2015年10月31日~11月3まで「宝物風入れ」と云われる行事が行われました。
平たく言えば虫干しのようなもので、この機会にしか円覚寺の文化財はみられません。また常時見られる国宝の梵鐘はともかくとして、もう一つの国宝である『円覚寺舎利殿』も近くで見られるとあって訪れました。
11月1日日曜日、天気にも恵まれて円覚寺散策です。

円覚寺散策

円覚寺の参道口ですが、途中にJR横須賀線が横切っています。
これは、明治期に軍港横須賀への鉄道の建設で無理やり円覚寺境内に線路を通したことが原因。

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ここには開山無学祖元が鎌倉入りした際に、鶴岡八幡宮の神の使いが白鷺に身を変えて案内したという故事に因む『白鷺池』があり、円覚寺庭園として史跡・名勝となっています。

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ここ円覚寺は、夏目漱石とのゆかりが深い。
かつて漱石が精神を病んだ時に、この円覚寺に禅の教えを乞うために参禅した経緯があり、結果として漱石は落第生となったのですが、その時の円覚寺を様々な作品にいれている。

「円覚寺の前に汽車の踏切りがあるだろう、あの踏切り内へ飛び込んでレールの上で座禅をするんだね。それで向うから来る汽車をとめて見せると云う大気焔さ。」
これは《吾輩は猫である》の一説で、そのまんま横須賀線のことが書かれているのです。

横須賀線を渡った先の山号標。
紅葉までもう一息と云ったところでしょう。

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石段から見た白鷺池方向に横須賀線が通過している。

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石段の上が『総門』
意外と小さいのが返って驚き。

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総門の先に見える立派な紋が『山門』

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三門とも呼ばれ、いわゆる三解脱を象徴する門です。

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現在のものは1785年に再建されたもので、扁額は北条貞時の時代に伏見上皇から賜った由緒あるもの。

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この山門も漱石小説に描かれている文字通り小説《門》である。
「山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。」 主人公が親友の内縁の女性を奪ったことに罪悪感を覚え、その罪悪感に耐えられず救いを求めたのが円覚寺なのです。

山門の右手奥にあるのが『帰源院』

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「石段の上で思い出す。昔し鎌倉へ遊びに行って、いわゆる五山なるものを、ぐるぐる尋ねて廻った時、たしか円覚寺の塔頭であったろう、やはりこんな風に石段をのそりのそりと登って行くと、門内から、黄な法衣を着た、頭の鉢の開いた坊主が出て来た。」

漱石の《草枕》の一説で、漱石が参禅した時に宿泊したのが、ここ帰源院でした。 非公開なので山門から先には入れませんが、左手に漱石がいたであろう堂宇が僅かに見えます。

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帰源院の先にある石段は、国宝の梵鐘『洪鐘』に続いている。

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鳥居が往時を偲ばせるが、更なる石段は結構つらい。

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頂上に到達すると気持ちの良い眺望が開ける。
見える堂宇は『東慶寺』である。

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江ノ島弁財天の加護によって洪鐘の鋳造が完成したと伝えられ、その弁財天を祀るお堂です。
北条貞時が洪鐘とあわせて弁天堂を建立し、当山の鎮守としたそうです。

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その国宝の『洪鐘』がこちら。
そこはかとなく歴史と気品を感じる、といったら嘘になるかもしれない。

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山門に戻って、その先が『仏殿』
本尊を祀っており、昭和に再建されたものですが、扁額は後光厳上皇から賜ったもの。

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仏殿の左手が『選仏場』
選仏場とは、仏を選び出す場所という意味で、修行僧の坐禅道場のことだそうです。
茅葺の屋根と梅の木が中世の趣を感じさせます。

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その隣が『居士林』
居士とは在家の禅の修行者を指し、居士林は禅を志す在家のための専門道場。つまり初心者でも参加できる座禅ができる場所と云うことです。

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おそらく紅葉の季節は見ごたえのある画像がとれるのではないかと。。。

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円覚寺・宝物風入

居士林の前の参道を進むと左手に『方丈』がある。
本来は住職が居住する建物ですが、現在は法要や座禅会など多目的に使用されています。
中庭もきれいに整備されています。

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この日はここで『宝物風入』が行われました。写真はNGなのでパンフレットだけ。

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方丈の裏には、心字池のある美しい庭園が広がっています

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方丈の先には『妙香池』と呼ばれる庭園があり、ここも『白鷺池』同様、円覚寺庭園として史跡・名勝となっています。
8月に訪れた時とだいぶ様子がかわります。

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鮮やかさは無くなりましたが、紅葉が色づくのが見て取れます。

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妙香池を進んで、突き当りを左へ曲がった先が、今回のメインである『正続院』 通常はこの山門までしか入れず、僅かに仏舎利殿が見える程度なのだが、今回はあの「仏舎利殿」まで行けるのである。

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山門が開いていること自体、ちょっと感動

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山門を潜ると左側に鐘楼がある。
由緒も何もわからないのだが、すべてが重々しく見える。

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右側が本堂である。
特別に色々揃えられている。特別な御朱印もあったのだが、今一つ興味がわかない。

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更に進んで中門に近づく。これだけでも気分は浮かれ気味。
よく見ると左手の崖は“やぐら”のようである。これは実に興味深い発見である。

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そしていよいよ「国宝仏舎利殿」との対面である。

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舎利殿には、源実朝が宋の能仁寺から請来した「佛牙舎利」というお釈迦様の歯が祀られており、鎌倉時代に中国から伝えられた様式を代表する、最も美しい建物として国宝に指定されているのです。

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屋根の勾配や軒の反りの美しさが特徴で、特に屋根の軒下から出ている上の段の垂木たるきは、扇子の骨のように広がっており、「扇垂木」とよばれているのだそうです。

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江戸時代の花頭窓は下部が広がっていくのに対し、この外枠は縦の線が真っ直ぐで、その質素な形は鎌倉時代後期の花頭窓の特徴なのです。

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とにかくじっくり見てしまいたい衝動に駆られるのは、国宝の持つ魅力であろうか。

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仏舎利殿の隣にあるのが禅堂である。
ある意味、仏舎利殿よりも個人的にはお宝で、何といっても、ここは漱石が参禅した際に禅問答を行った場所である。

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漱石に出された公案(問題)は、この『父母未生以前本来の面目は何だか』で、“自分の父や母が生まれる前、あなたはどこにいたの”とう、禅問答では入試試験の問題のようなものだそうです。 これに対して漱石は、「物を離れて心なく心を離れて物なし 他に云ふべきことあるを見ず。」、つまり「自分の両親が生まれる前には、心が無いのですから、自分の元々の顔という、物も無いないのです」と答えたのです。
すると老師は、「そのようなことは少し大学を出て勉強をすれば云える、もう少し本当のところを見つけてきなさい」と軽く漱石をあしらったのです。
これにより漱石は、自分には入門する資格はないと考え、見捨てられた犬のように円覚寺を去ったのです。

このように漱石も訪れた円覚寺は様々な魅力に溢れているのです。
次回は紅葉の時期に訪れたいものです。

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2015.11.10記
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鎌倉の外れにあり、かつ山あいにあるために鎌倉の中では比較的目立たない存在の寺院が『瑞泉寺』。
その山あいが“紅葉ヶ谷”と呼ばれる谷戸(やと)にいちしている。境内は季節ごとに様々な花で彩られ、梅、ツツジ、ボタン、マンサク、そして紅葉と、一年中花の絶えることがない“花の寺”として知る人ぞ知る存在です。

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総門から参道を進むと、谷戸らしい光景が向かいいれます。

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二つに分かれた石段は、男坂、女坂なのであろうか。とにかく風情溢れまくり、、、か!

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結構な段数を上ってふと振り返ると、まるで世俗との結界のように感じる。

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たどり着いた先が『山門』。
ここも緑に覆われた風情ある光景が見て取れます。

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横には『松陰吉田先生留跡碑』と記載された碑が建立されている。

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安政元年、下田で密航を企てる直前に瑞泉寺に住職であった伯父の竹院和尚に来訪したことを記念し、昭和4年に建立されたもので、徳富蘇峰の筆によるもの。
密航は失敗に終わりますが、獄中で松陰は「山の青々とした竹の光が窓から射し込んでくる。方丈は奥深く、錦屏山の懐に抱かれて物静かである。いま私は囚われの身となって獄中にあり、むなしく苦しみを味わっている。ある夜夢に瑞泉寺を訪ねた」と瑞泉寺を訪れた詩を詠ったそうです。

山門を抜けると前庭が広がっています。

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整然と植えられた数々の木々が美しく輝いているようです。

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この中で見逃せないのが、本堂前にある梅の古木で鎌倉市指定天然記念物の『黄梅』
江戸時代にはあった老木で、現在、花弁が退化しているため花の色も淡黄色で驚くほどの美しさはないのですが、地元では、この老木に花が咲くのを春の訪れとする“通”な梅の木として親しまれています。

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また、水戸光圀のお手植えと云われる市指定の天然記念物『冬桜』もあり、やはり花の寺らしく彩り豊かです。

境内の本堂を初めとした堂宇は、すべて焼失したため大正期に再建されながらも、しっとりとした佇まいを見せてくれます。

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ちょっと趣のある庫裏もまた良い

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正式名称は『錦屏山瑞泉寺』で1327年に開山され、寺を囲む山々の紅葉が錦の屏風のように美しいことから名付けられました。
開山の夢窓国師は、後醍醐天皇や足利尊氏も深く帰依し、鎌倉から南北朝期に臨済宗で重きをなした高僧です。

それ故に瑞泉寺は、鎌倉公方(鎌倉府の長)の菩提寺として、鎌倉五山に次ぐ関東十刹に列せられた格式のある寺院となったのです。

瑞泉寺の鐘楼には、錦屏晩鐘がつられている。
除夜の鐘つきができるようなので、機会があれば。。。

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鐘楼の前に聖獣である白い象2体。

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その付近には『大宅壮一評論碑』『久保田万太郎句碑 』がある。確かに多くの文化人が、ここを訪れているそうです。
ざっと挙げただけでも、川端康成、大佛次郎、高浜虚子、吉野秀雄等、枚挙にいとまがないほどです。

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一角には地蔵堂があり、そこに安置されている木造地蔵菩薩立像は『どこも苦地蔵』と呼ばれています。

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これは、地蔵堂の堂主が貧しさのあまり逃げだそうとすると、夢枕に地蔵が現れて「どこも、どこも」と告げたそうである。
現代なら、さしずめ携帯って思うかもしれないが、堂主は「苦しいのはどこにいっても同じだ」と悟ったという。携帯でなくても現代に通用する良い伝承です。

地蔵堂の横にあるのが、瑞泉寺の一番の見所『名勝 瑞泉寺庭園』です。

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開山の夢窓国師は、優れた作庭家としても著名で、京都の天龍寺、苔寺で知られた西芳寺を手掛けたといえば、おおよそ理解できるでしょう。

この瑞泉寺庭園の特徴は、鎌倉石の岩盤に地形に応じた彫刻をほどこしたことにあり、北の一隅の岩盤の正面に大きな洞(天女洞)を彫って水月観の道場とし、東側には坐禅のための窟(坐禅窟・葆光窟)を造っています。

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天女洞の前には池を掘って貯清池と名づけ、池の中央は掘り残して島しています。
垂直の岩壁は滝で、その上方をさらに辿れば貯水槽があって天水を蓄えてあり、必要に応じて水を落とせば坐雨観泉となるしつらえとなっている風情ある庭園です。
池の西側には二つの橋がかかり、これを渡ると池の背後の山を辿る園路にとなり、二つの橋も数えて十八曲りに園路を登ると錦屏山の山頂に出るような秘密基地的な要素もあるのです。

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岩盤を彫刻的手法によって庭園となした、「岩庭」とも呼ぶべきこの庭園は、書院庭園のさきがけをなすもので、鎌倉に残る鎌倉時代唯一の庭園なのです。

ちょっと疲れたら前庭にある藤棚で休憩するのも、夏の時期は清々しいものです。

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まだ細かい見所はあるのですが、今回はここまでです。
個人的に非常に気に入った場所なので、瑞泉寺については季節ごとに訪れてみたくなりました。
今回は夏だったので次回は、紅葉の時期に訪れてみたいです。

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2015.10.29記

Travel.jp『たびねす』で、“新訂 旅と歴史”の記事を掲載して戴きました。

紅葉の名所として名高い鎌倉の「鎌倉宮」には、建武の新政の立役者・護良親王を祀った神社。 悲運な最後を偲ぶ“土牢”が残る地に、「建武中興(新政)十五社」の一つとして、遠く古の皇子への想いの篤い明治天皇が建立したのです。 鎌倉では、新しいと云える神社ですが、景観と共に、その物語に感動を覚えました。

ご一読願えたら幸いです。
掲載記事はこちら 『悲運の物語!鎌倉「鎌倉宮」で建武新政のプリンスに思いを馳せる

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2015.10.21掲載

国内旅行案内『トラベルラウンジ』で、“新訂 旅と歴史”の記事を掲載して戴きました。

観光地として名高い古都・鎌倉。
長谷の大仏~長谷寺にかけての長谷エリア、そして北鎌倉~鎌倉駅周辺のエリアは古くから観光名所として知られています。
そこに昨今、第三の波として注目を浴びてきたのが、鎌倉駅~朝比奈に向かう古道「六浦道」であった、現在の「金沢街道」です。
その原動力が竹寺として名高い「報国寺」を起点に人気に火がついたのです。
この「金沢街道」沿いの隠れた名所にスポットをあてて、新たな観光エリアを紹介してみました。

ご一読願えたら幸いです。

鎌倉観光のサードウェイブ!「塩の道」六浦道沿いの名所を歩く

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2015.09.30掲載

古刹・名刹の多い鎌倉にあって、鎌倉最古の寺院が『杉本寺』。
観光客がドッと訪れるような著名さ、派手さ、美しさはありませんが、やはり最古という地味ながら、その歴史に相応しい佇まいが、ある意味、美しいと云えそう。
所謂、侘び寂びの“寂び”であろうか。

寺伝によれば、734年行基が十一面観音を安置して創建したのが始まり。
1189年に堂宇が焼けた際に、観音像が自ら本堂から出て、境内に避難したという、本当のような嘘のような話があるが、嘘であろう。
ご丁寧に、観音像が杉の木の根元に避難してしていたということから杉本寺になったという由緒付なのだから、その伝説ぶりに頭が下がる。
このように特に話題になるような華やいだ話題もないので、そらく鎌倉最古という事が無ければ、ほぼ素通りの寺院だったかもしれない。
ただ、坂東三十三箇所・鎌倉三十三箇所の第1番札所という事で、巡礼の方にとっては大変馴染みの寺院といえよう。

古の「塩の道」である現在の金沢街道沿いに参道がある。

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何段かの石段を上がると山門が見えてくる。

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切妻造りで茅葺の八脚門はそれだけでも古刹の趣を伝えているよう。
江戸時代後期に建立されたものらしい。

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左右に仁王像を安置している。

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それ以上に千社札の多さが、巡礼の一番札所らしい佇まい。

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山門から本堂へ上がる正面の石段は通行禁止になっている。

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よく写真で見る苔むした石段で、古刹に一番似合う佇まいであろう。苔を保護するための通行禁止なのだと思っていたが、石段がすり減って危険な為だそうだ。若干興ざめ。。。
こう云った石段は、曇りや雨の日が似合うかもしれない。

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左手にある新しい石段をあがると本堂が鎮座している。

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寄棟造りで、正面側面とも柱の間が5間の方五間の天台宗らしい密教仏堂である。
1678年の建立で、何といっても山門同様、茅葺が古刹の趣を醸し出している。

本来の注目は、本堂に安置された仏像群である。
中央に本尊お前立の十一面観音、右手には、毘沙門天、不動明王、観世音菩薩三十三応現身、左手には、新、十一面観音と地蔵菩薩二体、一番左にはおびんずる様など多数の仏像群が間近で拝観でき、その迫力に圧倒される。
一番奥に祀られているのが、秘仏の三体の十一面観音で、中心が慈覚大師作、右側に恵心僧都作、左側に行基作があり覆面観音とか下馬観音とも呼ばれています。こちらは間近には参拝できませんが、厳かな中で拝むことができる。但し、堂内は写真NGである。

境内に眼を転じると、本堂の横に五輪塔群がある。

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杉本寺の裏山の一帯は、境内を含めて杉本城址で、三浦氏一族の杉本義宗が築いたもの。鎌倉幕府滅亡後の1337年、朝廷方の北畠顕家がここを攻め、足利方の斯波三郎以下300人以上の者が討たれ、落城たと太平記に記載されている。
この戦死者の供養塔と云われているのが、この五輪塔群である。

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五輪塔群の左手にあるのが、六地蔵+身代わり地蔵の7体の地蔵。

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この身代わり地蔵には、三浦氏の内部争いの際、杉本太郎義宗に放たれた矢を受け、傷跡から血がにじみ出てきたという伝説が残されている。

本堂の右手奥にあるのが白山大権現・熊野大権現。

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左手奥には現在、入れないが、鎌倉特有の古代の墓で崖に穴を掘った“やぐら”があるようだ。

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金沢街道(六浦道)を挟んだ向かいに衣張山を望む景観。

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地味な寺院ではあるが、やはり歴史の重みはそれだけで一見の価値のある杉本寺である。

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2015.09.23記

鎌倉の『満福寺』は、源義経が“腰越状”を書いた寺院。
江ノ電の江の島駅の鎌倉寄りの一つ手前の駅・腰越駅にあり、最近はシラスでも有名な場所であり、その案内看板が華々しい。

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鎌倉方面から江ノ電に乗っていくと、腰越駅の手前で間近に満福寺を見ることができる。満福寺の山門前を江ノ電が通る光景はまさに江の島風情でしょう。

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江ノ電と云っても、このような風情では旧型の方が似合うのかもしれない。

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山門をくぐって左手の趣のある鐘楼を眺めると、正面に本堂が鎮座しています。

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僧・行基が744年に開山した古刹で、鎌倉で最古の寺院杉本寺が734年の創建ですから、その歴史も推して知るべしでしょう。
正式名は『龍護山医王院満福寺』、本尊は薬師三尊像。
医王院の山号通り、東国の疫病を鎮静するために勅命により創建されたもので、薬師如来を祀り病気平癒の仏として親しまれてきたのです。

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本堂の前にある2体の石像。
義経と弁慶の腰越状を書いている様子を表したものらしく、義経の緊迫した表情が当時の置かれている状況をよく表していそう。

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ここ腰越の地には、三浦半島を経由し海路で房総半島に向かう古代の海道が走っていた交通の要所で、鎌倉の西の玄関口の宿駅として栄えていたのです。
したがって西国で平家を打ち取った義経一行が、京都から鎌倉に来るためには、当然ここを通過することになるわけである。

それまでの経緯はこうです。
1184年に平氏を打倒した功績により、義経たちは後白河法皇から左衛門少尉に任ぜられ、検非違使となります。つまり、朝廷から官位をもらい、京都における治安維持をつかさどる役割となったのです。
単純に云えば、大変めでたいことなのだが、武士による政権を作りたいと考えている源頼朝にとっては、朝廷の権威などくそくらえで、逆に「朝廷に諂うとは、義経はいったい何を考えているのだ」と激怒したわけです。
更に火に油を注いだのが、義経の参謀として付いていた梶原景時で、「義経は戦功を自分一人のものと考えている」という密告がされたことから、1185年4月、頼朝は義経をはじめとした任官を受けたものたちを罵り、京都での勤めを命じて、東国への帰還を禁じたのです。

これに対して義経は、何と云っても平家を倒した最大の功労者であり、かつ弟である自分に対して帰還が許されないわけはないと高をくくり、壇ノ浦で捉えた平宗盛・平清宗父子を護送して5月7日に京を立ち、鎌倉に凱旋しようとしたのです。
こうして義経一行は、鎌倉の西の玄関口である腰越に到着した段階で、頼朝は宗盛父子だけ鎌倉に入れ、義経はここ満福寺に2週間留め置かれたのです。
事の重大性に気づいた義経は、慌てて頼朝対する詫び状を書くことになるのです。これが後世に伝えられた『腰越状』なのです。

境内には、義経・弁慶の所縁伝えられる様々なものが残されています。

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義経の硯石先には、実にキッチュなトンネルが異次元空間で、トンネルを抜けると、、、霊園なのです。

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庫裏には、お守りなどと共に資料館的な展示があります。

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その中でも一番の注目は、『腰越状の下書き』と呼ばれるものです。

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こんな書き出しです。

“源義経おそれながらもうしあげます。気持ちは鎌倉殿のお代官の一人に撰ばれ、天皇の命令のお使いとなって、父の恥をすすぎました。そこできっとごほうびをいただけると思っていたのに、はからずも、あらぬ告げ口によって大きな手柄もほめてはいただけなくなりました。私、義経は、手柄こそたてましたが、ほかに何も悪いことを少しもしてはいませんのに、お叱りをうけ、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。あらぬ告げ口に対し、私の言い分すらお聞き下さらないで、鎌倉にも入れず、従って日頃の私の気持ちもお伝えできず数日をこの腰越で無駄に過ごしております。あれ以来、ながく頼朝公のいつくしみ深いお顔ににお会いできず、兄弟としての意味もないのと、同じようです。なぜかような不幸せな巡り会いとなったのでしょう。”

基本的には、告げ口によって誤解を受けているということを中心の論点にしているようですが、頼朝に言わせれば「本質がわかっていない」とでもいうのでしょうか。

“(中略)・・・わが国は神の国と申します。神は非礼を嫌うはずです。もはや頼むところは、あなたの慈悲に頼る以外は無くなってしまいました。情けをもって義経の心のうちを、頼朝殿にお知らせいただきたいと思います。もしも疑いが晴れて許されるならば、ご恩は一生忘れません。
ただただ長い不安が取り除かれて、静かな気持ちを得ることだけが望みです。もはやこれ以上愚痴めいたことを書くのはよしましょう。どうか賢明なる判断を。 義経”

このように締めくくられているのですが、頼朝にとっては確かに愚痴としか思えなかったかもしれませんね。

そこで疑問になるのが「何故下書きなのか」、「本物は一体」、ということですね。
そもそも腰越状自体が残っているという事実はありませんが、平家物語・吾妻鏡・義経記等には、全文が記載されているので書かれた時期には存在していたということです。
本物は、鎌倉の大江広元宛てに渡されたので、大江が保管していた可能性もあるのですが、今となっては不明です。

ではいったいこの下書きとは、どいったものであろうか。
これは江戸時代末期の年に作られ木版で刷られたもので、弁慶が書いた書状に義経自らが筆をとって「敵のために命を亡はんことを顧みず」という一文が付け加えられたため、下書きとして残されたものと言われています。
江戸時代にこの木型が作成された時点で、下書きが存在していたのかもしれませんが、これも今となっては不明です。
まあ、いづれにしても江戸時代時には何らかの根拠があったということでしょう。

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それ以外にも興味深い展示品があります。

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また、中々凝った和室もあり一見の価値は十分ありそうです。

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もう一つの見どころが本堂。
義経所縁の寺院らしく、本堂の襖には義経の生涯を描いた『襖絵』が表裏2面にあります。まさに義経のギャラリーともいうべき襖絵はそれだけでも圧倒的な光景です。
更に、この襖絵は鎌倉の伝統工芸である“鎌倉彫”の技法を取り入れた漆画で描かれているのです。

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「腰越状」をはじめとして“弁慶の立ち往生”、“平泉への旅”、“残照の中の義経”、“静の舞”など、力強さと繊細さを併せ持った感動の襖絵です。

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これらは、1981~1985年にかけて漆画家宮本忠氏が手がけた作品で、江ノ電の腰越駅でも紹介されてるほどの傑作と云われているようです。

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更に位牌堂では、天井に描かれた龍や、48種の花々が同じように鎌倉彫で描かれています。
伝統工芸の鎌倉彫をも十分堪能できる満福寺なのです。

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満福寺周辺の腰越や江の島は“生シラス”で有名。
この満福寺の近くにもシラスを食べさせる有名な店がいくつかあるのだが、実はここ満福寺境内にもシラスの食べられる店があるというのだから驚き。
境内の更に小高い墓地の中にあるという、その名も『茶房 義経庵』である。ただしギケイアンと呼びます。
まさか三越、と思うようなライオンの前を通って上ると、確かに墓地の中に義経庵があった。
たしか満福寺の案内看板にもあった。

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それほど大きくはない店内ながら、小ざっぱりした清潔感は女性オーナーの心使いであろうか。

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「本日シラスあります」の看板に、当然オーダーは“生シラス丼”である。
獲れたてプリっぷりの生シラスは、さすがにご当地名物だけあって美味は当然ながら、贅沢な気分にさせてくれるから不思議。

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更にサプライズは、土日祝日だけですが、ピアノの生演奏付である。
ピアニストは、業界では知る人ぞ知る石井秀憲氏で、ゴージャスな生シラスが、さらにゴージャスになるのがうれしい。
この日はすいていることもあり、「リクエストもいいですよ」と言われ、思わず江の島らしくサザンオールスターズをお願いしたら曲も弾いていただきました。
これ以上、江の島区分に浸れるものはありませんね。

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そして帰りがけに墓地から見る光景もまた、素晴らしい。まさに江の島三昧といったところであろうか。
味覚・聴覚・視覚三拍子の義経庵は、満福寺で満腹という落ちまでついて帰路に付くのである。

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最後に、頼朝から許しを得ることができなかった義経は一体どうなったのでしょうか。
多くの方がご存知のように、義経は一旦京に戻り、そこから奥州藤原秀衡を頼って姿を消し、4年後、藤原氏4代目・泰衡の裏切りによって命を落としたのです。

義経の首は美酒に浸して黒漆塗りの櫃に収められ、新田冠者高平を使者として43日間かけて鎌倉に送られた。
1189年6月13日、首実検が和田義盛と梶原景時らによって腰越の浦で行われ、伝承ではその後、首は藤沢に葬られ祭神として白旗神社に祀られたとされ、胴体は栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと伝えられていいます。

義経にとって腰越の地は、絶望に明け暮れた地であったようです。

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2015.09.13記

“アジール”或いは“アサイラム”とは、歴史的・社会的な概念で「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などと呼ばれる特殊なエリアを意味し、現代で云えば、在外公館の内部の“治外法権の認められた場所”といえます。

こうした治外法権の場の一つに江戸時代の縁切寺がありました。

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当時、縁切寺は「駈け込み寺」と呼ばれ、基本的には生命や身体の危険を避けるためのアジールなのですが、この当時は、夫の不法に泣く女性を救済して、離婚を達成させる意味合いが強かったようです。
現在、こうした調停は裁判所などにゆだねられているのですが、当時の縁切寺である東慶寺を見ながら、その歴史を追ってみます。

尼寺支えた三人の住持

東慶寺の過去帳などに「開山潮音院覚山志道和尚」という記述がります。
「覚山尼」とは、鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗の夫人で、1284年、北条時宗の臨終の間際、無学祖元を導師として夫婦揃って出家して覚山志道大姉と名乗り、翌1285年に第9代執権・北条貞時を開基、覚山尼を開山として当寺は、尼寺として建立されました。

その後、南北朝時代に5世住持となったのが「用堂尼」。
用堂尼は、建武の新政を果たした護良親王の妹ですから、後醍醐天皇の皇女であり護良親王が殺された後、兄の菩提を弔うために東慶寺に入ったのです。
これ以来、東慶寺は「松岡御所」と呼ばれ、寺の格式も自ずと上がったのです。

江戸初期、徳川秀忠と江の間に生まれた千姫は、豊臣秀頼と結婚するも、大阪夏の陣で家康の命により大阪城から救出されます。
その後、秀頼と側室の娘である「天秀尼」が処刑されそうになると、千姫は、天秀尼を自らの養女として助命し、20世住持として天秀尼は東慶寺に入ったのです。
これ以降、東慶寺は幕府直轄の寺となり、寺領は、鎌倉の寺院では円覚寺の144貫に次ぐ112貫を誇っていたのです。

このように尼寺である東慶寺はこれらの3人の住持を中心に発展していったのです。

この三人の住持は、境内の歴代住持の墓苑に葬られています。

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「覚山尼」と「用堂尼」は、崖に掘られた鎌倉地方特有の墓“やぐら”に葬られています。

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「天秀尼」は、歴代住持の中でも一番大きな宝塔です。

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世界で二つしかない縁切寺

江戸時代以前より男子禁制の尼寺には、一般邸に縁切寺的な機能があったと云われています。
しかし、正式に幕府から公認された縁切寺は、江戸時代中期以降の、ここ東慶寺と群馬県の満徳寺の二つだけでした。
スタンダールの“恋愛論”では、縁切寺のような女性のための楽園を夢見ています。これが書かれたのは1822ですから、この日本の縁切寺は世界で二つしかない、と云っても過言ではないかもしれません。

縁切寺が正式に確立したのは、徳川家康の孫娘・千姫にかかわるところが大きいのです。
豊臣秀頼の妻であった家康の孫・千姫は、大阪夏の陣での大阪城落城の際助けられ、一旦、秀頼との離婚をするために群馬県の満徳寺に入寺したことから、満徳寺の縁切寺法の特権が与えられたのです。
そして、前述したように千姫が助けた秀頼の娘天秀尼が、東慶寺への入寺にあたり、同じく特権が与えられたのです。
こうして日本で2つだけの縁切寺確立したのです。

東慶寺の山門は、世俗とアジールの結界として、その石段とあえて小さくされた山門が名残を留め、この山門を入れば、誰にも手の出せない世界となるのです

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その東慶寺の縁切寺としての資料が、境内の『松ヶ岡宝蔵』に保管・展示されています。

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重要文化財の『木造聖観音立像』が受付の先でお出迎え。

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階段を上がると、天秀尼が父豊臣秀頼の菩提のために作らせた『雲版』があります。
まさに所縁の寺です。

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展示室は縁切寺に関する資料が展示されています。

所謂『離縁状』

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当時は、文字を掛けない人が多かったので、3本の線とその半分の線を書けば、離縁状と同じ効果を持つものとしました。
これが離婚することを『三行半(みくだりはん)』と云う言葉の語源となったのです。

慶應二年の『松岡日記』

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駆け入りに女性達を記録したもので、この年の駆け入った女性は41人だったそうです。

花と文化人所縁の縁切寺

境内は、花の寺としても知られています。
春の桜、夏の紫陽花、そして東慶寺で有名な“イワタバコ”や“イワガラミ”が岩肌一面に咲く様子は、多くの写真家の被写体となります。

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そして秋にはコスモスやリンドウが咲、紅葉が始まるのです。

本堂に向かう参道

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鐘楼や茶室も趣があります。

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この時期に咲いている華麗な花々

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境内の墓所には、先の歴代住持以外に、多くの文人達が眠っているのも珍しい。
鈴木大拙のほか、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、小林秀雄、高木惣吉、田村俊子、真杉静枝、高見順、三枝博音、三上次男、東畑精一、谷川徹三、野上弥生子などの墓があります。

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竹林が涼やかな風を運びます。

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苔むす墓所は、それだけでも趣がある。

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哲学者・西田幾多郎墓所

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岩波書店創業者・岩波茂雄墓所

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禅と夏目漱石と縁切寺

東慶寺は禅寺なのですが、明治以降縁切寺としての機能が無くなり、更に、明治35年、順荘尼がなくなって東慶寺は尼寺としての歴史を閉じたのです。

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そしてそのあと住持となったのが釈宗演老師で、後に東慶寺中興の称号が与えられた高層。
その理由は、明治26年シカゴでの万国宗教大会で、宗演は四人の日本仏教代表の団長として出席し、大いに禅を世界に広めるきっかけとなったからなのです。

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この時期はある意味落ち着いた佇まいの境内です。

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興味深いのが、山門の手前にある『夏目漱石参禅百年記念碑』

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夏目漱石の小説「門」には、明治27年末に漱石が精神衰弱により、鎌倉の円覚寺に参禅した体験が描かれています。
その時、訪ねたのが当時円覚寺の住持だった釈宗演老師でした。
その後、大正元年に再び釈宗演老師を訪ねた時は、東慶寺の住持でしたので、漱石は友人と共に東慶寺を訪れたのです。
その東慶寺を訪れた時に、同道した友人が事もあろうか山門手前の田んぼで立小便をしてしまいます。漱石は、後で尿意を催さないように、用心の為として“連れション”をしたのですが、このことは、漱石の小品「初秋の一日」に描かれています。
そして漱石は、釈宗演老師と再会を果たし、老師は、この漱石の来訪を手紙でジャーナリストの阿部無仏に送ったのでした。
このことを記念して碑が建てられたのですが、碑には「初秋の一日」と手紙の一部が刻まれており、“連れション”をした場所に碑が建てられているのです。

また参道口には『東慶寺ギャラリーショップ』もあり、かつての尼寺らしい名残を醸し出しています。

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四季折々に楽しめる東慶寺です。

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2015.09.05記

バス比較サイト『Bus sagasu』で、“新訂 旅と歴史”の記事を掲載して戴きました。

ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで3つ星を獲得した鎌倉『報国寺』は、 日本でも“竹寺”として名高く、多くの観光客が訪れている観光スポットです。
確かに美しい竹林ですが、お楽しみはそれだけではありません。
そこで報国寺での竹林以外の見所を、境内を彩る『緑』をテーマにまとめてみました。
四季折々の素敵な『緑』が見られます。

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ご一読願えたら幸いです。

ジャパンビューティ!ミシュラン3つ星の鎌倉・報国寺の『緑』に萌える

2015.09.01掲載

この鎌倉の大仏は、高徳院という寺院に鎮座しており、奈良の大仏と並んで全国的に著名で、まさに鎌倉のシンボルとして人気の観光スポットになっています。
にもかかわらす、鎌倉の大仏や高徳院については不明なことが多く、云わば謎だらけのシンボルなのです。
その最たるものが、奈良の大仏と比べ教科書での記述が極端に少ないことに端的に現れています。
これは、奈良の大仏の歴史的裏付けに比べ、資料が少ないため鎌倉の大仏の史実の裏付けがなされないためなのです。

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高徳院は浄土宗の寺院で鎌倉市長谷にあることから、鎌倉の大仏は「長谷の大仏」とも呼ばれています。
勿論、鎌倉の大仏である阿弥陀如来を本尊としており、正式名称は「大異山高徳院清浄泉寺」です。
創建としては鎌倉市の材木座にある光明寺の奥の院を移したものであるという説があるのですが、資料が乏しいため開山・開基など不明なので、当然、大仏についての建立時期、作者などは不詳なのです。
とは、言いながらも全く資料が無いわけでもないのです。
「吾妻鏡」によれば、奈良の大仏を見た頼朝が、鎌倉にも大仏を造ろうと発案し、頼朝亡き後、北条泰時の晩年の頃、浄光という僧が、勧進しながら鎌倉の大仏の造営を進めていたとの記述が見られるように、吾妻鏡には、いくつかの大仏に関する記載があるのです。

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拝観料を支払って、いよいよ大仏参拝です。

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徐々に見えてくる大仏の、その大きさに圧倒されます。

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吾妻鏡によれば、造られた当初の大仏は、現在と違い木造でした。その大きさは高さ24mもあり、現在の倍以上の巨大な大仏だったようです。
更にならの大仏同様、大きな大仏殿もあったのですが、この木造大仏完成から、僅か10数年で現在のような青銅製の大仏に変わっているのです。
つまり吾妻鏡には、1243年に木造大仏の開眼供養が行われたという記述の一方、1252年から青銅製の大仏の造立が始まったとの記述があるからなのです。
こんことは同時代の紀行文『東関紀行』にも、1242年時点で大仏と大仏殿が2/3程度完成していて、大仏は木造であったと記載されているのです。
そして1243年に開眼供養された木造大仏と、1252年から造立がはじまった銅像大仏との関係について、木造が銅造の原型(木型)であったとする説と、木造が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたといい説があり、後者の説が定説となっっているのだそうです。

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大仏の作者は不明ながら、「慶派」(運慶とそれに連なる仏師達)の作風と宋代中国の仏師達からの影響の双方を併せ持っているそうです。

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基本的には、仏には常人と異なる「三十二相」(32の身体的特徴)があると考えられており、それに従った造形になっています。

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人々を照らす光が発せられる“白毫”、紺青色とされる“真青眼相”、高くて真っすぐな、鼻孔がみえない“鼻”、福耳、孔の開いた耳朶の“耳”、東洋的微笑と称賛された“口”といった具合です。

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ここで注目すべき3つのポイント

一つ目が、大仏のヘヤースタイルである“螺髪”

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釈迦の髪の毛は3~4㎝位伸ばしていて、1本1本が右に巻かれ、現在でいうところのパンチパーマのようなヘアースタイルで、これを表しているのが“螺髪”なのです。
しかし、奈良の大仏を始めとした多くの仏像と違い、鎌倉の大仏は左巻きになっているのです。
ちょっと頭の悪い人のたとえを「左巻き」と言いますが、鎌倉の大仏も。。。

二つ目の注目は、両頬にかすかに残っている“金箔”の跡

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鎌倉の大仏は、かつて金色に光り輝いていました。
奈良の大仏が金メッキを施していたのに対して、鎌倉の大仏には、金メッキより費用の嵩む金箔が貼られていました。
これは鎌倉の大仏の材料である銅の純度が低いため、鋳造された大仏の継ぎ目が汚かったため、それを覆うために金箔の手法がとられたのだそうです。

もう一つの注目が手の形です

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仏の手の位置や形の事は“印相”といいます。
鎌倉の大仏の結ぶ印は、組まれた足の上に両手を組み合わせたもので、上品上生印、もしくは弥陀定印といい、最高の悟りの状態であることを表わしています。

因みに奈良の大仏は、施無畏と与願印の組み合わせで、人々に力を与え、人々の願いを叶える意味を持っているのです。

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大仏を横から見てみると、奈良の大仏に比べ頭が大きく、ややうつむき加減の猫背です。

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鎌倉時代につくられた仏像は、頭が大きくて猫背気味のスタイルが流行していたため、鎌倉の大仏も流行にのって、このスタイルになったようです。
時代が違えば、トレンドが違うのは今も昔も変わらないものです。

最後に大仏の背中には、まるで天使の羽のような扉が2つあることが窺えます。

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これは大仏の中の空気を換気するものと云われているのですが、鋳造後に中の土を取り出したという説もあるようです。

奈良にあって鎌倉に無いのが大仏殿ですが、鎌倉にあって奈良に無いのが“胎内”
したがって、その胎内巡りも鎌倉の大仏の拝観の醍醐味です。
わずか20円の拝観料を払ってみることができるのですが、それほど広くもなく、というか狭く、ある意味何もないので余りに期待が大きいとガッカリと云うことになるかも知れません。

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しかし見所を抑えれば、それなりに興味をひくポイントです。
まず胎内には、鋳造する時の木枠の跡が残ってりのが見られ、大仏が凡そ40回程度に分けて鋳造され、その分割鋳造された継ぎ目には、強度を持たせるために、部位に応じた3種類の“鋳繰り(いからくり)”という高度な技術を目の当たりにします。

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また、首の付け根にあたる部分には、強化プラスティックが重ね張りされた茶色い部分が見られます。
これは頭の重さを支える為の補強で、昭和35年になって行われたものです。

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実はこの補強と云うのが大変重要なポイントなのです。
本来、国宝を始めとした重要文化財に指定されるためには、キチンとした歴史的資料の裏付けがないと指定されにくいのです。
いくら古いものでも、伝承では決して文化財に指定されないのです。
そういった観点からすると、ほぼ吾妻鏡程度しか資料のない鎌倉の大仏は国宝どころか、重文でさえ指定されないことが考えられるのです。
奈良の大仏は、何度も造り直されたことから、最終的に大部分は江戸時代に造られた大仏と云っても過言ではないながら、由緒正しき大仏で建立年もきちんと把握されて裏付けもあることから国宝に指定されました。
逆に鎌倉の大仏は、由緒が無い分不利なのですが、大仏自体が鎌倉時代に造られたものが、ほとんどそのまま残っていることから国宝に指定されたのです。
これらを鑑みると、高度な技術と適切な補強があってこそ、国宝となりえたと云えるのです。

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かつて空洞になった胎内で、男女が密かに逢瀬を重ねたり、賭博場に使われたり、鳥が巣を作ったためにフンで汚れていたりした時代があったようです。また、盗賊が胎内に住みついて、高徳院の住職が怖がって逃げてしまうという逸話も残っています。
いずれにしても、その時代のままの歴史が息づいていることを、胎内で感じ取ることができるのです。

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大仏を一通り見終えたら、境内を散策です。

大仏の背中の下にあるのが『蓮弁』
江戸中期に蓮台を企図して鋳造されましたもので、当初全32枚の製作が予定されていたのですが、完成をみたのが4枚だけだったものです。

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ベンチ代わりにもなってるのが『礎石』
創建当初大仏像を収めていた堂宇は60基の礎石に支えられていたようです。
現在、境内に遺る同礎石は56基です

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回廊内壁にあるのが『大わらじ』
戦後間もない1951年に茨城県の子供たちが、大仏に日本を行脚してほしいと願って造られたもので、以降、3年に一度作り直されて寄進されているものです。

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裏手にある堂宇が『観月堂』で、ソウルの朝鮮王宮にあったものを、山一證券社の社長が寄贈したもの。
中には、徳川2代将軍秀忠は所持していたとされる聖観音像が安置されています。

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一際大きな碑が『与謝野晶子歌碑』
「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな」と、大仏を詠ったものですが、鎌倉の大仏は“阿弥陀如来”ながら、奈良の大仏と同じ“釈迦牟尼”と勘違いして詠んでしまったのです。

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参道脇には、旧シャムおよび現タイ王国王族縁の三本のクロマツが並んでいます。

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境内を出れば、やはり観光地らしい光景が現実に引き戻します。

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鎌倉の大仏は、これからも魅力あふれる鎌倉のシンボルとして輝いていくのでしょう。

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2015.07.24記