日光御成道沿いの散策から、最後は慈恩寺地区での散策で今回は終了となります。
「相野原一里塚」から100mほど戻った交差点を左折すると、そこは昔も今も変わらぬ“巡礼道”なのです。
岩槻、関根画伯ゆかりの地の最後は、この巡礼道を辿ります。

関根画伯を辿る街の道 後編

巡礼道マップ

巡礼道(c)グーグルマップ

巡礼といえば観音めぐりで、ここ岩槻には「坂東三十三ヶ所観音霊場」の12番札所である“慈恩寺”があるのです。
そしてこの慈恩寺へ向かう道を巡礼道と呼んでいるようです。

慈恩寺地区

「坂東三十三ヶ所観音霊場」とは、源平合戦後の供養や源頼朝の厚い観音信仰、そして西国で見聞した観音霊場巡拝への思いが結びついて、約800年前の鎌倉初期に開設されたものです。
坂東=関東ですから、当然関東地方に分布し第1番の神奈川県鎌倉市にある杉本寺を始めとして、千葉県館山市の第33番の那古寺まで、東京、神奈川、埼玉、千葉、群馬、栃木、茨城の1都6県に分布し、約1300kmの行程なのです。

慈恩寺

早速その巡礼道を進むと正面に山門が見えてきます。

慈恩寺山門

江戸時代初期の建立と伝わる山門

現在の道路が山門を避けるように蛇行していますが、まさに古刹としてのある姿なのでしょう。歴史を刻んできた風情を醸し出していますが、それもそのはずで、幾多の火災にも残った1691(元禄4)年の建立といわれているものなのです。

慈恩寺本坊・庫裏

本坊と庫裏

慈恩寺鐘楼

鐘楼

山門を入ると正面右手に「鐘楼」、左手に「本坊」をみることができます。どちらも昭和の時代に改修されたものですが、それとなく歴史を感じるのは、境内の圧倒的な歴史の空気によるものなのでしょうか。

慈恩寺寺号標

現在の表参道!?

そして90度左側の先に本堂(観音堂)があります。
本堂 本堂 本堂

紛れもなく中世から近世の香りのする本堂

これぞ古刹の風格とでも言うのでしょうか、その彫刻や佇まいに圧倒的な存在感を示してます。
この本堂は1836(天保7)年に焼失したものを、1843(天保14)年に建立したもので、昭和12年に改修されているそうです。

旅歴メモ -慈恩寺由緒- 慈恩寺は平安時代の高僧、慈覚大師によって824(天長元)年に開かれた寺院で、慈恩寺という寺名も大師が学んだ唐の長安にある大慈恩寺に因んだもので、天台宗の有力寺院として栄華を誇っていたのです。
しかし中世における慈恩寺領は本坊42坊、新坊24坊の合わせて66坊もの搭頭が存在していたのですが、岩附周辺に古くから勢力を誇っていた渋江氏らの豪族層等に支配されていたため、慈恩寺領はかなり入り乱れていたのです。
太田資正判物

大田資正判物(案内板より)

この状態をまとめたのが岩付太田氏で、1551(天文20)年の判物によると、それまで渋江氏などに支配されていた18坊を大田資正の代に慈恩寺に寄付し、以降慈恩寺領は66坊とすると、慈恩寺の回復・保証を記しており、その後は太田氏から北条氏の支配に移った際にもその保証はされていたようです。

南蛮鉄の灯籠

南蛮鉄の灯籠

境内には北条氏に支配が移った後、1589(天正17)年に北条氏房の家臣、伊達房実によって寄進された南蛮鉄灯篭が現在も安置されているのです。
1590(天正18)年、秀吉の命により入府した家康により、民衆懐柔政策の一環として有力寺院には寺社領の寄進が実施され、慈恩寺にも100石の朱印状が出され当時の寺領としてはかなり高い部類だったようです。
そしてその後も日光御成道の日光社参の際に三代将軍家光がここで昼食をとったりと、幕府の庇護も厚かったようです。

このような古刹に付き物なのが「七不思議」で、ここ慈恩寺もご多分に漏れず“慈恩寺七不思議”が伝えられているのです。
七不思議-1「種無し李(もも)」
慈覚大師が布教先を目指して投げた「種無し李(もも)」がこの地で花を咲かせたことから、華林山と呼びこの地に開山した。
七不思議-2「三足雉子」
この地で布教する際に、土地の老人が車を与え、「足が三本ある雉子」が、その車の道案内をして沼に向った。
七不思議-3「十二天車」
車を与えた老人が十二神将の毘沙門天だったことから、この車を「十二天車」と呼び、災害などが起る際には大きな音を轟かせた。
七不思議-4「夏島」
導かれた沼には、龍となった少女がおり、その少女を助けた恩返しに夏になるとその池に「七つの島」を浮かび上がらせた。
七不思議-5「龍灯」
同様に龍から解放された少女の恩返しで、毎夜になると境内は「龍灯」で明るくかがやいた。
七不思議-6「沼渡りの藤」
大師が沼の南から北に渡る際に、「藤のかつら」を南北に掛けて、これに伝わって無事に渡れた。
七不思議-7「倒さ富士」
この沼に弁天様を祀ると、水は鏡のように澄んで、そこに富士の「逆さ富士」が映し出された。
それだけ不思議な力に満ちた慈恩寺ということをアピールしているわけですが、現在のパワースポットといっているものと大差は無いのでしょうね。

いづれにせよ繁栄を誇っていた慈恩寺もやがて徐々に下り坂となるのです。
1682(天和2)年になると寺領は三分割され、慈恩寺村・表慈恩寺・裏慈恩寺となり、66坊の塔頭も多くが農地となり、文化文政時代(1804~1892)には9坊を残すのみとなったそうです。
ただしその栄華は現在でも地番として表慈恩寺・裏慈恩寺として残り、かつての栄華を偲ばせているのです。

玄奘塔

玄奘搭唐門

印象的な唐門

慈恩寺参拝も終えて、ここから10分も歩いたところが「玄奘搭」で、正面にはまさに中国の唐門が立っています。
玄奘搭

玄奘搭

唐門を潜り抜けると正面にあるのが玄奘三蔵の遺骨の眠る“十三搭”の「玄奘搭」です。

旅歴メモ -玄奘三蔵- 三蔵法師といえば、かの「西遊記」によって多くの人に知られた名僧で、その三蔵を助ける孫悟空は誰でも知っているヒーローです。
しかしながら、この“三蔵”は一般名詞で、教えの「経」、戒律の「律」、経と律を研究した「論」の3つを極めた僧を三蔵といい、三蔵の中でも極めて優れていたのが「玄奘」だったので、三蔵法師といえば「玄奘」のことになったのです。
玄奘搭 玄奘三蔵

玄奘三蔵銅像

玄奘三蔵は中国・隋の時代(600または602~664)に陳家の四人兄弟の末子として生まれました。13歳のときに僧に選ばれ法名を玄奘と呼ばれるようになります。
中国各地で教えを請うたのですが納得できる答が見つからず、629(貞観3)年27歳のときに国禁を犯して密出国し、三年後にようやくインドにたどり着き、サンスクリット(梵語)の仏経原典657部を携えて長安に戻ってきたのです。時は645年で、日本では大化の改新の時です。
唐を発って17年の歳月は中国の政治も変わっており、帰国時は大歓迎を受けたそうです。
帰国後は持ち帰った仏典の翻訳に生涯を賭け、62歳で亡くなるまでの19年間で翻訳したのは約1/3だったそうです。

このように子供でも知っている玄奘三蔵法師がここに眠っているのですが、ここに至るまでの経緯を見ておきましょう。
遺骨の発見は1942(昭和17)年の第二次世界大戦のさなか、中国南京を占領していた日本軍が、丘を整地していたときに石棺を発見し、石棺には1027(天聖5)年に玄奘三蔵の遺骨が長安から南京に移されたことが記載されていて、日中両国の調査の結果、玄奘三蔵法師の遺骨であることが判明したのです。
発見の翌年に、遺骨は副葬品などと一緒に南京政府に還付され、翌年、南京玄武山に玄奘塔が完成したのです。

南京での玄奘搭完成の式典の際、“日中の仏教徒が永遠に法師の遺徳を大切にしよう”という主旨で分骨され、日本仏教徒代表の倉持秀峰氏に手渡され、日本にもたらされることになったのです。
来日した遺骨は一旦東京・芝、増上寺に安置されたのですが、戦火が激しかったため一時、倉持会長の住職寺である埼玉県蕨市の三学院に仮安置されたのです。
しかし安全に不安を持ったことから疎開先を検討し、慈恩寺に仮奉安することとなったのです。
この仮奉安の決定は玄奘が帰国後翻訳に賭けた地「大慈恩寺」からその名をとっていたことなどの由来もあって、この慈恩寺となったようです。
戦後、改めて奉安の地を検討されたのですが、時の新中国の蒋介石主席より“遺骨の返還には及ばず、仮奉安の地がゆかりの地でもある”という見解から、正式に慈恩寺に奉安されることになり、昭和25年正式に納骨式が行われたのです。

玄奘搭 玄奘搭

遺骨の眠る十三搭

それがこの「十三搭」なのです。
その後、昭和30年に中華民国、そして昭和55年に京都・薬師寺に分骨され、日本では2ヶ所に玄奘三蔵の遺骨が眠っているのです。
※実際には以前訪れた埼玉県飯能市の【鳥居観音】にも玄奘搭があり、そこにも分骨された遺骨が奉安されています。しかし日本の2ヶ所を含めて世界の14ヶ所に分骨されているといわれている中には、この鳥居観音は含まれていないようで、鳥居観音のオフィシャルサイトでも、どこから分骨されたかは記載されていないようです。
元亀

傍らにある「元亀」は玄奘搭の守護だそうです

まさに慈恩寺は仏教とのメッカとでもいえるような、非常に重要な寺院なのです。

諏訪地区

ここからは諏訪地区に入ります。
このあたりはぎっしりと団地群が林立している新興住宅地なのでしょう。

花積貝塚

交差点の石造物

交差点の石造物

玄奘搭をあとにして巡礼道を進むと交差点の角に古い石造物が並んでいます。
これらの中に1799(寛政11)年銘の庚申塔があり、「武州埼玉郡川越領表慈恩寺村」と刻まれていることから、この当時は三分割された後の支配であることがわかるのです。

巡礼道はここから南西に向かうのですが、ここはちょっと寄り道をして南東方向の史跡である「花積貝塚」へ向いますが、その途中にある「桜山中学校」を忘れるわけにはいきません。

桜山中学校 桜山中学校校章

桜山中学校と校章

昭和54年に開校した比較的新しい中学校で、こちらの学校の校章も画伯が制作したものなのです。
由来は、美しい響きの“桜山”の校名を図案化したもので、山は日本人の心の憧れである富士山になぞらう山を中央に据え、桜の花びらの花弁を周囲に配し、桜山中学校の教育目標の達成を表現したものだそうです。

こんもりした丘

それとなく判る丘

その先に進むとこんもりした丘が見えます。
花積貝塚碑 花積貝塚

花積貝塚碑

丘の中に入ると石碑と案内板があり、ここが「花積貝塚」であることが判ります。

旅歴メモ -花積貝塚- この貝塚は縄文時代前期(約6000年前)~中期(約4000年前)の貝塚だそうです。
特筆すべきことは、昭和3年の調査で、関東地方で初めて前期土器形式の年代的序列が成果として得られたことのようです。
これはこの貝塚が標式遺跡、つまり土器の基準となる遺跡として指定され、“花積”の地名の付いた「花積下層式土器」が生れたことにあるのです。
庶民にはどうでも良いことのように思われますが、考古学の関係者などでは実に名誉なことのようです。

古代史跡的に重要な場所ではあるのですが、実は近世の歴史でも重要な場所であるのです。

井楼跡

井楼を作ったといわれる花積貝塚東側

1590(天正18)年、秀吉の小田原攻めの際に岩槻城は家康によって攻められましたが、その岩槻城攻めの際に家康は慈恩寺に陣をとり、この花積台に“井楼”(偵察のための櫓)を組んで岩槻城の様子を伺っていたところといわれているのです。
同じようにかつて三成がさきたま古墳群に陣取り水攻めを行ったことと同様、やはり小高い丘はいつの時代でも戦略的に重要な場所で、それには古墳や史跡などが結構うってつけだったわけですね。

諏訪神社

諏訪神社の一の鳥居

諏訪神社の一の鳥居

再び巡礼道に戻って御成道方面に向うと公園の一画の小高い丘の上に「諏訪神社」があります。
かつてこのあたりは慈恩寺台地の端に位置していたそうですが、この地区の開発により丘陵はなくなり、この神社のところだけが小山のように残ったのだそうです。
諏訪神社参道

記念碑などの並ぶ参道

参道には多くの石碑などがありますが、民俗学者柳田国男氏が撰文した記念碑もあるそうです。
諏訪神社二の鳥居 諏訪神社社殿

二の鳥居と綺麗な社殿

社殿は昭和49年に長野県諏訪大社から勧請し再建されたものだそうです。
由緒等はわかりませんが、ここが丘陵だったという歴史を垣間見ることができる場所なのです。

上里小学校 上里小学校校章

上里小学校と校章

この諏訪神社から真っ直ぐ南に進んだところにある学校が「上里小学校」です。
こちらの校章も画伯のデザインしたものなのです。
その意味は、郷土岩槻市の白鶴城の鶴を組み合わせて、寄り添い助け合う姿を飛ぶ形に図案化し、児童の無限の未来を表わし、上里小の文字を中央に配して上里小学校を表現したものだそうです。

元荒川下流 元荒川上流

元荒川の風情

学校の先を進むと元荒川に突き当たります。
慈恩寺橋

慈恩寺橋

川沿いを下流方向に進めば日光御成道の「慈恩寺橋」に到着し、日光御成道~巡礼道を巡った散策も終了です。

前半は大正から昭和にかけて画伯の過ごした武州鉄道沿いの河合地区を訪ね、後半では戦国~江戸時代にかけて画伯のルーツであろう慈恩寺地区を散策しました。
人形の町として全国的に有名な岩槻ですが、人形以外にも実に興味深い歴史があることを知った貴重な散策でした。

最後に“灯台元暗し”とはこのことで、地元上尾市にある「上尾文化センター」の大ホールの緞帳が実は画伯の制作だったことを知り、早速見に行ったのですが残念ながら時間が合わず実際に見ることができなかったので、上尾市のサイトから拝借します。

上尾文化センター緞帳

上尾市文化センターの新調された緞帳(c)上尾市

「花苑水明」と題した日本画で、桜がほころぶ上尾丸山公園の池の水面をシラサギが飛び立つ瞬間を描いたものだそうです。
西陣本綴錦織の一枚織りの製法により447色を使って表現されたもので、何と3,600万円もの費用が掛ったそうですが、その全額が市とは業務契約関係を結んでいない市内企業など10社の寄付で賄われたそうです。
流石に硬い役所仕事ですね。

2013.12.31記(完)

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