AKBへの道はそろそろ終盤に差し掛かります。
前編で比較的新しい文化であるサッカーと文化の根幹を成す学問の地を中心に巡ってきましたが、後編ではまさに日本の古の文化と、東京を代表する文化を訪ねます。
AKBまではもうホンの僅かな道程です。

第3部 湯島・外神田編《後編》

霊雲寺を後にして、来た方向とは反対の東の方向に向かいます。
先に進むと「三組坂上」と言う名称の交差点に差し掛かります。
三組坂上 三組坂上
珍しい坂名ですが、1616(元和2)年家康の死去に伴って、家康付きの中間・小人・駕籠方「三組の者」に当時駿河町といわれていたこの一帯を与え、1696(元禄9)年、三組の御家人拝領の地の由来をもとに町名を「三組町」とし、この町名の坂であることから“三組坂”と名付けられたのです。
坂はこのまま真直ぐ下ることになりますが、ここは右折して別の坂を下ることになります。
清水坂
こちらは「清水坂」で、元々この一帯は島田弾正という旗本屋敷で明治になって清水精機という会社の所有となり、大正時代に湯島天神とお茶の水の往来が不便だったことから、清水精機が一部の土地を提供してこの坂道を整備したことから「清水坂」と呼ばれるようになったのです。
それにしても確かに東京は坂の多い街ですね。

妻恋神社

坂を下りた途中に「関東総司 妻恋神社」の標柱があったのでちょっと立ち寄って見ます。
関東総司 妻恋神社
街の中に溶け込んだかのような小さな境内です。
関東総司 妻恋神社
境内は小さくとも石造りの鳥居は立派です。鳥居の傍らに曰くありげな岩がありますが。。。
鳥居 謎の石
左手に「妻恋神社」社殿と社務所があり、正面に「妻恋稲荷社」が鎮座しています。
妻恋神社 妻恋稲荷社
この神社の創建年代等については不詳ですが、日本武尊が東征のおり三浦半島から房総へ渡るとき大暴風雨に会い、妃の弟橘媛が身を海に投げて海神を鎮め、日本武尊の一行を救い、その後、東征を続ける日本武尊が湯島の地に滞在したので、土地のものたちが日本武尊の妃を慕われる心をあわれんで日本武尊と妃を祭ったのがこの神社の起こりと伝えられているそうで、その後、稲荷明神(倉稲魂命)が合祀されたのです。
江戸時代では“妻恋稲荷”と呼ばれて関東惣社と名のり王子稲荷神社と並んで参詣人が多かったようです。
その大きな理由として、正月2日の晩に枕の下に敷いて寝ると、初夢で良い夢を見られると言われる縁起物の木版刷りの「夢枕」を売り出したことにもあるようです。
「福寿鶴亀」と「七福神の乗合宝船」の二枚の夢枕は、万治年間(1658~61)に創案され妻恋神社が版権を所有していたところ、版木が戦災で焼けたと思われ焼失していたのですが、昭和52年に摺師の家で見つかり、現在再び売り出されているのだそうです。
夢枕 《(C)こうき心》
まさに江戸の文化が今でも続いている好例でしょうね。

おりがみ会館

坂を下りきった「清水坂下」交差点をそのまま進むと湯島聖堂に行き着くのですが、ここは一旦右折して蔵前橋通りをサッカーミュージアム方面に1ブロック進みます
清水坂下
そしてその交差点の角には「おりがみ会館」があるのです。
おりがみ会館 おりがみ会館
ファサードのディスプレイも当然折り紙で、まさにアートといっても過言ではないようです。
おりがみ会館
そしてここ「おりがみ会館」は“小林染紙店”が母体となったNPO法人国際おりがみ協会が運営しているのです。
そもそもこの「小林染紙店」は、1858(安政4)年に初代・小林幸助が、「染め紙業」として創業したことに始まるのです。ちょうど安政の大獄のときですからまさに幕末です。
因みに先の妻恋神社の夢枕の版権を所有しているのが、この小林染紙店なのです。

この染紙店が折紙と関わるようになったのは、1885(明治18)年の文部省(学用品課)からの折紙制作の依頼からでした。これは世界初の折紙ということになるようです。
この依頼は、幼稚園の創始者ドイツのフレーベルの幼児教育のための教材(恩物といい20種あるのです)の一つである“紙を折る”を参考に、日本での教育に畳紙(折り紙)を採用したためなのです。
フレーベル
その後、昭和初年には玩具業界は折紙を「おもちゃ」として発売し、世界中に普及する歴史的スタートになったのです。
興味深いのは折り紙の起源で、現在は折り紙は日本の起源説が主流を成しているのですが、説には中国説、日本説、そしてスペイン説があるのです。
中国説は製紙の起源からのものなので根拠は乏しいのですが、先のフレーベルの教育法に折り紙があることから、ヨーロッパにも独立した伝統があったと考えられスペイン説の根拠となっているようです。
何れにせよこのヨーロッパの“折り紙”という教育が、日本の開国とともに融合し世界に広まったと考えるのが妥当なのでしょう。
現在ではSUSHI (寿司)やTSUNAMI (津波)などと同様に、ORIGAMIも世界に通用する日本語のひとつですから、まさに日本の文化といえるでしょう。

入館してみます。
1階は、様々な折紙の展示です。
折紙作品 折紙作品 折紙作品
見事な作品に見とれてしまうくらい素晴らしい折紙です。
ある意味これが折紙、って思うくらいの作品もありますね。
折紙作品 折紙作品 折紙作品
こうして拝見していただいていると、こちらにいらっしゃるご老人から声をお掛けいただき、とにかく座りなさいとテーブルに着いた(否、着かされたといったほうが・・・^^)のです。
折紙体験
すると長細い折紙を差し出されて、ご老人の折られるのを真似して折ってみなさいとのこと。
そして真似をしながら折ったのがこちらの“鉛筆”の折紙だったのです。
折紙体験
どうやらここでは折紙の体験ができるコーナーのようで、貴重な体験をさせていただきました。
それにしてもご老人は品格がおありなのでよろしいですが、ご老人と50過ぎのオッサンが二人で折紙を折っている光景って、側から見ると随分と滑稽な眺めなんでしょうね。他に人がいなくてよかったです;;
帰りがけに他の色の鉛筆用の折紙をたくさんいただきました。猫に小判的な要素もあるのですが感謝です。
折紙体験
中2階はギャラリーのようで、展示会が開催されていました。
ギャラリー
3階は折紙などの紙や製品などの売り場になっています。
売店 売店 売店
4階は工房で実際に紙を作る行程を見学することができます。
工房 工房
このように折紙を立体的に学べる貴重な施設でした。

古くは平安時代の“清輔朝臣集”にカエルの折り紙についての記述があり、その後、江戸時代に庶民にも折り紙(折り手ぬぐい)などが普及したのです。
今や日本の誇る「ORIGAMI」はまさにクールそのものでした。

神田明神

おりがみ会館から再び清水坂下に戻り、ここから湯島聖堂方面に進みますが、すぐ左手に公園があったので寄り道です。
千代田区立宮本公園
千代田区立宮本公園で、階段の上に僅かながら遊具のある小さな公園です。
千代田区立宮本公園
公園の裏手には「三谷長三郎胸像」があります。
三谷長三郎胸像
千代田区指定の文化財だそうで、三谷長三郎を功績をたたえる為に昭和9年に建立されたものです。
三谷長三郎は神田在住の実業家で、三谷家は1660(万治3)年創業の銅・真鍮を扱っていた商家です。十代目を襲名した長三郎は大いに財をなし、財団法人三谷報恩会を結成して、当時神田区の学校教育に貢献をしたのです。例えば春の遠足、夏の林間学校などを開催し、神田区内の学校に映写機やピアノなどを寄贈しているのです。
こうした貢献からこの像が作られたのですが、作者は北村西望で長崎の平和祈念像の作者なのです。

像の先には蔵作りのような木造建築の建物があります。
遠藤家旧店舗・住宅主屋
こちらの建物も千代田区指定の文化財である「遠藤家旧店舗・住宅主屋」です。
江戸時代以来材木商を営んできた遠藤家の店舗兼住宅として昭和2年に鎌倉河岸に建てられたもので、文化財指定とともに、ここに移転されたものだそうです。
遠藤家旧店舗・住宅主屋 遠藤家旧店舗・住宅主屋
しっとりとした佇まいが下町の情緒を醸し出しています。

遠藤家旧店舗・住宅主屋の先が神田明神の境内地となるのですが、ここからは「神田神社屋上庭園」なるところを通り抜けられるようなので行って見ます。
神田神社屋上庭園
格別見るべきことも無いのですが、先ほどの遠藤家旧店舗・住宅主屋ですが、人間一段高いところから見下ろすと気持ちがいいものなんですね。
神田神社屋上庭園 神田神社屋上庭園
屋上庭園を抜けると湯島・外神田編での最後の目的地「神田明神」となります。

表参道口は本郷通りに面したところにあります。
青銅製の大きな鳥居が印象的です。
大鳥居
鳥居の左手にある店が有名な「天堅屋」なのだそうです。
天堅屋
この店の自慢は店で扱っている麹を使った甘酒で、参拝の折に立ち寄って行く方が多いそうです。
冬の寒さで身体を温める甘酒も勿論美味しいのですが、夏は冷した甘酒やカキ氷に甘酒をかけたものが人気なのだそうです。 といっても、甘酒を全く飲めない私は残念ながらスルーですが、この周辺では麹を扱った店が幾つかあり、どの店も地下に麹室があり麹を保存しているのだそうです。
案内板に寄れば看板にある“天堅屋”は本来「天野屋」と読むそうです。どこでどうなったのかは判りませんが。。。
肝心なのはこの糀室で、天野屋の糀室は1904(明治4)年に建築されたもので、現在でも甘酒や味噌などに使用されています。この室は関東ローム層を地下6メートルまで掘り、天井をアーチ型にした地下室で、壁・天井には煉瓦が張られているのです。
その室の様子が案内板にある写真です。
糀室
この天野屋の創業は1846(弘化3)年と伝えられ、明治37年の糀室之図によると、かつては竪坑から複数の室が放射状に伸びていたようです。
糀室
この図では天野屋以前のものや明治期に増設されたものなどあったのですが、平成3年に一部を残して取り壊されたのだそうです。
したがって現存する室は100年以上も使用され続けており、現在もなお使用されていることが非常に貴重な室として千代田区指定の文化財となっているのです。
現在も使用されているため一般公開はされていないようです。
さらにこの天野屋の建物は“景観まちづくり重要物件”としても指定されていて、神田明神とともに無くてはならない存在であるようです。
景観まちづくり重要物件
参道を進むと参道の右側にも甘酒を売るお店を見ることができます。
甘酒や

正面にある門が「随神門」です。
随神門
朱塗りの門の総檜造りで、矢大臣・左大臣も鎮座しています。
矢大臣・左大臣 矢大臣・左大臣
平成10年に鮮やかに塗り替えられたものです。
「隋神門」を抜けた正面が社殿です。
社殿
社殿は鉄筋コンクリート造りで、本殿、幣殿、拝殿を連結させた珍しい形で国の登録文化財に指定されています。
社殿 本殿
神田明神は創建は天平と伝わる古社で、神田、日本橋、秋葉原など108つの町の総鎮守として崇敬されています。明治時代に「神田明神」から「神田神社」に改名されたのですが、いまだに神田明神の方が浸透しており、地元の人々からは“明神さま”と呼ばれているのです。
祭神は大己貴命、少彦名命、平将門神の三神で、境内の左側にその三神のモチーフがあります。
大己貴命は大黒様のことで、国土経営・夫婦和合・縁結びの神です。
大黒様
少彦名命は恵比寿様のことで、その像は海の仲間であるイルカ・タイ・トビウオに守られて大海原を渡っている姿が描かれているのです。
恵比寿様
そして三神目が平将門です。
935(承平5)年に将門の乱を起こして敗死した将門の首が京から持ち去られ明神の近くの大手町に首塚として葬られ東国の武将の崇敬を受けました。14世紀初頭の嘉元年間に疫病が流行し、これが将門の祟りであると供養が行われ、1309(延慶2)年に神田明神の相殿神とされたのです。
祈願すると勝負に勝つといわれており、ここにはその将門を祀る神輿が奉安されているのです。
平将門
以前、千葉の【成田山】に行ったときに知ったのですが、神田明神を崇敬するものは成田山を参拝してはいけないというタブーがあるのです。
これは朝廷に対して叛乱を起こした将門を討伐するため、僧・寛朝を空海作といわれる不動明王像と供に成田山新勝寺に向かわせ乱の鎮圧の為の護摩の儀式を行わせた事に由来しているのです。つまり成田山新勝寺の参拝は将門を苦しめることになるという解釈なのですね。 将門への信仰心は祟りや厄災を鎮めることと非常に深くかかわっている現れのようです。
因みにこの将門神は明治天皇の行幸時に朝廷の逆臣の将門が祀られるのはあるまじきことととして祭神から外され、代わりに少彦名命(恵比寿神)が茨城県の大洗磯前神社から勧請されたのだそうです。 戦後の昭和59年に将門神は祭神に復帰したのですが、神にも人事異動があり、めでたく本社復帰を果たしたこともビジネスマンの参拝に繋がっているのかも…、って訳ないですね。
これら三神のモチーフに挟まれて、神田明神にはご神馬がおります。
ご神馬
神幸号の「明」だそうです。
明るく平和の世を願い、神田明神の“明”を取って「あかり」としたそうです。毛並みは“あし毛”といわれ、年をとるごとに白くなり最終的には白馬になるのだそうです。
因みにこの隣に絵馬掛けがあります。
絵馬
沢山の絵馬が奉納されているのですが、やはりAKBのお膝元ゆえなのか、アニメキャラが殆ど描かれていました。

神田明神と言われて多くの方が思い浮かべるのが「神田祭」でしょう。
現在神田祭りは5月に行われていますが、かつては9月5日に行われていました。それは関ヶ原の合戦で家康が勝利を収めた日に因んでいて、この由来から神田祭りは神社とともに幕府の庇護を受け、城中で将軍や御台所の上覧を受けられるようになったのです。 このことから神田祭りは江戸の人々から「天下祭」と呼ばれるようになったのですね。
当時の錦絵が神楽殿の横に展示されていますが、神田明神は神田祭りと共に江戸時代のいわゆる“江戸っ子の文化”の象徴ともいえるのではないでしょうか。
神楽殿 錦絵 錦絵
その模様は社殿右手に掲出されている沢山の写真や資料館でも知ることが出来ます。
資料館 神田祭
京都の祇園祭、大阪の天神祭とともに日本三大祭と言われる所以でしょう。

神田祭以外にも江戸文化を彷彿とさせるものが点在しています。
一つが社殿に向かって左側にある「小唄塚・小唄作詞塚」です。
小唄塚・小唄作詞塚
小唄とは、三味線伴奏の歌曲の一つで、三味線のつま弾きを伴奏とする短い歌曲のことです。
江戸末期に発生し現代に及んでいるのですが、人気を博したのは明治中期になって皮肉な歌詞、曲調が現れた頃からのようです。 そして小唄の作曲に功績を残した吉田草紙庵を顕彰する「小唄塚」が昭和31年に建立され、「小唄塚」建立30周年を記念して小唄の作詞家を顕彰する「小唄作詞塚」が昭和62年に建てられたのです。
小唄の題材には江戸っ子の“粋”と“いなせ”と“勢い肌”の象徴である神田祭が多数取り上げられた縁から、この地に建立されたのだそうです。

二つ目は社殿に向かって右側にある「国学発祥の地」碑です。
「国学発祥の地」碑
国学とは端的に行ってしまえば日本独自の文化・思想を日本の古典や古代史のなかに見出していこうとする学問で、本居宣長、賀茂真渕、平田篤胤と共に国学の四大人の一人である京都伏見の神官であった荷田春満が、江戸で初めて国学の道場を開いたのがこの神田明神なのです。
荷田春満
その道場が当時神田明神の神主であった芝崎邸内であったことから、この碑が建立されたのです。
撰文は作家今東光です。

三つ目が「国学発祥の地」碑の隣にある「銭形平次碑」ですが、決して“銭形のとっつぁん”のことではありません。
銭形平次碑
これは野村胡堂の「銭形平次捕物控」を原作にしたテレビドラマの主人公で、神田明神下に住み「明神下の親分」と呼ばれる親分という設定だったのです。
この時代劇は1966年5月~1984年4月までフジテレビ系で毎週水曜20時から放映されていて、ドラマ史上最長の全888回という金字塔を打ち立ててギネスブック認定されているのです。
主演は二枚目俳優の大川橋蔵で、番組が終了して間もない1984年12月になくなったことから、まさに橋蔵のライフワークとも呼べる作品だったのです。
“寛永通宝”の銭を投げて悪者をつかまえるという不動の設定が人気の一つだったのでしょう。当時は子供だったので内容はよく覚えていませんが、舟木一夫の歌う主題歌は“耳にタコ”状態でした。
主題歌
この碑も土台は寛永通宝になっているのがユニークで、創作上の人間の碑が建てられるというのも、いかに当時人気があったかを裏付けるもので、まさに時代劇は昭和中期の映像文化だったのです。
傍らにある小さな碑は平次の子分である“うっかり八兵衛”こと・・・、ではなくて“がらっ八”こと八五郎の碑で、その奥にある灯篭は当時作者の野村胡堂旧宅にあったものだそうです。
八五郎の碑と野村胡堂旧宅灯篭
放送が終了してからほぼ30年が経過しようとしていますが、どっこい平次親分はまだまだ健在のようです。

江戸、及び江戸っ子の文化を知ることが出来る明神ですが、もう一つの特徴に境内社の多いことがあげられます。
その中で特にシンボリックなのが摂社三社です。
702(大宝2)年に豊島郡江戸に創建された“江戸最古の地主神”である「江戸神社」は、鎌倉時代には江戸氏の氏神として崇敬され、太田道灌の江戸城築城後は城内に祀られていたのですが、1603(慶長8)年の江戸城の拡張の際に神田神社境内に遷座したものです。
江戸神社
また江戸時代よりも前に創建されたと伝えられるのが「大伝馬町八雲神社」で、祭礼の際に大伝馬町の御仮屋へ神輿を渡御していたことからこの社名となったようです。
大伝馬町八雲神社
更に元は江戸城内にあった「小舟町八雲神社」は、同じように祭礼の際に小舟町の御仮屋へ神輿を渡御していたことからこの社名となったのです。
小舟町八雲神社
この三社の祭神はいづれも建速須佐之男命で、三天王とよばれ順に一の宮~三の宮となっていて、神田明神の歴史を伺い知ることの出来る摂社なのです。
このほかに、日本橋魚河岸水神社・末廣稲荷神社・浦安稲荷神社・金刀比羅神社・三宿稲荷神社・籠祖神社の氏子に縁のある末社が鎮座しているのです。

最後に個人的に興味のあった場所に行って見ます。
それは「幻の東京赤煉瓦駅」での【旧萬世橋】でした。
現在、秋葉原にある万世橋の初代萬世橋(筋違橋)の勾欄で、取り壊されたときにこれだけ残されて再利用されたものなのです。
錦絵 萬世橋勾欄 萬世橋勾欄
当時の錦絵とともにシンボリックに残されているのです。

現在では江戸と平成が融合された光景が望め、まだまだ興味は尽きない神田明神ですが、参拝はここまでとしていよいよここからは最後のロード秋葉原に向かいます。
境内からは遠くスカイツリーも眺めることができ、まさに現代と古のコラボした光景が眺められます。
スカイツリー スカイツリー
境内の右側にあるかなり急な「明神男坂」の石段を降りていきます。
明神男坂
傍らには江戸時代から震災、大戦を潜り抜けてきた「大公孫樹(おおいちょう)」とその子孫に見送られて神田明神を後にするのです。
大公孫樹 大公孫樹

明神男坂を下って路地を進むと外堀通りに行きつきます。
外堀通り
ここを右折して外堀通りを南下すると、右手には“昌平”の名を冠した「千代田区立昌平小学校」を見ることができます。
千代田区立昌平小学校
この昌平小学校は平成25年11月で20周年と新しい学校なのですが、本来は旧淡路小学校と旧練成小学校、そして旧芳林小学校が統合して出来た学校なのです。
その歴史を追うと、旧淡路小学校が1875(明治8)年開校、旧練成小学校が1878(明治10)年開校、そして旧芳林小学校が1857(安政4)年に前身である家塾・芳林堂が開かれ、1873(明治6)年に私立小学校の先駆けとなって開校されたという凄まじい歴史を持っているのです。
そしてこの現在地は旧芳林小学校があった地なのです。

更に進むと右手に粋な黒塀の料亭らしきものがあります。
明神下 神田川本店
ここは「明神下 神田川本店」で、あのウナギで有名な店舗です。
しかし、神田川と言ってもあの関西弁の料理人の神田川とは違い、何と創業1805(文化2)年の老舗中の老舗店舗なのです。
明神下 神田川本店
現在は11代目でなんと言っても創業時からの秘伝のタレを現在も継承しているのだそうです。
江戸の食文化を代表する200年の歴史のタレをいつか賞味したいものです。

そしてその先の交差点が「神田明神下」交差点です。
「神田明神下」交差点 「神田明神下」交差点
ここを左折するといよいよ最後の秋葉原エリアとなります。

2013.07.30記
(第4部 秋葉原編につづく)

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