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はじめに

「さきたま古墳群」は2008年9月14日の残暑厳しい日に訪れたのでした。
そして「さきたま古墳群」は『21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選』を散策しようと最初に訪れた場所でもありました。
そもそも埼玉県に生まれて埼玉県で育って50余年過ごしながら埼玉県を殆ど知らないという現実に直面し(って、程の大それたことではありませんが)、見聞を広めてみようと始めたのがきっかけでした。

それから2年半の間に埼玉県はもとより、東京、福島など狭い範囲ながらも各地を散策したのです。行田市にもその後何度か訪れていて、それはこの100選に行田市からは4件選ばれているからでした。
さきたま古墳群】【聖徳太子立像・聖徳太子例大祭】、そして今回の【さきたま火祭り】です。
「さきたま古墳群」と「聖徳太子立像」はジャンルAの「名所・自然・史跡・観光施設・文化財・文化施設」からで、「聖徳太子例大祭」と「さきたま火祭り」はジャンルBの「芸術・スポーツ・芸能・祭り・風習・イベント」というバランスの良い選定です。
そして前述したように「さきたま古墳群」の2008年を皮切りに、「聖徳太子立像」と「聖徳太子例大祭」は2009年と都合2回訪れ、今回の「さきたま火祭り」で3回目の探訪となったのです。
しかしながら今回はちょっと事情があり、「さきたま火祭り」のある2011年5月4日の約2週間前の4月23日(土)にプライベートな所用で行田市を訪れたことから別途散策をすることになったのです。
その様なことから、今回は「さきたま火祭り」とは別に「さきたま古墳群」再訪とばかりに散策を楽しみました。実際に前回の散策記を見ると、「さきたま古墳群」は最初ということと夏の暑さもあり古墳群自体の散策も極々あっさりしたものでした
そこで今回の4月23日の散策では「さきたま古墳群」以外の行田市内の古墳、そして5月4日での火祭りでは「さきたま古墳群」といった具合にいわゆる文字通りの「さきたま古墳」三昧としてじっくり古墳群を散策します。

その4月23日の散策では「ぎょうだ古墳めぐりの旅」と題された散策ルートを元に散策を始めます。

古墳めぐりの旅へようこそ!
行田市には埼玉(さきたま)古墳群をはじめとする10もの古墳群があり、150基以上の古墳が確認されています。古墳は古代の権力者のお墓で、その大きさが築いた者の力を表していると考えられています。
行田市内では、今から約1,500年前の5世紀末頃に稲荷山古墳を皮切りに埼玉古墳群が築かれ始めると、各地で中小の古墳が築かれます。大日塚古墳はその頃の小円墳で、埼玉古墳群を築いた強大な権力者に従う小地域の権力者のお墓と考えられています。
ところが6世紀後半になると真名板高山古墳、小見真観寺古墳、など100m級の大型前方後円墳が周辺地域でも築かれるようになり、埼玉古墳群の古墳は大きさがやや小さくなって行きます。7世紀に入ると埼玉古墳群では浅間塚古墳、白山古墳、戸場口山古墳など円墳、方墳が築かれますが、若小玉古墳群ではより大型の八幡山古墳が築かれており、力関係が逆転したことがうかがえます。その後埼玉古墳群は途絶えてしまい、若小玉古墳群では7世紀後半の地蔵塚古墳まで、古墳が築かれ続けました。
どうして埼玉古墳群は衰えてしまったのでしょうか? それに代わってどのような権力者が現れたのでしょうか? 古墳をめぐりながら、あなたも考えて見てください。
(「ぎょうだ古墳めぐりの旅」パンフレットより)

少しの懐かしさと沢山の新たな見聞ができそうな「さきたま古墳群」散策に期待は膨れ上がります。

map行田市オフィシャルサイト】http://www.city.gyoda.lg.jp/

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はじめに

「さきたま火祭り」はジャンルBで3,321票を獲得して第18位にランキングされました。

500本を越えるたいまつで、見る人を神話の世界へ誘う炎のイベント。毎年5月4日行田市埼玉のさきたま古墳公園で開かれる。
天照大神の孫ニニギノ命と結婚したコノハナサクヤ姫が産屋に火を放ち、燃え盛る炎の中で海幸彦と山幸彦を産んだという故事をモチーフに開催。主役となるニニギノ命とコノハナサクヤ姫は毎年、地元の若者を対象に選んでいる。
メーンの「産屋炎上」は夕方から。古代装束に身を包んだたいまつ行列が集合すると、古墳公園というロケーションと重なり、神秘的な空間を演出する。
(本書より)

火を扱ったようなイベントは何となく荘厳な雰囲気に包まれるか、華麗なショーとなるのかおおよそ二者択一になるようですが、こちらの場合は前者のタイプなのでしょう。いづれにしても定番の神輿やYOSAKOIなどとは違うオリジナルのイベントですから、一層興味の湧くところです。
イベントについては追々として、今回訪れた行田市はこれで都合3回目の散策となります。
そもそもこの100選に行田市からは4件が選ばれています。
さきたま古墳群】【聖徳太子立像】【聖徳太子例大祭】、そして今回の「さきたま火祭り」となるのです。
そして【さきたま古墳群】は散策を始めるきっかけとなった第1回目の散策で、【聖徳太子立像】【聖徳太子例大祭】は合わせて1回の散策で済ませたことから、今回が3度目となるのです。

火祭りは本来夕方から夜にかけて行なわれることからのんびり午後から出かければすむことだったのですが、火祭りに合わせて午前中から古墳群を見学し、夜は火祭りを楽しむということにしたのです。
したがってこの章では「さきたま火祭り」についてのみ記述しますが、別項「さきたま古墳群」では再訪として散策記を記述してみたいと思っています。
古代ロマン溢れる場所での古代イベント、興味が尽きないわけはないでしょう。

map行田市オフィシャルサイト】http://www.city.gyoda.lg.jp/


はじめに

【聖徳太子立像と例大祭】は二つのジャンルの100選に選ばれています。
一つははジャンルAで5,384票を獲得して23位にランクされた【聖徳太子立像】です。本書の説明。

行田市荒木の天州寺太子堂に安置されている「木造聖徳太子孝養立像」(国指定重要文化財)は、制作年代や制作者が明らかな太子像としては日本最古といわれている。
この太子像は鎌倉時代の1247(宝治1)年、政所別当だった大江広元の四男・毛利季光が鎌倉の仏師に彫らせたもので、それを示す墨書銘が胎内に残されている。ヒノキの寄せ木造りで高さは約140cm、目には水晶が入っている。孝養像は太子16歳の像とされ、毎年2月22日に行われている聖徳太子例大祭に限り、一般公開されている。』

もう一つはジャンルBで11,916票という多くの票を集め2位にランクされた【聖徳太子例大祭】で、本書の説明ではこう記載されています。

『国指定重要文化財の「聖徳太子立像」がある行田市荒木の天州寺で毎年、聖徳太子の命日に当たる2月22日におこなわれる。当日に限り太子像が一般公開されるとあって、県内外から大勢の参拝客が訪れる。
天州寺は曹洞宗の寺院で聖徳山と号し、本尊は釈迦牟尼仏。開山は天州全堯といわれている(1616没)。
太子像はもともと秘仏で、以前は像を安置する厨子の扉も33年に一度御開帳儀礼の時と、太子が没した622年から数えて50年ごとの大遠忌儀礼の時にしか開かれることはなかった。しかし、1983(昭和58)年に秘仏が解かれ、翌年の例大祭から年に一度、祈とう修行の儀礼中に限り扉が開かれるようになった。』

平たく言ってしまえば”モノとイベント”がそれぞれ100選として選出されたということです。
とは言え、聖徳太子といえば我々世代では一時代を築いた”C万円札”のアイドルとして人気を誇った御仁(ここで既に罰が当たる可能性は大)。 その聖徳太子立像、しかも国指定重要文化財という箔をつけた御仁(更なる罰当りの可能性大)が1年に一回見られる日です。
何を差し置いても行かねばならないでしょう。という訳で2月22日(日)行田市へ向かいました。

ここのところ若干疲れ気味のため今回は迷うことなく車の使用を決めた。電車に行くにしても高崎線熊谷から秩父鉄道で最寄りの武州荒木駅までなのでそれ程訳はないのだが、多少歩くことに億劫になっていた帰来もあったためです。
車なら手馴れた行程です。国道17号線を北上し、鴻巣で行田バイパスへ、それだけです。
そうです、行田市は今回で2度目なのです。そもそもこの100選巡りを始めるきっかけとなった”さきたま古墳群”へ行ったのが昨年の9月でしたので、おおよそ半年振りでしょうか。
懐かしい思いとともに若干リベンジしたい思いもあり、違った意味でも今回の行田行きは楽しみなのです。

行田市オフィシャルサイト】 http://www.city.gyoda.lg.jp/



はじめに

【さきたま古墳群】は埼玉新聞社発行の『21世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選』の名所部門で10.948票を獲得して第5位にランクされた地です。

国指定史跡の「埼玉(さきたま)古墳群」は県名発祥の地・行田市埼玉にあり、5世紀から7世紀ごろに造られたと推定される9基の大型古墳が群在している。なかでも115の古代文字が記された国宝・金錯銘鉄剣が出土した稲荷山古墳は全国的な注目を集めた。
そのほか、国内市規模の円墳・丸墓山古墳、県内最大規模の前方後円墳・二子山古墳などがある。
県はここを史跡公園「さきたま風土記の丘」えおして整備。県内の県立さきたま資料館には、金錯銘鉄剣をはじめとする貴重な出土品が展示してある。また、1997(平成9)年には将軍山古墳展示館がオープン、復元された古墳内部の石室が実物大で見学できる。
(本書より)

そこで、2008年9月14日、今年においては比較的残暑の厳しい日曜日、埼玉県行田市にある「さきたま古墳群」を訪れました。
同じ埼玉県上尾市の我が家からは国道17号を北上し約40分程度で到着しました。三連休の中日ではあったのですが比較的車の流れもスムースで買い物にでもいくような気軽でした。
行田市は埼玉県の北部にあり市の北部は利根川を境に群馬県に接しており、隣接している市は鴻巣、熊谷、加須市などです。

行田市の大字埼玉(さきたま)は、古くは万葉集に「さきたまの津」という記述があり、風土記にも「武蔵国埼玉郡(さきたまごおり)」とあるように存在は古く、「埼玉県」という地名の発祥地であるとされています。
実際、この「さきたま古墳群」のある史跡公園内に「埼玉県名発祥之碑」があります。
埼玉県名発祥之碑
その碑の説明に埼玉県名の由来が書かれています。

明治4年11月14日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県を設置するとの太政官布告が出された。これが埼玉県誕生である。以降、幾度かの変遷を経て、明治9年8月に現在の埼玉県の区域が定まった。
「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。
埼玉郡は、律令による国郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初はは前玉(さきたま)郡という表示も行われ、正倉院文書神亀3年(726年)の山背(やましろ)国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見える。また、延喜式神名帳にも埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。
ここ行田市埼玉(さきたま)の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここの碑を建て、県名発祥の記念とする。
昭和62年4月 埼玉県
(現地碑文より)

埼玉県に50年以上在住していて、埼玉県名の由来をはじめて知ったと言う有様です。
その後は、先の古墳時代を経て室町時代には忍城が築かれ、成田氏を中心とする武士団の本拠地として周辺に勢力を拡大していったのです。
戦国時代には後北条氏と結んだため、豊臣秀吉の小田原攻めの際には石田三成に攻撃を受けることとなり、江戸時代には阿部氏、後に松平氏の城下町となり石高は忍藩十万石となったのでした。
江戸時代中期から足袋の生産が盛んになり、転じて繊維産業が地場産業として定着したようです。
明治以降、1889年忍町、1949年忍市として市制施行し即時改称して行田市となるのです。

行田市マップ行田市オフィシャルサイト】 http://www.city.gyoda.lg.jp/




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