【熊谷うちわ祭り】は、ジャンルBで2,054票を獲得して第25位にランキングされました。

熊谷の夏を彩るうちわ祭りは、毎年7月20日から22日まで市街地で繰り広げられる。関東一の祇園とも呼ばれ、市内は三日三晩、祭囃子に明け暮れ、病気退散、五穀豊穣、商売繁盛などを祈る。
「うちわ祭り」は八坂神社例大祭の通称で、天保年間ごろ、商店が買い物客に振舞っていた赤飯の代わりに、うちわを配ったのが名の起こりという。
20日の神輿の渡御祭、21日の山車・屋台の巡行祭、そして22日夜のたたき合いでクライマックスを迎える。12基の山車・屋台が奏でる鉦と太鼓のお囃子は、熊谷っ子の心を震わせる。
(本書より)

熊谷市は、埼玉県北部にある人口約20万人の市で、江戸時代には中山道熊谷宿で栄えました。現在は国道17号をはじめとした4本の国道と、上越新幹線をはじめとした3本の鉄道路線のある交通の要所であると共に、埼玉県北部の一大拠点となっています。
全国的には、当時の観測史上日本最高気温の40.9℃が記録された「あついぞ!熊谷」のほうが知名度が高いかもしれません。

その熊谷で伝統のまつりである「熊谷うちわ祭り」が例年通り、7月19日~23日までの5日間行われました。
昨今は様々な事情から、祭りも例大祭に近い土日に執り行われる場合が多いのですが、この熊谷うちわ祭りは、かたくなに例大祭の日に固定していますので、平日に行われるケースが多くなるのです。
今年は、一番の見所であるクライマックスが3連休の終った翌日の7月22日となったため、その前日の7月21日の祝日に訪れました。
暑い熊谷の、熱い一日を楽しむことにします。

あついぞ!熊谷

自宅のある上尾駅から熊谷駅まではJR高崎線快速で僅か20分程度の距離です。
熊谷駅に降り立つと最初に出迎えてくれるのが、不思議な形をしたモニュメントです。

ラグビータウン熊谷の像

ラグビータウン熊谷の像

これはラグビータウン熊谷のモニュメントで、熊谷がラグビーが盛んな町であることのシンボルとして立てられたようです。
巨大なラグビーボールの上に、誇らしげなラガーマンが立っている迫力あるオブジェですが、実はニュージーランドのウィスキーのボトルのデザインなのだそうです。ニュージーランドと言えば「オールブラックス」で有名なラグビー大国ですから、うってつけのデザインとも言えるでしょうね。

旅歴メモ -ラグビータウン熊谷- 昭和26年に熊谷商工が県大会で優勝したのを皮切りとして、全国大会の常連高となりました。昭和42年の埼玉国体では河川敷がラグビー会場として使われました。この辺りまでに熊谷は、県下一のラグビーの都市となっていたのです。
そして平成2年度に全国高校ラグビー大会で熊谷工業が初優勝を果してから一躍全国区となり、平成3年には全国でも有数な県営熊谷ラグビー場が完成しました。
こうした歴史の中で、埼玉県のラグビーは熊谷を中心に発展したという自負を持って、ラグビータウン熊谷となったのです。

迫力あるモニュメントでしたが、駅前ロータリーの中央にもう一つ銅像があります。

熊谷次郎直実像

熊谷次郎直実像

これは熊谷次郎直実の像で、熊谷市の名称の由来となった武将であることから、郷土の生んだ歴史上の人物を誇りとして、このブロンズ像が建立されたのです。

旅歴メモ -熊谷次郎直実- 平安末期から鎌倉時代初期(1141-1207)、武蔵国熊谷郷(現・熊谷市)で活躍した武将で、源頼朝の御家人となり、数々の戦さで名を上げ鎌倉幕府成立に貢献します。
特に一ノ谷の戦いでは、平家の若武者、平敦盛を打ち取る快挙を成し遂げますが、戦や世の中の無常観を感じていたことが「平家物語」に描かれ、後に能や歌舞伎で演じられています。
気性が荒いため頼朝の命令に背いて領地を没収され、嫌気が差して出家してしまいます。
出家後は京都・東山で修行を重ね、各地に寺院を開基したのです。

駅前ロータリーからは、既に露店商が並び始め祭りの雰囲気が高まってきます。
実際には19日から祭りは始まっているので、簡単にスケジュールを確認しておきます。

7月19日「遷霊祭」:愛宕八坂神社で神輿に御霊を遷す儀式
7月20日「渡御発輿祭」「途上奉幣祭」「渡御着輿祭」「初叩き合い」:行宮(お仮屋)遷座の儀式と全町の山車・屋台の初叩き合い
7月21日「巡行祭」:全町の山車・屋台が国道17号を巡行
7月22日「行宮祭」「曳合せ叩き合い」「年番送り」「還御発輿祭」:最大のクライマックスの叩き合いと各儀式
7月23日「還御着輿祭」:お仮屋から担がれた御輿を本宮に返して、うちわ祭が終了

一番観客が集まるのが、20日と22日の叩き合いで、12台の山車・屋台が一箇所に揃うのはその2回だけですので、かなりの混雑振りになるようです。
と言うことで、この日の21日は巡行祭ということで、比較的混雑はしませんが、昼間(夜も各町会により行なわれる)で、まあ、祭りの雰囲気を知るには充分といえるでしょう。

この日はまだ梅雨明けもしていないので、それ程気温は上がらないとの予報でしたが、「あついぞ!熊谷」の刷り込みのせいでしょうか、何となく暑い気がするのは私だけではないと思います。
特にこの日の巡行祭はPM1:00から行われますので、AM11:00に着いてから更に暑くなることを考えると気も萎えてくる感じです。
それはともかく、先ずは祭りのメインスポットである「行宮(お仮屋)」に向かいます。

行宮(お仮屋)

冒頭にもあった通り、この「熊谷うちわ祭り」は八坂神社の例大祭であるので、本来なら八坂神社をメインとして行われるのですが、この祭りのメイン開場は「行宮(お仮屋)」と呼ばれるところとなります。

行宮とは、祭りの期間だけの臨時の別宮のことです。
歴史的には、道もないような山奥に本殿のある神社が多く、足腰の弱い人や時間の無い人のために里に設けられたものが行宮です。そして祭りでは、見物客が参拝しやすい判りやすいな所に建てられるようになりました。
このように、昔からコンビニエンスな参拝を目的として行宮(お仮屋)が設けられていたのです。
古くは熊谷でも愛宕八坂神社本宮で祭礼が行われたそうですが、江戸後期より「札の辻」にお仮屋を建てたのが始まりで、そこが現在の国道17号線上となったため、昭和36年から17号線に沿った所に移されたのですが、それも交通の支障のため昭和44年から現在地に移されたのです。

現在、国道17号線と平行して星川が流れて居るのですが、その川にそって整備されたのが「星川シンボルロード」で、各所に6つの広場があります。
東から西に向かって「星川広場」「緑の広場」「お祭広場」「太陽広場」「若者広場」「いこいの広場」があり、各広場にモニュメントが置かれています。

この内の文字通り「お祭り広場」が現在の行宮のある場所なので、先ずはお祭広場を目指します。

行宮

交差点に提灯飾りが眼を引く行宮

行宮

迫力の提灯飾り

交差点の左側に行宮が設置されています。遠くからでも眼に入る光景で、夜ともなれば提灯に明かりが灯るでしょうから、それはそれで美しい光景を目の当たりに出来るでしょう。

そして、この行宮で先ずはお参りをします。

行宮 神輿

行宮と神輿

奥の神輿に遷座されてここまで移動してきたわけです。
オフィシャルうちわ

熊谷うちわ祭りオフィシャルうちわ

お賽銭を上げて参拝した方だけにオフィシャルなうちわが授与されるそうで、青いうちわがオフィシャルです。それ以外は企業独自のうちわが各所で配布されています。

旅歴メモ -うちわ祭りの由来- 江戸時代には多くの祭りがそうであったように、厄除けには赤い色がいいという理由で、熊谷でも各家で赤飯を炊いて親戚に配ったり、商店では仕入れ客に振る舞っていました。
いつの間にかそれが祭り見物にも好まれるようになり、熊谷の赤飯が祭りの名物になったのです。
ある時、料亭「泉州」が、当時は必需品であった高級な「渋うちわ」を配ったところ、これが大評判となりました。
その後、各商店でも買い物客や取引商人に赤飯の代わりに「渋うちわ」を出すようになり「買物は熊谷のうちわ祭りの日」とまで言われるようになったのです。
なんと言っても、3銭の買物に5銭のうちわを配ったのですから、人気が出て当然のことだったようです。

「渋うちわ」とは、表面に柿渋を塗った丈夫で実用的なうちわのことです。

渋うちわ

行宮にある渋うちわ

行宮には、うちわ発祥の名残でしょうか「渋うちわ」が備えられています。なかなか素敵な演出ですね。

参拝も終ったので、移動してと思ったところ、先ほどのオフィシャルうちわの写真のバックに妙なものが写っているのを見つけました。
別の角度から写真を撮って見ます。

祇園柱 祇園柱 祇園柱

アンテナのような不可思議なもの


アンテナのようなモノに、白布が巻かれています。調べてみたらこれは「祇園柱」と言うものだそうです。

祇園柱とは神輿の所在を示して、神霊のよりつく対象物である「依り代」というもので、神木に注連縄がされているのと同じ意味です。
長さ8間(14m)のヒノキか杉丸太を使い、お仮屋に後ろに立ててその先端に幅4寸(12cm)、厚さ1寸(3cm)の貫を十文字に通して、白木綿5反で巻いて四方に垂らすのだそうです。
この祇園柱の白布は「熊谷白」とよばれ、祭が終わり取り除かれると、風呂敷に仕立てて商売繁盛や子孫繁栄を願う人たちに分けられるそうです。
そして、この祗園柱本体は、江戸時代から続く日本で3本しかない貴重な祇園柱なのです。

星川シンボルロードと星渓園

行宮の参拝を終えて、まだ時間もあることなので「星川シンボルロード」を上流に向かいます。

星川

星川の流れ

涼しげな星川の流れの両側には、露店商が準備をしています。

最初が「太陽の広場」です。

太陽の広場の彫刻「レダ」

太陽の広場の彫刻「レダ」
<桜井祐一>

広場にある彫刻は「レダ」というタイトルの彫刻です。ここでは各所でQRコードで説明を見られることを後で知りました。

若者広場の彫刻「新風」

若者広場の彫刻「新風」<富永直樹>

次の若者広場にあるのは「新風」という彫刻です。

風情のよい橋

風情のよい橋

所によっては涼しげな橋が掛けられています。

途中、シンボルロード脇を山車や屋台が曳かれていきます。そろそろ巡行祭の準備にかかっているのでしょう。

山車

お囃子


山車・屋台の曳き回し 山車・屋台の曳き回し 山車・屋台の曳き回し

山車・屋台の曳き回し


山車・屋台の曳き回し 山車・屋台の曳き回し 山車・屋台の曳き回し

山車・屋台の曳き回し


最後の広場は「いこいの広場」です。

戦災者慰霊之女神

いこいの広場は
戦災者慰霊之女神

この広場には慰霊碑が建立されています。1945年太平洋戦争終戦前夜の8月14日に熊谷市は空襲を受け、当時の市の三分の二が焦土と化し260余名の方がなくなりました。特にこの星川では火の手に逃げ場を失った人たちが飛び込み、100人ちかい方が焼死されたのです。
こういった痛ましい犠牲者の慰霊と平和を祈願して、あの長崎の原爆の碑を製作した北村西望が作成したものです。

この広場の先にあるのが「星渓園」です。

星渓園入口

星渓園入口

元和9(1623)年、荒川の氾濫によりできた「玉の池」から湧き出る清流が星川の源流です。ことのほか水が清らかなので、染物を洗ったり、水遊びが出来るほどだったそうです。
この「玉の池」に別邸を建てたのが、当時、熊谷の発展に寄与した竹井澹如翁で、慶應年間から明治初年にかけて造られました。

作りは玉の池を中心に樹木を植え、名石を配して庭園とした回遊式庭園です。

四阿のある玉の池

四阿のある玉の池

風情ある佇まい

風情ある佇まい

日陰になると少しひんやりとして癒される空間です。回遊式庭園はそれなりに美しいのですが、「玉の池」と称された池は結構濁っていて、やや興ざめです。

庭園風景 庭園風景 庭園風景

庭園風景


それでも往時はもっと水も綺麗でとても趣もあったのでしょう
明治17年には、時の皇后が立ち寄られ、大正10年には秩父宮が泊まられたのをはじめとして、多くの名士が訪れていたようです。
昭和25年に熊谷市が譲り受け、翌年、星溪園と名付けられ名勝に指定されたのです。

庭園風景 庭園風景 庭園風景

庭園風景


現在は規模的にも、環境的にもやや地味なのは否めませんが、歴史の1ページとしてみれば熊谷にとっても多いなる観光資産かもしれません。

2014.7.27記(つづく)

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はじめに

三連休の中日の3月21日(土)に、熊谷市妻沼にある100選地3ケ所めぐりは【妻沼聖天堂】を終わって2ケ所目となりました。
天気も良く妻沼聖天堂から利根川堤通りを通って「グライダー滑空場」を目指します。
この「日本一のグライダー滑空場」はジャンルBで2,338票を獲得し、23位にランクされました。
本書の説明です。

正式名称は、日本学生航空連盟妻沼グライダー滑空場。1963(昭和38)年利根川河川敷に整備され、グライダーの飛行が開始された。 全国58の大学が年間延べ1万8000人、2万7000回の滑空飛行を行っており学生グライダーのメッカとなっている。
毎年3月には学生グライダー選手権も開催され、同時にグライダーフェスティバルも行われる。フェスタでは、古今東西さまざまなグライダーの展示やアクロバット飛行、妻沼町出身の日本の女医第一号・荻野吟子にちなんだ「吟子なべ」が振舞われ、好評だ。

実のところ本来は3月7日(土)に行きたかったのです。
その日は年1回の”熊谷めぬまグライダーフェスタ2009”が開催されていたのでした。グライダーのデモ飛行や展示、様々なアトラクションなど行われていて、やはり男子たるもの多かれ少なかれ空に憧れるものです。しかもそれが余り見る機会のないグライダーならなおさらでしょう。ですが当日は余り天気も良くなく、更に私の体調も優れないとあって止む無く延期しました。
そして今日21日滑空場を訪れることにしたのですが、天気は良いけれど果たしてグライダーを見ることが出来るかどうかも不明です。一体全体どんなことになるのやら。

map熊谷市オフィシャルサイト】 http://www.city.kumagaya.lg.jp/


はじめに

妻沼町は2005年の合併により現在、熊谷市妻沼という住居表示となっています。
旧妻沼町としては、この埼玉100選に3つのカテゴリーでランキングされています。
町もそれ程大きいわけでもなく、この3ヶ所はかなり近い範囲にありますので今回は3ヶ所を一気に廻ることにしました。

その一つ目が「妻沼聖天堂」です。ジャンルAのカテゴリーで31位 4,887票を獲得しています。
本書の説明です。

日本三大聖天の一つとして知られる妻沼聖天山は、1179(治承3)年に武勇に優れ義理人情に厚い人柄がたたえられている斉藤別当実盛が当地の庄司として先祖伝来の本尊・聖天さまをまつったのが始まりとされる。実盛の次男実長が本坊の歓喜院を開創した。後に「御正躰錫杖」を本尊とした。
現在の本堂は、1760(宝暦10)年に完成したもので、壁面を飾る華麗な装飾は安土桃山時代の建築様式を伝える貴重な遺構として、本尊の錫杖とともに国の重要文化財に指定されている。

名前だけは聞いたことがあるのですが、実際どのようなところかは全く知りませんでした。
出かける前にサイトで調べてみればかなり歴史ある寺院で、結構見所も多くありそうです。

出かけるにあたって、今回は3ヶ所を廻ることと、結構熊谷駅からは離れているようなので、車で向かうことにしました。
いつものように埼玉県北部へ行くには国道17号線をひた走りです。
10:00少し前に自宅を出発し、国道17号線を行田バイパス、熊谷バイパスを経て、国道407号線で聖天堂に到着したのは11:00を少し過ぎたところでした。
3月21日(土)で三連休の中日なので結構混雑するかなと思ったのですが、意外や道はスムーズで、天気も良く暖かい日を1日ゆっくり楽しむことにしました。

map熊谷市オフィシャルサイト】 http://www.city.kumagaya.lg.jp/


はじめに

3月21日(土)に出かけた熊谷市妻沼巡りも、【妻沼聖天堂】【日本一のグライダー滑空場】を終わって最後の目的地「荻野吟子生誕の地史跡記念公園」へ向かうだけとなりました。
【荻野吟子】はジャンルDで10,936票を獲得して第2位にランクされています。
まずは、本書の説明です。

日本初の女医、荻野吟子は、1851(嘉永4)年俵瀬村(現在の妻沼町)に生まれる。18歳で熊谷の名家に嫁いだが婦人病のため離婚。
この病気で東京の順天堂病院へ入院、治療を受ける身になり、このとき女医の必要性を痛感したのが女医を志すきっかけであったといわれる。
1879(明治12)年東京女子師範学校を抜群の成績で卒業、さらに私立好寿院医学校で学んだ。
当時閉ざされていた女医への道を内務省に働きかけ試験をパスし、1885(明治18)年政府公許の女医第一号となる。
東京・本郷に産婦人科医院を開設するが、後にキリスト教に入信し、女性解放の先駆者として活躍、再婚して北海道に渡り瀬棚町で開業。1913(大正2)年63歳の生涯を閉じた。不屈の根性と愛を貫いた生き方は、渡辺淳一の小説「花埋み」や、三田佳子主演の舞台「命燃えて」などでおなじみ。

グライダー滑空場からは比較的目と鼻の先くらいの近さです。
菜の花満開の利根川堤通りを行くと、右側に「荻野吟子生誕の地」という案内板がありました。
それはそうと、「日本初の女医、荻野吟子」といわれてその存在を初めて知りました。
無免許(というより、特に免許の無い時代)の西洋医学を学んだ女医1号がシーボルトの娘、楠本イネというのは本で読んだ気がするのですが、正式な女医としての第1号が埼玉県民とはちょっと誇れる話かもしれません。また、本書の説明で、小説や舞台化もされているようですので、自然興味も高まります。

map熊谷市オフィシャルサイト】 http://www.city.kumagaya.lg.jp/