中山歴史街道

大町梨街道を後にして、市川市北部の大町から一気に南下して八幡地区周辺に向かいます。
市川市南部には東西に京成線・国道14号線、そしてJR線が並行して走っています。そのうち京成線の京成中山駅周辺から京成八幡駅、そして市川真間駅にかけてのエリアに市川の歴史が色濃く残っているので、後半はこの沿線沿いをあえて歴史街道として散策をしてみます。
これが市川市を訪れる理由だったのです。

法華経寺

最初に訪れたのが「法華経寺」です。
京成中山駅周辺なのですが、競馬好きの方なら中山競馬場周辺といえば凡その立地はつかめるでしょう。
何故ここをお参りするといえば、勿論、古刹としても有名なのですが、江戸三大鬼子母神のひとつであるからなのです。
以前、【雑司ヶ谷七福神 彷徨】で雑司が谷の“鬼子母神”を、そして【入谷朝顔まつり】で恐れ入谷の“入谷鬼子母神”を訪ねているので、この法華経寺を訪ねると江戸三大鬼子母神をすべて参詣したことになる訳です。
ということで小雨の降っていた大町梨街道から南下している間に天候は見事に回復し、あの猛暑が戻ってしまったような陽気となったのです。

早速、参拝に向かいます。
元もとの参道は恐らく現在のJR下総中山駅から真っ直ぐに続いていたものと思われます。
それはJR下総中山駅から国道14号線を横切り、更に京成線を横切って少し進むと、「黒門」という総門が現れるからです。
法華経寺 黒門 法華経寺 黒門
説明にもあるように、つい最近修理をされたせいか非常に綺麗で状態の良い文化財です。
意味は良く判りませんが趣のある扁額で、太田資順とは恐らく太田道灌の子孫でしょう。
法華経寺 黒門扁額
黒門を抜けた右手にちょっと気になるものを発見しました。
「下総松月堂」という和菓子屋ですが、“カフェオレ大福”なる貼り紙にそそられ早くも寄り道です。
下総松月堂 下総松月堂
とりあえず2個ほど買いましたが、このお店のオリジナルらしく他にもいくつかのオリジナルの和菓子もありました。
で、この“カフェオレ大福”ですが、食べた感想は「確かにカフェオレ」です。
カフェオレ大福
飛び切り美味しいと言うわけではありませんが、珍しい上にそこそこいけそうなのでネタには良いかもなあ、と言うあんばいです。 それはともかく後で調べるとこの店、80年以上続いているお店だそうで門前町の和菓子屋として結構な歴史を持っているようです。
更に参道の途中にはこんな趣のある建物があります。
いちかわ街案内所
「いちかわ街案内所」とおうボランティアグループの拠点だそうで、時間が有れば入ってみたいところですがこのまま進みます。
左手には普通の民家ですが、なかなか凝ったことをされています。
民家の装飾
さすが歴史ある参道、門前町故のなせる業でしょうか。
そして参道の正面にあるのが山門です。
山門
三門、赤門とも呼ばれていて左右には仁王像を安置しています。
仁王像 仁王像
かなり立派で歴史のありそうな山門ですが、意外とこちらは文化財としての指定はないようです。

山門を抜けた先の参道は、それまでの参道と趣がことなります。
参道
両側にはずらりと寺院が並んでいます。
法華経寺 子院 法華経寺 子院 法華経寺 子院
中にはこのような400年近い歴史を持つ寺院もあるようで、一つ一つ丹念に散策すると更に興味深いことが窺えるのでしょう。
法華経寺 子院 法華経寺 子院
寺院群を抜けるとちょっとした門前風情が垣間見られます。
参道
そして見えたきた赤い小さな橋を渡るといよいよ境内となるのですが、この小さな赤い橋にも名前があって「龍渕橋」というのです。
龍渕橋 龍渕橋
そしてちょっと変わっているのは欄干の擬宝珠のところに“ざくろ”が取り付けられているのです。
“ざくろ”は鬼子母神のシンボルで、人肉を食べられなくなった鬼子母神が人肉の味のする(!?)ザクロを食べて我慢したとか、ビッシリと種が詰まっていることから、子宝→多産→繁栄を象徴すると言う由来は以前知ったところです。

龍渕橋を渡ったところに「法華経寺」の縁起・略歴があります。
法華経寺
当時は日蓮宗が迫害を受けていたため、同僚の富木常忍とともに日蓮を受け入れたのがそもそものはじまりだそうです。そして日常(富木常忍)が亡くなると、その遺言により日高(太田乗明)が本妙寺に留まったまま法華寺の貫主に就任し、以来両寺院の貫主は同一人物が務めるという規則が成立したことから、後に中山法華経寺の発展につながって行ったようです。
いずれにしても鎌倉時代からの名刹と言えるでしょうが、江戸時代においてもこの案内板にあるように「江戸名所図会」にも挿絵が描かれています。
江戸名所図会 法華経寺
これで見る限り江戸時代からはそれほど大きく変わっていないような気がします。
江戸名所図会 法華経寺 参道
参道もやはり京成線・京成中山駅あたりからと言えそうです。
ここからは江戸名所図会での江戸時代目線で散策してみます。

正中山本妙法華経寺 
船橋街道の左側にあり(この地を中山村といふ)。
 日蓮大士最初転法輪の道場にして、一本寺なり。開山は日常上人、中興は日祐尊師たり(『鎌倉大草紙』にいふ、千葉介貞胤、父の宗胤三井寺にて討ち死にせし後、北国落ちまでは宮方にて、新田義貞の御供たりしかども、こころならず尊氏の味方になりぬ。
弟胤貞は宮方にて千葉にありけるが、この人の子日祐上人は法花の学匠にて、下総国中山の法花経寺の中興開山なり。これによりて、胤貞より中山の七堂建立ありて五重の塔婆をも建てらる。その後、胤貞上洛して吉野へ参り、西征将軍の宮の御下向のとき、御供して九州へ下り、大隅守に補任し、肥前国をも知行しけり。日祐上人も九州に下向し、肥前国松王山を建立して、総州の中山を引き、末代までこのところを中山と南山一寺と号す」とあり)。
(江戸名所図会より)

祖師堂

■祖師堂 日蓮上人の像を安ず(日法師の作なりといふ)。額「祖師堂」、太虚庵光悦の筆。

境内の中央の重厚感のある建物が「祖師堂」です。
祖師堂 祖師堂 祖師堂
法華経寺の中心となる堂宇で、300年以上の歴史を誇る大堂は江戸時代から当寺のシンボルといるのでしょう。
江戸名所図会でも同じ位置に鎮座しています。
祖師堂
更に図会では、祖師堂の前、或いは左前に手水舎のようなものが描かれています。
特に名称が記載されていないので確かかどうかはわかりませんが、現在ある「星の井」だったのかも知れません。
星の井
「星の井」は日蓮上人が自ら使用した井戸といわれ、この水で菩薩の石像を洗って病気平癒を願うのだそうです。

祈蒔堂

■祈祷堂(同所、後ろの方にあり)。額「祈祷堂」、筆者知れず。

江戸名所図会では、祖師堂の後ろには4つの堂宇が描かれています。
境内4宇
しかしながら現在は3つの堂宇が残されていて、この祈祷堂だけはなくなっています。
その右手にある「宇賀神社」は現在のものと同じ堂宇なのでしょうか。
宇賀神社

法華堂

■法華堂(同じ左にならぶ)。大士手刻の一等四菩薩の像を安置す。
このところは太田乗明の宅地なり。乗明、日常上人の教へを受け、みづからの宅地を転じて仏字とし、正中山本妙寺と号す。すなはちこの堂は、その頃営建するところのままにして、世俗いふ、飛騨匠が作るところなりと。当時、宗祖大士、最初転法華説法の道場なり)。
額「光明法花経寺」、光悦の筆(堂内外陣の家帯に掲く。この堂の軒に、宗祖大士より常忍へ贈らるるところの消息の写しを、板に書きて掲く。その文に云く、銭四貫をもちて一円浮提第一法華堂造りたりと、霊山浄土に御まゐり候はんときは申しあげさせ候へかし、恐々。
十月二十二日  日蓮判
 進上 富城入道殿御返事
真書は宝庫に収む。世に「銭四貫をもて造る」といひ伝ふるものこれなり)。

祖師堂などに比べると余計な彫刻などが無く、極シンプルながら凛とした空気を感じさせる佇まいです。
法華堂 法華堂
これが歴史の重みなのかもしれません。
現在から遡ると祖師堂は300年前、法華堂は750年前ということで、どちらも歴史の長さを感じることが出来るのですが、江戸名所図会が発行された当時としては、祖師堂は130年前、法華堂は570年前ということで、祖師堂は比較的新しい建造物と捉えられていたのではないかと考えます。そこが祖師堂との説明内容の違いに現れているのでしょう。
更にその扁額がこちらです。
法華堂 扁額
つまり当時としても、この法華堂は歴史的、宗教的、文化的に見るべきものがあったということになるわけです。

この法華堂の前には同じく文化財の「四足門」があります。
四足門 四足門
説明にもある通り「四足門」自体は700年以上の歴史を持っているのですが、移築されたことから江戸名所図会の頃には無かったと考えるのが妥当でしょう。

鬼子母神堂

■鬼子母神堂(同じ左に並ぶ。この鬼子母神堂は、鎌倉の其の堂なりしを移せりといふ。本尊鬼子母神の像は宗祖大士の作にして、往古大士、常忍建立の法華堂に在せし頃、一尊四善薩の像とともに彫刻ありしとなり。毎月十七日の夜、近在より通俗参寵す)。

法華堂の左手が「鬼子母神堂」となっていますが、現在は「刹堂」になっています。
刹堂
そしてオフィシャルサイトでは『十羅刹女・鬼子母尊神・大黒様を安置し、罪障消滅の霊場として、参詣者が終日、太鼓の音を響かせている。甲子の日は特別祈祷が厳修される。』という説明がされています。
十羅刹女とは仏法や仏教徒を守る神々である諸天善神のことを言うそうで、10人の女性の鬼神のことなのだそうです。そして鬼子母神もまた、この諸天善神の一神だそうですが、この堂宇では十羅刹女を主神としていることから「刹堂」と呼んでいるものと思われます。

経蔵・竜淵橋

■経蔵(祖師堂の前、左の方にあり)。
■竜淵橋(堂前の流れに架せり)。

図会では確かに「経蔵」ですが、現在同じ位置にあるのは「妙見堂」で、千葉家伝来の北辰妙見尊星を守護神として祀られているのだそうです。
経蔵・竜淵橋 妙見堂
竜淵橋は先に見た赤い橋で、当然当時のものではありませんが、同じ位置に架けられていることは間違いないようです。
この「龍渕橋」の下の川の川上は「龍王池」として“八大龍王”が祀られている堂があります。
八大龍王 八大龍王
当時の龍王池もまた現在とそれほど変わりはないようです。
八大龍王
八大龍王神とは文字通り竜族の八王だそうで、仏法を守っている神です。
池には多くの蓮の花が奉納されていて、神秘的な雰囲気を漂わせてます。
龍王池
ロータスのイメージは“極楽浄土”というイメージがあるので、こうした寺院にはうってつけの華です。

常唱堂・泣き銀杏樹

■常唱堂(寮舎にならぶ。つねに唱題怠ることなし)。
■泣き銀杏樹(常唱堂の後ろに存す。真間弘法寺の開山日頂上人は、日常上人の子なり。久しく父の勘気を受けて、恩顔を拝することあたはず。ゆゑにこの樹の下に幾回も来りつつ、哭きては帰られたりしゆゑに、この号ありといひ伝へたり)。

記述にある左手の寮舎とともに常唱堂は現在無いようで、現在はここに「絵馬堂」が建てられています。
常唱堂・泣き銀杏樹 絵馬堂 絵馬堂
この絵馬堂の前に台湾の「蒋介石元総統の像」があるのですが、法華経寺との関わりは不祥なのだそうです。
蒋介石元総統の像
その右手は道路で分断されています。
オケラ街道
この道路、通称「オケラ街道」というそうで、中山競馬でポケットマネーを使い果たした人達が帰途に付く道だからのようです。
その「オケラ街道」の反対側に大きなイチョウの木が残されています。これが「泣き銀杏樹」です。
泣き銀杏樹
図会にも記載されているように、弘安5年、日蓮上人が入寂し法華宗門徒が危機に瀕している際に真間弘法寺の開山日頂上人は日夜奔走したため、法華経寺での日蓮の三回忌に遅刻したのです。厳格なる父である日常上人はこれを咎めて勘当したのです。
日頂上人はこの樹の下にたたずみ一週間泣き通して許しをを乞ったのですが、ついに許しを得ることはでき無かったそうです。このことからこの樹を「泣き銀杏」と呼ぶようになったのだそうです。
「泣き銀杏」の北には「浄光院」があり、現在は幼稚園を兼ねているのですが、ここには「水鏡の御影」という日蓮上人の自画像があるとのことです。
浄光院
そしてその自画像を描いた湧き水の池跡があるそうです。

五重の塔

■五層の塔(同じ左にあり。釈迦多宝ならびに当寺十八世日慈の像を安ず。当寺祖師堂創建の師なり)。

この五重の塔もまた祖師堂同様法華経寺のシンボルとして、少なくとも江戸時代から同じ場所、同じ建造物が建っているのです。
五重塔 五重塔 五重塔
特に前田家縁の建造物としても貴重なものといえそうです。
この五重の塔の左手には国家で有名な「さざれ石」があります。
さざれ石
現在では赤坂の日枝神社を初めとして結構多くの神社で見ることができますので、すっかりおなじみといったところです。
その左手には「大仏」があります。
大仏
特に説明は無いのですが、江戸名所図会にもそのような大仏が描かれているので、場所も同じようなところであることから同一のものと考えられます。

三十番神の社

■三十番神の社(同じ後ろの方、小高きところにあり。当山の護法神にして、毎歳十一月八日火焚き祭りを修行す)。

現在「三十番神の社」はありません。
三十番神の社
三十番神とは神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民を守る30柱の神々のことをいうのです。例えば熱田大明神=大日如来、諏訪大明神=普賢菩薩という具合です。したがって明治維新の神仏分離のために配祠を禁じられたため現在はなくなっているようです。
現在では代わりに小高いところには「鐘楼堂」が置かれています。
鐘楼堂

宝庫

■宝庫(方丈書院の奥の方にあり。宗祖大士の彫像、その外仏経の類を蔵む)。

現在の地は、本院・大客殿として相当立派な建造物になっています。
宝庫 本院・大客殿
この本殿の奥に「鬼子母神」が祀られているとのことなので参拝に上がります。
奥に進んだ突き当りが「鬼子母神堂」となっていますが、この辺りがかつての宝庫だったのではないでしょうか。
本院・大客殿 鬼子母神堂
本尊は更に先で通常なら拝観できるのですが、ちょうどこの日は法事が営まれていたため、ここからの参拝となりました。
鬼子母神堂
では現在の「宝庫」はというと境内の北方向に、ある「宝殿門」を潜った先の「聖経殿」に国宝の「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」「立正安国論」及び、重要文化財61巻他百数十点の日蓮聖人真筆が保存されているそうです。
宝殿門 聖経殿
なお、「宝殿門」から「聖経殿」にいく途中には「御遠忌報恩塔」が三基建立されています。
御遠忌報恩塔
左から600回忌(1881年)、550回忌(1831年)、500回忌(1781年)だそうで、名所図会では同地に1基だけ描かれていることから、年代的に500回忌のものだと考えられます。
御遠忌報恩塔

支院三十六宇

■支院三十六宇(いま破廃せしものありて、.わづかに十六宇存せり)。

オフィシャルサイトの境内図を見ると、妙円寺、智泉院、池本寺、陽雲院、蓮行院、清水寺、浄鏡寺、本光寺、本妙寺、遠寿院、安世院、高見寺、本行院、浄光院、法宣院、日英寺という16寺が描かれています。
境内図
江戸時代からは変わっていないということになるのでしょうか。

仁王門額

■二王門額「正中山」、日等上人筆(あるいはいふ、光悦の筆なりと)。

現在では光悦の筆であるといわれているようです。
仁王門額
この光悦とは、本阿弥光悦のことで江戸時代初期の書家・陶芸家・芸術家の当時のマルチアーティストだったようです。
代表作には“楽焼片身替茶碗 銘「不二山」”、“舟橋蒔絵硯箱”の国宝や、“本法寺庭園「巴の庭」”の名勝などがあり、更にその書は寛永の三筆と称されていたそうです。

中興開山日祐上人の墓

■中興開山日祐上人の墓(総門より内、左の方小路を入りて二丁ばかり西の方、山の中にあり。当山第二世日高上人の墓もまた、このところにあり)。

境内の南西にある前方後円墳のような形をした台地、祐師山の後円部に、大田乗明とその子日高上人の墓があり、前方部に向かうくびれた部分が日祐上人の廟所になっているそうです。
中興開山日祐上人の墓
祐師山の名前は日祐の廟所が置かれたところから付けられたものです。

奥の院・日常上人石塔

■奥の院(方丈の構への外、右の方の小路を入りて三丁ばかり東北の方にあり。文応元年宗祖大士この境にあそばるる頃、富木常忍宅地に一宇をいとなみ、法花堂と号け、大士をしてここにをらしむ。よつて百日の間説法あり。すなはち宗門最初転法輪の道場、妙蓮山法花経寺の旧跡なり。『日蓮上人伝』に、「屋形の後ろにまはり百間ばかりの堤を築き、そのうちにすこし高く土をかさね、堂をしつらひ、聖人の御まうけにぞ立てられける」とあるも、これをいへり。往古、大土手刻の一尊四菩薩の霊像も、この地に安置ありしとなり。当寺第十二世の住侶日恍上人、この地を封じて法華一万部の経塚を築き、古へより宝蔵に安置せし日法上人の作の宗祖大士の影像をうつしたてまつるといへり)。
■開山日常上人石塔(同所、道を隔てて左の方にあり。石塔の上に草堂をいとなみ、傍らに庵室を設けて、僧を置きこれを守らしむ。日常上人を常忍修院と号す。因幡国富城の産にして、承久二年庚辰をもつて生まる(本化伝に、「富木五郎入道」とあり)。長じて播磨守常忍と名づく。後、下総国中山邑に移住し鎌倉に仕ふ。土民称して富木殿といふ。日蓮大士の法化をたふとみ、大士の滅後、つひに薙染して日常と改む。正安元年三月二十日、八十歳にして化すといへり)。

この現在の奥の院である法華寺かた当時の法華経寺、そして現在へとつながってきた由緒ある場所といえるのでしょう。
奥の院・日常上人石塔 奥の院
江戸名所図会より更に立派な堂宇などが建立されているようです。
奥の院 奥の院 開山日常上人石塔

このようにまさに江戸時代が現代にタイムスリップしてきたような法華経寺ですが、本来なら現在の千葉県市川市は当時でも下総国ですから、江戸名所図会に掲載するというのも微妙なところです。
しかし、千葉県は市川市の先の船橋市、神奈川県は横浜市、そして埼玉県ではさいたま市、所沢市辺りまでが記載されていますので、現在の首都圏にあたる、江戸時代の江戸圏とでも言うべき範囲といえるのでしょう。

スポンサーサイト

七福神めぐり -雑司が谷案内処-

昨年から始まったこの「雑司が谷七福神」は、そもそも2008年に開通した東京メトロ“副都心線”により、新宿、渋谷方面への人の流れにより、途中駅である雑司が谷駅周辺が寂れるのではないかという危機感から考え出されたそうです。
南池袋1丁目町会長の渡辺隆男氏が2010年“雑司が谷七福神の会”を結成し地元の21寺社を調査したのです。このうち七福神が祀られ、且つ協力が得られたのは雑司が谷鬼子母神の“大黒天”と清立院の“毘沙門天”の2ヶ所2体で、残り5体をそろえなければならなかったようです。
その後、主旨に賛同した寺社・企業が新たに5体を作成し、2011年から「雑司が谷七福神巡り」として開催されたのです。そして豊島区の観光情報センター「雑司が谷 案内処」を拠点として、官民一体となって活動し始めたのです。

雑司が谷 案内処

その地下鉄副都心線の雑司が谷駅に到着し、地下鉄のコンコースを歩いていると、壁面に雑司が谷のシンボルであろうと思われるイラストや写真が掲出されていて、すっかり散策モードにスイッチが入った気分です。
雑司ヶ谷駅壁面デザイン
そこでまず、この地名の由来について紐解いてみます。

地名の由来
雑司が谷の地名の起源については、1.法明寺の雑司料であったため、2.小日向金剛寺の雑司料であったため、3.元弘・建武期に京都の朝廷で雑式の職をつとめた柳下氏・長島氏・戸張氏がこの地に土着し、その子孫も村民として残ったから、4.郡領等身分の高い人の子息の子を指す曹司等のはじめた土地だから等諸説あります。
いずれにしても鎌倉時代以後に起こった地名であり、「雑司ケ谷」に統一されたのは、八代将軍徳川吉宗が放鷹のため立寄った折、「雑司ケ谷村」と書くべしとしたからと伝えられています。
昭和41年の住居表示実施により、現在の「雑司が谷」に町名が変更されました。
(まち歩きガイドマップより)

上記以外にも蔵司ヶ谷・蔵主ヶ谷・僧司ヶ谷など色々に書かれていた由来も合ったようですが、最後は鶴の一声というところで落ち着いたようです。
要するに地名の由来は“吉宗が付けた”ということになってしまうようです。

地上に上がると目の前に線路があり、すぐ近くに「鬼子母神前駅」があるので、この線路が都電荒川線であることが判ります。
都電鬼子母神駅
都電の踏切が「鬼子母神」の参道入口になっているようです。
踏切を渡って先に進むと参道は二又に分かれています。
右側の通りが参道になっていて、入口のアーケードには文化財などが記載されています。
鬼子母神参道入口 鬼子母神参道入口
まず目に付くのが「鬼子母神」の名称です。
鬼子母神参道入口アーケード
「鬼子母神」の“鬼”の漢字の上部の“ノ”が付いていません。(PCではこの漢字は存在しないので、当サイトでは、そのままの“鬼”を使用します。)
これは「鬼子母神」そのものの存在(伝承)に密着な関係があることから、「鬼子母神」の来歴を確認してみました。

鬼子母神は吉祥天の母とも言われ、鬼神王般闍迦の妻で子供が500とも1000とも10,000人いたとも言われています。サンスクリット語では“ハーリティー”、中国では“訶梨帝”などと呼ばれているようです。
子沢山の鬼子母神でありながら、性格は最悪で近隣の幼児を食べるという、文字通り鬼畜の振る舞いをして人々に恐れられていたのです。
困った釈迦は鬼子母神を更正させるために、彼女の末の子を隠してしまったのです。嘆き悲しむ鬼子母神に対して釈迦は、多くの子供のうちの一人を失っても悲しいのに、お前に子供を食われた両親の悲しみはもっと深いのだと戒めたのです。これにより鬼子母神は過ちを悟り、釈迦に帰依して安産・子育ての神となり人々に尊崇されるようになったのです。
この様に鬼子母神とは、文字通り“鬼”と“神”の間の親子(母子)であることから、信心深ければ神に近づき、信心が足りなければ鬼になってしまうことを著すようになり、そこから現在に残る鬼子母神を描いた姿は大抵、天女と鬼婆の2種類となっているのです。
鬼子母神像天女型 鬼子母神像鬼婆型 《左:天女型:(C)黒神さまは文化財、右:鬼婆型:(C)ポンポロカベツ》
ちなみに手に持っているのは「ザクロ」だそうで、人肉を食べなくなった鬼子母神が人肉の味のする(!?)ザクロを食べて我慢したとか、ビッシリと種が詰まっていることから、子宝→多産→繁栄を象徴していると言われている、いわば鬼子母神のシンボルなのです。

このような鬼子母神のプロフィールから推定すると、雑司が谷の鬼子母神は改心して良い鬼子母神となったのだから天女型であり、それによって鬼ではない、角(“ノ”)の付かない「鬼」の字を使っているのだそうです。
余談ながら鬼子母神には“江戸三大鬼子母神”があるそうで、この雑司が谷のほかには“恐れ入谷の鬼子母神”と詠われた台東区下谷の入谷鬼子母神真源寺と、千葉県市川市中山の法華経寺だそうですが、やはり“ノ”(角)が無いのはこの雑司が谷だけのようです。

アーケードには鬼子母神の文化財が記載されています。
都指定有形文化財:◆建造物:法明寺鬼子母神堂、◆絵画:大森彦七図、三人静 白拍子図
都指定天然記念物:◆鬼子母神境内 いちょう、◆大門通り けやき並木
と書かれていて、このアーケードから先がその大門通りの「けやき並木」のようです。
ケヤキ並木
冬なので青々とした風景はありませんが、それでも見事なけやき並木です。

東京都指定天然記念物 鬼子母神大門ケヤキ並木
所在地:豊島区雑司が谷3丁目16-19 指定:昭和15年4月18日
ケヤキ(欅)は、ニレ科の落葉大高木で、日本の代表的広葉樹の一つである。古名をツキ(槻)という。家具や建築用材、特に社寺の構造材や大黒柱によく使われている。「地誌御調書上」によると、天正(1573~91)の頃、雑司が谷の住人長島内匠が、鬼子母神へ奉納のため植え付けたものと言う。鬼子母神鳥居先の町屋を大門ともいっていた。江戸時代には並木の伐採をめぐって訴訟がしばしば起こった。弘化元年(1844)の訴訟は、江戸城本丸普請のために伐採しようとした村役人等に対して、寺側が御用木の名を借りた伐採は村役人の私欲によるものと訴えて伐採を中止させた争いである。
昭和12年(1937)頃には、18本あったが、現在は4本を残すのみである。目通り幹囲5~6メートル、樹齢約400年以上といわれる大樹である。秋田雨雀・兜木正亨らによって結成された「大門欅並木保存会」が、保存に尽力した結果、東京府の「天然記念物」となった。平成2年3月31日建設 東京都教育委員会』(現地案内板説明文より)

なるほど4本しか残っていないようですが、この辺りの太い樹木がそのケヤキでしょう。途中で折れながらも今だ樹勢のあるこの木等はその1本だとまさしく思われます。
ケヤキ並木
4本だけどといえども樹齢400年以上のケヤキが残っているのは大門欅並木保存会のお蔭なのです。
特に、ここに記載されている秋田雨雀は、劇・童話作家、詩人、小説家で、豊島区にある舞台芸術学院の院長を務めた関係からで、更に兜木正亨は、雑司が谷本納寺33世住職であったことから、一際保存に尽力したということのようです。
何気ない景色にその努力の歴史が残されています。

ケヤキ並木の途中にあるのが「雑司が谷 案内処」です。
雑司ヶ谷案内処
この案内処は平成22(2010)年7月31日に雑司が谷地区の歴史と文化を発信する拠点としてオープンしたものです。建物自体は「並木ハウスアネックス」といい、手塚治虫がトキワ荘から移り住んで創作活動を行った「並木ハウス」の別館なのだそうです。
手塚治虫は昭和29年から34年に結婚を期に代々木に引越すまでの5年間、本館である並木ハウスの201号室に住んでいたそうです。いつ寝ているのか判らないくらい常に多忙だったようですが、ここで“鉄腕アトム”を連載し、“リボンの騎士”を描き始め、“火の鳥”や“ファウスト”の構想を練っていたようで、最も脂の乗っていたころとも言われているそうです。
そしてこの「雑司が谷 案内処」は豊島区の管轄で、「としま未来文化財団」という財団が豊島区から委託・運営管理をしているのです。江戸時代とはまた違った豊島区らしい歴史を垣間見ることができました。

早速、案内処に立ち寄るのですが、ここでの目的は七福神めぐり用の色紙を購入するのです。勿論、この案内処以外にも数ヶ所で色紙を購入できるのですが、見学ついでに寄って情報を収集するといった意味合いからも、寄ってみるのも損はないでしょう。
エントランスには2体の素朴な人形が配置されています。これは「麦藁細工の角兵衛獅子」といって江戸名所図会でも紹介されている古くからの人形なのです。
麦藁細工の角兵衛獅子
左側の大きい方が角兵衛獅子の“角ちゃん”で、右の方が雑司が谷の“司ちゃん”だそうで、実に判り易いネーミングです。
江戸名所図会に「麦藁細工の角兵衛獅子」の記載があります。

この地にて製するところの麦藁細工の角兵衛獅子は、昔高田四ツ家町に任せし久米女といへる者、一人の母に孝あり。家元より貧しく孝養心のままならぬをなげき、つねに当所の鬼子母神へ詣し、深くこのことを祈りしに、寛延二年の夏、ふと思ひつきて、麦藁をもて手遊びの角兵衛獅子の形を造り、これを当所にて商ひしに、その頃はことに参詣多かりしかば、求むる人移しく、つひにこの獅子のためにその身栄え、心やすく母を養ひたりしとぞ。至孝の徳、尊神の冥慮にかなひしものなるペし。
(江戸名所図会より)

これは貧乏ながら孝行娘の久米が母の病気を思い煩い鬼子母神参りをし、寛延2(1749)年に思いついて麦藁の角兵衛獅子を作って売ったところ大変売れ、そのおかげでその後は母の面倒が看られたという内容です。一説には、「ふと思いつきて…」という件を鬼子母神のお告げと解釈しているところもあり、鬼子母神が霊験あらたかであることをアピールする伝承とも言えそうです。
それだけ歴史のある人形だということですが、ここにあるのは一時廃れていた角兵衛獅子を最近復刻したものなのだそうです。

中に入るとそれ程広くない室内には所狭しとパンフレットや物品が配置されています。
店内
壁際の白い棚はレンタルボックスだそうで、物販や展示などに利用できるのだそうです。
その手前にある藁束に挿された風車が「元禄五色の風車」と呼ばれているもので、こちらは江戸名所図会の挿絵に描かれていたものです。
元禄五色の風車 江戸名所図会 元禄五色の風車 江戸名所図会 元禄五色の風車
この風車も江戸名所図会では「風車、麦藁細工の獅子、川口屋の飴をこの地の名産とす。」と記載されており、元禄年間(1688~1704)の頃、専右衛門、又は宇平治という人が作ったと言われているものです。
しかしこれも角兵衛獅子同様廃れてしまっていたのですが、喜多川歌麿が享和期(1801~1804)に描いた「玄英の雑司ヶ谷詣」の風車を手本に郷土史家の矢島勝昭氏が復元されたものだそうです。
喜多川歌麿「玄英の雑司ヶ谷詣」 元禄五色の風車 《喜多川歌麿「玄英の雑司ヶ谷詣」》
そのときの様子が。当時のライブドアニュースで取り上げられていました。
郷土史家・矢島勝昭氏 《写真:(C)ライブドアニュース》

アートイベント「平成の『かざぐるま』で雑司ヶ谷ルネサンス」
【ライブドア・ニュース 2005年05月20日】- 東京都豊島区の雑司ヶ谷では20日、アートイベント「平成の『かざぐるま』で雑司ヶ谷ルネサンス」(目白通りアート・プロジェクト実行委員会主催)が始まった。6月2日まで。
同イベントは、今年初めて開かれる「目白通りアート・プロジェクト」(NPO地域再創生プログラム主催)の一つで、江戸時代に同地域の鬼子母神境内で売られていた「かざぐるま」にちなんだアート作品を展示。実行委員会には、早稲田大学や日本女子大など同地域周辺にある大学の学生や、地域住民らが参加している。
(中略)
江戸時代の「元禄五色のかざぐるま」を復元した、地元の郷土史家の矢島勝昭さん(76)は「何もないところだけど、かざぐるまを通して雑司ヶ谷のことを知ってもらえれば」と郷土玩具であるかざぐるまに、まちおこしの思いを込めている。
【了】 ライブドア・ニュース 吉川忠行記者
(ライブドアニュース 2005年05月20日より抜粋)

一般的に郷土史家というと実に地味なイメージがありますが、この矢島勝昭氏というのは結構メジャーな方のようです。
1929年雑司が谷生まれで、高等無線電信学校卒業後、東京中央電信局(現:NTT)に勤めます。幼い頃から絵が好きだったことから東京中央電信局で電信電話のイラスト画を約300点、日テレ「テレビ画報」での放映などをきっかけに画家・郷土史家となったようです。

主な作品
■書籍、画文集
1999年 「江戸地誌五十編・雑司が谷風土記」、画文集「二十世紀の情景・池袋/雑司が谷」出版
2000年 サライ「鬼子母神名物の元禄のかざぐるまを復元・奉納」を掲載
2003年 画文集「昭和・思い出の日々」豊島区郷土資料館友の会発行
2005年 絵本「雑司が谷いろはかるた」雑司が谷ルネサンスの会発行、「としまの村ばなし」(共著)としま♭みち草の会発行。(豊島区教育委員会推薦)ほか
■テレビ放映、出演
1962年 日本テレビ「テレビ画報」で影絵『山神退散』作品放映
1985年 テレビ朝日「超高層と都電の昭和史」に出演 (1995年も出演)
2000年~04 NHK札幌「もぎたてラジオ便北海道」にて電話出演(雑司が谷を紹介)
2001年 日本テレビ「ぶらり途中下車の旅」でかざぐるま作り放映
2008年 テレビ朝日「ちい散歩」で「郷土玩具と戦地からの絵てがみ」放映(2009年も放映)
2010年 日本テレビ「おはよん」で、「かざぐるま作りと鬼子母神堂内のかざぐるま」、テレビ東京「出没アド街ック天国」でかざぐるま作り放映ほか
■他、主な作品
<企業関連 作品>
・国鉄池袋駅(現:JR)パンフレット、交通公社月刊「旅」、小学館「マドモアゼル」に影絵連載
・日本電信電話公社(現:NTT)CMのアニメ「パラボラは唄う」テレビアニメ原画作成
<公共機関関連 作品>
・雑司ヶ谷霊園内「御鷹部屋と松」の碑文・絵・レイアウト草案(東京都)
・豊島区雑司が谷郷土玩具「元禄のかざぐるま」「麦わらの角兵衛獅子」復元・頒布。
・「ぞうしがや」(豊島区都市整備部等発行)に随筆「雑司が谷発見」連載
・豊島区内の旧鎌倉街道(未解明部分)を検証、タウン誌「ぞうしがや」で発表。
・地下鉄雑司が谷駅構内の壁画に「かざぐるま/角兵衛獅子/鷹匠」の資料提供
・豊島区雑司が谷案内処で郷土玩具「かざぐるま・角兵衛獅子」を常設展示・販売
など、多岐に渡っており、郷土史家という括りでは収まらないジャンルで活躍をされているようです。

このように復元・復刻されたものは歴史的には雑司が谷にとっても意義深い玩具です。
思い出せば、地下鉄雑司が谷駅の壁画には、ケヤキ並木、角兵衛獅子、風車の写真が掲載されていましたので、まさに雑司が谷のシンボルといいえるものです。

その隣にある稀有な電車の模型には“都電荒川線9000型26号車 ボール紙製一部ベニヤ板 Gゲージ「のぞみ会」”とキャプションにあります。
都電荒川線9000型26号車
そして「のぞみ会」会長 伊藤信男さんより制作・寄贈いただきましたと書かれています。かつてNゲージを持っていた私としては、つい目を輝かせてしまいそうなものです。よくよく考えれば雑司が谷、鬼子母神といえば都電の街でもあるわけで、このような古い車体を模型として復刻するというのもまた結構なことと思いきや、意外なことに実車でもレトロ車輌として復元されて、平成19年から実際の営業運転もされているものだそうです。流石に1両しかないようなのでイベントなどに使用されているそうです。
プチ鉄っチャンとしては興味深いものです。
七福神めぐり色紙 情報盛りだくさんの案内処で、最後に色紙を500円で買い求めて、いざ七福神めぐりに出発します。

参考資料

東京レポートvol.1