2014年6月に登録された世界遺産《富岡製糸場と絹産業遺産群》は、長らく生産量が限定されていた生糸の大量生産を実現した“技術革新”と、世界と日本との間の“技術交流”をテーマとした近代の絹産業に関する遺産です。世界的に一部の特権階級のものであったシルクを世界中に広め、生活・文化の向上をもたらした偉大な功績だったようです。
その中でやはり《富岡製糸場》は見栄えも良く、その世界遺産としての十分価値があるのですが、絹産業遺産群があってこその製糸場とも云えるのです。
この絹産業遺産群には《荒船風穴》《高山社跡》《田島弥平旧宅》があり、その内の『田島弥平旧宅』の役割は【蚕種】に関する功績を産みだした場所なのです。

絹産業とは・・・

世界遺産《富岡製糸場と絹産業遺産群》を知るには、まず絹産業について知る必要があります。絹産業と云えば“織物を作る”という事に集約されるのですが、詳細に分類すると大きく3分野に分かれます。

その一つが『養蚕業』

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養蚕農家が蚕(カイコガの幼虫)を飼って繭を作らせる産業です。
1匹のカイコガは、約500粒の蚕の卵を産み、玉子からふ化した幼虫は約25日かけて4回脱皮を繰り返したのち成熟した幼虫(熟蚕)となり、2~3日かけて糸を吐いて繭をつくり、更に2~3日でサナギとなり、その後10日ほどで蛾になるのです。因みに明治期には自然条件のもとで春1回しか飼育できなかった蚕ですが、現在では、春蚕期、夏蚕期、初秋蚕期、晩秋蚕期、晩々秋蚕期、初冬蚕期と年6回以上の飼育も可能になったのです。

これに関連した産業として養蚕農家に蚕の卵(蚕種)を供給する『蚕種製造業』や桑畑を造成するための桑苗を供給する『桑苗業』があります。

二つ目が『製糸業』

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繭から生糸を作って販売する産業で、上繭(品質の良い繭)を購入して上質な生糸を作る《器械製糸業》は、明治から昭和初期まで主に輸出向けに製造されていました。
これは生産された繭を加熱乾燥させてサナギを殺し長期保存できる様にし、生糸の繰糸に向かない汚れた繭などを除きます。繭を煮て、繭糸をほぐれやすくし、数個の繭からほぐれた繭糸をよりあわし1本の生糸にして小枠に巻き取ります。繰糸した小枠の生糸を大枠に巻き返し、大枠から外した生糸の束を「綛(かせ)」と呼び、綛を約24本を束ねて包装し出荷するという手順なのです。

三つ目が『織物業』

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生糸は表面にセリシンというニカワ質の付いたままのゴワゴワした糸なので、柔らかく、光沢のある絹糸は、この表面のセリシンを取り去ることで作り上げられます。
これを「精練」と云い、精練を先に行ってから織り上げるか、織り上げてから精練を行うかで、織物の造り方が違うのです。

このように一概に織物と云っても分業であることが解ると思います。
そして世界遺産《富岡製糸場と絹産業遺産群》の富岡製糸場は文字通り『製糸業』で、絹産業遺産群は『養蚕業』になるのです。

養蚕の歴史

カイコを育てて繭を取ることを養蚕と云います。この養蚕は中国が始まりと云われ、今から5,000~6,000年も前のことですから、相当歴史のある産業なのです。しかし、当初は中国の宮廷内だけで秘密に行われていたのですが、紀元前1000年くらいになると、一般の農家にも養蚕をさせるようになったのですが、出来上がった絹は宮廷が全て取り上げていたのです。
紀元前200年位の漢の時代になるとヨーロッパとの貿易が始まり、絹は異民族を支配するための褒美として使われるようになったのです。こうして絹の魅力がヨーロッパに広まり、この交易ルートが“シルクロード”と呼ばれることになったのです。

この養蚕技術が日本に伝来したのが、紀元前200年頃に稲作と一緒に伝わった漢の時代で、195年に百済から蚕種が伝わり、283年には養蚕と絹織物の技術が伝わったのです。
これが全国的に広まったのが奈良時代で税として朝廷に納められ、平安時代にはファッションとして日本独自の紋様の絹織物が作られたのです。
鎌倉時代に質素な武士により衰退しますが、室町、安土・桃山時代になると中国から糸に撚りをかける撚糸技術が伝わり、西陣織や京・や丹後ちりめんが作られるようになったのです。

江戸時代になると武士以外の絹着用が禁止されますが、能装束や小袖などの高級織物は保護され中国から生糸が輸入されたのです。しかし輸入過多により支払いの銅の大半が無くなったため、幕府は生糸の輸入を減らすため養蚕を奨励したのです。更に各藩でも財政立て直しや下級武士救済のため西陣の技術を学び、金沢の友禅染め、山形の米沢織、茨城の結城紬、仙台の仙台平など特色ある織物を産みだしたのです。

江戸時代に国内で盛んになった絹産業が飛躍的に発展するのが明治時代で、それはペリーによる開国で安政6年から始まった貿易でした。
そのきっかけは、当時のフランスやイタリアにおいて“微粒子病”という蚕の病気が蔓延し、蚕種や生糸が不足したことから、蚕種や生糸が日本の最大の輸出品となったことが、日本の絹産業の飛躍の始まりになったのです。

【清涼育】は大ベストセラー

田島邦寧は文政5(1822)年8月15日、上野国島村(現・群馬県伊勢崎市)の田島弥兵衛の長男として生まれました。

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父・田島弥兵衛は田島武兵衛家の分家で、共に富裕な蚕種商人でしたが、若いときから学問に熱心で天保元(1830)年には、江戸時代の歴史家・頼山陽を訪ねており、現在、弥平宅の軒下には、頼山陽の揮毫に由来するという《遠山近水邨(村)舎》の銘板が掲げられています。

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蚕種製造業者による蚕種の形態は、蚕蛾に産卵させた卵をつけた紙“蚕種紙”で、養蚕農家はこの蚕種紙を購入し孵化させて蚕を飼育し繭を生産するのです。
このため蚕種製造業者というのは、「蚕種を販売して後は知りません」というビジネスではなく、蚕の品種改良を重ね、飼育が容易で高品質かつ大糸量を得られる繭を作る蚕品種を開発し、更に蚕の飼育法を指導し養蚕農家を支えることで蚕種業を拡大することができるのです。
従って蚕種製造業者には、多くの資本投下と知識集約が必要で、更に蚕種紙を販売した代金は、その蚕種が孵化し蚕を飼育し繭を生産した段階で支払われたそうなので、豊かな財力を持つ豪農などでしか成り立たないため、後に専業化したのです。

蚕種製造業者としての田島弥兵衛家の萱葺き蚕室は、天保7(1836)年に焼失し、子・弥平が15歳の頃に再建され、この頃から弥平も蚕種製造業に従事したようです。
蚕種製造のため田島弥兵衛が当初実践していたのは、自然のままの温度を重視する【自然育】でしたが、蚕室の再建後、奥州などで広く行われていた【温暖育】に切り替えました。これは、当時の養蚕は年1回しかできず、1回失敗すると1年が終ってしまうため“運の虫”とも云われ、年によって大きく収量の差があったのです。そこで失敗しないように上手に蚕を飼うために、蚕種製造業者は様々な研究・実践を重ねたのです。

この【温暖育】は、火気によって蚕室を暖める生育法ですが、上手くいかなかったため、弥平は、各地を渡り歩き生育法を研究したのです。
そして、当時当主となっていた弥平は、米沢の養蚕農家の【自然育】に着想を得て、ついに蚕を上手に育てる【清涼育】を確立し、安定した繭の生産に成功したのです。
この【清涼育】による養蚕技術をまとめたものが『養蚕新論』で、全国の養蚕農家に読まれる大ベストセラーになったのです。

現在の『田島弥平旧宅』には、多くの見学客が訪れるため付近に駐車場が作られています。
その一つが、2015年度で廃校になる《境島小学校》があり、その一角に駐車場と共に案内所があります。

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案内所には、田島弥平の様々な展示があり、映像での旧宅紹介が見られ、弥平の『養蚕新論』『続養蚕新論』が展示されています。
因みに『養蚕新論』左側のページに書かれている「満足」と云う文字は西郷隆盛が書いたものだそうです。

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そして『田島弥平旧宅』の前には、養蚕新論の版木が市指定文化財となった記念碑が建てられています。

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「もう1つの屋根」が画期的発明

養蚕新論の版木記念碑の先にある門が『田島弥平旧宅』の入り口で、ここから養蚕の歴史が生まれたのです。

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【清涼育】を確立するためには、考えているだけではなく多くの実験が行われました。
当時の田島弥平宅には、萱葺き蚕室が使用されていました。
これは屋根裏で行う養蚕の採光と通風を得るために、屋根正面の一部が切り落とされているという特色を持っています。特に群馬県の赤城山山麓に多く見られたので《赤城型民家》と呼ばれていたのです。

天保7(1836)年頃に再建された萱葺き蚕室も《赤城型民家》でしたが、安政3(1856)年に納屋を改造して二階建ての蚕室は瓦葺きで【温暖育】を行ったのですが、これが失敗した為、換気のための窓(ヤグラ)を屋根に据え付けたのです。
このヤグラにより、窓から入った空気が屋根裏に向かって流れ、屋根裏からヤグラを通って空気が流れる換気となり、蚕の飼われている台を常に乾燥させて病原菌がはびこらない様にして、蚕の病気を防ぐというシステムなのです。

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この建物が『香月楼』と呼ばれるもので、現在はその基壇の石組みだけが残っています。

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弥平はここで【清涼育】の実験を行い、ヤグラの有効性や2階蚕室の構造を会得した弥平は、文久3(1863)年に主屋の2階部分を蚕室として改良し、屋上棟頂部の端から端までヤグラが載る形にしたのです。
このヤグラを“総ヤグラ”といい、総ヤグラを採用したのは、この旧宅主屋が最初であったと云われています。

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そして、この2つの蚕室が完成した文久3(1863)年を弥平の【清涼育】が確立した年としているのです。

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その後、明治5(1872)年~8年の間に造られたと云われている『新蚕室』が建てられます。

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あまりに大きなヤグラのため3階建てに見えるくらいですが、この2階建て瓦葺き総ヤグラの蚕室は、瓦葺きでも十分蚕室となりえることから、後年、国史跡となる松ヶ岡開墾場蚕室(山形県鶴岡市)のモデルとなったほどだったのです。

現在は『香月楼』同様、基壇の石組みだけが残っています。

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この『新蚕室』は、主屋の2階で渡り廊下によってつながっており、現在、主屋にその渡り廊下の一部が残っています。

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そして『香月楼跡』の隣には『別荘』と呼ばれる2階立て一つヤグラの建物がのこっています。

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これは納屋の一部を切り取り『香月楼』の一部を切り取ったところに移築したもので、1階が弥平晩年の隠居所として使用されたようです。
2階は『香月楼』に繋がる蚕室で階段は無く、後に1階は納屋として使用されたそうです。

その『別荘』の隣には『桑葉』があり、これは明治27(1894)年に再建された建物です。

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桑葉の収納と加工を行った建物で、屋根には二つヤグラがついていますが養蚕は行われていません。
養蚕時には2階の床の開口から必要な大きさに刻んだ桑葉を落とし、ここから主屋、香月楼、新蚕室の3つの蚕室に供給していたのです。
因みに養蚕新論の版木記念碑の手前に『島村見本桑園』があり、当時の島村での桑畑を再現しています。

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この『桑葉』と『別荘』の間にある門が、本来の玄関口である『表門』で、最初に入った門は『東門』と呼ばれる門でした。

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明治末期の写真では、『香月楼』と『新蚕室』の間にあることが見てとれます。

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敷地内の建物、跡地の丁度真ん中に『井戸』があります。

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『井戸』自体は文久3(1863)年の家相図にも記載されており、上屋は大正3(1914)年に建築されたものだそうです。


一際高い石積みの上に築かれているのが、当時、利根川の洪水による汚濁水の混入に備えたものと云われ、養蚕と多くの従業員の生活を賄う重要な井戸だったのです。

更に敷地の中には『貞明皇后行啓記念碑』があります。

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昭和23年に大正天皇の皇后、貞明皇后が訪れた記念に建てられた碑です。
明治4(1871)年、明治天皇の皇后であった昭憲皇后が故事に則って宮中養蚕を復活させると、弥平の本家の田島武平が世話役となり、地域の女性を奉仕者として皇居で養蚕を行ったのです。
そして翌年から弥平が世話役となり、明治12年には焼失した蚕室に変わり、弥平の設計による青山御所養蚕室が建てられたのです。
そして大正12年には4代目弥平が宮中養蚕の指導に当たるという縁から行啓されたのです。

そして敷地内にある屋敷神を祀っているのも、その由緒と繁栄を表しているのです。

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また、屋敷の敷地外にある納屋も本来は田島家のものでしたが、屋敷外ということで遺産に指定されなかったため、現在は荒れてしまっているのです。

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日本を代表する蚕種の「島村式蚕室」

元々蚕種の地であった島村は、1800年頃には10数戸の農家が蚕種を生産したと云われています。
それは近くを流れる利根川の洪水により、肥えて水はけのよい土地が生まれ、害虫の発生を防いだことから蚕種生産の基盤を作ったのです。

この利根川に纏わる島村の様子が、案内所の前にある『島村沿革碑』に表されています。

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これは明治30(1897)年に東京大学の三島毅教授も頼んで記録した碑文で、碑の一番上の題字は山形有朋が書いたものだそうです。
そしてこの碑には、「村の形が河豚に似ている」とか「200年で16回も(利根川の)流れが変わった」などのことがかかれています。
また、洪水に関しての記述や島村の蚕種が国内や海外まで知れ渡っていることなどが記載されているのです。

こうした背景のもと、元治元(1864)年に蚕種の輸出が解禁されると、島村でも蚕種製造業に従事する農家が増えたのです。そうした農家は弥平の【清涼育】を取り入れ、蚕室もヤグラを備えた家屋にしたことから、弥平の確立した蚕室は『島村式蚕室』と呼ばれるようになったのです。

これらの【清涼育】と『島村式蚕室』は、江戸時代の上野国、武蔵国(現在の群馬県と埼玉県周辺)を明治時代に廃藩置県された“岩鼻県”が、勧奨されるべき養蚕方法として位置づけられ、“桑拓園”と名付けられた田島弥平宅には、全国から研修生が集まり清涼育を学んでいったのです。

現在、田島弥平旧宅の周辺には田島家一族宅が多くあり、そのすべてが養蚕に関わった蚕室を残しています、

田島武平宅(桑麻館)
文久3(1863)年築で、立派な屋敷神が見事です。
こちらだけ内部が公開されていますが、外観は立て直されたのか、ヤグラは残されていませんでした。

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田島乙三部宅(進水館)
江戸時代末期築で、切石基壇や蔵・井戸が残されています。
基本的には総ヤグラの部類なのでしょうか、ちょっとおもしろい総ヤグラです。

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田島定吉宅(栄盛館)
文久元(1861)年築、で、三つヤグラの建物で、珍しい板張りの蔵も残されています。

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田島平内宅(有鄰館)
明治元(1868)年築、三つヤグラの建物。
二つヤグラの蚕室が残されており、庭園の植栽がみごとです。

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田島林平宅(對青盧)
慶應2(1866)年築で、総ヤグラの建物。
古い蚕室を現代的に上手く活用されていて、古い中にも新しさを感じます。
こちらは《景観重要建造物》に指定され、更に《2014年景観まちづくり賞》にも選ばれているのもうなずけます。

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このように島村周辺には、沢山養蚕の建物が残されているのです。

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こうして島村を発展させた田島弥平は、明治6(1873)年には熊谷県管内蚕種優等者として表彰され、後に緑綬褒章を受章したのです。

残念ながら現在養蚕の姿は見られませんが、その業績を湛え、後世の島村への奮起を促した碑も建てられています。題字は、元首相の福田﨣夫です。

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世界遺産としては田島弥平宅だけですが、周辺にも見所の多い島村の地なのです。

イタリアに輸出した功績

こうした時代に前述した“微粒子病”によるヨーロッパでの養蚕の壊滅的な被害が起こり島村からも多くの蚕種が輸出されたのです。
この頃のエピソードが、幕府とナポレオン三世との関係です。

フランスの養蚕業が壊滅的な状況になった時に、フランスから日本への蚕種紙を求めに応じて幕府は、1865年に16500枚の寄贈を約束し、その代わりに幕府がかねてより希望していたアラビア馬寄贈を求めたのです。
しかし、蚕種紙を寄贈したにも関わらずフランスからは馬が寄贈されないため、当時の駐日フランス公使ロッシュが、自身所有のアラビア馬1頭を将軍に進呈たのです。
その後、改めてフランスから正式なアラビア馬が寄贈されたのです。

やがて微粒子病が克服され蚕種の輸出が振るわなくなると、弥平たちは自らイタリアへの蚕種の直接輸出を模索します。
これを実現させるために弥平は日本初となった『島村勧業会社』を明治5(1872)年に設立します。これは弥平の本家である田島武平の親戚が血洗島(埼玉県深谷市)の渋沢栄一だったことから、渋沢の勧めで設立したもので、武平が社長、そして弥平が副社長の一人に就任したのです。
これは田島一族の会社ではなく、蚕種生産農家の仲間組織であったことから、会社に参加した農家の蚕種の品質を統一し、島村ブランドで販売を行うものだったのです。
これにより島村の小規模養蚕農家は、糸繭生産よりも高く売れる蚕種生産へと転換させたのでした。

『島村勧業会社』のイタリア直輸出は、渋沢の仲介による三井物産の協力によるものです。第1回目の直売は明治12(1879)年12月に出港し、サンフランシスコ、ニューヨーク、リヴァプール、パリを辿って、翌年2月にミラノで直売しました。しかし、大きな儲けを上げる事は出来ず、計4回の直売は失敗し、明治18(1885)年に同社は解散したのです。
このようにイタリア直売は成功しませんでしたが、最初に世界一周をした群馬県民として名を残しました他に功績を残したのです。

その一つが《顕微鏡》で、イタリアでの蚕病予防に顕微鏡が活用されているのを知り、日本で最初に蚕病予防に顕微鏡を活用したのです。

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当時、家屋のでは薄暗いため、より採光をとりいれた“顕微鏡室”が作られ、現在の田島弥平旧宅2階と田島林平宅の“對青蘆”に顕微鏡室が残されているのです。

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もう一つが《ヨーロッパの文化》で、島村はヨーロッパの文化の香り高い町になっているのです。
弥平宅の渡り廊下の短冊状の装飾もその一つです。

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キリスト教もその一つで、明治30年に建てられた“島村教会”は当時の島村のシンボルで、現在でも『島村教会・めぐみ保育園舎』として残っているのです。

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弥平が代々残る旧宅

の田島弥平旧宅には、現在も弥平の子孫が生活しており、代々旧宅の保存に尽力し、1986~1988年にかけて、当時島村が属していた境町の町史編纂事業の一環での調査が行われたのです。

2003年以降、富岡製糸場を世界遺産にしようという動きにより、2006年に群馬県、富岡市などが関連する文化財も含めて共同で推薦書を提出したのです。この際、群馬県庁世界遺産推進室による近代養蚕農家調査の一環として田島弥平旧宅の調査も行われたのですが、この時点では、田島弥平旧宅は構成資産候補に含まれていなかったのです。
しかし、文化財保護に関して田島家および伊勢崎市の体制が進展したことから推薦候補に加えられ、「近代養蚕業の展開を知る上で重要である」という理由から、2012年9月19日に国の史跡に指定されました。

そして2013年1月に正式に提出された世界遺産推薦書では、高山社跡、荒船風穴と共通する優良品種の開発・普及のほか、「近代養蚕農家の原型」といえる蚕室構造を残していること、田島弥平が【清涼育】の開発を含め、明治初期の養蚕業では主導的役割を果たしたこと、直接販売による海外交流を行なったことなどを理由として構成資産に含まれ、2014年6月『富岡製糸場と絹産業遺産群』として世界遺産に登録されたのです。

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2016.03.15記
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