大雪で散策のできなかった2月、久しぶりの好天に誘われて隣接する町、比企郡川島町に出かけて見ました。
以前、帰りがけの「平成の森」や行きがけの「ホンダエアポート」に寄ったことはあるのですが、あえて川島町へというのは初めてです。
行きがけ、帰りがけが多いのはこの地に圏央道の川島ICがあったからですが、現在は桶川北本ICができたため頻度はずっと下がった為、改めて川島町を訪れてみることにしたのです。

川島町の“四機” -1

川島町は人口2万3000人の小さな町ですが、7町ある比企郡の1町で、これまでに比企郡では小川町、ときがわ町、滑川町、嵐山町の4町を訪れているので5番目とななります。
今回は半日程度の短い時間のなかで、川島町のエッセンスを楽しもうと、川島の人物、自然、歴史、そして文化という4つのふれあいの機会の“四機”を楽しんでみました。

川島町の「人物」

ほぼ川島町の中央に位置している、川島町ではメジャーな名所「遠山記念館」を訪れます。

遠山記念館

季節柄寒々しいが春になると桜が美しい堀

遠山記念館長屋門

旧家らしい佇まいの長屋門

落ち着いた雰囲気の中、長屋門を抜けて邸内に入ります。

この「遠山記念館」とは、埼玉県出身の実業家である遠山元一の私邸を記念館としたものです。

遠山元一

遠山元一

遠山元一は比企郡三保谷村(現在の川島町)の豪農の家庭に長男として生まれますが、父親の放蕩により生家が没落し、16歳で東京日本橋兜町で丁稚奉公します。
1918年に独立し川島商店を設立し、一連の株取引の経済的成功により1936年故郷の川島町に豪邸を建設して錦を飾るのです。
1938年には川島屋證券会社を創業し、1944年旧日興證券との合併により日興證券の社長となります。
その後、1964年日興證券の会長を退くまで戦後日本の証券業界の近代化に尽力し、遠山天皇と呼ばれるまでになったそうです。
そして1968年故郷の豪邸を法人化し財団法人遠山記念館を設立、敷地内に美術館を建てて長年にわたる貴重な蒐集美術品を収蔵したのです。
現在は日本と中国の書画・陶磁器、人形、染織品、世界の工芸品と染織品など11,000点の所蔵品に及ぶそうです。

美術館

高窓風蔵仕様の美術館

高床式美術館

高床式で文化財保存用の造り

正面に見えるのが、蒐集美術品を保管・展示している美術館です。

チケット

入館チケット

企画展

企画展「雛の世界」

美術館で入館チケットを購入して、現在開催されている展覧会を見学します。
この日開催している展覧会は「雛の世界」という企画展で、江戸時代中期から昭和時代中期までの様々な人形が展示される、この時期ならではの展覧会です。

美術館内は撮影禁止ですので、代表的な写真をお借りして掲載しています。
主に江戸時代~明治時代の雛人形が展示されていて、実に貴重なものを見られます。

享保雛 立雛

享保雛と立雛(c)遠山記念館

特に江戸時代中期の豪華な古今雛や同じ時期に町雛として愛用された享保雛から、江戸時代後期の倹約期における小さな象牙の雛などの移り変わりが興味深いです。
魔除け的な意味合いから始まった人形も、時代とともに華美・華麗、そして精緻に変化していった人形の歴史・文化を知ることができました。
時期によって企画展示されているので、時々にあわせて訪れるのもよろしいかもしれません。

次ぎは邸宅を見学します。

東棟 東棟

茅葺が印象的な表玄関

ずっしりした重厚さがありながら、嫌味のないのは茅葺の屋根に寄るものかもしれませんが、旧家の趣を存分に伝えてくれます。
前述したように遠山元一が故郷に錦を飾った邸宅ですが、苦労した母・美以の住まいとして昭和8年から2年7ヶ月の歳月をかけて完成した邸宅なのです。
見取り図

遠山邸見取り図

平面図

遠山家建築設計図

当時最高の建築技術と全国から集められた銘材を使って建てられ、邸宅全体は建築様式の異なる東・中・西の3棟を渡り廊下で結ぶ構成となっています。

先ほどの茅葺の屋根の部分が“東棟”になります。

畳廊下

玄関から居間に続く廊下

玄関を入ると直ぐ廊下となりますが、見ていただければ判るように廊下も畳敷なのです。
何気ないところに優しさと温かさを感じます。
囲炉裏と縁無し畳

囲炉裏と縁無し畳が印象的な居間

土間

六角形を敷き詰めた珍しい土間

東棟は没落前の豪農の趣を受け継いだ造りだそうで、一家にとっては懐かしい佇まいなのでしょう。18畳ある居間はまさに田舎そのものですが、土間などは趣向を凝らしています。
母、美以の縁の展示

母、美以の縁の展示

家具

使用されていた家具

母縁の品の展示と共に、田舎風といえども家具などは一味も二味も違うようです。

掛込み天井

日当たりの良い縁側の廊下

縁側

丁度梅の開花時期で、チラホラ観梅もできそうです

東棟から中棟に移りますが、ここも眺めと日当たりの良い畳廊下を進みます。この廊下だけでも生活できるのではないかと思ってしまいます。
また、天井は斜めの部分と斜面のある天井で、このような天井を“掛込み天井”問うのだそうです。どこまでも凝っていますね。
廊下の左側が18畳の大広間で、その隣の次の間に遠山家の雛人形が飾られています。
大広間の隣の次の間の雛人形

大広間の隣の次の間の雛人形

関東風の「段飾り」

関東風の「段飾り」

御殿飾り

「御殿飾り」


この雛壇は、遠山元一の長女・貞子の初節句の祝いとして大正時代に揃えたものだそうで、左側が関東風の「段飾り」で、左側が京都御所を模した「御殿飾り」の二組になっています。
段飾りの中の道具入れ

段飾りの中の道具入れ

雛人形にあわせた掛け軸

雛人形にあわせた掛け軸

写真は撮れなかったのですが、段飾りに置かれている道具入れの道具の数々が美術館の方に展示されていましたが、こんな小さな道具入れに約40~50点の道具が入っているのですから、結構感動モノでした。
また、大広間にはこの時季にあわせた掛け軸もかけられていて、実に趣のある大広間です。
中棟

庭園から見た中棟

ここからは中棟から西棟に移りますが、中棟には二階があり、通常非公開で二階は洋風の応接室になっているそうです。

蔵

突如現れた蔵の扉

蔵

庭園から見た蔵

渡り廊下で西棟に進むと突如蔵の扉が現れます。外から見ると判るのですが、基本的に蔵は独立していながら西棟に隣接していて、扉は西棟に繋がっていると言うことです。
片身替わり

こちらの畳廊下は半分です

こちらの廊下は畳敷が半分になっています。これは“片身替わり”と言うそうで、着物などで右と左の柄が違うものをもともと呼んでいたものだそうです。
何となくお洒落に見えますね。
茶室

入口のアーチが茶室の佇まい

仏間

こちらのアーチは仏間

西棟は完全に母のためのもので、客間3部屋と仏間からなる静寂感ある趣の造りです。
西棟 西棟

庭園から見た西棟

外から眺める西棟はある意味一般的な建築に見えるのですが、その分内装に凝っているのでしょう。
客間の額も雛人形

客間の額も雛人形

欄間

美しい造作の欄間

客室の作りも華やかさを醸し出しながらも、やはりしっとり落ち着いた空間です。
庭園 庭園

客間や茶室から見える庭園

それぞれの部屋から望む庭園の風景が実に美しく、特に雪見となったこの日は格別です。

最後は庭園を散策します。

休憩所

庭園の一画の休憩所

遠山稲荷

その隣にある稲荷社

庭園の一画には休憩所があり、頼むとここで抹茶をいただけるのだそうです。またその隣には「遠山稲荷」があります。
遠山稲荷 狐の台座

遠山稲荷と狐の台座

この稲荷は邸宅完成後、京都伏見稲荷を勧請したもので、当時の職人等が仕事を得たことに感謝して狐の台座裏に13人の職人名が刻まれているのです。
よほど割のよい賃金で雇われたと考えるのは、貧乏根性の抜けない証でしょうか。
偶々先週の大雪がそのまま残っていて、かえって庭園も実に風情のよい面持ちとなっています。
庭園 庭園 庭園

庭園の各所


庭園の梅

タイミングもよく梅の開花もチラホラ

しばし見事な庭園を散策して遠山記念館を後にします。
大正時代から昭和にかけての文化や技術などが偲ばれる場所であるとともに、川島町の立身出世の代表的人物としての存在を知ることができました。

川島町の「自然」

川島町は荒川や荒川系河川の流域で荒川低地となっていて、豊かな自然が今も残る立地を生かした農業が主な産業で田園地帯が広がっています。しかしながら平成20年に開通した圏央道川島ICにより産業団地の整備も進み、工業・流通系を主体とした企業が進出し、町の様子も様変わりを始めているのです。
そのような中でも豊かな自然を誇る川島町の冬の風物詩ともなってきたのが、ハクチョウ飛来地です。

飛来地臨時駐車場

飛来地臨時駐車場

整備された駐車場に車を止め、目の前の土手を越えると「越辺川」の河川敷となります。
越辺川河川敷 越辺川河川敷 越辺川河川敷

越辺川河川敷


「越辺川」と書いて“おっぺがわ”と読みます。
埼玉県入間郡越生町黒山三滝付近に源を発し、越生梅林を抜け比企郡鳩山町で鳩川をあわせ、坂戸市で高麗川、比企郡川島町で都幾川をあわせ、川島町角泉付近で入間川に合流する一級河川です。
そして支流、飯盛川が合流する付近に白鳥飛来地があるのです。
因みにこの珍しい越辺川の語源ですが、「越生の辺りを流れる川」から来ているという説や、北海道乙部町の「乙部」と同様にアイヌ語の「オ・ト・ウン・ペッ(下流の方に沼のある川)」に由来するという説などがあるそうですが、いずれにしても詳細は判らないそうです。“越生(おごせ)”といい“越辺(おっぺ)”と言い、実に難解な地名です。

そして肝心の白鳥の飛来がこちらです。

白鳥飛来地

この日の白鳥飛来地光景

「おお、綺麗な白鳥!」と言いたいところですが、今日の飛来地点はこのように鳥一羽も見当たりません。
川島町のオフィシャルサイトによれば、この前の週の白鳥確認数は82羽と発表されていたのでかなり期待していたのですが。。。

下流にいた鴨軍団

しばらく唖然とした面持ちでいると、下流方向に沢山の鴨が居ました。白鳥あるところに鴨が群るのが定番ですので下流に向って歩いて見ます。
確かに鴨は沢山居たのですが、白鳥は1羽も見つけることができませんでした。

旅歴メモ -白鳥と鴨- その見た目からのイメージでは、白鳥に群るカモの群れといった感じで、解釈によっては互いの長所・短所を生かして外的から身を守るといった説明もあるのですが、基本的に白鳥もカモも同じ“カモ科”であるということでしょう。
確かにカモ科の生息地は淡水域、湿原、海洋など様々な環境に生息しているのですが、その多くの種は渡りを行うので、エサのある場所に共存するのは至極当然のことなのです。ただし、日本でも皇居付近で有名な“カルガモ”は渡りを行わないため、カモの渡りの習性を勘違いしているのかもしれません。
また、日本だけカモ科の小型の鳥を“鴨”、大型の水鳥を“雁”、更に大型で白いもの(例外あり)を“白鳥”と呼んでいるので、その影響もあると思われます。
いずれにしてもその色合い、大きさなどにより同じ科目であると感じさせないことにあるのでしょう。

鴨の群れ 鴨の群れ

仕方なく見ていたカモの群れ

とうことで仕方なくあまり楽しくもないカモの群れをぼんやり眺め、運の悪さを呪っていたのです。
その時、家内が指す川の中州の方向に白鳥らしき物体がいるので望遠で見ました。
白鳥? 白鳥!

やっと見つけた白鳥2羽

この日は特に雪が残って居たこともあり、白鳥なのか雪なのか遠めでは判断付かない状況だったのです。
ここでもデジカメのスペックの低さを呪いながら、何とか白鳥の存在を捕らえることができたのです。
本来の白鳥飛来地

ウィキに掲載されていた同じ場所での写真

82羽の内の2羽を見ることができたのですが、他の80羽は一体どこにいったのでしょうかね。本来ならこのような光景が見られたはずなのですが、まあ、2羽見られただけでも良しとしましょう。

以前、深谷の白鳥飛来地を訪れたときも見られませんでしたから、まあ、“量より質”というわけの判らない理由で、白鳥の飛来を楽しんだことにしておきます。
近くでもあることなので、また機会を見つけて訪れてみたいものです。

2014.2.27記(後編につづく)

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京都の彩を埼玉で愛でる、晩秋の嵐山渓谷(前編)

【嵐山渓谷】は得票数5,667票で、ジャンルAで20位にランクされました。

嵐山の地名は、昭和の初めに槻川の渓谷を訪れた本多静六博士が槻川橋上流の渓谷美を見て「京都の嵐山に似ている」と評したことに由来する。この比企丘陵を代表する景勝地は、変化に富み、豊かな自然が織りなす多彩な表情を見せてくれる。
この景観を守り、後世に伝えていくため、県が1992(平成8)年に渓谷沿いの土地をトラスト地に指定した。
周辺には国蝶オオムラサキをはじめ、貴重な生物が生息。また夏になると休日には大勢の人が槻川の川原で憩う姿が見られる。
(本書より)

嵐山町は初めてですが、比企郡と考えると【武蔵丘陵森林公園】(滑川町)、【小川和紙】(小川町)、【萩日吉神社流鏑馬祭】(ときがわ町)に続いて4度目の散策となります。
晩秋の11月24日(日)に「紅葉まつり」が行われ、紅葉も見頃とあって嵐山渓谷を訪れたのです。
朝早めに自宅を出て車で1時間足らずで嵐山渓谷のBBQ場に到着です。
春から夏にかけてはバーベキューで賑わうようですが、流石にこの寒さではあまりBBQを行う人も少ないようです。
まずはそのBBQ場からスタートです。

嵐山の自然

BBQ場駐車場 BBQ場

嵐山BBQ場駐車場

朝9:00少し前にBBQ場に到着しましたので、まだまつりは準備中のようです。
取り合えず車を駐車して早速嵐山渓谷に向います。

冠水橋

駐車場をでて裏手の道路を進みます。

庚申塔

意外に新しい庚申塔

裏手には庚申塔や供養塔が並んでいて各地区の出入り口に祀られているのだそうです。成人になると、かつては“庚申待ち”という男性の会(後に男遊び)に参加していたそうで、それが現在の常会に発展したのだそうですが、勿論、現在のは男遊びではないでしょう、きっと。。。

宅地内にある長屋門

風情のある長屋門

大平山

大平山

しばらくはは住宅地を進みますが、右手に見えるさかさまのお椀のような山が「大平山」で、この山が作り出した地形が嵐山渓谷なのです。
宅地を抜けると鬱蒼とした樹林となり、まさに渓谷に相応しい様相となります。
宅地か渓谷へ

ここから樹林です

渓谷樹林

鬱蒼とした樹林

この先が渓谷

この先が渓谷


嵐山渓谷

風光明媚な嵐山渓谷

そして樹林を抜けるとそこには槻川が流れている嵐山渓谷となるのです。

旅歴メモ -嵐山渓谷- 東秩父村を源とする槻川は、小川町、嵐山町を通過して都幾川となり、東に流れて荒川に注ぎ、やがて隅田川となって東京湾に注がれているのです。
かつて本田博士が嵐山と称した場所は、この渓谷から500メートルほど下流の槻川橋付近だったそうです。現在は立派な自動車橋ですが、当時は低い橋だったそうで、現在もその橋桁跡が残っているそうなので、そこから見れば京都嵐山に見えるのかもしれません。

右手に見える橋が「冠水橋」で、嵐山渓谷のシンボルのような石橋です。

冠水橋

冠水橋

まずは槻川上流を遡って見ます。
紅葉紅葉

まさに紅葉まっ盛り

勿論紅葉も綺麗ですが、水面に写った紅葉も見事です。
鏡面紅葉

渓谷美の醍醐味!?

振り返った冠水橋方向も綺麗な逆さ紅葉です。
撮影スポット 撮影スポット

紅葉撮影ポイント

更に上流に向うとこのあたりは撮影ポイントなのでしょうか、多くのアマチュアカメラマンがベストショットを切り取っています。
これこそ何時間見ていても飽きない渓谷の自然美なのです。

展望台

冠水橋

冠水橋

次の移動は冠水橋を渡って展望台に向います。
槻川下流

冠水橋からの槻川下流

槻川上流

冠水橋からの槻川上流

冠水橋からの眺めもまた渓谷美の存在を知らしめてくれます。こんな感じで博士も“嵐山”とつぶやいたのでしょうかね。
ここからは少し坂を上ります。
渓谷坂道

ちょっと急な坂道

紅葉と冠水橋

紅葉越しの冠水橋もまた風情

坂道の途中には幾つかの紅葉が見え始め、紅葉越しには冠水橋を見ることができます。
もう少しで頂上

山頂近く

緑のトラスト

トラスト告知看板

またここには「緑のトラスト保全第三号地」の看板が掲げられています。
これによってこの景観が保たれていると言う重要な看板なのですね。

旅歴メモ -緑のトラスト保全- さいたま緑のトラスト運動の仕組みは、県民からの寄附による土地や建物を取得、及び寄贈や遺贈を受け、埼玉の優れた自然や貴重な歴史的環境を、県民共有の財産として末永く保全していこうという運動です。
昭和59年に県民主体の運動の推進組織として「さいたま緑のトラスト協会」が発足し、翌60年には、運動の資金となる「さいたま緑のトラスト基金」が県に設置され、現在、この両者が一体となって運動をすすめているのです。
現在のトラスト地域
第1号地:見沼田圃周辺斜面林(さいたま市緑区)、第2号地:狭山丘陵・雑魚入樹林地(所沢市上山口)、第3号地:武蔵嵐山渓谷周辺樹林地(嵐山町鎌形ほか)、第4号地:飯能河原周辺河岸緑地(飯能市矢颪ほか)、第5号地:山崎山の雑木林(宮代町山崎)、第6号地:加治丘陵・唐沢流域樹林地(入間市寺竹)、第7号地:小川原家屋敷林(さいたま市岩槻区馬込)、第8号地:高尾宮岡の景観地(北本市高尾)、第9号地:堀兼・上赤坂の森(狭山市堀兼)、第10号地:浮野の里(加須市北篠崎・多門寺)、第11号地:黒浜沼(蓮田市黒浜)、第12号地:原市の森(上尾市原市)

坂道を登り終えると展望台がありますが、残念なことにここからの槻川の眺望は悲しい光景となっています。ここも年月とともに草木が伸びて眺望が塞がれてしまったのですね。

展望台 ちょっと残念な眺望 ちょうっと残念な眺望

展望台とその眺望


しかしながらその周辺は美しい紅葉を見ることができますね。
紅葉美-1 紅葉美-2 紅葉美-3

展望台周辺の紅葉


嵐山町発祥之地碑

これが博士の功績

展望台の横に「嵐山町名発祥之地」碑が建立されています。
これは前述されたように本多静六博士が命名したものなのですが、この博士もまた埼玉県の偉人なのです。
詳細は【本多静六】で訪れた当時の菖蒲町(現在は久喜市)に記念館(久喜市になってから新しくなったようです)があります。

与謝野晶子歌碑

展望台からは渓谷に沿って散策路となっています。
散策路の両脇に赤・黄・緑のコントラストが実に美しく映えています。

散策路-1 散策路-2 散策路-3

散策路の紅葉


かつて嵐山と呼ばれる前は、秩父の長瀞岩畳に例えて“新長瀞”と呼ばれていたこともあるようで、時折見える渓谷の槻川を見ると確かに長瀞を思わせるような光景です。
紅葉と槻川-02 紅葉と槻川 紅葉と槻川-03

槻川と紅葉の渓谷美


しばらくは紅葉の美しさを堪能することにしてみます。
当時の新聞記事

当時の新聞報道
(嵐山町webサイトより)

さてこの渓谷ですが、新長瀞と呼ばれた後の昭和3年に“武蔵国の嵐山”と命名されてからは、マスコミにも取り上げられ大変評判となり多くの観光客が訪れるようになったそうです。この辺りは現在のメディア効果と変わりないですね。
そしてこの頃周辺に料理旅館の「松月楼」がオープンし、東武東上線の菅谷駅も昭和10年に「武蔵嵐山駅」に改称され、駅から観光客の長い行列が出来たそうです。
今と同じような美しさに包まれていたのでしょうか。

このような時代に1939(昭和14)年1人の女性歌人がこの地を訪れました。
著名な歌人である「与謝野晶子」が、娘の藤子さんと共に訪れて「比企の渓」29首を歌ったのです。

与謝野晶子歌碑 与謝野晶子歌碑

比企の渓碑と与謝野晶子

そのうちの1首がこちらの「比企の渓:槻の川 赤柄の傘を さす松の 立ち並びたる 山の しののめ」という歌で、この歌が歌碑となって建立されているのです。
よく意味は判りませんが、「赤柄の傘をさす松」とはアカマツのことなのでしょうか、槻川沿いにアカマツが夜明けと共に見えてくるといった意味なのでしょうかね。
いずれにしても紅葉を歌ったものではないようで、若干拍子抜けの感は否めませんね。
それにしても全国津々浦々歌碑等は良く見かけるのですが、是非とも意味を添えてもらえると素人にもわかりやすのですがね。。。

当時の一平荘

当時の一平荘
(嵐山町webサイトより)

このように賑わった嵐山渓谷ですが、戦後は松月楼も営業されなかったことから経営者が変り「一平荘」と改称され営業されたのですが後に閉店となってしまったのです。
しかしながら時代と共に観光客も再び増加し、BBQ場をはじめとして現在の駐車場にひしめく車の姿が、かつての菅谷駅からの行列の名残となったのです。

旅歴メモ -松月楼と一平荘- 松月楼は昭和のはじめ、庄田友彦氏によって創立された料亭で、遊覧客はこの邸内を通って渓谷に出る仕組みになっているたそうで大層繁昌していたようです。
しかしながら戦争中、学童疎開の宿舎にあてられて荒廃し、1952(昭和27)年に復興して開業したのですが、間もなく再び閉鎖されたのです。
そして経営者が同族の庄田吉勝に代わって当時神楽坂にあった割烹「一平荘」の支店として「武蔵嵐山一平荘」と改名して昭和30年ころから再び営業したのですが、昭和50年庄田の死亡により閉店し、その後は放置され昭和54年に焼失した以降は庄田氏の次女のより管理を嵐山町に委譲され、現在はトラスト地として整備されたのですが、その痕跡は何も残っていないようです。
因みにこの庄田氏は自ら道を補修するためにブルドーザの運転中に振り落とされ、そのブルドーザに轢かれ、出血多量によるショック死でなくなったそうです。

ススキが原 ススキが原

朝日を浴びて輝くススキヶ原

与謝野晶子歌碑の先はススキヶ原で、この辺りにかつての一平荘があったそうです。確かにここにあれば風光明媚な料亭として人気が出るのも当然かも知れませんね。
槻川 槻川

今は寒々しいが夏は賑わいそうな槻川

このススキが原を抜けると再び槻川にたどり着きます。
こちらは特に紅葉が見られるわけではないのですが、夏の時期は子供達の水遊びには良いかもしれませんね、水も透き通って綺麗ですし。
晩秋の嵐山渓谷は、噂に違わず綺麗な紅葉の見れる素敵な場所でした。

嵐山の歴史-1

自然をたっぷり堪能した後は歴史散策です。
そもそも比企郡自体が埼玉県の中央部部に位置し、歴史的にも後に鎌倉幕府御家人となる比企一族が統治していて、鎌倉街道や脇街道が縦断していることから、交通の要所でもあったため多彩な歴史を持っているのです。
今回の歴史散策は鎌倉幕府成立前の平安末期の戦乱時代に遡ります。

木曽義仲

平安末期の戦乱時の主役級ともいえる武士が「木曽義仲」です。正式には“源義仲”になるのですが、一般的にはこの方がわかりにくいでしょう。
この木曽義仲が生まれたのがこの嵐山町で、先ずは嵐山町銭形にある「班渓寺」を訪ねます。

六辻 くよづかのべったら地蔵

拝顔することができなかった「くよづかのべったら地蔵」

途中にある地蔵は「くよづかのべったら地蔵」というそうで、この地蔵尊を正面から見ると円満慈悲の姿で、横から見るとただの平たい青石にしか見えないことから、この名前が付いたそうです。
宝永六巳丑と刻まれていて、1709年になりますから江戸時代中期のものです。

班渓寺

班渓寺 「木曽義仲公誕生之地」碑

班渓寺山門と「木曽義仲公誕生之地」碑

山門の横には「木曽義仲公誕生之地」と刻まれた大きな石碑が目に入ります。
この寺の由緒は梵鐘にあるそうで「木曽義仲 長男 清水冠者源義高為 阿母威徳院殿斑渓妙虎大姉 創建スル所也」と記されているところです。
つまり木曾義仲の妻である妙虎大姉(山吹姫)が我が子である源義高を弔うために建立した寺ということになるのです。戒名の阿母威徳院殿班渓妙虎大姉に“班渓”の名が入っているところがその証なのですね。
この源義高については、【入間川七夕まつり】で訪れた清水冠者源義高終焉の地である「清水八幡神社」で詳しく知ったのですが、要するに頼朝によって義仲の一族として殺害されたのです。

本堂

質素な佇まいの班渓寺本堂

鎮守堂と義仲顕彰碑

鎮守堂と義仲顕彰碑

そしてこの地に菩提をともらうために建立したのは、やはり義仲の出生の地であったからで、この班渓寺の裏手に「木曽殿館」と言われる下屋敷が義仲誕生の地であったからなのでしょう。
境内には質素な佇まいの本堂があり、班渓寺の扁額が歴史を物語っているようです。
本堂の横の「鎮守堂」の前に立派な顕彰碑があり、この碑文によって義仲の生き様を知ることができるのです。

旅歴メモ -木曾義仲公顕彰碑- 義仲は1155(久寿2)年この地に生まれ幼名は“駒王丸”で、父・帯刀先生源義賢が甥の悪源太義平に殺害たれた時は僅かに2歳だったそうです。
当然一族の駒王丸も殺害される運命にあったのですが、畠山重能(畠山重忠の父)と斉藤別当実盛に助けられ、信濃国(現長野県)の中原兼遠のもとに送られ、その山中にかくまわれて元服し木曾次郎義仲と称し、その後、平家政権のもと、現在の長野県日義村の八幡宮で挙兵し数々の戦の後、平家を追って京都に上り、義仲は後白河法皇より“朝日将軍”の名称を贈られ、平家追討のため出撃したのです。
しかしながら法皇は一方で、鎌倉の源頼朝に義仲を討つよう命じたため、義仲は従兄弟の頼朝と対決することになったのです。これは義仲の皇位継承問題への介入や治安回復の失敗などによる法皇との不和が原因といわれているのです。
その後、征夷大将軍に命じられた義仲も1184(寿永3)年、頼朝の追討軍によって討たれたのです。
義仲31歳のときだったそうです。

山吹姫の墓

山吹姫の墓

班渓寺にはもう一つその威徳院殿斑渓妙虎大姉である山吹姫の墓があります。
説明によれば山吹姫は木曽育ちの娘、義仲の室とし幾度かの合戦に従軍し建久元年(1190)11月22日ここに寂すとあります。
平家物語では義仲に従い京都に至り、攻め寄せる頼朝軍に対し義仲は出撃するのですが 山吹は病のため京都に残ることとなっていますが、それには後日談があり、義仲が頼朝の手の者に討たれ巴御前も囚われの身になったことを知ると、暗夜に乗じ京都を脱し、木曽谷から佐久を通り、上野国を抜けてこの地、鎌形へ来たと話しが作られていたようです。

旅歴メモ -巴御前と山吹姫- 「平家物語」の“覚一本”にこのような記載があります。
「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者なり」
ここでいう“便女”とは文字通りの「便利な女」のことで、武将の身の回りの世話をする召使の女ということで、現在の秘書ということになるわけです。
ただし、その秘書が子供を生んだわけですから現代社会ではひと悶着起るところですが、妾という要素も含まれているのは古では当然のことでしょう。

班渓寺橋と都幾川 班渓寺橋と都幾川

優美な班渓寺橋と都幾川

班渓寺の横を流れる都幾川にかかる橋は、朱色の欄干に擬宝珠のついた古を模した「班渓寺橋」ですが、山吹姫に相応しい優美な橋といえるでしょう。

銭形八幡神社

銭形八幡神社参道

銭形八幡神社参道

班渓寺から約10分くらいのところに「銭形八幡神社」があります。
由緒書きによれば、平安時代の初期の延暦年間に坂上田村麻呂が、九州の宇佐八幡宮を勧請したのが始まりといわれているようです。
八幡宮ですから武門の神として信仰され、源氏に縁のあるこの地の氏神として仰がれたのは言うまでもないことですが、特にここは木曽義仲の産湯の清水が湧いているところとして有名なのです。
銭形八幡神社神門 社殿

神門と銭形八幡神社社殿

参道の途中の神門(?)を潜り抜けると、正面に社殿が鎮座しています。
かなり凝った彫刻のされている社殿で、それもそのはずで本殿は町指定の建造物で、江戸時代の1749年に建立されたものだそうです。
社殿

社殿の彫刻と覆い屋

残念ながら本殿は覆い屋で囲われているので見られませんが、簡素ではありながらも整った本殿なのだそうです。

手水舎

義仲の産湯である清水の手水舎

そして社殿の前にある手水舎が義仲の産湯である清水ですが。。。
え~~、っと、止められています。そして何ゆえか沢山のペットボトルに詰められています。
義仲縁の名水 義仲縁の名水

義仲縁の名水!?

まあ手水舎のお清めですから呑めないことは無いのでしょうが、それにしてもこれって名水とかで多くの人が汲みに来るんでしょうか。
史跡であることの石碑

史跡であることの石碑

ご家族で汲みに来ているようで、何かしら信仰めいたものがあるのでしょうかね。とりあえず今日のところは湧き出る清水はまたの機会として史跡だけを見学と言うことにしておきましょう。
まさに横須賀でみた「ヴェルニーの水」といえるかもしれませんね。

兎にも角にも義仲縁の地を巡り、次なるは義仲の父であり義賢縁の地を訪ねます。

2013.11.26記(後半につづく)


はじめに

「武蔵丘陵森林公園」は、ジャンルAで4,701票を獲得して第34位にランクされました。

国営武蔵丘稜森林公園は、1974(昭和49)年全国で最初に造られた国営公園。一般の都市公園とは違い、比企の丘陵地帯に東京ドーム約65倍もの広さを持つ。 園内では、緑豊かな自然の中で、サイクリングやオリエンテーリング、雑木林の散策や自然観察など、一日をゆっくりと楽しむことができる。夏はウォータープールなどで水遊びも楽しめる。 子供向けにはアスレチックコースがお勧め。自然の地形を活用して雑木林の中にローラー滑り台や見晴台などが配置されている。
(本書より)

埼玉県人なら森林公園は知っていて当たり前・・・、ではあるのですが、個人的には知ってはいても特に興味もないことから、訪れたこともないのです。したがって今まで単に「森林公園」という名称だけ知っていて、「国営武蔵丘稜森林公園」という正式名称も知らなかったのです。
全く恥ずかしながらなことなのですが、結構、これって一般的なことのようで、最寄り駅名や各種の案内、道路標識などの表記が殆ど“森林公園”と略されていることから、そう認識している人が多いのだそうでです。

だから何だって・・・、ということは置いておくにしても、幾ら100選に選ばれていたとしても義務的に行っても楽しくないわけで、今回の散策をどんなタイミングで行くかを模索していたのです。
説明にあるとおり自然やアウトドアが好きならすぐにでも行く、否、とっくに訪れているでしょうが、全く正反対に位置する私としては格好なモチベーションが必要なのです。
そのような折、オフィシャルサイトに「紅葉見ナイト」という洒落たタイトルの付いたイベントが掲載されていました。
夜景見ナイト
文字通り紅葉のライトアップが11月3日~12月9日まで開催されているとのことなので、11月24日に訪れることにしたのです。

最寄り駅は東武東上線の「森林公園」駅ですが、そこから更にバスでなければいけない場所ですので、今回も車を利用しての移動となったのです。
森林公園のある比企郡は埼玉県のほぼ中央にあって、小川町、川島町、ときがわ町、滑川町、鳩山町、吉見町、嵐山町も7町から構成されていて、以前に小川町の【小川和紙】、ときがわ町の【萩日吉神社流鏑馬祭】で訪れており、更に今回の滑川町の森林公園以外でも嵐山町の「嵐山渓谷」が100選に選ばれているのです。
更に吉見町は100選こそ選外でしたが、有名な「吉見百穴」のあるところですし、川島町はフラワーコリドールでの「敷島公園・バラ園」の帰りに立ち寄った“日本一長いバラのトンネル”のある【平成の森公園】のある町です。
このようにかなり見所満載のエリアでもあるのです。

今回はライトアップがメインであることからゆっくりとAM10:30頃自宅を出発です。北本、東松山を経由して高速を使わずに約1時間で到着です。
自然豊かな比企郡滑川町の散策の開始です。

滑川町map比企郡滑川町オフィシャルサイト】http://www.town.namegawa.lg.jp/


はじめに

【萩日吉神社流鏑馬祭】は、ジャンルBで1,605票を獲得して第35位にランキングされました。

「萩の山王様」と親しまれている萩日吉神社の流鏑馬(県選定無形民俗文化財)は3年に一度、1月15日に行われている。
13世紀に木曽義仲の家臣によって始められたとされる。
クライマックスの「夕まとう」は小正月の陽が西の空に傾く午後3時。神社前の特設馬場で、華やかな衣装に身を固めた乗り子が、疾走する馬上から的に弓を射る。
また、社殿では神楽も奉納され、2匹のキツネが参観者に紅白のもちを配り、奈留連舞などが舞われる。
(本書より)

埼玉県での流鏑馬行事は少なく、そのうちの一つである【出雲伊波比神社やぶさめ祭】には昨年の11月3日に訪れました。特に昨年の流鏑馬の際にはやぶさめサミットと題して流鏑馬の現状や課題、そして全国の流鏑馬を行っている地域から9団体が参加して催されたのでした。
非常に興味の尽きない内容でしたが、そのときに萩日吉神社流鏑馬も参加していました。3年一度の開催であること、そして2011年の1月が開催年であることなどを知り、必ずや訪れようと予定しておりました。オリンピックよりは1年短いと言いながらも、一度機会を失えば3年待たなくてはなりませんから、何を置いても行かざるを得ないでしょう。
と言うことで、今年は1月16日の日曜日に萩日吉神社のあるときがわ町を訪ることになったのです。
本書が書かれた頃は1月15日が成人式で祝日だったことから15日開催となっていますが、現在は1月の第3日曜日に変更されているのです。

このときがわ町とは比企郡にある人口約13,000人の町ですが、埼玉県にずっと在住していても殆ど知らなかった地名です。
比企郡は小川町、川島町、滑川町、鳩山町、吉見町、嵐山町、そしてときがわ町の7町で構成されています。小川町へはジャンルCの【小川和紙】で訪れましたが、それ以外のエリアにはまだ訪れたことはありません。滑川町と嵐山町はこの100選に選ばれていますので、いずれ訪れることになるでしょうが、今回は比企郡としては2回目となるのです。
このときがわ町は、以前は「比企郡都幾川村」と言っていたのですが、2006年に比企郡都幾川村と比企郡玉川村が合併してできた新しい町なのです。
都幾川村は文字通り村を流れる都幾川から名付けられたもので、緑豊かであったことから建具産業が盛んなようで、建具の里とも呼ばれていた村だそうで、合併した現在でも当然緑豊かな建具の里であることには変わらないようです。

今回はエリア的にも交通の便があまりよくないことから車を使った散策です。
朝の8:30過ぎに自宅を出発し、一般道をひた走ります。寒さもあってか道路の混雑もまったく無く、スムーズにときがわ町に到着できそうです。
建具の里ときがわ町でどんな興味深い歴史と触れ合えるのでしょうか、楽しみです。

tokigawa_mapときがわ町オフィシャルサイト】http://www.town.tokigawa.lg.jp/forms/top/top.aspx


はじめに

「小川和紙」はジャンルCで6,390票を獲得して第5位にランクされました。

『和紙の歴史は古い。1300年前、武蔵国に多く住んだ高麗からの帰化人が手すきの技術を伝えたのが小川和紙の始まりといわれる。
近代産業の発展とともに和紙をすく情景も薄らぎ、今では技術を伝えるのはわずか15戸になってしまった。しかし、昨今では手作りの優しさや温かさが見直され、若者の取り組む姿も戻りつつある。
埼玉伝統工芸館では和紙の手すきが体験できる。また、1999(平成11)年10月には「小川町和紙体験学習センター」がオープン。
材料作りから完成品までの本格的な手すき和紙づくりを習得できる。 』(「埼玉ふるさと自慢100選」より)

暑さ寒さも彼岸までという季節、まさにその暖かな日となった3月20日の土曜日に小川町を訪れました。
埼玉県に50年以上住んでいるのに、全く馴染みのある土地ではありません(私だけ…)。
小川町のプロフィールをウィキで検索してみると、小川町は、埼玉県中部、比企郡の町であり、比企地方及び県南西部の最も北西に位置し、また秩父地方のすぐ外側に位置する。「武蔵の小京都」の異名を持ち、また、伝統工芸の和紙で知られる。
という説明で、どちらかと言えば落ち着いた癒されるような町を想像します。

朝8:00少し前に自宅を出発して、いつもどおり北本市から東松山へ抜け東松山ICから関越道で嵐山・小川ICへ向かうつもりでしたが、やはり彼岸と連休とあって関越道が渋滞しています。
関越道も今回はIC一つ分ですから、今回は東松山ICで関越道に乗らずそのまま国道254号線で向かいました。 結局何のことはなく、ほぼ渋滞の関越道と同じくらいの時間で到着しました。
まだAM9:30少し前でしたが、天気も良く「武蔵の小京都」を楽しめそうな予感です。

map小川町オフィシャルサイト】http://www.town.ogawa.saitama.jp/