歴史を尋ねる散策記。歴史の必然、偶然を楽しんでいます!!!!
22:16
「芸術は爆発だ!」で一世を風靡したアーティストが『岡本太郎』。
独特の風貌と語り口で摩訶不思議な世界へ誘う、その芸術に触れたのは1970年大阪万博の「太陽の塔」であったのは、私だけではないでしょう。
当時、中学の修学旅行のスケジュールに組み込まれ、運よく万博見学ができた私にとって、実物の太陽の塔は、その異様さとともに大迫力を感じたものでした。
その後、仕事の関係で2度ほど岡本氏と実際にお会いできたことは、非常に貴重なな経験をさせていただいたものです。
そして大阪万博から45年たった今、改めて岡本氏の芸術や太陽の塔を見る機会が訪れたのです
漫画家の岡本一平と歌人であり小説家の岡本かの子の長男として、明治44年、母かの子の実家である現在の川崎市高津区で誕生しました。
幼いころは青山で暮らし、18歳の時に父の取材旅行に同行して渡欧し、その後もヨーロッパで制作活動を行います。しかし、1940年ドイツのフランス侵攻により日本に戻り、戦後は、日本を活動の拠点としたのです。
様々な制作活動を行う傍ら、1950年代からは積極的にTVなどのメディアに出演しました。
1970年の大阪万博が決定すると、テーマ展示プロデューサとなり≪太陽の塔≫の制作に至るのです。
その後、TVのバラエティなどにも出演し、「芸術は爆発だ!」「何だ、これは」などお茶の間の人気となります。また海外からの作品の評価が高く、1989年のフランス芸術文化勲章をはじめさまざまな賞を受賞しています。
1996年1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶應義塾大学病院にて死去しました。
当初は、生まれ故郷である川崎市に美術館を造り作品を収蔵する予定でした。しかし、開館予定地で反対運動が起こり、美術館建設の目処がつかなくなってしまいました。そこで、1996年に岡本太郎氏が亡くなるまでアトリエ兼住居として50年近く生活した空間を、1998年に記念館として開放することになり開館に至ったのです。
元々幼少の頃に住んでいた旧居でしたが、1945年東京大空襲により焼失しています。
敗戦後再建された建物は、友人でル・コルビュジェの弟子でもあった建築家・坂倉準三の設計により建てられたものです。
岡本の要望により、、積み上げたブロックの壁の上に凸レンズ形の屋根の乗った独自の形象をしており、壁には岡本の描く顔と「TARO」の赤いサインが入っています。
1970年(昭和45年)に行われた大阪万国博の太陽の塔の構想もここで練られた、まさに所縁の地なのです。
門を入ると左手の建物がカフェで、右手側が庭園になっています。
生前は、彫刻をこの庭で彫っていたそうで、現在は、「若い太陽」や梵鐘「歓喜」、「乙女像」といった造形物が、庭のあちらこちらに設置されており、実際に触れることもできます。
作品の説明は不要でしょう、というより説明など私にできるはずもないので、とにかく感性に委ねるしかないかと思う作品たちである。
出迎えているのか、それとも黄昏ているのか、バルコニーの“太陽の塔君”が可愛いい。
カフェの先がエントランス。
エントランスホールには、様々なグッズが購入できるショップがある。
基本的に撮影はOKという、とんでもなくうれしい配慮に来場者も爆発しそうである。
1階の部屋はサロンのような雰囲気で、所狭しと作品が展示されている。
岡本氏の人形に驚かされますが、ネクタイなども氏のデザインだそうです。
アートだけでなく、「ニワトリ型のティーセット」など、商品デザインも手掛けていたとは全く知りませんでした。
サロンの奥の部屋がアトリエ。
ここは生前のまま保存されていて、実際に使用された画材用具などが残されています。
数々の作品のほか、棚には未完成作品のキャンバスが収めれています。
太郎ファンには垂涎のアトリエでしょう。
2部屋ある2階は企画展示室となっている。
見学した時の企画展は『岡本太郎の樹』
これは岡本太郎が“樹”に大いなる共感をもっており、人が天と交流する回路であるとも考えていたそうです。
いきいきと躍動する不思議な生命体《樹人》、無数の眼玉がたわわに実る《眼の樹》、生と死が対峙し闘う《石と樹》などが展示されています。
渡り廊下の先が《太陽の塔》の展示室。
そして何よりも、単細胞からヒトまでが一本の樹に宿る《生命の樹》こそが、あの《太陽の塔》のモチーフとなっていて、これこそが原型となったものなのです。
様々な塔のオリジナルモデルやデッサンなど、まさに岡本太郎渾身の作品に目を奪われます。
1975年(昭和50年)、《太陽の塔》は永久保存が決定し、現在も大阪のシンボルとして愛されているのです。
昭和の良き時代を象徴する岡本太郎とその作品に深い感動を覚えました。
大沢家政婦紹介所は主に上流階級家庭に派遣されるので、ひょっとしたら派遣されたことがあるエリアかも知れません。
港区の沿革から言えば、芝区、麻布区、赤坂区が合併して港区となったことからオフィス街の芝、住宅街の麻布、商業の赤坂と大きく分類できるのですが、その中での“三田”は住宅街の麻布と、オフィス街の芝を併せ持った町です。
今回の散策は、その三田を中心として、芝・高輪エリアを含めた江戸元禄~幕末・明治にかけて主役となった町なのです。
先ずは最寄り駅であるJR田町駅からスタートです。
JR田町駅は山手線と京浜東北線だけが停車する駅で、東京駅方向から手前が浜松町駅で、先が品川駅です。
薩摩藩の場合、旧上屋敷であった“桜田屋敷”と、その後の上屋敷である“三田上屋敷”、“高輪中屋敷”があり、海に面して物資の搬出入に利用した“田町蔵屋敷”、そして篤姫が輿入れするまで一時期居住した“渋谷下屋敷”がありました。更に“白金”と“大井”に抱屋敷があり、全部で7つの藩邸をもっていた大藩だったのです。
しかしながら幕末時の三田上屋敷焼き討ち事件のため、この会見時には上屋敷が無かったことから、ここ蔵屋敷が利用されたのです。
ここで注目するのが鳥居の左にある大きな記念碑です。
三遊亭圓朝の作とも言われているのですが、3代目桂三木助の改作が有名で、三木助による名演以降、夫婦の愛情を暖かく描いた屈指の人情噺として知られるようになったそうで、この落語の舞台となったのがこのあたりなのです。
その河岸後跡と言われているのが現在の「港区立本芝公園」で、御穂鹿嶋神社の前に広がっています。
港区スポーツセンターの前を南に向うとJR田町駅の芝浦口となります。こちらは芝と比べれば町自体が新しいので、その分再開発も遅れたようです。
ここからは田町駅を渡って再び三田口に戻ります。
今度は三田口の真っ直ぐ先にある「慶応仲通り商店街」に向かいます。
様々なモニュメントが、かつての薩摩屋敷をイメージさせているのです。
この後は三田エリアに向かいます。
2014.03.06記(つづく)
20:50
2014年新年を迎えての、我が家恒例となった七福神巡りも迎えて6回目。
昨年がさいたま市の【与野七福神】、一昨年が豊島区の【雑司ヶ谷七福神】、2011年が北・荒川・台東3区にまたがる【谷中七福神】と震災後の福島県いわき市【いわき七福神】、2009年は、現在加須市となった【くりはし八福神】でした。
そこで今年は昨年が埼玉県だったので県外でと候補を絞ったところ、仕事では何度か訪れていながら、殆ど素通りだったコアな都会の七福神めぐりを選んでみたのです。
ここ港七福神も“七福神”といいながらも8ヶ所をめぐるのですが、そのプラスされた1ヶ所は8番目の福神ではなく、七福神が乗る宝物を積み込んだ帆船「宝船」という珍しい七福神なのです。
今回は時間の制限もあって夕方5:00までには自宅に戻らなければならないので、あまりゆったりと散策している時間はありません。
当然、どこから廻っても良いわけですから、ここは自宅から行き易いルートを考えて、AM9:00過ぎに自宅を出発し、JR王子駅で東京メトロ南北線に乗り換え、最初の目的地である“六本木一丁目駅”めざし、最初の七福神である「久国神社」に向かうのです。
到着したのはAM11:00頃です。
このアークヒルズ前の六本木通りを挟んだ北側にあるのが「久国神社」です。
今年は未だに初詣をしていませんでしたので、必然的に今年の初詣はこの日の最初の「久国神社」となるので、今年の運勢を占って「おみくじ」を引いて見ることにしました。
兎にも角にも初詣をしっかり済ませて、2つ目の神社に向かいます。
久国神社からは六本木通りを下るのですが、ここは一本裏道を進んで「東京ミッドタウン」の高層ビルがを目指します。
公園を抜けて「東京ミッドタウン」を通り抜けます。
三徳ということから鳥居も三柱並んでいるのでしょうかね。
社務所で朱印をいただき2ヶ所目も完了で、この次は「櫻田神社」に向います。
2014.01.08記(つづく)
02:42
東京都港区新橋3-14-4 飯泉ビル 2013年12月20日訪問
そもそもこの店舗は知るひとぞ知るとんかつの名店なのだそうです。
豚肉は山形の平田牧場から直送される「三元豚」を使用し、柔らかくジューシーなのが特徴で、米は新潟産コシヒカリ、パン粉は上質な食パンを店でほぐして使用しているというこだわりを持っているからなのです。
この店には数回ランチで訪れていますが、実はこちらの“とんかつ”は食べたことが無いのです。
年に1~2回の訪問時はすべて“カキフライ”なのです。
というのもこちらのカキフライは冬季限定(11月~2月)の三陸大船渡からの直送の蠣を使用した大粒カキフライなので、蠣のあるときだけ食べに訪れたということになるわけです。
実際に見ると驚くような大きさで、概ね10~15cm位の大きさはあるでしょう。
まあ、ちょっと気分を変えたランチも蠣好きなら堪能できるでしょう。
15:49
2011年も既に10月に入り1年のほぼ4分の3が終わった季節、毎年話題となるNHK大河ドラマも終盤を迎えようとしています。
今年の大河ドラマは第50作目という節目の作品で、上野樹里主演の「江 ~姫たちの戦国~」と題された、まさに戦国~江戸時代初期の物語です。
浅井長政と織田信長の妹・市の三女として生まれ、後に徳川家康の嫡男・秀忠の妻となった江。数奇な運命に翻ろうされながらも強く生き徳川の礎となった江と、2人の姉・淀、初の波乱に満ちた人生を描くというNHKらしいあらすじです。
織田、浅井などというラインアップは戦国時代の人気の王道を行くキャスティングですが、市の三姉妹の長女ではなく三女を描くところに、今回の面白さがあるのではないかと思うところですが、一般的にはどんなものなのでしょうか。
2011年1月9日に始まった第1回視聴率は21.7%だったそうです。昨年の「龍馬伝」の23.2%には及ばないものの、福山雅治主演という話題性を差し引けば、結構善戦している方ではないでしょうか、最終的にどうなるのかは判りませんが。
それにしてもこのNHK大河ドラマで、経済効果云々が言われ始めたのはいつの頃からだったのでしょうか。
大河ドラマとビジネスが結びついたのは、もともと関西のひらかたパークを始めとする、菊人形展でこの大河ドラマとのタイアップが最初の頃だったようです。その後、観光に多大なる結果を残したといわれているのが2002年の「利家とまつ」だったそうです。
しかしながら大河ドラマも視聴率で低迷しタイアップどころではなかった時期もあるようですから、昨今の中での歴代視聴率No.1であった1987年の「独眼竜政宗」あたりから、ドラマと観光といったタイアップ効果を視野に入れ始めたのではないかと推測されます。
そしてそうした流れを汲んで今回の「江」となるのですが、前半は織田・浅井といった中部・近畿地方が中心なのですが、やはり「江」として一躍表舞台に立つのは徳川家に入ってからのことなので、やはり主観光地は東京となるわけです。
東京でもその所縁の地の中心となるのは、何と言っても「江」の眠っている墓所のある「増上寺」ということになるでしょう。そこで当然ながらその「増上寺」を中心とした港区の芝周辺では、「江」とのタイアップによる様々なプロモーションやイベントが行われているに違いないのです。
そこで今回の東京迷宮案内は「江 ~姫たちの戦国~」ならぬ、「江 ~秘めた地の芝地区~」彷徨と題して港区芝周辺を散策します。
今回はスペシャルなので(何がスペシャルなのかよく判らないが…)秋のシルバーウィークの2011年9月18日と9月24日の2回の大河散策で、かなり気合入りまくりなのです。
【港区オフィシャルサイト】http://www.city.minato.tokyo.jp/
04:39
今回の彷徨はサラリーマンの聖地とも言われる新橋駅烏森口周辺です。
ヨッパライのオッサンが総出演する新橋駅前のSL広場はもう全国的にメジャーです。何せ朝夕の通勤時、驚くべきことに新橋駅には色が無いのです。つまり他の駅と比べて白そして、グレーか紺、または黒のモノトーンカラーのサラリーマンで溢れかえるからです。
勿論。OLもいないわけではないのですが、圧倒的な比率によってOLの着るカラフルな色彩は殆ど迷彩色と化してしまうのです。
そして、夕方から夜にかけてはサラリーマンのパラダイスとなります。
リーズナブルな料金で、他愛の無い馬鹿話や、不満・愚痴のオンパレード、でもそれがさも当たり前に見えるのが新橋の新橋たる所以です。
同じ新橋でも先に訪れた東新橋(汐留エリア)はセレブ地区、そして西新橋(烏森エリア)は庶民地区と、まさにアパルトヘイトのようなエリア対比となっているようです。
そんな魅力的(!?)な烏森エリア街を今回は彷徨います。
今回のスタートは前回同様の国道15号線、通称第一京浜道路上にあるゆりかもめ新橋駅です。
この国道15号線を先に進むと【新橋・汐留彷徨】でスタートした新橋交差点があります。
ゆりかもめは正式には東京臨海新交通臨海線というとっても覚えにくい名称で、1996年に開催される予定だった世界都市博覧会のアクセス線として当時注目を浴びたのですが、時の青島都知事の中止により40億円の赤字を出すといわれていたそうです。
しかし、開業後はお台場・有明・汐留シオサイト・フジテレビ・パレットタウンなど多彩な観光資源があることから最近の新線では数少ない黒字となっているようです。
その始発駅である新橋駅がこの橋上の駅なのです。
最近では、通常の日では東京ビッグサイトのイベント開催時には多少混むものの、平常時はそれほど混雑するわけではないのですが、夏休み期間中などは驚くほど混雑し、また普段見かけない人種で新橋駅が溢れている光景を見ることもでき、非常にアンバランスな面白い街に変貌しつつあるようです。
そんな時初めて新橋駅がカラフルになるのです。
ゆりかもめ新橋駅を頭上に見ながら、JR新橋方面に向かうと、ゆりかもめ新橋駅の左手方向に新橋第一ビルがあります。
ちょうど新橋駅汐留口のロータリーの先になります。
そしてこの新橋第一ビルの入口には大きな狸の像が置かれています。「開運狸」というようです。
『開運狸の由来
江戸時代の新橋は狐・狸・狼が出没するような所でけもの道が沢山ある人はよりつかなかった。
明治時代になり鉄道建設の為この近辺の開拓に当たったところ、狸の巣があり子狸が三匹も見つかり、作業員が餌を与え、三つの小屋を作ってあげたと云う。その場所が丁度このビルの所でした。子狸がどこかに行った後、残された狸小屋に人が集まって酒を飲んだりしたのでその辺りに飲食街が出来、これを「狸小路」と称する様になった。
「狸小路」は新橋駅前正面にあり、虎ノ門の官庁街に行く人の通り路であり、皆様からも愛される東京の道標となった。
古くから親しまれた「狸小路」はこのビルが建設されて無くなったが、懐かしい思い出を残そうとのことから今回この銅像を建立した。
「開運狸」と命名し新橋駅を見守りながら全国の方々の開運を祈念しております。
平成三年三月 』(現地案内板説明文より)
なかなか面白い由来です。
昭和38年の航空地図に寄れば確かに新橋第一ビルはなく、小さな建物が密集しているように見えますので、この辺りが飲食街だったのかもしれません。
ですが、現在でも新橋第一ビルの1階や地下には、客が5.6人入れば一杯になってしまうような飲み屋などがあり、今だ当時の「狸小路」を髣髴とさせているようです。。
新橋第一ビルから新橋駅に廻ります。
ちょうどゆりかもめ新橋駅入口の反対側の新橋駅の前には、機関車の車輪と石碑が残されています。
『D51機関車の動輪
D51形機関車は1936年(昭和11年)に誕生した機関車です。10年間で1,115両と、日本のSLでは一形式で最多の両数が製造され、戦前・戦後を通じて全国各地で、主に貨物用として活躍しました。「デゴイチ」などの愛称で親しまれ、蒸気機関車の代名詞にもなり、1975年(昭和50年)のSL最後の運転まで重用され、使命を全うしました。展示されている動輪は、1976年(昭和51年)の総武・横須賀線乗り入れ記念として、北海道の札幌鉄道管理局から譲り受け、鉄道発祥の地である新橋駅に設置したものです。
鉄道唱歌の碑
1957年(昭和32年)10月4日の鉄道開通85周年記念日に鉄道唱歌の作詞家、大和田健樹生誕100年を記念して新橋駅に建立されました。鉄道唱歌は、長い間私たちのために働いた鉄道を讃えるだけでなく、明治時代の文学者大和田建樹自身が実際に汽車に乗ってつぶさに日本国内を旅行した見聞録です。』(現地案内板説明文より)
さすがに鉄道発祥の地、新橋だけのことはある記念碑です。
ここから新橋駅を通り抜けていよいよサラリーマンのパラダイス烏森口へ向かいます。
さてこの新橋駅ですが、少々ややこしい歴史を持っています。
そもそも新橋駅はご存知の通り日本で始めて鉄道が開通した際の起点駅で、それは以前【「新橋・汐留」彷徨】での復元された新橋駅が始まりでした。
その後、復元された新橋駅は東海道線が神戸まで開通する際の東京の玄関口として扱われたのです。これは当時交通渋滞などの理由から上野から新橋までの鉄道が敷設できない理由からでした。
その当時の遺構が現在の新橋駅に残っています。
『明治42年烏森駅開業時「柱」の由来
明治5年(1872年)、新橋・横浜間に日本で最初の鉄道が開業いたしました。
当時の新橋駅は、現在の東新橋付近に設置され、「新橋停車場」として親しまれましたが、大正3年(1914年)、東京駅開業により42年間の幕を閉じました。
なお、それまで使用されてきた、同駅は「汐留駅」と改称し昭和61年に役割を終えました。
現在の駅は明治42年(1909年)12月、わが国初の高架駅(烏森駅)として誕生、同時に山手線電化工事が完成し、烏森、品川、新宿、池袋、田端、上野間で電車運転を開始いたしました。
そして、大正3年(1914年)12月、東京駅開業に合わせて新橋駅と改称し現在に至っています。
平成14年(2002年)3,4番線ホームエスカレーター新設に伴う解体工事のため、93年間ホーム階段を支えてきた「明治41年製造」の柱を取りはずし現在地にて保存することになりました。
平成14年7月 新橋駅長』(現地案内板説明文より)
なるほどこれで良く理解できます。
つまり、前述したように上野(東京駅経由)新橋間は、まだ鉄道が開通していなかったのですが、上野(新宿経由)新橋間(現在の山の手線の前身)としては開通していたため、こちらの路線の(新橋にある)駅が烏森駅で、現在の東海道線の起点となる(汐留にある)駅が新橋駅だったということです。
そしてその後、当時の私鉄、甲武鉄道が立川から御茶ノ水までの鉄路を敷いた後、鉄道は官営となり、御茶ノ水から万世橋駅、神田駅、東京駅、有楽町駅、そして烏森駅を貫く赤煉瓦高架橋構想の鉄道を敷設したのでした。
これにより上野(東京駅経由)新橋間がつながり、東海道線の起点が(汐留にあった)新橋駅から東京駅に変った為、東京駅からつながっている烏森駅を新橋駅に改め、(汐留にあった)新橋駅を汐留駅に改め、更にその汐留駅は東京駅からの東海道線のラインと外れたため、貨物駅となったのですね。
そして烏森駅を改名した新橋駅は当時、万世橋駅、東京駅と並んだターミナル駅なので、3駅とも辰野金伍の設計による赤煉瓦駅舎だったのです。
左から万世橋駅、東京駅、新橋駅ですが、まるで3兄弟のような駅舎です。
随分と立派な駅舎だったようですが、関東大震災、太平洋戦争を経て、万世橋駅は廃止され、新橋駅は新しく駅舎が改修され現在、万世橋駅は遺構があり、東京駅は現在も使用されていて、新橋駅だけが何も残っていない状況なのです。
そのような中での新橋駅の遺構ですから、柱1本といえども大変貴重な遺構と言わざるをえないでしょうね。
さて新橋駅の横断通路を抜けると烏森口です。
目の前には今や新橋のランドマークとも言えるニュー新橋ビルの、あみだくじ模様(勝手にそう呼んでいる)のビルが鎮座しています。
1階には洋服の青山などのショップがあり、5着5998円のワイシャツが販売されているところが実に新橋らしい所以です。
しかし、2階に上がると様相は変化し、昼日向から大丈夫か・・・、とも思えるような店舗がひしめいており、怪しげな中国語イントネーションの日本語と共に、まさにカオス状態のビルなのです。
何故、このようなカオスビルとなったのかは、その歴史を紐解くと多少理解できるようです。
『新橋は古くから烏森を中心に南地と呼ばれる一流花柳界でしたが、戦後は大衆文化が根づき、大衆娯楽ゾーンとしてサラリーマンを対象にした商業地区として繁栄してきています。西口駅前にニュー新橋ビルが建ったのは昭和46年のことです。
それ以前は、戦後のヤミ市からの飲食店が300以上ひしめき合い、現在のSL広場には場外馬券売り場があり賑わっていました。防災上の観点などから東京都が開発を行い、当時としては斬新なデザインでモダーンな11階建のニュー新橋ビルがオープンし、同時に商店会も誕生しました。
以来、今年でちょうど30周年目を迎えました。その間には、区分所有型ビルのため商店会としてまとまりづらいデメリットもありましたが、そんな苦難を乗り越え今日に至っています。まさに雑居ビルの典型がこのニュー新橋ビルです。新橋のランドマーク、新橋西口には無くてはならない存在となっています。 』(ニュー新橋ビル商店連合会サイトより)
ということで、もともとは戦後の新橋闇市のクリアランス対策だったために、その筋の(どんな筋!?)店舗が残り、紆余曲折の挙句に現在の店舗が成り立ったという、誠に身勝手な推測です。
面白いのは地下から4階までが店舗階なのですが、それぞれの階毎に商店会がつくられているのです。それぞれ地下商店会、1階商店会、2階商店会、3階三栄会、4階商店会といった具合です。
それにしても一目でニュー新橋ビルとわかるこのデザインは、まさに昭和の遺産と云えるでしょう。
本来ならこのニュー新橋ビルの左側の通りが烏森通りなのですが、ここはやはり一度新橋の更なるランドマークSL広場に向かいます。
線路沿いを北に向かうと新橋駅の日比谷口です。
今や一部コンクリートに塗られていますが、嘗てはすべてが煉瓦で覆われていたのです。いずれ御茶ノ水・新橋間の赤煉瓦高架橋もいつしか煉瓦でなくなってしまうのでしょうかね。
さてこの出口の先が、かの有名なインタビューの名所とも言われるSL広場です。
なぜSL広場なのかは、ご覧通りSLが設置されているからです(当たり前!?)。
このSLはC11 292号という蒸気機関車で昭和20年に製造されたもので、走行距離108万3975Kmで最初から最後まで一つの機関区にいた珍しいSLで、鉄道100年を記念して昭和47年設置されたものだそうです。
これも鉄道発祥の街故のことでしょう。
11:09
当時の江戸観光案内書である江戸名所図会では、「新橋・汐留橋」について以下のように書かれています。
『大通り筋、出雲町と芝口1丁目との間に係る。
正徳元年(1711) 朝鮮人来聘の前、宝永7年(1710)、この頃に、新たに御門を御造営ありて、芝口御門と唱え橋の名も芝口橋と更められしが、享保9年(1724)正月29日の火災に焼失する後は、また旧への町屋となされたり。
この川筋の東、木挽町7丁目と芝口新町の間に架せしを、汐留ばしといふ。』(江戸名所図会より)
「新橋」は当時の大通り筋の出雲町と芝口1丁目の間に架かっていた実際の橋で、この大通りとは、神田須田町から南に下り、今川橋・日本橋・中橋・京橋・新橋を経て金杉橋辺りまでの総称で町幅10間余りある通りと説明されています。すなわち現在の中央通りということになります。 そしてこの「新橋」に宝永7(1710)年、芝口御門を造営したことから、このあたりを「芝口御門」と呼ぶようになり、橋の名も「芝口橋」と改められた旨の記載がされているのですが、その前にあえて「正徳元(1711)朝鮮人来聘の前の…」と記述されていることから、当時朝鮮人の来日のためにこの御門が造営されたと考えられるのです。
この朝鮮人の来日というのは日韓交流の一環として、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮出兵)後、断絶していた当時の李氏朝鮮との国交を回復するために行われ、慶長12(1607)年の第1回から数えて、この時が8回目にあたる朝鮮使節の来日だったようなので、あくまで朝鮮人使節来日にあたっての警護のための御門ではないかと思われます。実際、この後の享保9(1724)年に火災で焼失しても再建されずに、昔の町並みに戻ったとあるので、やはり一時のための御門だったとうことで間違いないでしょう。そして、この川の東には汐留橋が架かっていたと記述されています。
先の出雲町は良く分かりませんが、芝口1丁目は現在の新橋、及び東新橋あたりで、木挽町7丁目は中央区銀座です。
そこで江戸名所図会の挿絵を見ると、中央付近にある橋が「新橋」で、その右側の橋が「汐留橋」と書かれています。
今回はこの新橋、汐留橋を中心として散策を始めます。
一体、江戸当時の新橋界隈がどのような街であったのか期待が膨らみます。
このブログは、個人の趣味で運営しているものです。
埼玉県上尾市在住で、埼玉県を中心に散策してみつけた歴史を楽しんでいます。
お時間のある方はごゆっくりお読みいただければ幸いです。お時間のない方は、・・・適当に掻い摘んでください^^
コメント等は大歓迎ですので、お気軽にお書き込みください。
お立ち寄りいただきありがとうございました。
制作・著作 : 薄荷脳70