暦7月8日~7月17日)の間艦隊はじっとしていたわけではなく、東京(江戸)湾を北上し威嚇していたのです。

旅歴メモ
中島三郎助

中島三郎助
《写真:川合章子の部屋より》

中島三郎助は1821(文永4)年浦賀奉行所与力・中島清司の長男として浦賀に生まれ、14歳の時父と同じ与力見習いとして奉行所に出仕し、ペリー来航時にこの黒船に乗り込んだ最初の日本人となったのです。

有名なペリーの写真

有名なペリーの写真

当時の人が描いたペリー

当時の人が描いたペリー

そして三郎助は艦上で折衝の任務に当たるのですが、それ以外にに三郎助は艦内をくまなく見て廻った様で、「ペリー日本遠征記」では“詮索好きで根ほり葉ほりして見て歩く好感の持てない人物”として描かれているそうです。
因みに三郎助は燈明堂の裏手の台場からモリソン号を砲撃した一人で、その砲撃されたモリソン号に乗っていたのがサミュエル・ウイリアムズで、何と三郎助がサスケハナ号に乗ったときに、このウィリアムズが通訳として乗っていたそうですから実に興味深い話です。

海国日本の誇り:中島三郎助

ペリー来航後は、台風一過ともならず日本には引き続き暗雲が立ち込めていました。

徳田屋跡 徳田屋跡

徳田屋跡

そのような日本を憂いた人たちが集ってきたのが、東浦賀にある「徳田屋」という旅館で、現在はその跡だけが記されています。
ここにはペリー来航時に黒船に乗ろうとした吉田松陰が二度目の宿泊をし、ここで佐久間象山と日本の行方に関して協議したと言う黒船縁の旅館なのです。

旅歴メモ
当時の徳田屋のイラスト

当時の徳田屋のイラスト
(横須賀市HPより)

そして正式に幕府の許可を得た旅籠(御用御宿)となったのは1811(文化8)年で、これが浦賀の旅館の始まりなのです。
投宿したのは吉田松蔭、佐久間象山、安藤広重、木戸孝允などを初めとして、幕末から明治維新の激動の中で数多くの武士、文化人などが訪れ、近代日本の黎明をむかえた貴重な宿でしたが、関東大震災で倒壊し姿を消したのです。

一方幕府も手をこまねいてはいません。
まずは江戸湾警備の増強のために台場造営を命じ、品川沖に11ヶ所の台場が造営されることになります。

国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」

国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」

また、大船建造の禁を解除し浦賀造船所を設置し軍艦の建造を始め、7ヶ月をかけて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造したのです。
このドックと軍艦建造の中心的存在が中島三郎助だったのです。
因みに、この鳳凰丸は日本船の船旗に定められた日の丸を初めて掲揚した船でもある歴史的な軍艦なのです。
更に中島三郎助は、勝海舟・榎本式揚らとともに、長崎の海軍伝習所へ派遣され海軍士官としての修行と造船術を身につけ咸臨丸の修理を行うなど、まさに海国日本の造船・操船の第一人者となっていたのです。

この中島三郎助と咸臨丸に関する碑が「愛宕山公園」に残されています。

判りにくい愛宕山公園入口

判りにくい愛宕山公園入口

公園の入り口には古い銘板に「浦賀園」と刻まれていて、ここが市内で一番古い公園であることを知らしめているかのようです。
咸臨丸出港の碑

咸臨丸出港の碑

帆をイメージしているのでしょうかモダンなデザインの石碑で、日米修好通商100年を記念して、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向かい合うように、縁の深いこの地に建てられたのだそうです。
勝海舟断食の地碑

勝海舟断食の地碑

因みに咸臨丸出港の際に、その航海の安全を祈願して東浦賀にある叶神社の奥の院で断食をしたといわれており、現在その奥の院の境内地にその記念碑が残っています。

旅歴メモ
咸臨丸

咸臨丸

アメリカ軍艦ポーハタン号の警固のため、勝麟太郎以下90余名の日本人乗組員で運航する咸臨丸は、1860(安政7)年1月13日、品川沖で錨をあげ、16日の夕刻に浦賀に入港しました。
それから二日間、食糧や燃料、その他の航海準備作業が行われ、1月19日午後3時30分浦賀湾を出帆したのです。
不安と荒天の中を39日間掛けて無事サンフランシスコ湾に入港し、故国の浦賀に帰港したのは1860(万延元)年5月5日だったそうです。

そして公園の一番奥にあるこの立派な碑が「中島三郎助招魂碑」です。

中島三郎助招魂碑

中島三郎助招魂碑

前述した通り浦賀奉行所与力として、そして日本海国の第一人者として横須賀の誇る偉人を二十三回忌に名誉と功績を末永く残すために建立されたのです。
その理由は、幕府瓦解後、三郎助は幕臣として徳川家に殉ぜんと長男、次男と共に榎本武揚と行動をともにし函館五稜郭にこもり新生政府を迎え撃った所謂賊軍となったことによるものなのです。
こうして1869(明治2)年5月享年49歳で二子とともに旭川の地に散ったのですが、そのときの遺書が残されています。
中島三郎助の遺書

中島三郎助の遺書

文面からは当時僅か2歳の三男・與曽八に短刀を贈って家族に別れを告げたのだそうです。
この與曽八、その後榎本武揚や同じ与力だった佐々倉桐太郎に養育され、家名も残し、自身も海軍機関中将となり、勲一等旭日大綬章を受賞しているのですから、充分父を超えるまでに成長したようです。

このように名誉と復権を果す招魂碑の除幕式の際に、かつての函館戦争の同士であった初代中央気象台長の荒井郁之助が“浦賀に造船所を造ったらどうか”と提唱し、同席した榎本武揚が即座に賛成し、地元の有力者に働きかけ1896(明治29)年「浦賀船渠株式会社」が創設されることになったのです。

旅歴メモ 浦賀での造船の歴史は、1853(嘉永6)年のペリー来航時に、大船建造禁止令を解いて浦賀造船所を設置して鳳凰丸を建造し、1859(安政6)年には日本初のドライドックが完成して咸臨丸を整備したことに始まりました。
これらは中島三郎助が中心となって行ったことです。
しかしその後、小栗忠順らにより横須賀港に製鉄所を建設することが決定し(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)、艦艇建造の中心は横須賀へ移り、浦賀造船所(初代)は1876(明治9)年に閉鎖されたのでした。

この後、浦賀の様子も一段と変貌していくのです。

浦賀の発展-1:浦賀ドック

2013年10月12日に浦賀に訪れなければならない理由がこの「産業遺産見学会」の開催です。

外からもちょっと見える遺構

外からもちょっと見える遺構

浦賀工場の壁画とクールな街灯

浦賀工場の壁画とクールな街灯

浦賀工場正門

浦賀工場正門


この施設は「住友重機械工業株式会社追浜造船所浦賀工場」で、創業以来“浦賀船渠株式会社”、“浦賀重工業株式会社”と社名を変えて来たのですが、一般には「浦賀ドック」の愛称で呼ばれているのです。

旅歴メモ 明治中頃の日本は日清戦争の影響などもあり、外国から多くの艦船を買い入れ世界的な海運国に発展しようとしていました。
一方、造船界では技術面や設備面で大きく立ち遅れており、その遅れをとり戻すため外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていたのです。
そのなかの一つとして、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、当時陸軍要塞砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得し、資本金100万円で明治30年に発足したのが「浦賀船渠株式会社」なのです。

集合場所は事務所の2階で、すでに多くの方が集っています。

集合場所の事務所集合場所の事務所

集合場所の事務所


集合場所の事務所にはかつて使用されていた工具の数々が展示されています。
工具の数々

工具の数々

驚くしかない化け物ノギス

驚くしかない化け物ノギス

中でも特筆は「ノギス」で、下にある一般的なノギスと比べると、まさに“化け物ノギス”です!!!!

30人ほどのグループに分かれて、ボランティアガイドとともにドックの見学の開始です。

風化していくジブクレーン

風化していくジブクレーン

歴史的な「浦賀船渠」の銘板

歴史的な「浦賀船渠」の銘板

ドックの両側に大きなクレーンが見えますが左側のクレーンは「ジブクレーン」というものだそうで、そこに付けられている銘板に「浦賀船渠」の名とともに昭和20年6月と記載されています。
およそ70年近く経過した歴史的クレーンと言っても過言では無いかもしれません。

正面から見たドックの光景で、その大きさと煉瓦のレトロ感に圧倒させそうな光景です。

浦賀ドックの光景 浦賀ドックの光景 浦賀ドックの光景

浦賀ドックの光景


この浦賀ドックは、現在、世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちの一つという非常に貴重なドックなのだそうで、それ故のオーラを放っているのかもしれませんね。
その煉瓦積みは横・縦・横に煉瓦を並べて摘むフランス式が採用されています。
因みに綺麗に塗られた黄色い柵は、デザインとかではなく、時代経過と共にパイプが腐って倒れる可能性があるので、決して黄色いパイプ柵にもたれかかったり、掴まってはいけませんよ、と言う警告の意味で黄色く塗られているのだそうです。
ある意味これも遺構! です。

そして何気なく設置されている何とも素朴なこのフレームですが、実はこれがこのドックの命の綱のような大変重要な装置なんだそうです。

ドックで重要な原始的装置! ドックで重要な原始的装置!

ドックで重要な原始的装置!

いわゆる「水準器」(勝手に私が言っているだけで、正式名称は失念しました)でしょうか。
この浦賀ドックは“ドライドック”という乾式ドックで、水を満タンにしてから扉を開けて船を進入させ、水を抜いて船を固定して作業するという形式で、船を固定するときに必要なのがこの装置なのです。
これが盤木

これが盤木

船を固定するのが、底にある船台とその上に取り付けられた“盤木”の上に船の尖底を乗せるわけで、そのときドック内は海水で満たされているので船台が見えないわけですから、真直ぐ船体を向けさせるために、この水準器の縦の2本の糸に船体を真っ直ぐ合わせるのです。当然、この糸に対して真っ直ぐでない場合は、水を抜いた際に真っ直ぐ“盤木”の上に乗らないことになるわけです。
もし真直ぐ乗らない場合はやり直さなければなりませんが、注入するのに7時間、排水するのに5時間(という説明だったような記憶なのですが定かではありません)といういずれにしても大幅な時間のロスを起こすのですから、この作業は大変重要で、この作業に当たる担当者がドック作業者のトップなのだそうです。
ずっとこの方法だったそうですから、意外と原始的なのですね

右手にあるクレーンは「タワークレーン」といもので、こちらは昭和18年に製造されたものだそうなので、正しく70年経過したクレーンなのです。

こちらも風化していくタワークレーン こちらも風化していくタワークレーン こちらも風化していくタワークレーン

こちらも風化していくタワークレーン


右手に放置されているトラス状の構造物は、先のタワークレーンの頭に取り付けられていたものだそうです。
これだけ大きなものが着いていたのですから、いかに大がかりな修理だったかをうかがい知る事が出来ますね。

ドックの中間地点まで下りると、煉瓦壁が文字通り手に取るように見ることができます。

レンガ壁 盤木 レンガ壁

ドックのレンガ壁と盤木


そして“盤木”も目の前で見ることができ、より理解しやすくなるというものですが、船の大きさによってこの“盤木”の大きさを変えるのだそうです。
下から眺めるドックもまた歴史の重みを感じることが出来そうです。

上にあがってクレーンの先を見ると小高い丘を見ることができます。

削られた丘

削られた丘

この丘はかつてこのドックの半分くらいまであった丘だそうで、ドック建設のために削り取られてしまった名残なのだそうです。
意外な歴史が残されているものです。

ここからが船尾というか港との境界部分です。

浦賀ドック開閉扉 浦賀ドック開閉扉 浦賀ドック開閉扉

浦賀ドック開閉扉


左側がドック、右側が浦賀湾となり、緑色の通路の部分が扉となっており、ここが開閉して船の出入りを行うのです。
しかしながら上下に動いて、といった近代的なものではなく、扉が逆L字型になっていることから頭の重みで浦賀湾側に扉が倒れるという開け方なのです。
扉を閉めるウィンチ

扉を閉めるウィンチ

では閉めるときは一体どうするのかと言えば、両側にあるウィンチで持ち上げるという、これも実に原始的でありながら、何となく親しみが持てる扉なのです。
後にもあった水準器

後にもあった水準器

扉の中央には例の水準器が設置されていますね。

ここからドック内を見るとドックの下の側面に穴が二つありますが、この穴が海水を注入する穴なのです。

海水注入口 海水注入口

海水注入口


前述したように注入するのにも何時間もかかるのですから、一層のこと扉を開けて注入したほうが早いのではないかと思いますが、よくよく考えれば、まさに洪水状況ですから問題大いにありですね。
海水排水パイプ 海水排水パイプ

海水排水パイプ

そしてその先の右手にある二本の太いパイプが排出水のが通るパイプなのだそうです。
現在はボロボロですが、それが返って歴史を物語っているようです。

開閉扉の先の正面の岸は同じように煉瓦で造られていて、いわゆるここがドックの敷地(境界内)ということになるようです。

新造船用ドックと水路 新造船用ドックと水路

新造船用ドックと水路

この水路は1.5kmあるそうで、これだけ長い水路も珍しいのだそうです。
そしてこの水路の元には新造船のドックがかつてあり、進水した艦船がこの水路を誇らしげに走っていったのだそうです。

旅歴メモ 艦艇建造は日露戦争時の横須賀工廠からの艦載水雷艇の受注に始まり、1907(明治40)年に初めて駆逐艦「長月」を建造しました。その後も小艦艇建造を中心的業務とし、特に駆逐艦建造では有名で、大阪にあった藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門で「西の藤永田、東の浦賀」と呼ばれ、軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻(+2隻未完)を建造したのです。
また、1924(大正13))年に国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」、「飛鸞丸」を竣工させ、その後も多くの青函連絡船を浦賀で建造することとなったのです。
戦後も自衛艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸建造なども行われました。
しかし住友機械工業と合併した際、追浜造船所(現横須賀造船所)を開設、民間船建造はこちらに移り、2003(平成15)年3月12日、浦賀で最後の建造となる護衛艦「たかなみ」が竣工してその幕を閉じたのです。

最後は附属している工場跡を見学です。

ポンプ室

ポンプ室

ポンプ室
ドックの水を排水するためのポンプ所です。建物の中にあるからでしょうか、それ程古い感じはしませんね。
こちらは工場ですが、工具や備品が無いのでただただだだっ広い工場建屋です。
とにかく広い工場内 とにかく広い工場内

とにかく広い工場内

午後から行われるシンポジウム会場

午後から行われるシンポジウム会場


僅かながら残されている機械はあまり見たことが無い大型の旋盤でした。全てのスケールが違うのでしょうね。
大きな旋盤

大きな旋盤

寂しげなトロッコ

寂しげなトロッコ


何となく廃墟好きな方には絶好のポイントかもしれません。
あまり見ることの無いリベット打ち

今では見かけないリベット打ち

特にリベット打ちの柱などは戦前のイメージが色濃く残る構造物といえそうです。
こうしてドックを一周してきました

こうしてドックを一周してきました

こうして最後はジブクレーンを抜けて見学会は終了となったのです。

浦賀の発展-2:川間ドック

ここでもう一つ注目すべき場所があります。
それは前述した世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのもう一つのドックが、浦賀ドックの近くにあるということです。
つまり世界で4ヶ所のうち2ヶ所が日本、更にこの浦賀にあるということなのですね。
丁度、燈明堂と陸軍桟橋の中間辺りの“シティマリーナヴェラシス”というヨットハーバーの中に残されている「川間ドック」です。

浦賀らしいモニュメント

浦賀らしいモニュメント

ヨット修理庫

ヨット修理庫

駐車場の右手がドック跡

駐車場の右手がドック跡


聞いたことのある名称ですが、浦賀奉行所跡辺りのエリアが“川間”と呼ばれていましたが、そのより浦賀湾に近い場所となるのです。 正門から入って右手奥の駐車場の先がその「川間ドック」の遺構です。
川間ドック 川間ドック 川間ドック

川間ドック


基本的にはドライドックなのですが、現在は常に海水で満たされている状態で、浦賀ドックとの使用前、使用中のような光景が微笑ましいですね。

旅歴メモ
昭和30年頃の川間分工場

昭和30年頃の川間分工場

1897年浦賀船渠が設立された2年前の1895(明治28)年に東京石川島造船所が大型船の建造修理のため、当時、取締役会長であった渋沢栄一の提案により浦賀に分工場の建設開始し、1897年に東京石川島造船所浦賀分工場として創業されたのが始まりなのです。
同時期に同じ場所で建設された2社の間ですから、当然、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられ、その結果はダンピングを生み、両社の経営を悪化させたのです。
これでは共倒れという危機から、この石川島の浦賀分工場を浦賀船渠が買収し自社工場とすることで決着したのです。
その後、順調な経営を進めてきたのですが、1978(昭和53)年には新造船から撤退し橋梁専門工場となり、浦賀ドックより一足早い1984(昭和59)年に閉鎖され、現在のマリーナとなったのです。

川間ドックの工場跡

川間ドックの工場跡

燈明堂から見えた海岸沿いの石垣は、川間ドックの工場跡だったのかもしれません。
いずれにしても浦賀の歴史に残る遺構なのですが、世界に4ヶ所しかない貴重な遺構が今のところ史跡や文化財に指定されていませんので、今度どのようなことになっていくのか注目すべきところといえそうです。

三浦半島の中では比較的早くから発展した地域で、戦国時代には浦賀城が築城されて後北条氏の水軍の拠点の一つとなっていました。
江戸時代には廻船問屋や干鰯問屋が軒を連ね、浦賀奉行所が置かれてからは江戸湾の要衝となり隆盛を極めました。
そして黒船来航以来は、造船の街として更なる発展を遂げてきたのです。
こうした発展の要因が2003(平成15)年に終ってしまった浦賀の今後が非常に気になる散策でしたが、歴史的には非常に興味をひかれる町でした。

2013.10.17記