「芸術は爆発だ!」で一世を風靡したアーティストが『岡本太郎』。
独特の風貌と語り口で摩訶不思議な世界へ誘う、その芸術に触れたのは1970年大阪万博の「太陽の塔」であったのは、私だけではないでしょう。
当時、中学の修学旅行のスケジュールに組み込まれ、運よく万博見学ができた私にとって、実物の太陽の塔は、その異様さとともに大迫力を感じたものでした。
その後、仕事の関係で2度ほど岡本氏と実際にお会いできたことは、非常に貴重なな経験をさせていただいたものです。
そして大阪万博から45年たった今、改めて岡本氏の芸術や太陽の塔を見る機会が訪れたのです

岡本太郎

漫画家の岡本一平と歌人であり小説家の岡本かの子の長男として、明治44年、母かの子の実家である現在の川崎市高津区で誕生しました。

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幼いころは青山で暮らし、18歳の時に父の取材旅行に同行して渡欧し、その後もヨーロッパで制作活動を行います。しかし、1940年ドイツのフランス侵攻により日本に戻り、戦後は、日本を活動の拠点としたのです。
様々な制作活動を行う傍ら、1950年代からは積極的にTVなどのメディアに出演しました。

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1970年の大阪万博が決定すると、テーマ展示プロデューサとなり≪太陽の塔≫の制作に至るのです。
その後、TVのバラエティなどにも出演し、「芸術は爆発だ!」「何だ、これは」などお茶の間の人気となります。また海外からの作品の評価が高く、1989年のフランス芸術文化勲章をはじめさまざまな賞を受賞しています。
1996年1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶應義塾大学病院にて死去しました。

岡本太郎記念館

当初は、生まれ故郷である川崎市に美術館を造り作品を収蔵する予定でした。しかし、開館予定地で反対運動が起こり、美術館建設の目処がつかなくなってしまいました。そこで、1996年に岡本太郎氏が亡くなるまでアトリエ兼住居として50年近く生活した空間を、1998年に記念館として開放することになり開館に至ったのです。

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元々幼少の頃に住んでいた旧居でしたが、1945年東京大空襲により焼失しています。
敗戦後再建された建物は、友人でル・コルビュジェの弟子でもあった建築家・坂倉準三の設計により建てられたものです。
岡本の要望により、、積み上げたブロックの壁の上に凸レンズ形の屋根の乗った独自の形象をしており、壁には岡本の描く顔と「TARO」の赤いサインが入っています。

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1970年(昭和45年)に行われた大阪万国博の太陽の塔の構想もここで練られた、まさに所縁の地なのです。

庭園:彫刻展示

門を入ると左手の建物がカフェで、右手側が庭園になっています。
生前は、彫刻をこの庭で彫っていたそうで、現在は、「若い太陽」や梵鐘「歓喜」、「乙女像」といった造形物が、庭のあちらこちらに設置されており、実際に触れることもできます。

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作品の説明は不要でしょう、というより説明など私にできるはずもないので、とにかく感性に委ねるしかないかと思う作品たちである。

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出迎えているのか、それとも黄昏ているのか、バルコニーの“太陽の塔君”が可愛いい。

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1階:常設展示・アトリエ

カフェの先がエントランス。
エントランスホールには、様々なグッズが購入できるショップがある。

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基本的に撮影はOKという、とんでもなくうれしい配慮に来場者も爆発しそうである。

1階の部屋はサロンのような雰囲気で、所狭しと作品が展示されている。

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岡本氏の人形に驚かされますが、ネクタイなども氏のデザインだそうです。

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アートだけでなく、「ニワトリ型のティーセット」など、商品デザインも手掛けていたとは全く知りませんでした。

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サロンの奥の部屋がアトリエ。
ここは生前のまま保存されていて、実際に使用された画材用具などが残されています。

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数々の作品のほか、棚には未完成作品のキャンバスが収めれています。
太郎ファンには垂涎のアトリエでしょう。

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2階:企画展示

2部屋ある2階は企画展示室となっている。

見学した時の企画展は『岡本太郎の樹』
これは岡本太郎が“樹”に大いなる共感をもっており、人が天と交流する回路であるとも考えていたそうです。
いきいきと躍動する不思議な生命体《樹人》、無数の眼玉がたわわに実る《眼の樹》、生と死が対峙し闘う《石と樹》などが展示されています。

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渡り廊下の先が《太陽の塔》の展示室。

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そして何よりも、単細胞からヒトまでが一本の樹に宿る《生命の樹》こそが、あの《太陽の塔》のモチーフとなっていて、これこそが原型となったものなのです。

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様々な塔のオリジナルモデルやデッサンなど、まさに岡本太郎渾身の作品に目を奪われます。

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1975年(昭和50年)、《太陽の塔》は永久保存が決定し、現在も大阪のシンボルとして愛されているのです。

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昭和の良き時代を象徴する岡本太郎とその作品に深い感動を覚えました。

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2015.10.06記
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大沢家政婦紹介所は主に上流階級家庭に派遣されるので、ひょっとしたら派遣されたことがあるエリアかも知れません。
港区の沿革から言えば、芝区、麻布区、赤坂区が合併して港区となったことからオフィス街の芝、住宅街の麻布、商業の赤坂と大きく分類できるのですが、その中での“三田”は住宅街の麻布と、オフィス街の芝を併せ持った町です。
今回の散策は、その三田を中心として、芝・高輪エリアを含めた江戸元禄~幕末・明治にかけて主役となった町なのです。
先ずは最寄り駅であるJR田町駅からスタートです。

芝さつまの道

JR田町駅は山手線と京浜東北線だけが停車する駅で、東京駅方向から手前が浜松町駅で、先が品川駅です。

JR田町駅三田口 JR田町駅芝浦口

三田口と芝浦口

品川方向(南)に向かって右側が“三田口(西口)”で左側が“芝浦口(東口)”となります。
田町と言う駅名は江戸時代には田畑が町屋に変ったことから“田町”と呼ばれ、明治初期には“芝田町”と呼ばれており新橋-品川間の開通に伴って田町駅が1909年に開業したのです。
ペデストリアンデッキ

汚いものを隠しているかのようなデッキ

ここはまず三田口に下りるのですが、駅の東西はペデストリアンデッキで結ばれているのは昨今の流行でしょう。
デッキを下りた先は国道15号線、通称・第一京浜です。

西郷・海舟会見の地

「三菱自動車工業」本社

レッズの親会社なので埼玉県とも。。。

第一京浜沿いを北東に少し歩くと右側にあるのが「三菱自動車工業」の本社です。
「江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地」碑 「江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地」碑

国道沿いに大きな丸い石碑は目立ちます

そしてこのビルの左端前にある丸い石碑が「江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地」碑です。
新政府軍の江戸城総攻撃は慶応4年3月15日と予定されていて、その直前、西郷隆盛と勝海舟の会談が2回にわたって行われたのです。
1度目の予備会談は3月13日高輪の薩摩藩邸で、2度目の会談は14日ここ田町薩摩藩蔵屋敷で行われたのです。

旅歴メモ -江戸藩邸- 江戸藩邸とは江戸城近辺に幕府が土地を与えて構えさせた大名屋敷のことで、各藩の大使館のような役割を担っていました。
大名とその家族が居住する屋敷が「上屋敷」と呼ばれ、郊外に別邸として設置された「下屋敷」と使い分けられました。下屋敷は庭園や物資を貯蔵する施設としての役割が大きく、江戸大火の際の避難場所、復興までの仮屋敷など藩によって様々に活用されたのです。
このほか、藩によって上屋敷の控として隠居した主や成人した跡継ぎの屋敷などの目的の「中屋敷」、年貢米や特産物を貯蔵する「蔵屋敷」をもっていました。
また、建造方法で分類すると江戸幕府から与えられた土地に建てられた屋敷が「拝領屋敷」で、大名が独自に購入した土地に建築した屋敷を「抱屋敷」と呼ぶ2種類があり、目的別にいえば基本的に「抱屋敷」は下屋敷となるのが一般的です。
このような江戸藩邸のシステムの中で、中屋敷を持たない藩や下屋敷をいくつも持つ藩など、藩によって様々な形態があったのです。

薩摩藩の場合、旧上屋敷であった“桜田屋敷”と、その後の上屋敷である“三田上屋敷”、“高輪中屋敷”があり、海に面して物資の搬出入に利用した“田町蔵屋敷”、そして篤姫が輿入れするまで一時期居住した“渋谷下屋敷”がありました。更に“白金”と“大井”に抱屋敷があり、全部で7つの藩邸をもっていた大藩だったのです。
しかしながら幕末時の三田上屋敷焼き討ち事件のため、この会見時には上屋敷が無かったことから、ここ蔵屋敷が利用されたのです。

会見時のレリーフ

会見時のレリーフ

碑には左が西郷隆盛で床の間を背にしたのが勝海舟という会見時の模様のレリーフが掲げられています。小説やドラマでは演出上勝と西郷の二人が面会したように描かれているのですが、実際には幕府側からは会計総裁・大久保一翁、山岡鉄舟、新政府側からは村田新八・桐野利秋らが同席していたと考えられているようです。
いずれにしても江戸城無血開城ということで合意された幕末における歴史的な会見だったのです。

「芝濱」雑魚場

三菱自動車工業本社脇の路地

三菱自動車工業本社脇の路地

会見之碑の横の路地を進むと突き当たりに小さな神社があります。
平成18(2006)年に建立された社殿

平成18(2006)年に建立された社殿

相殿となった2社の扁額

相殿となった2社の扁額

社号標には「御穂鹿嶋神社」と刻まれていて、もともと文明11(1479)年創建の御穂神社と、寛永年間(1624~44)創建の鹿嶋神社が相殿となった神社です。ただし、別の神社であっても本芝両社と呼ばれ、宮司は兼任で江戸時代に遡れば別当も兼任、祭礼も同日だったそうです。
平成17(2005)年に社殿の老朽化により、鹿嶋神社を御穂神社に合わせ祀り、翌18(2006)年に旧鹿嶋神社の社地に建立されたものです。

ここで注目するのが鳥居の左にある大きな記念碑です。

芝濱囃子碑

昭和53年芝濱囃子設立20周年を
記念して建立された碑

港区芝の“本芝町会”のよって建立された落語「芝濱」の記念碑で、題字は寄席文字の大家「橘右近」によるものです。

旅歴メモ -落語「芝濱」-

酒好きの怠け者である魚屋の勝五郎が、ある日芝浜の魚河岸で大金(42、50、82両と噺家によって変えられる!?)の入った財布を拾って豪遊する。
しかし朝起きると財布が無く、女房も「拾った財布は夢で、散財したのは現実」と言われた勝五郎は心を入れ替え、酒も絶って真面目に働き3年で表通りへ魚屋の店を構えるほどになった。
その年の大晦日、女房から拾った財布は本当のことで、亭主を改心させるために嘘をついたと告白されるが、勝五郎は女房を叱りつけるどころか、改心させてくれたことに感謝、感謝。
女房は勝五郎の労をねぎらって絶っていた酒を勧めるが勝五郎はこれをキッパリ断ります。
「よそう。また夢になるといけねぇ」

三遊亭圓朝の作とも言われているのですが、3代目桂三木助の改作が有名で、三木助による名演以降、夫婦の愛情を暖かく描いた屈指の人情噺として知られるようになったそうで、この落語の舞台となったのがこのあたりなのです。

本芝公園

JRがすぐ脇を走っている「本芝公園」

その河岸後跡と言われているのが現在の「港区立本芝公園」で、御穂鹿嶋神社の前に広がっています。
案内板の江戸時代の地図

案内板の江戸時代の地図

江戸名所図会の御穂・鹿嶋神社挿絵

江戸名所図会の
御穂・鹿嶋神社挿絵

案内板によれば、公園の位置は東海道の裏あたりの海に面した砂浜で、江戸時代には魚が水揚げされたため“雑魚場”と呼ばれていました。
昭和38年の雑魚場

昭和38年の雑魚場
(c)goo地図

昭和38年の雑魚場

右側が東京湾で雑魚場から運河で繋がっていた
(c)goo地図

明治5年に開通した鉄道は海上の堤防を走ったことから、雑魚場はガード下から東京湾に通じていたのです。昭和39年のオリンピックを契機として昭和43年に埋め立てられたのですから、比較的最近まで海岸の名残を残していたのでしょう。
貝殻のモニュメント

雑魚場の趣を残す公園にある貝殻のモニュメント

ガード下

現在は歩道と自転車道となったガード下

そのガードがここで、ここから先が海岸だったと言うことですので、ガードを潜ってかつての海に出てみます。
東京オリンピックの申し子

東京オリンピックの申し子とも言うべき東京モノレール

港区スポーツセンター

左側にあるのは「港区スポーツセンター」

まさに東京オリンピックのために埋め立てられた感のある風景で、かつての川跡は公園に変わっています。
このあたりの地番は“芝浦”で、まさに芝の海岸であったことを示しています。

放送記念碑

港区スポーツセンターの前を南に向うとJR田町駅の芝浦口となります。こちらは芝と比べれば町自体が新しいので、その分再開発も遅れたようです。

田町駅

田町駅東西を結ぶデッキ

芝浦口ロータリー モニュメント

芝浦口ロータリーと芝浦らしいモニュメント


放送記念碑

駅前にある「放送記念碑」

駅前の一画に塀をえぐったように「放送記念碑」が立っています。
ここは大正14年3月22日に日本初の放送電波が発せられたゆかりの場所なのです。所謂、現在のNHKの前身である東京放送局が、当時ここにあった東京高等工芸学校の図書室を仮放送所としてラジオの第一声を送り出した場所なのです。
そして放送開始30周年を記念してNHKにより建立されたのです。

旅歴メモ -日本初のラジオ放送-
1925年当時の番組表

1925年当時の番組表

日本初のラジオ放送は1925年3月22日9時30分、社団法人東京放送局の仮送信所から“京田武男”アナウンサーによって発せられました。
その第一声は、「アーアー、聞こえますか。(間)JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始致します」というもので、当時使われていたラジオは探り式鉱石受信機がほとんどだったため、第一声の「アーアー」は、この間に聴取者が鉱石の針先を一番感度の良い部分に調節できるようにするための配慮と言われているのです。
また、本来は3月1日放送開始の予定でしたが、当時日本に1台しかない送信機が大阪放送局に買い取られてしまったため、急遽別のを借りて行おうとしたのですが、逓信省の許可が下りなかったため“試験放送”の名義でまずは3月1日に放送を開始し、3月22日から仮放送(仮施設からの放送の意味)を行い、7月12日より現在の愛宕山からの本放送が開始されたのです。
したがって僅か4ヶ月ほどここから放送されたということになるのです。

東京工業大学附属科学技術高等学校

近代的な校舎になっていることに
隔世の感を拭えない

記念碑

記念碑

そしてかつて東京高等工芸学校であった地にあるのが「東京工業大学附属科学技術高等学校」で、実は私の母校でもあるのです。
案内板に寄れば「東京高等工芸学校」は大正10(1921)年に創設され、戦時下の昭和19(1944)年の東京工業専門学校と仮称されたのです。
しかし昭和20年5月の空襲により校舎・工場などが焼失し、戦後の同年10月に再建を断念し千葉県松戸市に移転、昭和24年の学制改革により新制大学の千葉大学工芸学部となったのです。

旅歴メモ -東京工業大学附属科学技術高等学校- 東京高等工芸学校移転後にいきなり東工大附属ができたかというと、じつに複雑な歴史を持っており、卒業生でもある私も良くわかっていませんでした。
東京工業大学附属科学技術高等学校の沿革 東京工業大学附属科学技術高等学校の沿革

東京工業大学附属科学技術高等学校の沿革

詳細はサイトの沿革を見ていただくとして、簡単に言ってしまえば、明治19年創立の東京商業学校(現在の一橋大学)附設商工徒弟講習所の職工科と、昭和18年に創立した東京高等工芸学校電気通信専修科、更に明治32年に創立された東京工業学校(現在の東京工業大学)附設工業教員養成所附属工業補習学校の3校が母体となっていて、昭和26年に前の2校が東京工業大学附属工業高等学校と東京工業大学附属工業高等学校専攻科を経て、昭和41年に東京工業大学工学部附属工業高等学校と改称され、平成17年、東京工業大学附属科学技術高等学校と改称されたのです。

実習棟

当時建設されたばかりの実習棟

40年以上も前に卒業したので現在とは大分変っているでしょうが、こちらの建物は当時実習棟として建てられたばかりの校舎でした。その分一般校舎は木造でしたが。。。
学校前の飲食店

40年前とイメージは変っていない
学校前の飲食店

wikiに記載されているとおり、私服校で昼食は周辺の店を利用していました。また共学でありながら現在は男子が8割とありますが、当時1学年約150人の内女性は3名でした。
当時と大きく変っているのは進学で、現在は東工大に推薦や進学する人がいるようですが、当時東工大に進学するものは皆無で、その点では偏差値(当時偏差値はなかったが)が相当上がっているといえそうです。
また、当時校歌を歌うのは禁止で、3年間ついに校歌を知らずに卒業したのですが現在はどうなっているのでしょうかね。
青春の一ページって奴ですね。

ここからは田町駅を渡って再び三田口に戻ります。

水野監物邸跡

今度は三田口の真っ直ぐ先にある「慶応仲通り商店街」に向かいます。

慶応仲通り商店街 慶応仲通り商店街

三田口前の慶応仲通り商店街入口

港区三田と言えばあの「慶應大学」というほど有名な大学で、私学では早稲田大学と並んで歴史・伝統・名声を誇り、全国的にも多くの方に知られています。

慶応仲通り商店街

まさに路地のような慶応仲通り商店街

「慶応仲通り商店街」はそのJR田町駅から慶應大学に繋がっている商店街なのです。私が高校に通っていた頃もありましたから、少なくとも50年以上は経過しているでしょう。
確かに商店街なのですが、どちらかと言えば現在は飲み屋街といった風情です。記憶では入口付近に「洗濯船」という喫茶店があって、かつては良く通っていたのですが、ありませんよね。

水野監物邸跡 水野監物邸跡

こんなところに史跡があるとは。。。

その路地を進んだ突き当りのT字路の右側に「水野監物邸跡」の案内板が設置されています。
このあたりは三河岡崎藩主・水野氏の中屋敷跡で、水野家は後に天保の改革をおこなった水野忠邦を輩出した名門の家柄で、水野監物忠之(1669~1731)は、第4代藩主です。
この屋敷は1703年1月30日の赤穂事件で討ち入った赤穂浪士の内9名が預かりとなった屋敷で、同年3月20日にこの屋敷にて切腹し泉岳寺に埋葬された忠臣蔵ゆかりの屋敷跡なのです。
実際の屋敷はここから50m北にあったそうですが、現在はこちらの灯籠だけが現存しているのだそうです。

旅歴メモ -赤穂事件始末記- 水野監物忠之は赤穂事件の始末を随分としているのです。
元禄14年の浅野長矩の刃傷沙汰の際には、赤穂藩の鉄砲洲屋敷に向い騒動の取り鎮めにあたり、翌年の赤穂浪士討ち入り後、幕府に出頭した後には、47士の内、間光興・奥田行高・矢頭教兼・村松高直・間瀬正辰・茅野常成・横川宗利・三村包常・神崎則休9名の預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷で預かったのです。
水野忠之は大石良雄を預かった肥後熊本藩主細川綱利に倣って、浪士たちを賞賛しよくもてなしたようです。当時四家に分散・収容された47士の扱いに対して、江戸の庶民は「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌を詠っています。これは細川家と水野家が浪士たちを厚遇し、毛利家と久松松平家が冷遇したことを表したものなのです。

路地の先が水野邸

この路地の先が水野邸

ちょうどこの路地の突き当たりが水野邸だったようです。
毛利甲斐守邸跡は、以前【温故知新、クールな都会の七福神めぐり】で訪れた現在の六本木ヒルズのあたりで、細川家と久松松平家はこの後訪れることになるのです。

芝さつまの道

夜に来たい仲通り

夜に来たい仲通り

日本電気(NEC)本社ビル

聳え立つ白亜の巨大ビル

このまま仲通り商店街を進みたいのですが、ここは再び北方向に進むと交差点の先に白い綺麗な建物が聳え立っています。
このビルは日本電気(NEC)本社ビルなのです。
建物名は“NECスーパータワー”と言うそうで、何かカッコよいですね。

NEC残存基礎 NEC残存基礎

日本電気の創立当初に建てられた建物の残存基礎

ビルの周囲は綺麗に整備された通路となっていて、その一画に煉瓦造りの基礎が残されています。
明治44年頃に建てられた建物は煉瓦造りの2階建てで、大正14年から始まった旧本社ビル建設で姿を消したものだそうです。
今の本社ビルをこの当時想像できたでしょうかね。
薩摩屋敷跡碑

NEC本社ビル北側の植え込みにある碑

ビルの敷地の北側の植え込みには「薩摩屋敷跡碑」が立っています。西郷吉之助書とあるのは隆盛の孫ですね。隆盛も通称、吉之介でしたが、“すけ”の字が違いますから。。。 
西郷南洲(隆盛)・勝海舟会見の地碑も吉之助によるものでした。

芝さつまの道

NECから北側の歩道

そしてこのNEC本社ビルから、1ブロック北にある三井住友信託ビル・セレスティンホテルあたりまでが薩摩上屋敷跡で、相当広い敷地であったようです。
芝さつまの道

“芝さつまの道”案内板

当時の薩摩上屋敷地図

当時の薩摩上屋敷地図

現在、三井住友信託ビル・セレスティンホテル前が薩摩屋敷跡を偲ぶ「芝さつまの道」として整備されています。

旅歴メモ -薩摩屋敷焼き討ち事件- この薩摩屋敷は慶應3(1867)年12月に焼き討ち事件の舞台となった場所です。
同年10月頃から西郷隆盛の指示により益満休之助、伊牟田尚平らが浪士を集め、江戸市中で乱暴狼藉を繰り返し、12月にはいってから挑発は益々エスカレートし、新徴組の詰め所に小銃が打ち込まれる事件も発生したのです。
この挑発に耐えられなかった庄内藩、新撰組および幕府側はこの三田の薩摩藩邸を囲み浪士の引渡しを迫り、その際の対応に現れた薩摩藩の留守居役・篠崎彦十郎を血祭りにあげたところから銃撃戦が始まり、103名が捕縛され、49人が戦闘で命を落としたのです。 この薩摩藩邸焼き討ち事件が大阪城に集結していた旧幕府軍・会津藩に伝わり一気に鳥羽伏見の戦い、つまり戊辰戦争の開戦となるのです。
薩摩、西郷の挑発が、結果的に幕府の瓦解、明治維新に繋がっていくエポックメイキングな薩摩屋敷焼き討ち事件なのです。
芝三田二本榎高輪邉繪圖】(絵図右中央付近に松平薩摩守上屋敷が描かれています。)

様々なモニュメントが、かつての薩摩屋敷をイメージさせているのです。

記憶のミュージアム

「記憶のミュージアム」
薩摩上屋敷の歴史表現としてのショーケース

「蔵跡」

「蔵跡」
蔵のあった場所を偲ぶ石のベンチ

記憶の井戸

「記憶の井戸」
堀や庭園に使用された石


薩摩屋敷跡碑 薩摩屋敷跡碑

薩摩藩の紋が目立つ四国町と薩摩屋敷跡碑

芝さつまの道のそばには「四国町と薩摩屋敷跡碑」が立っています。絵図に寄ればこのあたりが薩摩藩邸の北限のようで、かつてこのあたりに四国の大名屋敷(阿波徳島・土佐高知・讃岐高松・伊予松山の各藩邸)があったといわれていることから、明治期になって三田四国町となったそうですが、昭和39年の住居表示改正により芝2、3丁目となりました。

初代オランダ公使館跡

薩摩屋敷の隣の「西應寺」

薩摩屋敷の隣の「西應寺」(c)goo地図

最後はNEC本社ビルから東へ5分ほど歩いた「西應寺」を訪れます。先の絵図にも薩摩藩邸の東隣に大きな敷地を有しているのが見て取れます。

西應寺山門

非常に新しい山門

西應寺本堂

寺院の幼稚園というより、幼稚園の中の寺院

鎌倉幕府執権の北条高時の末娘“時姫”が出家し、この地に「田中庵」として草庵を結んだのが最初で、天正19(1591)年には家康より寺領10石が寄進され、境内地を含めて9,018坪という広大な寺領を有していた名刹なのです。それゆえに正式名称を「田中山相福院西應寺」というのです。
しかし、薩摩藩邸焼き討ち事件にはじまり、関東大震災、第二次大戦などにより堂宇は焼失し、再建された瀟洒な本堂と幼稚園の境内という現在に至っているのです。
最初のオランダ公使宿館跡

東京都指定旧跡「最初のオランダ公使宿館跡」

幼稚園建物

公使宿館のあった現在の幼稚園建物

名刹としての見所のほかに、山門脇に建てられている碑に注目です。
ここは最初のオランダ公使宿館跡で、当時の公使宿館は現在の幼稚園のあたりにあったそうです。

旅歴メモ -修好通商条約- ペリー来航をきっかけに開国した日本は、安政4(1858)年に大老に就任した井伊直弼が日米修好通商条約を締結し、同様の条約がイギリス、フランス、オランダ、ロシアともに安政五カ国条約として結ばれたのです。
安政五カ国条約

横浜税関資料展示室の「安政五カ国条約」

この修好通商条約は不平等条約として有名ですが、唯一この条約で麻薬の輸入禁止をうたったことから、現在でもおその恩恵を受けているのです。
そしてイギリス使節エルギン卿一行が西應寺に滞在し、安政5(1578)年に“日英修好通商条約”は結ばれた地でもあるのです。
更に安政6年に最初のオランダ公使宿館が設置され、初代公使クルチウスらが駐在したのです。
その後、慶應元(1865)年以降に長応寺でのオランダ公使館に冠する普請記録があることから、短い期間の公使館だったようですが、幕末の歴史の1ページとして外せない寺院です。

この後は三田エリアに向かいます。

2014.03.06記(つづく)


港七福神(その1)

2014年新年を迎えての、我が家恒例となった七福神巡りも迎えて6回目。 昨年がさいたま市の【与野七福神】、一昨年が豊島区の【雑司ヶ谷七福神】、2011年が北・荒川・台東3区にまたがる【谷中七福神】と震災後の福島県いわき市【いわき七福神】、2009年は、現在加須市となった【くりはし八福神】でした。
そこで今年は昨年が埼玉県だったので県外でと候補を絞ったところ、仕事では何度か訪れていながら、殆ど素通りだったコアな都会の七福神めぐりを選んでみたのです。

旅歴メモ -七福神- 七福神めぐりは、七つの福神を詣で、七つの災害(天変地異、火災、盗難など)を消除して、福徳をかなえてもらうものとして信仰されてきました。
基本的には恵比寿・大黒天・毘沙門天・弁才天(弁財天)・福禄寿・寿老人・布袋ですが、吉祥天・達磨・宇賀神(男弁天)・お多福などを加えて八福神とするところもあります。

ここ港七福神も“七福神”といいながらも8ヶ所をめぐるのですが、そのプラスされた1ヶ所は8番目の福神ではなく、七福神が乗る宝物を積み込んだ帆船「宝船」という珍しい七福神なのです。
今回は時間の制限もあって夕方5:00までには自宅に戻らなければならないので、あまりゆったりと散策している時間はありません。
当然、どこから廻っても良いわけですから、ここは自宅から行き易いルートを考えて、AM9:00過ぎに自宅を出発し、JR王子駅で東京メトロ南北線に乗り換え、最初の目的地である“六本木一丁目駅”めざし、最初の七福神である「久国神社」に向かうのです。
到着したのはAM11:00頃です。

久国神社(布袋尊)

アークヒルズ アークヒルズ

アーク森ビル

“六本木一丁目駅”を上がると目の前には「アークヒルズ」が聳えています。

旅歴メモ -アークヒルズ-
アークヒルズ開発前 アークヒルズ開発後

開発前と後の航空写真

「アークヒルズ」はオフィス、住宅、ホテル、コンサートホールなどからなる、民間による日本初の大規模再開発事業で、17年の歳月をかけて1986年に完成した、所謂、森ビルの開発・運営する複合施設のブランド名 “ヒルズ”の原点なのです。
地番が赤坂と六本木に跨ることから、AKASAKA(赤坂)の「A」、ROPPONGI(六本木)の「R」、そしてその二つをつなぐ意味のKNOTの「K」の頭文字をつなげて“ARK”に森ビルのブランド“HILLS”をつなげて、アークヒルズとなったのです。

このアークヒルズ前の六本木通りを挟んだ北側にあるのが「久国神社」です。

久国神社参道 古い蔵

久国神社参道と古い蔵

路地1本裏手に入ったところで若干わかりにくいのですが、まさに都会の中にひっそりと佇んでいるようです。
参道横には今にも崩れそうな古い蔵がありますが、入口付近が塗り替えられているので、現在でも現役なのでしょう。
一の鳥居

一の鳥居

鳥居周辺には七福神巡りの目標である赤い幟と提灯が正月らしい雰囲気を醸し出しています。

境内 社殿

久国神社社殿

まずは最初の“布袋尊”を祀っている久国神社を参拝します。比較的広い境内ですが、境内が長細いので社殿も若干窮屈そうです。
最近は結構カップルや若い女性のお参りも多いようですね。
海舟筆の扁額

勝海舟筆の扁額

社殿に掲げられている扁額は勝海舟の筆によるものだそうで、その由来は判りませんが、赤坂に居住していたことに関係するのでしょう。

旅歴メモ -久国神社- 勧請年月は不詳ですが、太田道灌の江戸城築城の際、1465(寛正6)年に溜池周辺の鎮守として千代田村紅葉(現在の皇居内)に遷座され、後に鎌倉時代の久国作の名刀が寄進されたことから「久国稲荷神社」と呼ぶようになったのだそうです。
その後、1741(寛保元)年にこの地に遷座され、1927(昭和2)年に久国神社に改称されたのです。

布袋尊

祀られている布袋尊

そしてその「布袋尊」は社殿に祀られています。小さいながらも結構重量感のありそうな尊像です。

旅歴メモ -布袋尊-
布袋尊

布袋尊
(c)七福神巡りウォーキング

布袋尊は、その名を契此(けいし)といい、七福神の中ではただ一人実在した中国の唐の時代の禅僧です。
額が広くてお腹は大きく、いつも杖と大きな布袋を持ち歩き、物を貰えばそれをこの袋に入れて貯え、因る人があると、その中から取り出して施し、しかもなくなることがなかったといわれています。そのため当時の人々には布袋和尚と呼ばれて親しまれていました。
福々とした容ぼうから、子宝に恵まれるとか、器の大きい人物になれるといわれています。

七福神ルート図

七福神巡り地図

お参りを終えて七福神巡り用の色紙をいただきます。
この七福人巡りでは朱印に300円掛りますので、8ヶ所で合計2400円となりますが、色紙代は無料とういうところが初春から縁起の良いところと考えるのは、庶民の貧乏臭いところでしょうか。

今年は未だに初詣をしていませんでしたので、必然的に今年の初詣はこの日の最初の「久国神社」となるので、今年の運勢を占って「おみくじ」を引いて見ることにしました。

限定おみくじ

この期間限定の七福神おみくじ「500円」

通常おみくじ

一般のおみくじ「10円」

丁度、社務所の前には、この期間だけの特別な七福神のおみくじがおいてあり縁起物として人気もあるのだそうです。
但し、その横には通常ひかれるおみくじ箱があるのですが、こちらは何と10円のおみくじだそうです。
そこで七福神のおみくじを聞いてみると500円で、中身のおみくじは変らないのだそうですが、まあ、これは正月のご祝儀みたいなものですから、やはりここは、、、「10円」のにしておきましょう。(未だに我が家にはアベノミクス効果が現れていないという言い訳。。。)
やはりここでも貧乏臭いところを、遺憾なく発揮してしまいました。

おみくじ

何と英語で記載された「おみくじ」

ひいてみてびっくりなのは、なんとこのおみくじは日本語と英語で書かれています。
“おみくじ”のことは「A Written Oracle」というのですね。
因みに直訳してみるとGooglでは「御神籤」、Yahhooは「書面にした予言者」、エキサイトでは「書面オラクル」と言う具合で、基本的には一般的な言語ではないようですね。
中吉(日本語バージョン) 中吉(英語バージョン)

中吉のおみくじ

で、結果は「中吉」で、英語では“Very Good”だそうです。
土地柄外国人の居住者や就業者が多いので、英語の翻訳がされているのだそうです。とすると大吉はなんと言うのでしょうかね。
全てを集めたくなりましたね、10円ですから^^

兎にも角にも初詣をしっかり済ませて、2つ目の神社に向かいます。

天祖神社(福禄寿)

久国神社からは六本木通りを下るのですが、ここは一本裏道を進んで「東京ミッドタウン」の高層ビルがを目指します。

檜町公園 檜町公園

檜町公園

その前には文字通り都会のオアシスともいえる「港区立檜町公園」を見ることができます。
流石にこの季節は寒々しいですが、春や秋のシーズンとなると実に樹木の緑と池の水が綺麗なコントラストを生み出すのでしょうね。

旅歴メモ -檜町公園-
江戸時代古地図

江戸時代古地図(c)goo地図

江戸時代、長州藩毛利家、松平大膳大夫の下屋敷があったところで庭園は「清水園」と呼ばれた名園の一つに数えられていたところだそうです。周りに檜の木が多かったことから毛利家の屋敷は「檜屋敷」と呼ばれ、後の“檜町”の地名の由来となり、公園の由来ともなったのです。
明治時代には国の管轄となり、大戦後毛利家の屋敷の大部分に防衛庁が設置され、残りの部分が檜町公園として整備され1963年に開園したのです。
因みに2009年にSMAPの草彅剛が、全裸で泥酔し公然わいせつ罪で逮捕された公園といえば知っている方も多いかもしれません。

公園を抜けて「東京ミッドタウン」を通り抜けます。

ミッドタウンタワー

ミッドタウンタワー

ここにはホテル「ザ・リッツカールトン東京」や「サントリー美術館」を始めとして、様々なお洒落なブランドショップ、そしてオフィスが集約されているのです。

旅歴メモ -東京ミッドタウン- 先の檜町公園と同じですが、江戸時代の毛利家下屋敷から明治になって歩兵第一連隊の駐屯地となります。
戦後の米軍接収時代

米軍接収時の昭和22年の航空写真
(c)goo地図

防衛庁時代

防衛庁移転後の昭和38年の航空写真
(c)goo地図

第二次世界大戦後、米軍に接収された後、1960年に霞ヶ関にあった防衛庁が当地に移転してきたのです。
その後、檜町公園が区立公園となり、 2000年に防衛庁が市谷に移転した後の2007年に東京ミッドタウンが完成し、同時に檜町公園も再整備されたのです。

ガレリア

ショッピングゾーン「ガレリア」

ここはミッドタウン内のガレリアを通って反対側に出ることにします。
ガレリア内の正月飾 ガレリア内の正月飾

ガレリア内の模様

ガレリア内も正月飾が華やかです。
ミッドタウン七福神スタンプラリー ミッドタウン七福神スタンプラリー

ミッドタウン七福神スタンプラリー

ミッドタウン内での七福神めぐりです。丹念に廻れば集められるのでしょうが時間がないので、通りがかりに見つけた2ヶ所だけです。
九頭絵馬と福笑い連凧

九頭絵馬と福笑い連凧

珍しい絵馬と連凧が飾られていますが、絵馬は九頭絵馬というそうで、江戸時代から「万事馬九行久」と書いて“ばんじうまくゆく”という語呂合わせで、九頭の馬が大願成就の縁起物とされたものだそうです。
ミッドタウンも実に華やいだ正月風情です。

外苑東通りとミッドタウンサイン ミッドタウンウェスト・イーストビル

「東京ミッドタウン」サインとミッドタウンウェスト・イーストビル

ガレリアを抜けると、通称「外苑東通り」と言ったほうがわかり易い都道319号線前に出ます。
「天祖神社」の幟

僅かに見える「天祖神社」の幟

通り沿いには“ミッドタウン”の標柱があり、通りを隔てたところに「天祖神社」への小路を見ることができます。

天祖神社参道

天祖神社参道

昭和の香りを残したようなレトロ感ある小路をしばらく進むと、右手にあるのが2つ目の「天祖神社」です。
天祖神社 テレビ朝日寄贈の社号標

テレビ朝日寄進の社号標

テレビ朝日から寄進された大きな社号票には「龍土神明宮 天祖神社」と刻まれています。
ここは住所である“港区六本木7-7-7”から「六本木ラッキーセブン」として、場所柄マスコミなどからも信仰されているのだそうです。

旅歴メモ -龍土神明宮- 約600年前の南北朝時代に現在のホテルオークラの南側付近に祀られたのが創建といわれ、この宮に品川沖から毎夜龍が灯明を献じたということより「龍灯山」と呼ばれたそうです。
徳川2代目秀忠の時代に現在の地に移転し、この一体を“龍灯”からとって「龍土村」と呼ぶようになり社名も「龍土神明宮」と称され、氏子の町も“龍土六本木”、“龍土材木町”と呼ばれて発展し始めたのだそうです。
以来、将軍家、諸大名より崇敬され、江戸三ヶ所の神明又は東都大神宮十八社の一つとして信仰を集めていたようです。

天祖神社境内 社殿

かなり狭い境内にある社殿

一の鳥居のところが境内ですが、都心の中の神社とあってかなり敷地も狭いのですが、かつてはかなりの広さを誇っていたのではないでしょうか。
ビルに囲まれ見下ろされる神社というのも、都会らしくてこれもまた一つの風情といえるかもしれません。
満福稲荷社

福禄寿が祀られている満福稲荷社

境内の一画に三柱の鳥居の連なった「満福稲荷社」がありますが、ここに祀られているのが“福禄寿”なのです。

旅歴メモ -福禄寿-
福禄寿

福禄寿
(c)七福神巡りウォーキング

福禄寿は人の一生の福(幸福)、禄(俸禄)、寿(長寿)の三徳を授けるといわれ、人の生きる道・事業・学業を導く神と信仰されていることから、飲食店や事業者からの信仰が厚いのです。
また、老翁の姿で杖と巻物を持ち、鶴に乗り、国境を越え、自由自在に世界を飛び廻り、道を教える「鶴上の仙人」ということから、海外旅行・留学の安全を守り神様としても信仰されているのです。

三徳ということから鳥居も三柱並んでいるのでしょうかね。
社務所で朱印をいただき2ヶ所目も完了で、この次は「櫻田神社」に向います。

2014.01.08記(つづく)


とんかつ 末吉

東京都港区新橋3-14-4 飯泉ビル 2013年12月20日訪問

店舗概要

そもそもこの店舗は知るひとぞ知るとんかつの名店なのだそうです。
豚肉は山形の平田牧場から直送される「三元豚」を使用し、柔らかくジューシーなのが特徴で、米は新潟産コシヒカリ、パン粉は上質な食パンを店でほぐして使用しているというこだわりを持っているからなのです。

とんかつ末吉 とんかつ末吉

店舗外観

新橋駅から歩いても5分とかからない繁華街の一画にあるビルの1、2階の店舗です。
キャッチコピー

謳い文句は箸でも切れる

「箸でも切れる」をアピールしているとんかつです。
とんかつ末吉

店内の様子

1階は厨房とカウンター席、そして4人掛けのテーブルが1卓ですが、2階もあるので結構入れるのではないでしょうか。

メニュー

カキフライ定食

季節限定のカキフライ

【カキフライ定食】1,000円

感想

この店には数回ランチで訪れていますが、実はこちらの“とんかつ”は食べたことが無いのです。
年に1~2回の訪問時はすべて“カキフライ”なのです。
というのもこちらのカキフライは冬季限定(11月~2月)の三陸大船渡からの直送の蠣を使用した大粒カキフライなので、蠣のあるときだけ食べに訪れたということになるわけです。

実際に見ると驚くような大きさで、概ね10~15cm位の大きさはあるでしょう。

カキフライ定食

大粒牡蠣

ジューシーというよりは、“ホックリ”といった感じで、蠣の旨味は広がるのを感じます。
ボリュームたっぷりで、季節感を楽しむにはまたとない逸品といえそうです。

メニュー

店内メニュー

本来の“とんかつ”のメニューはこちらです。
恐らく大変美味しいのでしょうが、値段的に一般的なサラリーマンが常にランチでという価格ではないので、CPで考えるとちょっと厳しいかもしれませんね。
まあ、仕事の打ち上げとか、自分へのご褒美とかでは良いかもしれませんね。
因みにとんかつをオーダーして、それにカキフライを付けるのもありだそうです。その場合のカキフライは1ヶ200円だそうです。
今度それにしてみようかしら。

まあ、ちょっと気分を変えたランチも蠣好きなら堪能できるでしょう。

2013.12.29記

 

はじめに

2011年も既に10月に入り1年のほぼ4分の3が終わった季節、毎年話題となるNHK大河ドラマも終盤を迎えようとしています。
今年の大河ドラマは第50作目という節目の作品で、上野樹里主演の「江 ~姫たちの戦国~」と題された、まさに戦国~江戸時代初期の物語です。

浅井長政と織田信長の妹・市の三女として生まれ、後に徳川家康の嫡男・秀忠の妻となった江。数奇な運命に翻ろうされながらも強く生き徳川の礎となった江と、2人の姉・淀、初の波乱に満ちた人生を描くというNHKらしいあらすじです。
織田、浅井などというラインアップは戦国時代の人気の王道を行くキャスティングですが、市の三姉妹の長女ではなく三女を描くところに、今回の面白さがあるのではないかと思うところですが、一般的にはどんなものなのでしょうか。
2011年1月9日に始まった第1回視聴率は21.7%だったそうです。昨年の「龍馬伝」の23.2%には及ばないものの、福山雅治主演という話題性を差し引けば、結構善戦している方ではないでしょうか、最終的にどうなるのかは判りませんが。

それにしてもこのNHK大河ドラマで、経済効果云々が言われ始めたのはいつの頃からだったのでしょうか。
大河ドラマとビジネスが結びついたのは、もともと関西のひらかたパークを始めとする、菊人形展でこの大河ドラマとのタイアップが最初の頃だったようです。その後、観光に多大なる結果を残したといわれているのが2002年の「利家とまつ」だったそうです。
しかしながら大河ドラマも視聴率で低迷しタイアップどころではなかった時期もあるようですから、昨今の中での歴代視聴率No.1であった1987年の「独眼竜政宗」あたりから、ドラマと観光といったタイアップ効果を視野に入れ始めたのではないかと推測されます。

そしてそうした流れを汲んで今回の「江」となるのですが、前半は織田・浅井といった中部・近畿地方が中心なのですが、やはり「江」として一躍表舞台に立つのは徳川家に入ってからのことなので、やはり主観光地は東京となるわけです。
東京でもその所縁の地の中心となるのは、何と言っても「江」の眠っている墓所のある「増上寺」ということになるでしょう。そこで当然ながらその「増上寺」を中心とした港区の芝周辺では、「江」とのタイアップによる様々なプロモーションやイベントが行われているに違いないのです。
そこで今回の東京迷宮案内は「江 ~姫たちの戦国~」ならぬ、「江 ~秘めた地の芝地区~」彷徨と題して港区芝周辺を散策します。

今回はスペシャルなので(何がスペシャルなのかよく判らないが…)秋のシルバーウィークの2011年9月18日と9月24日の2回の大河散策で、かなり気合入りまくりなのです。

港区港区オフィシャルサイト】http://www.city.minato.tokyo.jp/


新橋駅界隈

今回の彷徨はサラリーマンの聖地とも言われる新橋駅烏森口周辺です。
ヨッパライのオッサンが総出演する新橋駅前のSL広場はもう全国的にメジャーです。何せ朝夕の通勤時、驚くべきことに新橋駅には色が無いのです。つまり他の駅と比べて白そして、グレーか紺、または黒のモノトーンカラーのサラリーマンで溢れかえるからです。
勿論。OLもいないわけではないのですが、圧倒的な比率によってOLの着るカラフルな色彩は殆ど迷彩色と化してしまうのです。
そして、夕方から夜にかけてはサラリーマンのパラダイスとなります。
リーズナブルな料金で、他愛の無い馬鹿話や、不満・愚痴のオンパレード、でもそれがさも当たり前に見えるのが新橋の新橋たる所以です。 同じ新橋でも先に訪れた東新橋(汐留エリア)はセレブ地区、そして西新橋(烏森エリア)は庶民地区と、まさにアパルトヘイトのようなエリア対比となっているようです。
そんな魅力的(!?)な烏森エリア街を今回は彷徨います。

新橋駅汐留口周辺

今回のスタートは前回同様の国道15号線、通称第一京浜道路上にあるゆりかもめ新橋駅です。
ゆりかもめ新橋駅
この国道15号線を先に進むと【新橋・汐留彷徨】でスタートした新橋交差点があります。
ゆりかもめは正式には東京臨海新交通臨海線というとっても覚えにくい名称で、1996年に開催される予定だった世界都市博覧会のアクセス線として当時注目を浴びたのですが、時の青島都知事の中止により40億円の赤字を出すといわれていたそうです。 しかし、開業後はお台場・有明・汐留シオサイト・フジテレビ・パレットタウンなど多彩な観光資源があることから最近の新線では数少ない黒字となっているようです。
その始発駅である新橋駅がこの橋上の駅なのです。
最近では、通常の日では東京ビッグサイトのイベント開催時には多少混むものの、平常時はそれほど混雑するわけではないのですが、夏休み期間中などは驚くほど混雑し、また普段見かけない人種で新橋駅が溢れている光景を見ることもでき、非常にアンバランスな面白い街に変貌しつつあるようです。
そんな時初めて新橋駅がカラフルになるのです。

ゆりかもめ新橋駅を頭上に見ながら、JR新橋方面に向かうと、ゆりかもめ新橋駅の左手方向に新橋第一ビルがあります。
ゆりかもめ新橋駅 ニュー新橋ビル ちょうど新橋駅汐留口のロータリーの先になります。

狸像 そしてこの新橋第一ビルの入口には大きな狸の像が置かれています。「開運狸」というようです。

開運狸の由来
江戸時代の新橋は狐・狸・狼が出没するような所でけもの道が沢山ある人はよりつかなかった。
明治時代になり鉄道建設の為この近辺の開拓に当たったところ、狸の巣があり子狸が三匹も見つかり、作業員が餌を与え、三つの小屋を作ってあげたと云う。その場所が丁度このビルの所でした。子狸がどこかに行った後、残された狸小屋に人が集まって酒を飲んだりしたのでその辺りに飲食街が出来、これを「狸小路」と称する様になった。
「狸小路」は新橋駅前正面にあり、虎ノ門の官庁街に行く人の通り路であり、皆様からも愛される東京の道標となった。
古くから親しまれた「狸小路」はこのビルが建設されて無くなったが、懐かしい思い出を残そうとのことから今回この銅像を建立した。
「開運狸」と命名し新橋駅を見守りながら全国の方々の開運を祈念しております。
平成三年三月 』(現地案内板説明文より)

なかなか面白い由来です。
昭和38年の航空地図に寄れば確かに新橋第一ビルはなく、小さな建物が密集しているように見えますので、この辺りが飲食街だったのかもしれません。

地下街 ですが、現在でも新橋第一ビルの1階や地下には、客が5.6人入れば一杯になってしまうような飲み屋などがあり、今だ当時の「狸小路」を髣髴とさせているようです。。

JR新橋駅 新橋第一ビルから新橋駅に廻ります。

ちょうどゆりかもめ新橋駅入口の反対側の新橋駅の前には、機関車の車輪と石碑が残されています。
車輪碑

D51機関車の動輪
D51形機関車は1936年(昭和11年)に誕生した機関車です。10年間で1,115両と、日本のSLでは一形式で最多の両数が製造され、戦前・戦後を通じて全国各地で、主に貨物用として活躍しました。「デゴイチ」などの愛称で親しまれ、蒸気機関車の代名詞にもなり、1975年(昭和50年)のSL最後の運転まで重用され、使命を全うしました。展示されている動輪は、1976年(昭和51年)の総武・横須賀線乗り入れ記念として、北海道の札幌鉄道管理局から譲り受け、鉄道発祥の地である新橋駅に設置したものです。
鉄道唱歌の碑
1957年(昭和32年)10月4日の鉄道開通85周年記念日に鉄道唱歌の作詞家、大和田健樹生誕100年を記念して新橋駅に建立されました。鉄道唱歌は、長い間私たちのために働いた鉄道を讃えるだけでなく、明治時代の文学者大和田建樹自身が実際に汽車に乗ってつぶさに日本国内を旅行した見聞録です。』(現地案内板説明文より)

さすがに鉄道発祥の地、新橋だけのことはある記念碑です。
ここから新橋駅を通り抜けていよいよサラリーマンのパラダイス烏森口へ向かいます。

新橋駅烏森口周辺

さてこの新橋駅ですが、少々ややこしい歴史を持っています。
そもそも新橋駅はご存知の通り日本で始めて鉄道が開通した際の起点駅で、それは以前【「新橋・汐留」彷徨】での復元された新橋駅が始まりでした。
その後、復元された新橋駅は東海道線が神戸まで開通する際の東京の玄関口として扱われたのです。これは当時交通渋滞などの理由から上野から新橋までの鉄道が敷設できない理由からでした。
旧新橋駅遺構 その当時の遺構が現在の新橋駅に残っています。

明治42年烏森駅開業時「柱」の由来
明治5年(1872年)、新橋・横浜間に日本で最初の鉄道が開業いたしました。
当時の新橋駅は、現在の東新橋付近に設置され、「新橋停車場」として親しまれましたが、大正3年(1914年)、東京駅開業により42年間の幕を閉じました。
なお、それまで使用されてきた、同駅は「汐留駅」と改称し昭和61年に役割を終えました。
現在の駅は明治42年(1909年)12月、わが国初の高架駅(烏森駅)として誕生、同時に山手線電化工事が完成し、烏森、品川、新宿、池袋、田端、上野間で電車運転を開始いたしました。
そして、大正3年(1914年)12月、東京駅開業に合わせて新橋駅と改称し現在に至っています。
平成14年(2002年)3,4番線ホームエスカレーター新設に伴う解体工事のため、93年間ホーム階段を支えてきた「明治41年製造」の柱を取りはずし現在地にて保存することになりました。
平成14年7月 新橋駅長』(現地案内板説明文より)

なるほどこれで良く理解できます。
つまり、前述したように上野(東京駅経由)新橋間は、まだ鉄道が開通していなかったのですが、上野(新宿経由)新橋間(現在の山の手線の前身)としては開通していたため、こちらの路線の(新橋にある)駅が烏森駅で、現在の東海道線の起点となる(汐留にある)駅が新橋駅だったということです。
そしてその後、当時の私鉄、甲武鉄道が立川から御茶ノ水までの鉄路を敷いた後、鉄道は官営となり、御茶ノ水から万世橋駅、神田駅、東京駅、有楽町駅、そして烏森駅を貫く赤煉瓦高架橋構想の鉄道を敷設したのでした。
これにより上野(東京駅経由)新橋間がつながり、東海道線の起点が(汐留にあった)新橋駅から東京駅に変った為、東京駅からつながっている烏森駅を新橋駅に改め、(汐留にあった)新橋駅を汐留駅に改め、更にその汐留駅は東京駅からの東海道線のラインと外れたため、貨物駅となったのですね。
そして烏森駅を改名した新橋駅は当時、万世橋駅、東京駅と並んだターミナル駅なので、3駅とも辰野金伍の設計による赤煉瓦駅舎だったのです。
万世橋駅 東京駅 新橋駅(旧烏森駅) 左から万世橋駅、東京駅、新橋駅ですが、まるで3兄弟のような駅舎です。

随分と立派な駅舎だったようですが、関東大震災、太平洋戦争を経て、万世橋駅は廃止され、新橋駅は新しく駅舎が改修され現在、万世橋駅は遺構があり、東京駅は現在も使用されていて、新橋駅だけが何も残っていない状況なのです。
そのような中での新橋駅の遺構ですから、柱1本といえども大変貴重な遺構と言わざるをえないでしょうね。

さて新橋駅の横断通路を抜けると烏森口です。
ニュー新橋ビル 目の前には今や新橋のランドマークとも言えるニュー新橋ビルの、あみだくじ模様(勝手にそう呼んでいる)のビルが鎮座しています。

1階には洋服の青山などのショップがあり、5着5998円のワイシャツが販売されているところが実に新橋らしい所以です。
しかし、2階に上がると様相は変化し、昼日向から大丈夫か・・・、とも思えるような店舗がひしめいており、怪しげな中国語イントネーションの日本語と共に、まさにカオス状態のビルなのです。
何故、このようなカオスビルとなったのかは、その歴史を紐解くと多少理解できるようです。

『新橋は古くから烏森を中心に南地と呼ばれる一流花柳界でしたが、戦後は大衆文化が根づき、大衆娯楽ゾーンとしてサラリーマンを対象にした商業地区として繁栄してきています。西口駅前にニュー新橋ビルが建ったのは昭和46年のことです。
それ以前は、戦後のヤミ市からの飲食店が300以上ひしめき合い、現在のSL広場には場外馬券売り場があり賑わっていました。防災上の観点などから東京都が開発を行い、当時としては斬新なデザインでモダーンな11階建のニュー新橋ビルがオープンし、同時に商店会も誕生しました。
以来、今年でちょうど30周年目を迎えました。その間には、区分所有型ビルのため商店会としてまとまりづらいデメリットもありましたが、そんな苦難を乗り越え今日に至っています。まさに雑居ビルの典型がこのニュー新橋ビルです。新橋のランドマーク、新橋西口には無くてはならない存在となっています。 』(ニュー新橋ビル商店連合会サイトより)

ということで、もともとは戦後の新橋闇市のクリアランス対策だったために、その筋の(どんな筋!?)店舗が残り、紆余曲折の挙句に現在の店舗が成り立ったという、誠に身勝手な推測です。
面白いのは地下から4階までが店舗階なのですが、それぞれの階毎に商店会がつくられているのです。それぞれ地下商店会、1階商店会、2階商店会、3階三栄会、4階商店会といった具合です。
それにしても一目でニュー新橋ビルとわかるこのデザインは、まさに昭和の遺産と云えるでしょう。

本来ならこのニュー新橋ビルの左側の通りが烏森通りなのですが、ここはやはり一度新橋の更なるランドマークSL広場に向かいます。
新橋駅日比谷口 線路沿いを北に向かうと新橋駅の日比谷口です。

今や一部コンクリートに塗られていますが、嘗てはすべてが煉瓦で覆われていたのです。いずれ御茶ノ水・新橋間の赤煉瓦高架橋もいつしか煉瓦でなくなってしまうのでしょうかね。
SL広場さてこの出口の先が、かの有名なインタビューの名所とも言われるSL広場です。

なぜSL広場なのかは、ご覧通りSLが設置されているからです(当たり前!?)。
SLC11
このSLはC11 292号という蒸気機関車で昭和20年に製造されたもので、走行距離108万3975Kmで最初から最後まで一つの機関区にいた珍しいSLで、鉄道100年を記念して昭和47年設置されたものだそうです。
これも鉄道発祥の街故のことでしょう。


巻之一・天枢之部「新橋」

当時の江戸観光案内書である江戸名所図会では、「新橋・汐留橋」について以下のように書かれています。

『大通り筋、出雲町と芝口1丁目との間に係る。
正徳元年(1711) 朝鮮人来聘の前、宝永7年(1710)、この頃に、新たに御門を御造営ありて、芝口御門と唱え橋の名も芝口橋と更められしが、享保9年(1724)正月29日の火災に焼失する後は、また旧への町屋となされたり。
この川筋の東、木挽町7丁目と芝口新町の間に架せしを、汐留ばしといふ。』(江戸名所図会より)

「新橋」は当時の大通り筋の出雲町と芝口1丁目の間に架かっていた実際の橋で、この大通りとは、神田須田町から南に下り、今川橋・日本橋・中橋・京橋・新橋を経て金杉橋辺りまでの総称で町幅10間余りある通りと説明されています。すなわち現在の中央通りということになります。 そしてこの「新橋」に宝永7(1710)年、芝口御門を造営したことから、このあたりを「芝口御門」と呼ぶようになり、橋の名も「芝口橋」と改められた旨の記載がされているのですが、その前にあえて「正徳元(1711)朝鮮人来聘の前の…」と記述されていることから、当時朝鮮人の来日のためにこの御門が造営されたと考えられるのです。

この朝鮮人の来日というのは日韓交流の一環として、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮出兵)後、断絶していた当時の李氏朝鮮との国交を回復するために行われ、慶長12(1607)年の第1回から数えて、この時が8回目にあたる朝鮮使節の来日だったようなので、あくまで朝鮮人使節来日にあたっての警護のための御門ではないかと思われます。実際、この後の享保9(1724)年に火災で焼失しても再建されずに、昔の町並みに戻ったとあるので、やはり一時のための御門だったとうことで間違いないでしょう。そして、この川の東には汐留橋が架かっていたと記述されています。
先の出雲町は良く分かりませんが、芝口1丁目は現在の新橋、及び東新橋あたりで、木挽町7丁目は中央区銀座です。

そこで江戸名所図会の挿絵を見ると、中央付近にある橋が「新橋」で、その右側の橋が「汐留橋」と書かれています。江戸名所図会「新橋」
今回はこの新橋、汐留橋を中心として散策を始めます。

一体、江戸当時の新橋界隈がどのような街であったのか期待が膨らみます。