発展する鉄道 #2

官営の東海道、半官半民の日本鉄道により、前述したとおり東京の南北は建設が進んだのですが、次には東西の鉄道建設について紐解いてみることにします。
都心の東西は2つの私鉄によって開発されるのです。
1つは西からやってきた「甲武鉄道」、そしてもう一つは東からやってきた「総武鉄道」です。

甲武鉄道

甲武鉄道の前身は玉川上水の通船でした。
玉川上水は江戸時代、江戸市中に飲料水を供給するために整備された文字通りの“上水”で、当時は江戸の六上水の一つといわれていました。
その流れは羽村取水堰で多摩川から取水し武蔵野台地を東流、四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)に付設された「水番所」(水番屋)を経て市中へと分配されました。凡そ43kmの露天掘りで、飲料、農業用水として大いに貢献したのです。
この玉川上水に明治の初め船が通っていたことがあったのです。
1871(明治3)年に羽村から内藤新宿までの通船許可が下り、船による荷物の搬送が開始されたのです。
更に明治4年には小河内村からの通船が許可されたことにより、青梅から内藤新宿までの直通便が開かれ、砂利、石灰、野菜、茶、織物、薪、炭、甲州や信州のぶどう、たばこなどの産物が東京へ、東京からは米、塩、魚類などが運ばれました。
玉川上水通船 《(C)hana world》
このイラストのように東京へ向かう時は水の流れに乗り、帰る時は舟の中に舵取りが一人、二人が両岸から船に綱をつけ引いて上流まで運んだそうです。
このように実に便利な輸送機関となったのですが、よくよく考えてみれば飲料用の上水に船を通すという常識的には考えられない通船なのですが、上水事務の所管が大蔵省土木寮という国の機関に属していたことから許されたことのようです。今でゆうところの癒着的な。。。
その通船が行われた当時の「巴河岸跡」がその名残をとどめています。
巴河岸跡 《(C)曙町から》
しかしながら、その所管が東京府となった明治5年には“上水不潔ニ至リ”という理由で、当然ながら通船停止となったのです。

水上輸送が禁止され、その代わりに考え出されたのが玉川上水に沿った馬車鉄道による輸送で、1884(明治17)年、「甲武馬車鉄道会社」を設立し、新宿から羽村までの馬車鉄道敷設が企画され、1886(明治19)年には新宿-八王子間の馬車鉄道の免許を受けたのです。
しかし翌1887(明治20)年3月の閣議が状況を変えさせます。その閣議では当時計画されていた川崎-八王子間の建設より優先して新宿-八王子間の鉄道建設を優先すべきとの決定により、「甲武馬車鉄道会社」は「甲武鉄道会社」として改めて設立されたのです。
“甲武”とは文字通り甲斐の国(山梨)と武蔵の国(東京)を意味しています。
甲武鉄道
元々現在の中央本線(新宿-甲府方面)は日本鉄道が建設することになっていたのですが、この決定と甲武鉄道設立により、甲武鉄道は日本鉄道の傘下(下請け)として中央線の支線“甲武鉄道会社線・新宿-八王子”を敷設することとなり、八王子以西は日本鉄道が建設することとなったのです。

当然ながら当初は人家の多い甲州街道か青梅街道の沿線のルートが考えられていたのですが、これまでの経緯から住民の鉄道に対する反対運動はここでも強かったのです。
甲州街道の府中・調布では、商人、宿屋、人力車夫などが、客が取られるといって反対し、農家もまた、汽車のばい煙が桑の葉や野菜を害し、火の粉がわらぶき屋根にかかって火事になり、家畜に悪影響が生じるといったいろいろな理由をつけて反対したのです。また中野でも、青梅街道と宮園通りの中間を東西に貫く計画に対して、地主村民等が「鉄道は村を衰退させる」という理由で頑強な反対運動を展開したのです。
更にそれ以外の大半の沿線住民も村外に出る機会もそれほど多くないことから鉄道に期待することも少ないため、反対運動は益々エスカレートしていったのです。
強硬な反対運動に手を焼きながらも、早期に敷設しなければならない状況から計画変更を強いられ、集落が少なくても抵抗の少ない場所である武蔵野原野に敷設せざるを得なかったのです。

甲武鉄道社内では採算の取れそうも無いルートではとの反発もあり、反対運動と反発の板ばさみとなった甲武鉄道の工事担当者である鉄道局技師・仙石貢(後の鉄道大臣)は、中野-立川間の地図上に「エイヤッ」とやけ気味に“一直線の赤い線”を引っ張ったのです。
この話はあくまで逸話ですからことの真実は判りませんが、この“一直線の赤い線”は高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪・西荻窪を通過し、中野-立川間を真っ直ぐ走る線路となったと言われているものなのです。
現在の一直線の中央線 《(C)goo地図》
逸話のことは別としても、事実これだけの直線の線路が引けたのですから、明治といえども現在の中央線周辺は未開の地だったのでしょうね。
この約25kmにわたる一直線の線路は、現在、日本一の直線路線である北海道JR室蘭本線の白老-沼ノ端間28.7kmなどに次いで3番目の長さの直線路線なのです。
そのため国立にあるJR鉄道総合技術研究所(旧鉄道技術研究所)では北海道やアメリカに本格的な試験設備が出来るまで、新型車両の試験線としても使用していたと言われているのです。
因みに世界一直線が長い鉄道は、オーストリア・インディアンパシフィック号のナラボー平原を貫く区間で478kmあるそうです。日本で言えばほぼ東京-大阪間が一直線という感じですから、超ド級の直線線路といえるでしょう。

こうして着工した工事も進み、1889(明治22)年4月、内藤新宿駅-立川駅間の27.2kmが開通したのです。
途中駅は中野・境(現・武蔵境)・国分寺の3駅で、新宿を午前7時14分に出発した列車は、立川駅に予定時間の8時14分に到着したので、ちょうど1時間かかっていたのです。
これは蒸気車往復繁栄の図で、新宿駅から小金井桜への観桜列車を描いたものです。
蒸気車往復繁栄の図
なかなか粋なことを既に行っていたのですね。
現在、新宿-立川間が快速で36分(駅の数は圧倒的に多い)ですから、酷く時間がかかったという感じはないでしょう。
車輌はイギリスから直輸入したナスミス・ウィルソン社製のタンク蒸気機関車が、“マッチ箱”と呼んだ箱型客車を引いていたそうで、中野駅での風景です。
ナスミス・ウィルソン社製のタンク蒸気機関車 “マッチ箱”と呼んだ箱型客車 中野駅
運行は1日4往復、運賃は3段階の上・中・下があり、下等は1マイル1銭で、中等は2銭、上等は3銭だったということから、当時のそば1杯が1銭だったので、それほど高額ではなかったようです。
そして先に着工していながら工期の遅れた多摩川橋梁と淺川橋梁が完成し、同年8月に立川-八王子間が開業したことにより新宿-八王子間が全通したのです。
その多摩川橋梁を走る機関車と八王子駅です。
多摩川橋梁を走る機関車 八王子駅
全通当時の運行は1日4往復で、うち1往復は新橋-八王子間(新橋-品川-渋谷-新宿経由の日本鉄道ルート)の直通列車を運行し、新宿・八王子間は1時間14~17分、新橋・八王子間は1時間55分だったそうです。
こうして都心の西側の路線が甲武鉄道によって敷設されたのです。

総武鉄道

「鉄道は儲かる」という合言葉に全国的な民営鉄道の建設ブームとなった頃、関東で最後まで鉄道が無かったのが千葉県でした。
勿論、千葉県内でも1877(明治10)年代末には鉄道敷設の気運は高まっていたのですが、資金の問題から馬車鉄道の計画が多く、汽車による計画は少し先まで待たねばなりませんでした。
そして1887(明治20)年、佐原町の伊能権之丞他12人が発起人となり武総鉄道により、本所-市川-千葉-佐倉-成田-佐原のルートが計画されました。また時を同じくして成東町の安井理民他14人が発起人となった総州鉄道が、本所-市川-千葉-佐倉-八街-芝山-八日市場-銚子ルートを計画し、相次いで創立の申請を行ったのです。
赤線が武総鉄道ルートで、青線が総州鉄道ルートです。
赤線が武総鉄道ルート 青線が総州鉄道ルート
余談ながらここでピンとくる方もいるかも知れませんが、佐原町(現香取市)の伊能といえばあの日本地図を作成した伊能忠敬を思い出すかもしれません。事実伊能忠敬はこの佐原町の伊能家に婿養子に入り、当時の伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関っていた名家だったのですから。
しかし、直接的な血縁関係を明記したものは無く、さらにある記述では“永沢治郎右ヱ門・伊能茂左ヱ門・伊能権之丞・伊能三郎右ヱ門(忠敬)”というように併記されているものがあるので、勝手に推測するなら本家と分家という関係かもしれませんね。

こうして申請された千葉県初の鉄道創立でしたが、時の千葉県知事は“千葉県は海、川に囲まれ水上交通が発達しているので鉄道は不要であろうとの見解を示し、更に利根川と江戸川を結ぶ利根運河が完成し一層便利になる”との意見を添え政府に提出し、鉄道建設は不可となるのです。鉄道の利便性が明らかな時期でありながら不許可となったのは、決して知事の嫌がらせではなく、従来からの水上交通の実績の評価が高く、かつ利根運河の開削も始まったばかりということから、千葉県が支援しているこの工事中の運河への影響を考えてのことだったのです。
当時の開削工事の模様です。
利根運河開削工事 《出典:利根運河の四季》
1888(明治21)年7月に第一工事区となった江戸川口で開削式が挙行され、千葉県知事や工事設計者のオランダ人技師ムルデルも開削式に出席していたそうです。

安井理民の思い

この直後から総州鉄道の安井は再願に向け精力的に活動を始めたのです。
まずは武総鉄道の伊能と協議し共同戦線を張ることで一致し、更に利根運河の大株主である池田栄亮を加えたのです。これは特に池田が県議会議長で知事との関係も深かったからなのです。
そして利根運河との競合を避け佐原や銚子には通さず、当初の総州鉄道の計画ルートであった本所-市川-千葉-佐倉-八街ルートをベースに再申請したのです。
この創立願書は未開であった八街方面に交通の便を開き、かつ国府台、習志野、佐倉の陸軍駐屯地を通過するという陸軍大臣への根回しとともに、軍事上も有益であるということから、1889(明治22)年12月に免許を得、翌明治23年1月に新会社「総武鉄道」が設立されたのです。
こちらも文字通り、上総国・下総国と武蔵国を結ぶことから“総武”と名づけられたのは言うまでもありません。

こうして安井、伊能が役員に名を連ねた総武鉄道はまず株式を発行し資金を募りました。当初は陸軍のバックがあるという噂から人気を博したのですが、時代の経済不況により株価は急落、これにより当時は資金の続く人間が会社の役員になれる時代だったため、資金難と内紛が続くこととなったのです。このなかで成東町で有数の資産家といわれた安井も私財を使い果たし、さらに病魔にも侵され役員を辞職したのです。
実際の用地買収や路線決定に苦労していたのですが、1892(明治25)年に政府が鉄道施設法を制定し、官営、民営にかかわらず国に必要な鉄道は国の責任で敷設するという内容で、その中にこの総武鉄道も含まれていたことから翌年の明治26年やっと工事が開始されたのでした。
江戸川で資材が運び易いとの理由から市川から工事が開始され、まず1894(明治27)年7月、市川-佐倉間が開通し、千葉県初の鉄道が完成したのです。
当時の総武鉄道の機関車です。
総武鉄道の機関車
駅は市川、船橋、千葉、佐倉の4駅で、1日5往復運行され、単線のため上下の列車は船橋で交換されました。市川から千葉まで50分、終点の佐倉までは1時間30分かかったようです。現在の総武線快速では市川-千葉間が22分ですから、総武鉄道の場合は結構時間がかかっていたのです。
市川から先は両国まで乗合馬車が1日7回走っていたのですが、江戸川に橋が無かったことから船で川を越えるため非常に不便でしたが、見物人も含めてかなり盛況だったのです。
こうして開業した総武鉄道ですが、同年の僅か半年前ほどの2月に安井は36歳の生涯を閉じていて、この開通を見るとが出来なかったのです。

幸か不幸か開業の10日後、日清戦争が勃発し兵の輸送に臨時列車が多発され、鉄道が軍事上重要であることが認識されたのです。9月27日には上り列車を全てストップさせ、佐倉旅団が出発しました。
この時点で総武鉄道は孤立した路線であり、東京とも接続されていないことから乗り換えも不便でした。これを解消すべく、新たに小岩-上野間を路線計画に追加し免許も得たのですが、やはり民家の密集地帯のこの地区を通過することは困難であることから、変わりに支線として市川から本所(現在の錦糸町)への建設を先に進めることとなったのです。
この本所駅は津軽藩屋敷跡を利用したのですが、当時はまだ荒川が無く一体が低湿地であったため、今で言う液状化状態だったため「お化け丁場」と言われたのだそうですが、明治27年12月、本所-市川が開通し、幕張と四街道の両駅も開設されたことから、総武鉄道は本所-市川-船橋-幕張-千葉-四街道-佐倉と延伸したのです。因みに開通したばかりの総武鉄道に乗った正岡子規が佐倉まで旅をし、各地で句を残しているそうです。
それは「獺祭書屋俳話」で明治35年に発行されたものです。
獺祭書屋俳話
鉄道は風雅の敵であるけれども、新しい発想の源になるかもしれないと言っており、鉄道に魅力を感じたということなのでしょう。

次なる目標は佐倉から銚子で、明治25年公布の鉄道敷設法には「東京府上野より千葉佐倉を経て銚子に至る鉄道、及び本線より分岐し木更津に至る鉄道」が将来建設すべき鉄道とされていました。
起点が上野駅なのは来るべき日本鉄道との接続を狙い、既に上野-小岩の免許を得ていたからです。しかし大きなポイントは、この条文には佐倉-銚子間のルートが示されていないということです。ということはこのルートに関しては設立前の武総鉄道ルートか、総州鉄道のルートの二者択一となるのです。つまり南の八街-成東経由と北の成田-佐原経由のルートかということなのです。
両者とも激しい誘致合戦を繰り広げた結果、まず距離の長い分成東ルートのほうに有力者が多いことから八街延長が決定し、その後、銚子の醤油醸造業者を中心とした旧総州鉄道派の主張が通り、成東ルートに決定したのです。結局は権力争いのようなものでした。

そして工事は順調に進み、1897(明治30)年6月に銚子までが全通しました。本所から千葉が1時間6分、佐倉までが1時間40分、銚子へは4時間10~20分の旅で、一番列車で銚子を発てば、東京への日帰りが可能となったのです。
全通時の駅は本所-市川-中山-船橋-津田沼-幕張-千葉-四街道-佐倉-八街-成東-横芝-八日市場-旭町-飯岡-松岸-銚子で、現在の横芝駅の駅舎は、屋根の吹き替えや壁面の塗装などが行われ改装されていますが、建造物自体は唯一残る当時のものなのです。
横芝駅
このように現在の錦糸町からの総武本線が開通し、後年、この功績を讃えて成東駅前には安井理民への「魁の碑」が建立されたのです。
魁の碑 《(C)九十九里地域13市町村 観光情報》
総武鉄道の創設に私財をなげうって尽力した功績は確かに大きいのですが、一方、ずっと役員を続けてきた佐原町の伊能は、後年、地元紙にルート誘致に関しては社内でも意見が別れていたと、その無念さを語っていたのです。
二人の明暗を分けた決定だったようです。

その後、1904(明治37)年には両国橋(現・両国)~本所間の1.5kmを日本で始めての高架鉄道として完成させたのです。
当時の高架線開通を伝える新聞です。
高架線開通 《出典:日本鉄道切符公園》
更にこちらは両国橋駅での祝賀の写真です。
両国橋駅
これは当時日本鉄道が新たに東京中央駅を計画し、上野-東京中央駅間を高架線で結ぼうとしていたことにより、総武鉄道も秋葉原でこれに接続するべく計画していた高架線だったのです。
東京名所の一つとなったのですが、煉瓦造りの橋脚に鉄桁を載せただけのものであったことから、たれ流しの列車のトイレからの落下物が地上に直撃するという深刻な問題もあったのですが、その人気と輸送力はかなり高かったのです。
そして当時の両国橋駅と現在の両国駅です。
両国橋駅 両国駅
高架上にホームがあり、現在でも総武線が停車しています。
目を転じると両国駅のバックに両国国技館、スカイツリーという絵になる駅なのです。
両国駅
更に両国だけあって駅構内に大相撲の優勝額があるのも、日本全国子の駅だけではないでしょうか。
両国駅
駅の反対側から見た高架線は確かに鉄桁が載っているのが見て取れますが、さすがに煉瓦の橋脚は残っていないようです。
両国駅
或いは外側をコンクリートで固められたのかもしれませんが。。。
更にその先は石垣で固められた高架で、やはりこちらも外側をコンクリートで被われています。
高架
そしてその先は錦糸町まで続く高架線なのです。
高架
何れにせよ、このように明治の時代を残しつつ新しい息吹を取り入れている両国駅なのです。

こうして両国橋を都心側のターミナルとして、両国橋駅を利用する旅客はすでに開業していた路面電車に乗り継いだのです。
両国橋駅MAP 《(C)goo地図》
当時の両国橋に路面電車が通っているのが見て取れます。
両国橋の市電 《出典:国立国会図書館》
因みにこの両国橋は、隅田川で千住大橋に次いで2番目に古い橋で、初代は1659年(1661年とも)にかけられた由緒ある橋なのです。
そして貨物扱いも両国で行い、ここから隅田川の舟運を利用して物資が東京都内に運ばれたのです。
隅田川の舟運 《出典:国立国会図書館》
また、一方この開通によって、それまで東京-銚子間の交通の主力であった利根川水運は衰退を余儀なくされたのです。両国-銚子間を一日2便、18時間で結んでいた蒸気船に対して、総武鉄道は4時間で走るのですから、どうあがいても鉄道に勝てる要素は無かったのです。
昭和初期の利根運河を進む蒸気船です。
利根運河を進む蒸気船 《出典:利根運河の四季》
この後、利根川水運は国に買い上げられ、現在は野田、柏、流山に至る自然公園となっているのです。
自然公園
こうしてしばし両国橋駅を中心として、総武鉄道は次ぎなる延伸に向っていくのです。
このように西から甲武鉄道、東から総武鉄道が都心に向って突き進み、いよいよ都心の過密地帯に路線が結ばれる足音を響かせていたのです。

(つづく)

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