畠山重忠 #2

館跡の周囲を散策した後は、館跡の中に残る重忠の墓などを見聞します。
この畠山で誕生し、頼朝の配下の属し「ひよどり越え」で一躍勇名を馳せ、頼朝の信望も厚くなった重忠のその後の半生を追ってみます。

畠山重忠墓

畠山重忠公墓 館跡の中央が当時の門だったのでしょうか、その付近に「畠山重忠公墓」の石柱があり、その先に建物があります。

畠山重忠公墓 これがその墓のようです。

畠山重忠公墓 中央にある大きな五輪塔が畠山重忠の墓です。

かなり立派な五輪塔ですが、歴史的にお馴染みのこの五輪塔について調べてみました。

五輪塔とは、主に供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種で、五輪卒塔婆、五輪解脱とも呼ばれているそうです。五輪塔の形はインドが発祥といわれており、本来舎利(遺骨)を入れる容器として使われていたといわれていたそうですが、日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く使われるようになったのだそうです。
五輪塔は基本的に石造りのものが主体ですが、木・金属・鉱物などの塔もあるようです。
そして五輪塔は下から四角・丸・三角・半丸・上の尖った丸を積み上げた形に作られ、製作した時代・時期・用途によって形態が変化していて、鎌倉時代に多く作られた鎌倉型五輪塔をはじめ、一つの石から彫りだされた小柄な一石五輪塔、三角の部分の形が三角錐の三角五輪塔、四角の部分が長い長足五輪塔、三角の部分の薄い京都型五輪塔などがあるようです。
当然ながらこの五輪の形状には意味があり、下から四角=地輪、丸=水輪、三角=火輪、半丸=風輪、上の尖った丸=空輪といった地・水・火・風・空という古代インドにおける宇宙の構成要素・元素と考えられた5つを象徴したものなのです。

この考えは特に空海の密教思想に強く影響して、それぞれの部位に下から「地(ア a)、水(ヴァ va)、火(ラ ra)、風(カ ha)、空(キャ kha)」の梵字で刻まれているものが多いのだそうです。
そして宗派により刻まれる文字が変わるのです。例えば天台宗・日蓮宗では上から「妙・法・蓮・華・経」、浄土宗では上から「南・無・阿弥・陀・仏」、禅宗では下から「地・水・火・風・空」などといった具合です。
この五輪塔には、その様な文字は刻まれてはいないようです。

さて、そこでこの五輪塔が造られる畠山重忠の後半生を辿ってみます。

時は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の死後、幕府内の権力争いがつづき幕府の実権が14歳の3代将軍実朝を擁する北条時政が握っていた時代です。
この間、畠山重忠は頼朝から、その死に際して子孫を守るようにと遺言を受けた有力御家人に地位にあり、幕府内の権力争いにおいては北条時政の前妻の娘婿であったことから、一貫して北条氏側に協力していたのです。
そしてこの後畠山家を滅亡させるホンの些細な事件が起こります。
元久元年(1204年)11月、3代将軍実朝は京都から坊門信清の女を夫人として迎えることになり、その使者として容儀美麗な若武者が選ばれて京都に上り、その一行15人の中に重忠の子重保(母は北条時政の前妻の娘)や、北条時政の子政範(母は時政の後妻牧の方)も含まれていましたが、旅の途中で一行の中で最も若い政範が病気のために死亡したというアクシデントが起きました。
そして京に上った若武者たちが、平賀朝雅(妻は時政の後妻牧の方の娘)の家で酒宴を開いた際、重保と朝雅との間で烈しい口論があったのですが、その場は収まったようです。
しかし、翌元久2年(1205年)6月21日平賀朝雅は重保に深い遺恨をもち、政範の死も重保が無理をさせたのが原因である、などということを牧の方に讒言したのでした。これを聞いた牧の方は、北条時政に重忠父子の叛意であると時政に訴えました。
朝雅は牧の方の娘婿であり、重保は時政の先妻の外孫にあたる血筋故に困った時政は、時政の子の義時と時房に重忠討伐を相談すると、2人は重忠の忠勤を訴えて謀反など起こすがはずがないと反対したのでしたが、牧の方の兄大岡時親に「牧の方が継母だから仇をうとうと思っているのだろう」と迫られ、やむなく義時は重忠討伐に同意したということです。

翌日22日の早朝、鎌倉は大騒ぎとなり謀反人を討つべく由比ガ浜に軍兵が続々集まってきました。今ならTVや電話、あるいはネットで情報がわかる時代ですが、鎌倉時代ではそうはいきません。自分が謀反人とはつゆほども知らない重保も由比ガ浜に駆けつけると自分が謀反人になっていることを知り、討伐軍との戦いに奮戦したのですが多勢に無勢で殺害されたのでした。
一方、鎌倉に騒ぎがあると聞いた重忠は6月19日に菅谷館(この当時は現在の埼玉県比企郡嵐山町に居住していた)を出発していました。
当然、謀反と言われているのですから討伐軍は、大将軍北条義時を始めとして葛西清重・堺常秀・大須賀胤信・国分胤通・相馬義胤・東重胤などなど名だたる武将と、児玉党・横山党等の軍団ら数千騎の大軍団だったようです。
対する重忠軍は謀反などという気持ちは全く無いのですから、130騎程度の軍団でやってきたのです。
そしてここ二俣川に差し掛かったところで、重保が殺され、自分が謀反人となっていることを知ったのです。ここで重忠は館に退かずここで討伐軍を迎え撃つ決断を下し、22日午後戦乱は切って落とされ4時間後、重忠は愛甲季隆の放った矢に討たれ、首級を取られ、子の重秀以下は自害したそうです。

翌日の23日午後、義時は合戦の様子を報告し、重忠の一族は出払っていて小勢だったことから謀反の企ては虚報で、重忠は無実であったことを伝えました。
その日の夕方、重忠を陥れた首謀者であった稲毛重成父子、榛谷重朝父子は殺害されました。そして翌月の7月19日、この事件をきっかけに時政は義時らによって鎌倉を追放され、26日には発端の平賀朝雅が義時の命で諜殺されたのでした。
鎌倉幕府北条氏によって編纂された「吾妻鏡」では、重忠を賛美した記事が多く見受けられるそうです。これは謀反人ではなかったことを意味しているように聞こえるのですが、その割に、残された重忠の所領は政子によって重忠を討った者や政子の女房に配分されており、重忠の遺児や縁者を庇護したり、所領を分け与えたりといっ形跡がなく、唯一分配後に残った所領が時政の前妻の娘である重忠の妻に安堵されただけでした。
こうしたことから「吾妻鏡」における義時の重忠擁護、重忠の過剰な賛美記事は、父時政を追放し武蔵の英雄を滅ぼした義時弁護のための作為と考えられているようです。メディアの発達した近世ya現代ならいざ知らず、中世以前では勝利した支配者・権力者は都合の良い歴史を作ることができるのが、当たり前の時代ですから、重忠も都合の良い題材にされてしまったといった感もぬぐえません。正直者が馬鹿を見るとはいつの時代も起こることなのでしょう。
そして畠山家は、所領の安堵された重忠の妻が足利義純に再嫁して義純が源姓畠山氏の名跡を継いだ事により、平姓秩父氏系の畠山氏はこれにて正式に滅亡したのです。

しかしながら、この後の源姓畠山氏については、以前【二本松城址と菊人形展】で訪れた霞ヶ城公園で興味深い歴史を知りました。
この新しい源姓畠山氏はその後、福島県二本松で16代続く二本松畠山氏だったのですが、16代畠山義綱のときに伊達正宗によってこの二本松畠山氏も滅亡してしまいました。しかし、この畠山義綱の弟・義孝が二本松氏と称して諸国を転々とし、最終的に現在の山形県で現在も二本松氏として存続しているのだそうです。
重忠とは直接の血筋はありませんが、何となく歴史の妙を感じます。

畠山重忠公重臣の墓 畠山重忠公重臣の墓 ということで、この覆屋の6基の五輪塔は中央の重忠のほかは、主従としか説明されていませんが、おそらく本田親恒や榛沢成清等の重臣だったものたちの墓なのでしょう。

伽羅の木

伽羅の木 重忠の墓の横には青々とした低木があります。

伽羅の木の由来
この伽羅の元木は畠山重忠公にゆかりのある名木で、浦和市の常盤公園にあり、市の文化財となっています。長い年月を経て老化したため、二世を挿木により採取し、その苗木を川本町が譲り受け育てたものです。
畠山氏が秩父に住み秩父氏を名乗っていた頃、先祖の墓地にあった伽羅で、畠山に移った後、墓は取り壊され、土地の名主の庭に移植されたものといわれています。
その後転々として手入れをするものもなく過ぎましたが、明治の初期、武蔵国留守総検校職の畠山氏に関係がある、浦和裁判所が設置されるのを機に、その庭に植え付けられ、後に裁判所が移転したので、現在の常盤公園となったものです。
この伽羅の木は畠山氏発祥のこの地に平成2年4月植え付けられたものです。
この伽羅の木が立派に育つよう見守ってください。
(現地案内板説明文より)

伽羅の木はイチイ科の常緑低木で、幹は地上を這うように伸び、葉は線形で尖っています。実は熟すと赤くなりほんのり甘く食べられますが、種には有毒なタキシンが含まれているようです。
さて、その元木であるさいたま市(旧浦和市)の常盤公園のキャラはさいたま市の天然記念物に指定されています。

市指定天然記念物 きゃら キャラ 員数 1株
指定年月日 昭和44年5月21日  所在地 浦和区常盤1-8-28(常盤公園) 所有者 財務省、さいたま市
概要  
伝説では、鎌倉時代の武将畠山重忠が中国から持ち帰り、父の墓所に植えたものといわれています。その後、転々とし、かつての浦和裁判所の表玄関の車廻りに落ち着いたそうです。現在は、裁判所跡地の常盤公園の盛土の上にあります。
指定時は、幹まわり2.22メートル、根まわり3.65メートルで、地上25センチメートルのところで枝が多数に分岐し、東西南北に枝を張っていて、高さは約4メートルに達していました。昭和50年から急速に腐朽し始め、昭和54年の台風でも大きな被害を受けました。かつての威勢は見る影もなく、現在では東側にあった枝1本が残されているだけとなっています。
関連図書 『浦和市文化財調査報告書』第15集(浦和市教育委員会、1970年発行)
『浦和の文化財』(浦和市教育委員会、1986年発行)
(さいたま市オフィシャルサイトより)

現在の様子が先のサイトに写真が掲載されていますが、確かに老木で枯れるのは時間の問題のような状態です。
今回の早めの対策で歴史が途切れることも無いようです。

参考:【さいたま市文化財紹介 キャラ】オフィシャルサイトよりhttp://www.city.saitama.jp/www/contents/1044838977742/index.html

畠山庄司重能の墓

畠山庄司重能の墓 伽羅の木の更に左側には「畠山庄司重能の墓」があります。一見したところ墓には見えない状態ですが・・・。

川本町指定文化財 畠山庄司重能の墓 (昭和36.11.3指定)
重忠公の父重能の墓は、重忠墓の東南、椎ノ木の下にある自然石と伝わる。
重忠公の祖先は秩父権守重綱以来秩父郡にあって、代々武蔵の総検行職を司どり、重能の代に秩父郡吉田町から、川本町畠山に居を移し、畠山庄司となり畠山姓を名乗った。
川本町教育委員会
(現地案内板説明文より)

重能の父・秩父重弘が長男であるにもかかわらず、次男の秩父重隆が継いでいる事に不満を抱いた重能は、大蔵合戦で叔父である重隆とその婿源義賢を討ちました。これにより秩父氏の族長権を獲得したものの総検行職を継いだ形跡が見られないことから、何らかの事態で継承せず、この川本町に移ってきたものと考えられているようです。
平家に20年以上仕えていたのですが、子の重忠が源氏に属するようになると、重忠に後事を託して隠居したとも伝えられているそうです。ある意味運に恵まれなかったのか、あるいは野望がなかったのか・・・。
何となくそんな人生を象徴しているかのように、ひっそりとした、否、人知れずといった墓です。

板石塔婆

板石塔婆 「畠山庄司重能の墓」の後ろには「板石塔婆」が立っています。

川本町指定文化財 板石塔婆 (昭和39.8.31指定)
主尊は三弁宝珠阿弥陀一尊・種子(キリーク)
記年銘 嘉元2年甲辰(1304年)卯月(4月)9日
周辺に彫られている文字は、梵字の光明真言である。
畠山重忠公が元久2年(1205年)6月22日、横浜二股川で戦死の後、百年忌に当って供養のため建立されたものと伝えられる。
川本町教育委員会
(現地案内板説明文より)

100年忌ですら現在から700年以上前のことですから、歴史の重みに押しつぶされそうです。それにしても埼玉県には板石塔婆が多いですね。

畠山重忠館跡を散策し終わって駐車場に戻りますが、戻る途中に大きな石碑・記念碑が並んでいます。
重忠碑 奥の細道探訪記念句碑 畠山重忠公史跡保存碑 左から「重忠碑」「奥の細道探訪記念句碑」、そして「畠山重忠公史跡保存碑」です。

この史跡公園に来るだけで、畠山重忠のことを随分知りことができました。

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