この鎌倉の大仏は、高徳院という寺院に鎮座しており、奈良の大仏と並んで全国的に著名で、まさに鎌倉のシンボルとして人気の観光スポットになっています。
にもかかわらす、鎌倉の大仏や高徳院については不明なことが多く、云わば謎だらけのシンボルなのです。
その最たるものが、奈良の大仏と比べ教科書での記述が極端に少ないことに端的に現れています。
これは、奈良の大仏の歴史的裏付けに比べ、資料が少ないため鎌倉の大仏の史実の裏付けがなされないためなのです。

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高徳院は浄土宗の寺院で鎌倉市長谷にあることから、鎌倉の大仏は「長谷の大仏」とも呼ばれています。
勿論、鎌倉の大仏である阿弥陀如来を本尊としており、正式名称は「大異山高徳院清浄泉寺」です。
創建としては鎌倉市の材木座にある光明寺の奥の院を移したものであるという説があるのですが、資料が乏しいため開山・開基など不明なので、当然、大仏についての建立時期、作者などは不詳なのです。
とは、言いながらも全く資料が無いわけでもないのです。
「吾妻鏡」によれば、奈良の大仏を見た頼朝が、鎌倉にも大仏を造ろうと発案し、頼朝亡き後、北条泰時の晩年の頃、浄光という僧が、勧進しながら鎌倉の大仏の造営を進めていたとの記述が見られるように、吾妻鏡には、いくつかの大仏に関する記載があるのです。

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拝観料を支払って、いよいよ大仏参拝です。

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徐々に見えてくる大仏の、その大きさに圧倒されます。

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吾妻鏡によれば、造られた当初の大仏は、現在と違い木造でした。その大きさは高さ24mもあり、現在の倍以上の巨大な大仏だったようです。
更にならの大仏同様、大きな大仏殿もあったのですが、この木造大仏完成から、僅か10数年で現在のような青銅製の大仏に変わっているのです。
つまり吾妻鏡には、1243年に木造大仏の開眼供養が行われたという記述の一方、1252年から青銅製の大仏の造立が始まったとの記述があるからなのです。
こんことは同時代の紀行文『東関紀行』にも、1242年時点で大仏と大仏殿が2/3程度完成していて、大仏は木造であったと記載されているのです。
そして1243年に開眼供養された木造大仏と、1252年から造立がはじまった銅像大仏との関係について、木造が銅造の原型(木型)であったとする説と、木造が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたといい説があり、後者の説が定説となっっているのだそうです。

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大仏の作者は不明ながら、「慶派」(運慶とそれに連なる仏師達)の作風と宋代中国の仏師達からの影響の双方を併せ持っているそうです。

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基本的には、仏には常人と異なる「三十二相」(32の身体的特徴)があると考えられており、それに従った造形になっています。

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人々を照らす光が発せられる“白毫”、紺青色とされる“真青眼相”、高くて真っすぐな、鼻孔がみえない“鼻”、福耳、孔の開いた耳朶の“耳”、東洋的微笑と称賛された“口”といった具合です。

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ここで注目すべき3つのポイント

一つ目が、大仏のヘヤースタイルである“螺髪”

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釈迦の髪の毛は3~4㎝位伸ばしていて、1本1本が右に巻かれ、現在でいうところのパンチパーマのようなヘアースタイルで、これを表しているのが“螺髪”なのです。
しかし、奈良の大仏を始めとした多くの仏像と違い、鎌倉の大仏は左巻きになっているのです。
ちょっと頭の悪い人のたとえを「左巻き」と言いますが、鎌倉の大仏も。。。

二つ目の注目は、両頬にかすかに残っている“金箔”の跡

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鎌倉の大仏は、かつて金色に光り輝いていました。
奈良の大仏が金メッキを施していたのに対して、鎌倉の大仏には、金メッキより費用の嵩む金箔が貼られていました。
これは鎌倉の大仏の材料である銅の純度が低いため、鋳造された大仏の継ぎ目が汚かったため、それを覆うために金箔の手法がとられたのだそうです。

もう一つの注目が手の形です

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仏の手の位置や形の事は“印相”といいます。
鎌倉の大仏の結ぶ印は、組まれた足の上に両手を組み合わせたもので、上品上生印、もしくは弥陀定印といい、最高の悟りの状態であることを表わしています。

因みに奈良の大仏は、施無畏と与願印の組み合わせで、人々に力を与え、人々の願いを叶える意味を持っているのです。

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大仏を横から見てみると、奈良の大仏に比べ頭が大きく、ややうつむき加減の猫背です。

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鎌倉時代につくられた仏像は、頭が大きくて猫背気味のスタイルが流行していたため、鎌倉の大仏も流行にのって、このスタイルになったようです。
時代が違えば、トレンドが違うのは今も昔も変わらないものです。

最後に大仏の背中には、まるで天使の羽のような扉が2つあることが窺えます。

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これは大仏の中の空気を換気するものと云われているのですが、鋳造後に中の土を取り出したという説もあるようです。

奈良にあって鎌倉に無いのが大仏殿ですが、鎌倉にあって奈良に無いのが“胎内”
したがって、その胎内巡りも鎌倉の大仏の拝観の醍醐味です。
わずか20円の拝観料を払ってみることができるのですが、それほど広くもなく、というか狭く、ある意味何もないので余りに期待が大きいとガッカリと云うことになるかも知れません。

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しかし見所を抑えれば、それなりに興味をひくポイントです。
まず胎内には、鋳造する時の木枠の跡が残ってりのが見られ、大仏が凡そ40回程度に分けて鋳造され、その分割鋳造された継ぎ目には、強度を持たせるために、部位に応じた3種類の“鋳繰り(いからくり)”という高度な技術を目の当たりにします。

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また、首の付け根にあたる部分には、強化プラスティックが重ね張りされた茶色い部分が見られます。
これは頭の重さを支える為の補強で、昭和35年になって行われたものです。

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実はこの補強と云うのが大変重要なポイントなのです。
本来、国宝を始めとした重要文化財に指定されるためには、キチンとした歴史的資料の裏付けがないと指定されにくいのです。
いくら古いものでも、伝承では決して文化財に指定されないのです。
そういった観点からすると、ほぼ吾妻鏡程度しか資料のない鎌倉の大仏は国宝どころか、重文でさえ指定されないことが考えられるのです。
奈良の大仏は、何度も造り直されたことから、最終的に大部分は江戸時代に造られた大仏と云っても過言ではないながら、由緒正しき大仏で建立年もきちんと把握されて裏付けもあることから国宝に指定されました。
逆に鎌倉の大仏は、由緒が無い分不利なのですが、大仏自体が鎌倉時代に造られたものが、ほとんどそのまま残っていることから国宝に指定されたのです。
これらを鑑みると、高度な技術と適切な補強があってこそ、国宝となりえたと云えるのです。

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かつて空洞になった胎内で、男女が密かに逢瀬を重ねたり、賭博場に使われたり、鳥が巣を作ったためにフンで汚れていたりした時代があったようです。また、盗賊が胎内に住みついて、高徳院の住職が怖がって逃げてしまうという逸話も残っています。
いずれにしても、その時代のままの歴史が息づいていることを、胎内で感じ取ることができるのです。

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大仏を一通り見終えたら、境内を散策です。

大仏の背中の下にあるのが『蓮弁』
江戸中期に蓮台を企図して鋳造されましたもので、当初全32枚の製作が予定されていたのですが、完成をみたのが4枚だけだったものです。

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ベンチ代わりにもなってるのが『礎石』
創建当初大仏像を収めていた堂宇は60基の礎石に支えられていたようです。
現在、境内に遺る同礎石は56基です

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回廊内壁にあるのが『大わらじ』
戦後間もない1951年に茨城県の子供たちが、大仏に日本を行脚してほしいと願って造られたもので、以降、3年に一度作り直されて寄進されているものです。

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裏手にある堂宇が『観月堂』で、ソウルの朝鮮王宮にあったものを、山一證券社の社長が寄贈したもの。
中には、徳川2代将軍秀忠は所持していたとされる聖観音像が安置されています。

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一際大きな碑が『与謝野晶子歌碑』
「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな」と、大仏を詠ったものですが、鎌倉の大仏は“阿弥陀如来”ながら、奈良の大仏と同じ“釈迦牟尼”と勘違いして詠んでしまったのです。

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参道脇には、旧シャムおよび現タイ王国王族縁の三本のクロマツが並んでいます。

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境内を出れば、やはり観光地らしい光景が現実に引き戻します。

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鎌倉の大仏は、これからも魅力あふれる鎌倉のシンボルとして輝いていくのでしょう。

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2015.07.24記
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