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「秩父音頭まつり」は得票数2,392票を獲得し、ジャンルBで第22位にランキングされました。

「秩父音頭」の踊りの型には、秩父地方が盛んだった養蚕の所作が盛り込まれているという。1930(昭和5)年、「秩父音頭」を明治神宮へ奉納することになり、同町の俳人・金子伊昔紅(故人)らが、歌詞や踊り方を広く募集して、現在の正調「秩父音頭」を編み出したと伝えられている。
8月14日の「秩父音頭祭り」は、「秩父音頭流し踊りコンクール」がメーン。毎年、県内外から大勢の参加者があり、唄とお囃子にあわせて、身ぶり手ぶりの鮮やかな「秩父音頭」を披露する。(本書より)

今年は異常気象とまで言われるような猛暑日が続いている中、今年も祭りが開催されます。
暑かろうが、寒かろうが、1年に1回の祭りは当たり前ながらその日を逃がせば1年間待たなければならないのですから、年に一度のチャンスしかないのです。この「秩父音頭まつり」も既に2年ほどチャンスを逃がした祭りです。
秩父へはもう何度も行っていますが、最後に訪れたのは昨年2012年5月の【塚越の花祭り】ですから、1年以上訪れていないことになります。
久しぶりの秩父路を存分に楽しみたいものです。

皆野のジオサイトと歴史

「秩父音頭まつり」が行われるのは、荒川沿いに位置する秩父郡皆野町で、観光で有名な秩父市と秩父郡長瀞町に挟まれた町で、両側の賑わいと比べれば比較的地味な町といえそうです。
今回も関越道から皆野寄居有料道路を使っての秩父入りで、祭りは夜からですが折角の機会、昼頃からの散策としたのです。

皆野椋神社

最初に訪れたのは「皆野椋神社」です。
秩父には椋神社は5社あり、以前訪れた秩父市吉田の椋神社は龍勢祭りで有名ですね。また5社の内この皆野には、こちらの“皆野”と“野巻”2社あるのです。
かなり立派な朱の鳥居を抜けると今度は趣のある木造の第二の鳥居を括ります。
皆野椋神社一の鳥居 皆野椋神社二の鳥居
正面に鎮座しているのが社殿で、セミの鳴き声しか聞こえない、ある意味静寂感のある佇まいです。
皆野椋神社社殿 皆野椋神社本殿
この神社は延喜式により設置された式内社なので、少なくとも927(延長5)年には創建されていた由緒ある神社です。
その由緒正しき証明が、こちらの“獅子舞”と“神楽”はそれぞれ県と町の無形民俗文化財で、資料としては元禄12年の記述がある獅子舞だそうで、一画には「獅子舞之碑」が建立されていました。
獅子舞の碑
そしてこの神社の特筆すべきは境内にある境内社の多さで、皆野の町中の神社が遷座されたのではないかと思われるほどです。
境内社 皆野椋神社境内社 皆野椋神社境内社
それだけ皆野町にとっては重要な鎮守だと言えるのでしょう。
まずは今日一日の充足感を祈念して参拝を済ませました。

前原の不整合

皆野椋神社からは県道44号線を北上します。
44号線と県道37号線の“大淵”交差点あたりに秩父らしい見所「ジオパーク秩父」があります。
この「ジオパーク秩父」とは地域固有の地質や地理、生態系、歴史、文化などの資源を活かし整備した公園なのです。 そしてその資源一つ一つを「ジオサイト」と呼んでいるのです。
特に国や県が指定しているものではなく、秩父市郡が後援し、早稲田大学大学院生が2010年から2年間かけて選定したもので、現在は34ヶ所あるそうです。
そのうち皆野町単独では4ヶ所選定されていて、ここはそのうちの1ヶ所です。
今回はこのジオサイトを中心に散策して見ることにします。

「前原の不整合」と言われても、まあ、何がなんだかと言うことになりますので、ここは案内板よりの説明です。
ポイントは“不整合”で、これは年代の大きく異なる地層が重なっていることを意味する地質学での用語で、この地層の境界面を不整合面というのだそうです。
どのくらい年代が違うのかと言えば、約1億5000万年前の地層と約1500万年前の地層が重なっているのです。どちらも古いだけ、と言えばそれまでですが、この不整合は不整合面が明瞭で立体的に観察できることから学術的にも、地質学の学習にも適した貴重な不整合なのだそうです。
ではどうしてこのような不整合ができたのかと言えば、要するに海底に沈んだ約1億5000万年前の地層が、地殻変動で隆起して地上に現れ、陸上で風化侵食された後に再び沈み、その上に約1500万年前の地層が積もったからなのです。
まあ、出る杭は打たれる、、、ちょっと違いますか。
まずは道路から急な階段を河原の方に下りていきます。
前原の不整合
このように下ってくるとその先には荒川と橋梁を見ることができます。
前原の不整合 荒川
それではその不整合を見ていただきましょう。
前原の不整合
って、やはり素人には何がなんだか・・・、と案内板を見てきた私でも良くわからないと言う。。。
案内板の写真と並べると何となくわかりかけてきます。
前原の不整合 前原の不整合
そう言われて見れば、と言うことで、今回は“不整合”を知っただけでも収穫といえるでしょう。
秩父のジオサイト、侮るわけでは無いですが、難しい;;

国神の大イチョウ

県道37号線をさらに北上すると“国神”の交差点となります。
この交差点から少し奥に入ったところにあるのが「国神の大イチョウ」ですが、まずは「長言寺」に立ち寄ります。
長言寺 長言寺
長言寺自体は極普通の寺院なのですが、境内にある観音像が人気を博しているのです。
名付けて「ぽっくり観音」です。
ぽっくり観音
“長患いして人様のお世話になることなく、ぽっくり大往生すること疑いなし”というご利益があるそうです。
私の祖母、そして義父が数年間の長患いで、祖父と父がぽっくりという2対2のイーブンですので、ここは一つ“ぽっくり”組へと御札をいただきました。
ぽっくり観音
これでご利益はバッチリでしょう・・・、かねえ!?

この長言寺の山門を背にすると、右側と左側に大きなイチョウの木を見ることができます。
大イチョウ 大イチョウ
左側が「国神の大イチョウ」といわれるもので、まずはそちらに行って見ましょう。
遠目からはそれほど大きくは感じませんでしたが、近づくにつれてその大きさを認識してきました。
国神の大イチョウ 国神の大イチョウ
「国神の大イチョウ」は、樹齢700年を超えると言われ高さ22.7mの巨木で、県内の巨木では第9位、イチョウにかぎれば第4位だそうで、天然記念物に指定されています。
かつてここには幾つかの古墳があり、秩父の国造りの神である“知々父彦命の墓”の脇に植えられたという言い伝えがあるそうです。
国神の大イチョウ 国神の大イチョウ
現在でも知々父彦命を祀っているのでしょうか、社が幹の根本に鎮座しています。

続いてはもう1本の大イチョウの巨木に行って見ます。
こちらはやや小振りながらも、やはりそれなりの大きさのイチョウです。
大イチョウ大イチョウ
こちらは“知々夫姫命の墓”の脇に植えられたイチョウだそうです。
こちらの根本にも“知々夫姫命”を祀っているのでしょうか、祠が鎮座しています。
大イチョウ
どちらも伝説ではあるのですが、この近辺の古墳から出土した土器や刀などが残されていることから、満更な話でも無いようです。
現在、古墳跡の名残もありませんが、このイチョウがその名残を未来永劫に伝えるかのように聳えているのは、まさに歴史ロマンといえるのかもしれません。

水潜寺

県道37号線に戻り、ここから再び県道44号線を走りますが、この県道44号線は「前原の不整合」のあたりから、この「国神」まで重複していて、国神の交差点を右折すると再び44号線となるのです。
途中、すれ違いもできないほどの細い道が出現しますが、快適な山道のドライブです。
道の右手には3棟連なった大きな民家があります。
民家 民家
建物と橋と綺麗な水が素朴でいながら華やかな佇まいを見せてくれます。
そしてその反対側の道の端に道標があります。
参道入口
右が“上日野澤城峯山日野澤瀧道”で、左が“水潜寺”とあり、ここは左手の参道を進んで行きます。

参道を進むと間もなく参道は二本に分かれます。
参道 参道
左は“日本百観音結願所”とあり、右は“秩父三十四番札所”とあります。
この札所は秩父三十四霊場、日本百観音霊場(西国・坂東・秩父)の結願寺として、巡礼者が打ち止めの札と笈摺という巡礼者が着物の上に羽織る袖の無い白衣を納める寺なのです。
この由来については江戸時代に出版された「観音霊験記」に記載されています。
観音霊験記
関東地方が大旱魃にみまわれた824(天長元)年に一人の旅の僧が訪れ、「まず観音を信ぜよ。我ここに西国をかたどり阿弥陀を置き、坂東をかたどり薬師を置き、この観音と合わせて百番の霊場として我が笈摺をここに納む」と里人に告げ、木札を立てると雨が降り出したことから、ここに日本百観音霊場としての水潜寺が建立されたのです。

参道では六地蔵が巡礼者に労いの言葉をかけているのでしょうか、お出迎えをしている様です。
六地蔵
そして参道の左手の石段を上がると本尊のある「観音堂」となります。
観音堂 観音堂
1828(文政11)年の建築だそうで、重厚さと華やかさを併せ持った本堂です。
流石に日本百観音霊場の結願寺だけあって、本尊は室町時代の作と伝えられる千手観音、西国をかたどる西方浄土の阿彌陀如来、そして坂東をかたどる薬師如来という、まさに結願寺に相応しい仏が祀られているのです。
さらに本堂の前には「百観音御砂」があり、ここで参拝すれば巡礼のご利益があるという、とってもコンビニエンスな百観音巡りがあるのです。
百観音御砂
早速参拝したのは言うまでもありません。

本堂の右手には崖の周辺に様々な碑や祠の立てられた一画があります。
水くぐりの岩屋
現在は立入禁止となっているのですが、ここは長生きのできる水を湧き出すという岩屋があり、札所巡礼を終えた人たちがここで再生儀礼の胎内くぐりをし、その長生きのできる水(長命水)をいただき、笈摺を納めて心身ともに清らかになって俗世の生活に戻るのだそうです。
このように水を湧き出す岩屋をくぐったことから、水くぐり→水潜→水潜寺という寺名の起こりとなったのです。
近くに寄れませんのではっきり写せませんが、この窪んだところが水くぐりの岩屋のようです。
かなり趣のある神聖な岩屋とでも言うのでしょうかね。

しかしながらこの場所は、由緒ある岩屋であるとともに、皆野町の2つ目のジオサイトで「水潜寺のメランジュ」というものだそうです。
早速“メランジュ”って何?、、、ということになるのですが、フランス語直訳では「混ぜる・混合・寄せ集めといった意味です。これが地質学的に言うと、「地質図に表せる程の広がりを持つ地質体であり、泥岩などの基質中に数、センチメートルから数キロメートルに達する様々な大きさ・種類の異地性・準原地性の岩塊が含まれているもの(wikiより)」という判ったような判らない説明となるのです。
要するに泥や岩などのベースの地質に、色々な大きさや種類の石や岩が含まれた地形が1:24000以下の小さなスケールで描ける地層のことを言っているようです。
で、ちょうど岩屋のあたりに露出しているのが石灰石のブロックだそうで、約1億5000年前の海溝でバラバラに造られたメランジュのなかのブロックなのだそうです。
水潜寺のメランジュ
説明されても、実際にこの目で見ても「へえ~」としか言葉はありませんが、まあ、ここでも「メランジュ」という言葉を知っただけで良しとしましょう。

本堂に戻りましょう。
地質学的にも興味深い水潜寺ですが、寺院としてもサンダーバードの秘密基地のように興味深い寺院なのです。
本堂の後ろにある碑は「金子兜太翁の句碑」で、この地での子ども達の姿を描いた微笑ましい句です。
金子兜太翁の句碑
本堂の隣が「護仏堂」で納経所となっています。
護仏堂
さらにその隣には「百観音結願堂」があり、ここにも百観音御砂が用意されているのです。
百観音結願堂 百観音結願堂 百観音御砂
そしてそのまた隣には「仏足堂」というお堂があります。
仏足堂
この堂は釈迦の足跡を信仰するための堂宇で、そもそもは釈迦の足跡を石に刻んで信仰としたものなのです。
そしてここでは“一石一字経”が奉納されているのです。
“一石一字経”とは広い意味での写経の一種で、ふつうの写経は紙に経文を書き写すものですが、この一石一字経は文字通り、石一個に一文字ずつ経文の文字を書き写していくものなのです。
以前、川口市の【金剛寺】を訪れた際に、この“一石一字経”が奉納された経塚を見ましたが、ここ水潜寺では、“一石一字経”が実際に体験できるのです。
やり方は左右にあるトランプの山のようなカードに書かれている漢字を、石に書いて中央の穴の開いたところに石を投げ込めばよいのです。
一石一字経
ただし写経しないでカードをめくったり、カードをもどしたりしないで、一字書いたらカードをめくっておくというのがルールです。
そして石を投げ込む際に石一個に付き100円以上の志納金を一緒に納めるのです。 という事で早速やって見ました。
経字は“空”ですので、石にそのように書き込みました。
一石一字経
そして石を投げ入れ、カードをめくっておいたのです。
一石一字経
何となく清清しい気持ちにさせられるのは私だけでしょうか。写経って言うと何となく重々しいのですが、一字だけなら実にコンビニエンスな写経なのですね。
帰りは“三十三観音”に見送られて、水潜寺を後にするのです。
三十三観音
実に興味の尽きない水潜寺で、何となくご利益たっぷり頂いたような気がしてきました。

2013.09.08記
(後編につづく)

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