バス比較サイト『Bus sagasu』で、“新訂 旅と歴史”の記事を掲載して戴きました。

毎年初詣客No.1の神社が明治神宮です。
その明治神宮でありながら、意外と知られていないことが多いのです。
来年の初詣に向けて明治神宮を知って、例年より明治神宮を楽しんでください。

ご一読願えたら幸いです。
掲載記事はこちら 『初詣前に知っておきたい明治神宮の徹底ガイド

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2015.12.18掲載
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現代を代表するオシャレな街の一つが代官山
江戸時代、代官の屋敷があった説や代官が管理する山林があったからという説があるが、いづれにしても当時の要所ではなく、関東大震災後さえも、同潤会の代官山アパート(旧称・渋谷アパート)が建った昭和初期あたりまでは一面の雑木林で、闇夜に梟が鳴くような鄙びた街であった

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その代官山が現在のお洒落な街に発展するきっかけが、現在は重要文化財となった「旧朝倉邸」
甲州武田家に仕えた武士であった朝倉家が、帰農して渋谷に住まい、水車を利用した収益で資産家となり、当時の渋谷周辺の土地を買い占めた大地主となる。
その末代の朝倉虎治郎は、渋谷区議会議長や東京府議会議長を歴任した政治家で、大正8年に邸宅として建てられたのが、この「旧朝倉邸」である

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旧朝倉邸の見所は、ほぼ全室が畳敷きで、屋根は瓦葺き、外壁は下見板張という典型的な和風大邸宅で、部屋ごとに違ったデザインを施していることである

正式な応接間として使用される部屋は伝統の「書院造り」
武家の時代からの書院造りの踏襲である
凝った障子、欄間や襖に描かれた絵や彫刻は華美ではなく、渋く輝いている

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一室しかない洋間は、あくまで簡易洋風接待用で基本的には執事室
和洋折衷といった趣か。。。
若干、とってつけたような風情からも伺える

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私的な空間は「数奇屋風座敷」
代表する「杉の間」は、杉の板目をそろえた一風変った贅沢な空間で、これだけのものは当時かなりの財力が必要だったようである
しかし、それを自慢げにしないところに好感がもてる

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隠れた贅沢や凝ったつくり、つまり遊び心一杯といったところ
木製のレールなどもその一つであるが、派手さはないが、なかなか渋い、、、現在で言えばクールといったところか

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建物の中に見られる蔵の扉や金庫といったところは、やはり財力の象徴
金があることは決して悪いことではないが、やはり庶民にはねたましい!

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その財力は蔵の様子からもうかがえる
2階建ての蔵はそれなりの重厚感を醸し出す

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華麗、というよりも渋い佇まいはまさにクールジャパンといえる大正浪漫の傑作であろう

もう一つの見所は庭園である
回遊式庭園は文字通り庭園を巡ってこその庭園
崖線を利用した庭園は、かつて富士山や目黒川を借景とした庭園で、その眺望は見事であったと思われる

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庭園への門も新しいものながら趣がある

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石畳や石段の風情は、それで一つのアート!?

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庭園に配置された石燈籠などもより和風の風情を醸し出す、回遊式たる由縁か

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そして庭園からみる建物の佇まいも、落ち着いたシックな佇まいである

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まさにクールジャパンの旧朝倉邸であるが、大戦後は所有していた土地の大部分を失い、本宅も相続税支払いのために売却された。
手元に残った土地を活かした不動産経営をしていた朝倉家は、早急な開発ではなく、長期にわたり快適な空間として続く開発を望み、1967年に出あった建築家・槇文彦氏に「代官山集合住宅計画」を立案させた。
当時、このエリアは住居専用地区だったため、店舗の開設は認められていなかったが、行政との交渉の末、住居と店舗が混在する建造物を実現させたのである。
これが現在の「ヒルサイドテラス」で、お洒落な街代官山の始まりとなったのである。

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因みに「ヒルサイドテラス」内にある猿楽神社は、猿楽町の由来であり、更に神社の建っている築山は古墳時代の円墳である

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古代と近代と現代をつなぐのが「旧朝倉邸」の魅力であろう

2015.01.15記

東京オリンピック選手村跡

JR原宿駅は非常に興味深い駅ですので、レガシーには関係ないながら少し見渡します。
原宿駅は1924(大正13)年に竣工した木造建築で、都内で現存する木造駅舎で最も古く、イギリス調のデザインのシックでお洒落な駅です。

JR原宿駅は山手線のみの駅ですが、新宿方向に向って左側にはもう一つプラットホームがあります。

JR原宿駅臨時ホーム JR原宿駅臨時ホーム

明治神宮参拝用専用ホーム

このホームは、正月の明治神宮初詣の際のみ改札される専用降車ホームです。
流石に日本一の参拝客を集める明治神宮だけあって当然とも言える措置です。

更に原宿駅の前方、新宿方向にもう一つ駅が見えます。

宮廷ホーム

原宿駅の先のもう一つの原宿駅!?

このプラットホームは、お召し列車の発着用の通称「宮廷ホーム」の皇室専用ホームで、現在は2001年以来皇室専用ホームを皇族が利用されてはいないようですが、廃止されたわけではありません。
現在はその活用方法を模索中のようです。

次に新宿方面に向って右手にあるのが、あの有名な商店街です。

竹下通り

全国的に有名な竹下通り

正式名称は原宿竹下通り商店会の「竹下通り」です。タレントショップを始め、TVとのタイアップショップや、ヒップホップ系、サブカルチャー系などのショップがひしめいている商店街です。

このように代々木編の拠点となる原宿駅自体が歴史と文化の玄関口といえるのです。

五輪橋

前章ではメイン施設の国立競技場を見てきましたが、最大の難関は選手村でした。
当時、都内の広大で利便性のある土地は、殆ど在日アメリカ軍に接収されていたため、広大な敷地を必要とする選手村用地確保はアメリカ軍との交渉から始まりました。

ワシントンハイツ

当時のワシントンハイツ
(c)goo地図

昭和34年の東京オリンピック招致決定から、用地選定は紆余曲折しながら凡そ2年間のアメリカとの交渉の末、現在の代々木公園がある当時の「ワシントンハイツ」に選手村と代々木競技場が建設されることに決定したのでした。

ワシントンハイツは92万4000㎡の敷地を有し、827世帯のアメリカ軍家族宿舎や将校クラブ、劇場、教会等の共有施設が建てられ、日本人は立入禁止のエリアでした。 接収されたワシントンハイツの前身は陸軍練兵場で、それ以前は「代々木の原」と呼ばれていた野原でした。

こうして代々木に決定した選手村と競技場建設ですが、当時、原宿駅から山手線を越える橋は、明治神宮に向う参宮橋しか無く、今後、交通量も増えることが予想されたため、原宿駅及び表参道から迂回せず真っ直ぐ進んで代々木に迎える道路造成のために造られた新しい橋が「五輪橋」です。

1963(昭和38)年の参宮橋 現在の参宮橋

1963(昭和38)年の参宮橋と現在の参宮橋(c)goo地図

オリンピック前年に建設が始まった代々木競技場が僅かに形付けられた時期に、まだ五輪橋はありませんでした。
1964(昭和39)年3月に竣工した五輪橋は、その後の1990年代初頭に景観整備が行われたものなのです。

参宮橋と五輪橋 参宮橋と五輪橋

右が参宮橋、左が五輪橋

参宮橋と五輪橋は、ちょうどV字に設置され、右の参宮橋は正月の参拝客の多さを考えかなり広い幅をとってあり、車は殆ど五輪橋を通るようになっています。

五輪橋 五輪橋

五輪橋の親柱の地球儀とオリンピックプレート


親橋の上には「世界は一つ」というメッセージをこめた地球儀が飾られ、横には東京オリンピックのシンボルマークプレートが付けられています。

五輪橋 五輪橋

欄干には五輪競技のレリーフ

橋の欄干には五輪競技のレリーフがはめ込まれています。ただ、よくよく見るとその種類は3種類で、陸上(恐らくマラソン)、体操、柔道の三種類で、マラソンの円谷、そして当時、日本のお家芸といわれた競技2種を入れたのでしょう。
何となく、中途半端さが後追いで造られた由縁でしょうか。

いずれにしても、この通りが後の代々木へのメイン通りとなり、日本のカルチャーにおいて非常に重要な通りとなるのです。

旧ロンドン通り

こうして旧ワシントンハイツは、北部の選手村と南部の競技場エリアに分けられて建設されました。

幹線道路

現在の幹線道路

五輪橋

振り返ると五輪橋

その南北を二分する通りが、原宿駅前から五輪橋を渡り、富ヶ谷にいたる道路です。
近年、この道路は代々木上原の井の頭通りとも繋がり、幹線道路としての利便性が増加しました。

ネーミングストリート

当時のネーミングストリート(C)goo地図

東京オリンピック当時は、選手村と競技場を循環する専用のバス路線があり、この通りは「ロンドン通り」と名づけられました。
他にも「ヘルシンキ通り」「メキシコ通り」「メルボルン通り」があったようです。この名称は、東京オリンピックの次がメキシコで、メルボルンは前々回、更にその前がヘルシンキで、その前がロンドンなのですが、何故前回のローマが無いのかが良く判りません。

旅歴メモ -原宿ホコ天-
原宿ホコ天

当時のホコ天

1980年代、この通りは歩行者天国となり、「竹の子族」「ローラー族」やストリートパフォーマーなどが生まれ、若者文化の発信地として彼らの活動はメディアで多く取り上げられ話題となり、街全体に活気を与えたのです。
1980年代末からはホコ天発のバンドブームの伴い多数のバンドが路上演奏をするようになり、彼等の出す騒音や見物人のゴミなどに対してクレームが出され、後に歩行者天国が廃止に至る原因の一つになったのです。

春の光景

春の光景

春になるとこのような美しい光景を見せる、かつてのロンドン通りは、東京オリンピックやホコ天の歴史を後世に伝えているのです。

代々木選手村

旧ロンドン通りから、右手方向にあるのが現在の代々木公園です。

代々木公園原宿口

代々木公園

旧ヘルシンキ通り!?

代々木公園原宿門

こちらの入園口が原宿門で、基本的にメインゲートとなります。お洒落な幾何学模様が目を引きます。

旧ヘルシンキ通り!?

旧ヘルシンキ通り!?

原宿門から真直ぐの園路周辺にかつてのヘルシンキ通りではないかと考えられます。
園路は二股に分かれていますので、一旦ここは右に進みます。

代々木公園一角

右手に花壇と一軒の家

園路の右手に花壇と、その先に小さな白とグリーンの家を見ることが出来ます。

この小さな家が、この場所にとっては極めて重要な家なのです。

選手村宿舎 選手村宿舎

正面から見た選手村住宅

この家こそ東京オリンピック選手村で使われた選手住宅です。各国選手によって使用された宿舎の一つで、オランダ選手が使用したそうですから、もしかしたら柔道のヘーシンクが使っていたかもしれません。
唯一、東京オリンピックを記念して保存された宿舎です。

選手村宿舎 選手村宿舎

側面と裏側

パーゴラ風のエントランスが特徴で、戦後まもない頃の日本では考えられないモダンな住宅です。
それもそのはずで、この宿舎自体、当時、オリンピック用に建てられたたものではなく、旧ワシントンハイツ時代のアメリカ軍住宅をそのまま利用したからなのです。
ワシントンハイツの中でも一番の小型住宅だそうですが、今見てもそれ程小さく感じないのは当時のアメリカの豊かさの現れと言えるでしょう。

選手村宿舎の裏手に実に地味な一画があります。

東京オリンピック記念樹木見本園

東京オリンピック記念樹木見本園

この一画は東京オリンピックを記念した「樹木見本園」で、代々木選手村に来た各国の選手たちが様々な種子を持ち寄ったそうです。
それらは林業試験場で育てられ、昭和47(1967)年にここに戻ってきたそうです。
現在、22カ国24種類の樹木があります。

旧メキシコ通り

旧ヘルシンキ通りに戻って、再び真直ぐ進みます。

バラ園バラ園

季節となれば美しいバラが咲き乱れるバラ園

通りの両側にバラ園が広がり、園路にはバラのアーチが見て取れます。シーズンともなれば多くの人たちが訪れることでしょう。

バラ園を抜けると、その先は代々木公園のヘソとも言える噴水のある中央広場です。

噴水と中央広場 噴水と中央広場

噴水と中央広場

噴水付近では多く人がのんびりと癒されているようです。
メキシコ通り?

かつてのメキシコ通りをイメージさせる径

噴水横から中央広場を周回する小路が、かつてのメキシコ通りを彷彿とさせる小路かもしれません。現在では全くわからなくなりました。

中央広場周辺には様々なモニュメントなどがありますが、そのうち五輪レガシーには関連しませんが、代々木公園の歴史を彷彿とさせる記念碑を探索してみました。
これらは代々木公園の歴史を、選手村、旧ワシントンハイツの更に前身であった陸軍練兵場を偲ばせるものです。
陸軍代々木練兵場は、青山練兵場が博覧会のために移設させることになり、明治天皇在位時代の1909(明治42)年に練兵場となり、以来、終戦まで陸軍の練兵場だったのです。

閲兵式の松

閲兵式の松

昭憲太后大葬儀葬場殿址碑

昭憲太后大葬儀葬場殿址碑

1917(大正6)年に大正天皇が、初の行幸としてこの松の傍らで観閲し、大正9、10年には昭和天皇も観閲した所縁の松です。
そして碑は、明治天皇の皇后である昭憲太后が大正3年に亡くなられた時、「葬場殿の儀」の行われた地を記念した碑です。

そしてもう一つ日本初の歴史を残した碑があります。

日本初飛行の地碑 日本初飛行の地碑

日本初飛行の地碑

1910(明治43)年12月19日、当時の代々木練兵場で、徳川好敏陸軍大尉がアンリ・フォルマン式複葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功し、次いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単葉機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功したのです。
徳川・日野両陸軍大尉の銅像

徳川・日野両陸軍大尉の銅像

これが日本航空史上、最初の飛行であることを顕彰し、日本初飛行の地碑と両大尉の銅像が建立されたのです。
正しく代々木練兵場の輝ける一頁と言えるでしょう。

陸軍練兵場、ワシントンハイツ、そして選手村と代々木公園は実に歴史的な公園なのです。

2014.06.13記(つづく)


はじめに

既に2年半前になろうとしている2008年11月に上野の東京都美術館で「光の天才画家とデルフトの巨匠たち」と題されたフェルメール展が開催されました。
この模様は【フェルメール展とその舞台裏】として掲載しましたが、それから早2年後に再びフェルメール展が開催されたのです。

前回も大変な盛況だったのですが、昨今フェルメールの人気は非常に高いようです。
ここで前回と記載したのは個人的なことで、オフィシャルとしては2009年の「ルーブル美術館展 -17世紀ヨーロッパ絵画-」で『レースを編む女』が、2011年には「シュテーデル美術館所蔵 フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展」として『地理学者』が出展されているのですが、フェルメールの冠である展覧会では無いという意味で前回ということにしています。
元々、美術愛好家には人気だったのでしょうが、やはりあの「ラピスラズリ」の神秘性と、作品数の少なさが一般的な我々ミーハーにも人気となる由縁なのでしょう。

昨年の2011年10月27日から始まった今回の展覧会は2012年3月14日で終了ということで、終了間際の2012年3月11日(土)に渋谷Bunkamuraを訪れたのです。
一方、その数日前に新聞で銀座でもフェルメール展が開催されているという、全く噂にも聞かない展覧会が開催されているということを知りました。
モノはついでとばかりに、渋谷と銀座、そう東京メトロ銀座線のフェルメールラインとなるわけなので、今回は電車で渋谷に向ったのでした。

朝10:30頃にゆっくり自宅を出発し、大宮から埼京線1本で渋谷に到着したのが12:00少し前でした。
渋谷へは仕事で年中通っているのですが、Bunkamuraへプライベートで行くのは初めてかもしれません。相変わらず混雑している渋谷ですが、土曜日でしかも寒い日とあって平日より人が少ないといえるかもしれません。意外な一面を見た気がします。
そして、今日3月11日は多くの人にとって特別な日で、東北地方太平洋沖地震の一周年、否、一周忌にあたるのです。少なくとも個人的に震災に無縁ではなかった私にとっても、震災の爪あとは今だ消えることはないようです。
様々な思いの中で、今回の散策をかみしめてみたいと思います。


はじめに

今回の散策は渋谷区の千駄ヶ谷・原宿エリアです。
江戸時代の渋谷というイメージはまさに谷底の町で、江戸時代までは殆ど見るべき、或いは知るべきものは少ないようです。
渋谷が花開き始めたのは明治になってからで、郊外のターミナル駅として閑静な住宅地を控えた土地柄だったのですが、その渋谷が変わり始めたのが戦後、東急の街として発展し始めてからです。東急会館(現:東急百貨店東横店西館)、東急文化会館、渋谷東急ビル(現:渋谷東急プラザ)、東急百貨店本店などが相次いで建てられたからです。
そして、更に郊外のターミナル駅・渋谷が現在の地位を手中に収めることになるのは昭和50(1975)年以降の東急と西武による開発競争がきっかけでした。
そしてその後、流行の発信地として若者文化の歴史を大きく変貌させ、原宿などの渋谷区全体が大きく変わってきたのです。

しかしながら昭和・平成の申し子のような渋谷にも当然歴史はあるわけで、現在の渋谷駅及び原宿駅周辺以外ではまだまだ古きよき香りが残っているところも少なくないようです。
今回の散策では、その渋谷区の一端ではあるのですが、歴史を辿り散策をしようと12月4日土曜日の冬の日・・・、とはいいながらもかなり暖冬で暖かな一日を過ごしてみることになりました。

千駄ヶ谷周辺 #1

JR線を乗り継いで降り立ったところは千駄ヶ谷駅です。この千駄ヶ谷という名前の由来は、もともとこの地にはたくさんの萱が生えていて、それを1日に「千駄の萱」(駄は馬に積む荷物の重さの単位)を積むことから千駄ヶ谷となったといわれていますが、現在ではオフィスビルが立ち並ぶ街に変貌しています。
このように個人的にもビジネスで訪れる機会の多い街ですが、ビジネスではほぼ目的地に一直線ですから中々左右を眺める余裕がありません。
東京体育館 そういった意味で、何となく見ていながら記憶に残っていない代表的な建造物が駅前の「東京体育館」で、駅を降りると交差点の先の左側にあります。

1954年に完成し、最初のビッグイベントは1958年のアジア競技大会(アジアオリンピック)の会場として使用されました。そして1964年の東京オリンピックで、メインアリーナが団体・個人共に日本が総合優勝した体操競技に使用され、プールが地味な水球競技に使用されたのです。そして、1986年に老朽化のためリニューアルし現在に至っている、50代以上ではそんな記憶が残っている建造物です。

国立能楽堂

国立能楽堂 千駄ヶ谷駅から総武線沿いを歩いて住宅街に入るとレトロと現代を融合させたような正門が出迎えます。

この能楽堂は国立で、独立行政法人日本芸術文化振興会の能楽専門の公演場で1983年に竣工しました。
この日本芸術文化振興会は他に、国立劇場・国立演芸場・国立文楽劇場・新国立劇場・国立劇場おきなわ、などを運営していますのでご存知の方も多いかもしれません。

能楽堂といわれると、どうも能の舞台をイメージしますが、厳密には能楽は三種類あるのだそうです。
能は鎌倉時代後期から室町時代初期に完成した舞台芸術の一種です。江戸時代以前には「猿楽の能」と呼ばれていたものだそうです。現在は「観世流」「宝生流」「金剛流」「金春流」などの流派があります。
2つ目は式三番と呼ばれるものです。もともとは能が成立する以前の翁猿楽の様式を留める芸能だったのですが、現在では歌舞伎舞踊や日本舞踊にも取入れられているほか、各地の郷土芸能・神事としても保存されているようです。
3つ目が狂言です。これは猿楽から発展した伝統芸能で、猿楽の滑稽味を洗練させた笑劇のことです。流派としては、大蔵流、和泉流があり、和泉元彌といえば多くの人が知っているでしょう。
これら3つの芸能を総称して「能楽」というのだそうです。初めて知ったというと恥ずかしいことでしょうか・・・。

国立能楽堂 正門を抜けると広い中庭になりますが、中央の松が情緒を醸し出しています。

国立能楽堂 そして重厚感ある近代的な建物の正面玄関です。

午前中ということもあり公演は午後からなので内部には入れませんが、張り出されていたスケジュールを眺めてみました。
定期公演とか企画公演などは当然行なわれているのですが、その中に普及講演なるものがありました。文字通り能楽の普及のためでしょうが、毎月第2土曜日に行なわれていて、能や狂言の上演に解説がついている公演のようです。
料金も正面が4,800円、脇正面が3,100円で、中正面が2,600円という意外にリーズナブルな価格です。
ちなみに来年の2011年1月8日の講演内容です。

公演内容:
○解説・能楽あんない 女物狂い「百万」の素性  小林健二(国文学研究資料館教授)
○狂言「呂蓮」大藏吉次郎(大蔵流)
○能「百万」高橋章(宝生流)
※字幕付です(日本語・英語)

といった内容です。
ここでちょっと気になったのが字幕付とは一体何処に・・・、ということでオフィシャルサイトを調べてみたら説明がありました。

字幕システムについて
国立能楽堂には平成18年11月より日本初となるパーソナルタイプの座席字幕システムが導入されています。前の座席の背面に小型液晶画面を設置し、ボタン一つで日本語表示・英語表示・表示オフを自由に選択できます。難しく思える能の詞章も、文字で見ると意外に理解しやすいもの。座席字幕では能の詞章を表示するほか、能・狂言の決まり事などを適宜解説し、能楽鑑賞をお手伝いいたします。英語表示では意訳と解説を表示し、初めて能楽をご覧になる海外のお客様にもお楽しみいただけます。字幕システムは一部を除く全ての自主公演でご利用いただけます。是非ご活用ください。
(国立能楽堂オフィシャルサイトより)

結構便利なものがあるのですね。
国立能楽堂 更に建物の左側に事務室・展示室入口があったので展示室に向かったのですが、今日は展示していないようなので入館できませんでした。

一度その普及公演には行って見たいものです、伝統芸能に触れる機会はそうありませんから。

鳩森八幡神社

国立能楽堂から一旦東京体育館方面に戻ってから、千駄ヶ谷駅とは反対方向に向かいます。
ここからはしばらく能楽にも引けをとらない位の歴史のある場所を訪れますが、その前にしばし休憩ということで、現代らしいオシャレなカフェで早一服です。

グッドモーニングカフェ オープンテラスのある「グッドモーニングカフェ」です。白ベースにグリーンをアクセントにしたありがちなファサードですが、それはそれで清潔感や爽快感を醸し出して朝の空気にはお似合いです。

このカフェのテーマは朝イチ生活の提案ということで、昨今の健康ブーム、ペットブームにより朝早くから自分の生活スタイルを確立しようとしている人が増えていて、そのライフスタイルを応援するといったコンセプトで、所謂朝早くから開いているカフェですよ、という店舗です。
オフィシャルサイトには「千駄ヶ谷から発信 東京の朝方ライフスタイル 朝一生活」というメインコピーが誇らしげに提示されています。
昔から夜型人間の私でしたが、オッサン以上になると否が応でも朝型人間になってしまうのですね。所謂、朝早く目が覚める、という老人特有のライフスタイル!?・・・なのです。そういった意味ではありがたい店舗なのですが・・・
グッドモーニングカフェ とにかく一服ということで、カフェラテとカプチーノをオーダーしました。

スタバなどより数段結構な価格ですから確かに美味しいのは当たり前で、たまにはプチ贅沢もある意味癒しでしょう。
グッドモーニングカフェ 店内もなかなかオシャレな雰囲気につつまれていました。

しばし休憩後、カフェの前の道を進むと交差点の角に目指す「鳩森八幡神社」の鳥居が見えます。
鳩森八幡神社 この鳥居は境内の裏側に当たるようなので、神社沿いを歩いて正面に向かいました。

鳩森八幡神社 重厚感ある(って、いつも言うのですが古いと紙一重ともいえます)社号標と石造りの鳥居がどっしりと構えています。
この時期師走を思い出させる大祓の文字がどこの神社でも見受けられるのは、一つの風物詩でしょう。

鳩森八幡神社 鳩森八幡神社拝殿 境内に入り参道を進むとなかなか形の良い松の木をくぐって社殿となります。
見た目が綺麗ですので、比較的最近再建、あるいは改修されたのでしょうか。まずは参拝を済ませます。

特に由緒書のようなものがないので調べてみました。

鳩森八幡神社縁起 御祭神:応神天皇・神功皇后
「江戸名所図会」によると大昔、此の地の林の中にはめでたいことが起こる前兆の瑞雲(ずいうん)がたびたび現れ、ある日青空より白雲が降りてきたので不思議に思った村人が林の中に入っていくと、突然白鳩が数多、西に向かって飛び去った。この霊瑞(れいずい)に依り 神様が宿る小さな祠(ほこら)を営み鳩森『はとのもり』と名付けた。貞観2年(860年)、慈覚大師(円仁)が関東巡錫の途中、鳩森のご神体を求める村民の強い願いにより、山城国石清水(男山ともいう)八幡宮に宇佐八幡宮を遷座し給うた故事にのっとり、神功皇后・応神天皇の御尊像を作り添えて、正八幡宮とし尊敬し奉ったと伝えられている。
(鳩森八幡神社オフィシャルサイトより)

「江戸名所図会」の江戸時代でも古刹として解説されているのは、さすがに創建が平安時代という由緒ある神社故でしょう。当時は「千駄ヶ谷 八幡宮」と呼ばれていたそうです。
江戸名所図会 その「江戸名所図会」での挿絵がこちらで、広さや位置関係は現在とあまり変わらないようです。

鳩森八幡神社拝殿 鳩森八幡神社本殿 社殿は弘化2年(1845)に上棟した欅造り50余坪の荘厳な社殿だったそうですが、昭和20年の戦災により焼失し、昭和23年から数度の復興事業が行なわれ、平成5年復元工事が完了し竣工したものだそうです。

「江戸名所図会」が出版されたのが天保5(1834)年から天保7(1836)年にかけてですから、ここに描かれている社殿は更にその前の社殿ということになります。
社殿の右上には富士塚を見ることができます。
当然、現在でも現存していますので後で見学するのが楽しみです。

神明社 社殿の隣にある末社が天照大神を祀る「神明社」です。

もともと現在明治記念館のある権田原にあったそうですが、明治41年にこの境内に遷座されたそうです。

その「神明社」の反対側に真新しい「神楽殿」があります。
神楽殿 ガラス戸で囲われた「神楽殿」は、まさに日向ぼっこにはうってつけなという、何とも罰当たりなことを考えてしまうほど長閑です。

千駄ヶ谷の富士塚 そしてその左側にあるのが、「江戸名所図会」にも記載されていた富士塚です。
鳥居と狛犬が鎮座している境内でも異空間の趣です。

東京都指定有形民俗文化財 千駄ヶ谷の富士塚
所在 渋谷区千駄ヶ谷1-1-24 鳩森八幡神社境内 指定 昭和56年3月12日
この富士塚は寛政元年(1789)の築造と言われ、円墳形に土を盛り上げ、黒ボク(富士山の溶岩)は頂上近くのみ配されている。山腹には要所要所に丸石を配置しており、土の露出している部分には熊笹が植えられている。頂上には奥宮を安置し、山裾の向かって左側に木造の里宮の建物がある。
頂上に至る登山道は正面に「く」の字形に設けられ、自然石を用いて階段としている。七合目には洞窟がつくられ、その中には身禄像が安置されている。
塚の前面には池があるが、この池は塚築造のため土を採掘した跡を利用したもので、円墳状の盛り土、前方の池という形は江戸築造の富士塚の基本様式を示している。
この富士塚は大正12年(1923)の関東大震災後に修復されているが、築造当時の旧態をよく留めており、東京都内に現存するものでは最も古く。江戸中期以降、江戸市中を中心に広く庶民の間で信仰されていた富士信仰の在り方を理解する上で貴重な資料である。
昭和57年3月31日 建設 東京都教育委員会
(現地案内板説明文より)

実際に登って見ます。
千駄ヶ谷の富士塚・採掘跡池 鳥居の先に採掘跡の池がありますが、当然水はありません。

その池にかかる石橋を渡った正面に二の鳥居と御影石の社があります。
富士浅間神社 里宮 これが里宮です。正式には「富士浅間神社」で昭和60年に木造から現在の御影石に建て替えられたのだそうです。

千駄ヶ谷の富士塚登山道 千駄ヶ谷の富士塚石碑 結構きつい斜面を登っていくと途中に石碑などが置かれています。

千駄ヶ谷の富士塚身禄像 そして7合目(というのですからこのあたりでしょう)あたりに小さな洞窟があり、中に安置されているのが身禄像だと思われます。

ここでちょっと不思議なのが通常「みろく」といえば、菩薩で名高い弥勒と書くところですが、何故か身禄なのです。
この身禄とは、本名は伊藤伊兵衛で伊勢国(現三重県)生まれ。元禄元年(1688年)に江戸で富士行者月行に弟子入りし、油売りを営みながら修行を積んだ後、享保18年(1733年)63歳の時、駒込の自宅を出立して富士山七合五勺目(現在8合目)にある烏帽子岩で断食行を行い35日後にはそのまま入定し、それが救世主、教祖的な存在として受け入れられ、富士講が誕生となったのです。いわゆる富士講を誕生・普及させたのが身禄ということです。
そしてこの身禄という名前は、釈迦が亡くなって56億7千万年後に出現して世直しをするという弥勒菩薩から取ったものだそうです。
やはり間接的に関係があったといえるのでしょう。

千駄ヶ谷の富士塚・「小御嶽石尊権現」の碑 更に上に登ると「小御嶽石尊権現」の碑があります。
この碑の背面に刻まれている「寛政元己酉年六月吉日 願主当所中」という銘文にによって、この富士塚が寛政元年築造とされた根拠とされているようです。

千駄ヶ谷の富士塚の溶岩 この先辺りから岩の色が変わり始め全体的に黒い溶岩にかわります。ここからが富士山の溶岩を配した場所となるようです。

富士浅間神社の奥宮 そして頂上の溶岩に囲まれた小祠が富士浅間神社の奥宮です。

千駄ヶ谷の富士塚からの眺望 山頂から眺めた境内がこれです。意外と高いことが判ります。
こうして山頂に上がって様々な祈願をしたのでしょうね。

麓の境内に戻って散策を続けます。
将棋堂 一画に六角形のお堂があります。「将棋堂」です。

将棋堂由来記
昭和61年1月、社団法人日本将棋連盟(当時の会長大山康晴15世名人)より、山形県の駒師香月氏の勢作による、高さ1m20cmの欅製の大駒が奉納された。
この縁により、同年11月将棋の技術向上を目指す人々の守護神とし、更に将棋界の繁栄を願って、日本将棋連盟と神社が協力し、この大駒を納める六角の御堂を建立した。御堂の六角は天地四方を表し、屋根の上の飾りの金物は将棋盤の足の形、つまりくちなし(梔子)の実の形をしている。くちなしは口無しに通じ、助言無用の戒めからきていると古くから言い伝えられている。
室内に安置された大駒は、御影石の将棋盤の上に立ち、その奥に氏神の八幡神が祀られている。
毎年年頭に、この御堂の前で祈願祭が行われる。将棋上達を祈願する人は、いつでもその夢を絵馬札に托して奉納することができる。参拝者は棋力向上の願いが叶えられ、よろず勝運に恵まれると言われている。
平成6年12月吉日 鳩森八幡神社・社団法人日本将棋連盟
(現地案内板説明文より)

将棋堂 将棋堂 残念ながら中の大駒はよく見ることはできませんでしたが、確かに六角堂の屋根の飾りは将棋盤の脚の形でした。
「くちなし」が「口無し」ですか、なるほどなるほどプチ感心してしまいました。

神輿庫 その先に各地区の神輿庫が並んでいます。

そしてその反対側に、ちょうど富士塚の裏手になるところですが、「甲賀稲荷社」の参道鳥居があります。

甲賀稲荷社   御祭神 宇迦之御魂神
昔は青山権田原の御鉄砲場付近に鎮座していて、甲賀組組屋敷の武士等が崇敬していた。明治18年に、青山練兵場設置のため、当社境内に遷座、合祀されたのである。昭和20年5月の戦災で社殿を焼失し、本殿の中に八幡神宮、諏訪大神とともに祀られていたが、復興を望む声が高まり、昭和45年欅造りの社殿が完成し、遷座された。
(鳩森八幡神社オフィシャルサイトより)

青山権田原は現在の明治記念館の辺りで、その周辺に甲賀組の組屋敷の武士が住んでいました。甲賀組とは近江国甲賀郡発祥の幕府直属の鉄砲隊で、甲賀組以外にも根来組、伊賀組、二十五騎組の4組あり、それぞれ同心が100人ずついたことから百人組とも呼ばれていたそうです。
伊賀とか甲賀といわれるとどうしても忍者を思い浮かべますが、鉄砲隊とは意外でしたね。また、鉄砲隊といわれると紀州・雑賀鉄砲隊が尻くらえ孫市がお馴染みですが、意外な事実にちょっと知識が増えました。

甲賀稲荷社 ちょうどその「甲賀稲荷社」参道の横が富士塚の登山口になっていて、こちらからも登れるようになっています。
ちょっとよく分からないのがその鳥居の隣にある地眼と刻まれた石碑です。
ちまなこなら血眼という字でしょうし、谷地眼なら底なし沼ですが、それとも違いますしどうも調べてもよく分かりません。

是非この地眼をご存知の方がいらっしゃれば・・・、って神社の方に聞けばよかったのですね。まあ、良しとしましょう。

甲賀稲荷社 最後にその「甲賀稲荷社」をお参りして鳩森八幡神社を後にしました。

江戸の香りの少ないエリアで、江戸の情景をしっかりと眼に焼き付けた貴重な神社です。