京都の彩を埼玉で愛でる、晩秋の嵐山渓谷(前編)

【嵐山渓谷】は得票数5,667票で、ジャンルAで20位にランクされました。

嵐山の地名は、昭和の初めに槻川の渓谷を訪れた本多静六博士が槻川橋上流の渓谷美を見て「京都の嵐山に似ている」と評したことに由来する。この比企丘陵を代表する景勝地は、変化に富み、豊かな自然が織りなす多彩な表情を見せてくれる。
この景観を守り、後世に伝えていくため、県が1992(平成8)年に渓谷沿いの土地をトラスト地に指定した。
周辺には国蝶オオムラサキをはじめ、貴重な生物が生息。また夏になると休日には大勢の人が槻川の川原で憩う姿が見られる。
(本書より)

嵐山町は初めてですが、比企郡と考えると【武蔵丘陵森林公園】(滑川町)、【小川和紙】(小川町)、【萩日吉神社流鏑馬祭】(ときがわ町)に続いて4度目の散策となります。
晩秋の11月24日(日)に「紅葉まつり」が行われ、紅葉も見頃とあって嵐山渓谷を訪れたのです。
朝早めに自宅を出て車で1時間足らずで嵐山渓谷のBBQ場に到着です。
春から夏にかけてはバーベキューで賑わうようですが、流石にこの寒さではあまりBBQを行う人も少ないようです。
まずはそのBBQ場からスタートです。

嵐山の自然

BBQ場駐車場 BBQ場

嵐山BBQ場駐車場

朝9:00少し前にBBQ場に到着しましたので、まだまつりは準備中のようです。
取り合えず車を駐車して早速嵐山渓谷に向います。

冠水橋

駐車場をでて裏手の道路を進みます。

庚申塔

意外に新しい庚申塔

裏手には庚申塔や供養塔が並んでいて各地区の出入り口に祀られているのだそうです。成人になると、かつては“庚申待ち”という男性の会(後に男遊び)に参加していたそうで、それが現在の常会に発展したのだそうですが、勿論、現在のは男遊びではないでしょう、きっと。。。

宅地内にある長屋門

風情のある長屋門

大平山

大平山

しばらくはは住宅地を進みますが、右手に見えるさかさまのお椀のような山が「大平山」で、この山が作り出した地形が嵐山渓谷なのです。
宅地を抜けると鬱蒼とした樹林となり、まさに渓谷に相応しい様相となります。
宅地か渓谷へ

ここから樹林です

渓谷樹林

鬱蒼とした樹林

この先が渓谷

この先が渓谷


嵐山渓谷

風光明媚な嵐山渓谷

そして樹林を抜けるとそこには槻川が流れている嵐山渓谷となるのです。

旅歴メモ -嵐山渓谷- 東秩父村を源とする槻川は、小川町、嵐山町を通過して都幾川となり、東に流れて荒川に注ぎ、やがて隅田川となって東京湾に注がれているのです。
かつて本田博士が嵐山と称した場所は、この渓谷から500メートルほど下流の槻川橋付近だったそうです。現在は立派な自動車橋ですが、当時は低い橋だったそうで、現在もその橋桁跡が残っているそうなので、そこから見れば京都嵐山に見えるのかもしれません。

右手に見える橋が「冠水橋」で、嵐山渓谷のシンボルのような石橋です。

冠水橋

冠水橋

まずは槻川上流を遡って見ます。
紅葉紅葉

まさに紅葉まっ盛り

勿論紅葉も綺麗ですが、水面に写った紅葉も見事です。
鏡面紅葉

渓谷美の醍醐味!?

振り返った冠水橋方向も綺麗な逆さ紅葉です。
撮影スポット 撮影スポット

紅葉撮影ポイント

更に上流に向うとこのあたりは撮影ポイントなのでしょうか、多くのアマチュアカメラマンがベストショットを切り取っています。
これこそ何時間見ていても飽きない渓谷の自然美なのです。

展望台

冠水橋

冠水橋

次の移動は冠水橋を渡って展望台に向います。
槻川下流

冠水橋からの槻川下流

槻川上流

冠水橋からの槻川上流

冠水橋からの眺めもまた渓谷美の存在を知らしめてくれます。こんな感じで博士も“嵐山”とつぶやいたのでしょうかね。
ここからは少し坂を上ります。
渓谷坂道

ちょっと急な坂道

紅葉と冠水橋

紅葉越しの冠水橋もまた風情

坂道の途中には幾つかの紅葉が見え始め、紅葉越しには冠水橋を見ることができます。
もう少しで頂上

山頂近く

緑のトラスト

トラスト告知看板

またここには「緑のトラスト保全第三号地」の看板が掲げられています。
これによってこの景観が保たれていると言う重要な看板なのですね。

旅歴メモ -緑のトラスト保全- さいたま緑のトラスト運動の仕組みは、県民からの寄附による土地や建物を取得、及び寄贈や遺贈を受け、埼玉の優れた自然や貴重な歴史的環境を、県民共有の財産として末永く保全していこうという運動です。
昭和59年に県民主体の運動の推進組織として「さいたま緑のトラスト協会」が発足し、翌60年には、運動の資金となる「さいたま緑のトラスト基金」が県に設置され、現在、この両者が一体となって運動をすすめているのです。
現在のトラスト地域
第1号地:見沼田圃周辺斜面林(さいたま市緑区)、第2号地:狭山丘陵・雑魚入樹林地(所沢市上山口)、第3号地:武蔵嵐山渓谷周辺樹林地(嵐山町鎌形ほか)、第4号地:飯能河原周辺河岸緑地(飯能市矢颪ほか)、第5号地:山崎山の雑木林(宮代町山崎)、第6号地:加治丘陵・唐沢流域樹林地(入間市寺竹)、第7号地:小川原家屋敷林(さいたま市岩槻区馬込)、第8号地:高尾宮岡の景観地(北本市高尾)、第9号地:堀兼・上赤坂の森(狭山市堀兼)、第10号地:浮野の里(加須市北篠崎・多門寺)、第11号地:黒浜沼(蓮田市黒浜)、第12号地:原市の森(上尾市原市)

坂道を登り終えると展望台がありますが、残念なことにここからの槻川の眺望は悲しい光景となっています。ここも年月とともに草木が伸びて眺望が塞がれてしまったのですね。

展望台 ちょっと残念な眺望 ちょうっと残念な眺望

展望台とその眺望


しかしながらその周辺は美しい紅葉を見ることができますね。
紅葉美-1 紅葉美-2 紅葉美-3

展望台周辺の紅葉


嵐山町発祥之地碑

これが博士の功績

展望台の横に「嵐山町名発祥之地」碑が建立されています。
これは前述されたように本多静六博士が命名したものなのですが、この博士もまた埼玉県の偉人なのです。
詳細は【本多静六】で訪れた当時の菖蒲町(現在は久喜市)に記念館(久喜市になってから新しくなったようです)があります。

与謝野晶子歌碑

展望台からは渓谷に沿って散策路となっています。
散策路の両脇に赤・黄・緑のコントラストが実に美しく映えています。

散策路-1 散策路-2 散策路-3

散策路の紅葉


かつて嵐山と呼ばれる前は、秩父の長瀞岩畳に例えて“新長瀞”と呼ばれていたこともあるようで、時折見える渓谷の槻川を見ると確かに長瀞を思わせるような光景です。
紅葉と槻川-02 紅葉と槻川 紅葉と槻川-03

槻川と紅葉の渓谷美


しばらくは紅葉の美しさを堪能することにしてみます。
当時の新聞記事

当時の新聞報道
(嵐山町webサイトより)

さてこの渓谷ですが、新長瀞と呼ばれた後の昭和3年に“武蔵国の嵐山”と命名されてからは、マスコミにも取り上げられ大変評判となり多くの観光客が訪れるようになったそうです。この辺りは現在のメディア効果と変わりないですね。
そしてこの頃周辺に料理旅館の「松月楼」がオープンし、東武東上線の菅谷駅も昭和10年に「武蔵嵐山駅」に改称され、駅から観光客の長い行列が出来たそうです。
今と同じような美しさに包まれていたのでしょうか。

このような時代に1939(昭和14)年1人の女性歌人がこの地を訪れました。
著名な歌人である「与謝野晶子」が、娘の藤子さんと共に訪れて「比企の渓」29首を歌ったのです。

与謝野晶子歌碑 与謝野晶子歌碑

比企の渓碑と与謝野晶子

そのうちの1首がこちらの「比企の渓:槻の川 赤柄の傘を さす松の 立ち並びたる 山の しののめ」という歌で、この歌が歌碑となって建立されているのです。
よく意味は判りませんが、「赤柄の傘をさす松」とはアカマツのことなのでしょうか、槻川沿いにアカマツが夜明けと共に見えてくるといった意味なのでしょうかね。
いずれにしても紅葉を歌ったものではないようで、若干拍子抜けの感は否めませんね。
それにしても全国津々浦々歌碑等は良く見かけるのですが、是非とも意味を添えてもらえると素人にもわかりやすのですがね。。。

当時の一平荘

当時の一平荘
(嵐山町webサイトより)

このように賑わった嵐山渓谷ですが、戦後は松月楼も営業されなかったことから経営者が変り「一平荘」と改称され営業されたのですが後に閉店となってしまったのです。
しかしながら時代と共に観光客も再び増加し、BBQ場をはじめとして現在の駐車場にひしめく車の姿が、かつての菅谷駅からの行列の名残となったのです。

旅歴メモ -松月楼と一平荘- 松月楼は昭和のはじめ、庄田友彦氏によって創立された料亭で、遊覧客はこの邸内を通って渓谷に出る仕組みになっているたそうで大層繁昌していたようです。
しかしながら戦争中、学童疎開の宿舎にあてられて荒廃し、1952(昭和27)年に復興して開業したのですが、間もなく再び閉鎖されたのです。
そして経営者が同族の庄田吉勝に代わって当時神楽坂にあった割烹「一平荘」の支店として「武蔵嵐山一平荘」と改名して昭和30年ころから再び営業したのですが、昭和50年庄田の死亡により閉店し、その後は放置され昭和54年に焼失した以降は庄田氏の次女のより管理を嵐山町に委譲され、現在はトラスト地として整備されたのですが、その痕跡は何も残っていないようです。
因みにこの庄田氏は自ら道を補修するためにブルドーザの運転中に振り落とされ、そのブルドーザに轢かれ、出血多量によるショック死でなくなったそうです。

ススキが原 ススキが原

朝日を浴びて輝くススキヶ原

与謝野晶子歌碑の先はススキヶ原で、この辺りにかつての一平荘があったそうです。確かにここにあれば風光明媚な料亭として人気が出るのも当然かも知れませんね。
槻川 槻川

今は寒々しいが夏は賑わいそうな槻川

このススキが原を抜けると再び槻川にたどり着きます。
こちらは特に紅葉が見られるわけではないのですが、夏の時期は子供達の水遊びには良いかもしれませんね、水も透き通って綺麗ですし。
晩秋の嵐山渓谷は、噂に違わず綺麗な紅葉の見れる素敵な場所でした。

嵐山の歴史-1

自然をたっぷり堪能した後は歴史散策です。
そもそも比企郡自体が埼玉県の中央部部に位置し、歴史的にも後に鎌倉幕府御家人となる比企一族が統治していて、鎌倉街道や脇街道が縦断していることから、交通の要所でもあったため多彩な歴史を持っているのです。
今回の歴史散策は鎌倉幕府成立前の平安末期の戦乱時代に遡ります。

木曽義仲

平安末期の戦乱時の主役級ともいえる武士が「木曽義仲」です。正式には“源義仲”になるのですが、一般的にはこの方がわかりにくいでしょう。
この木曽義仲が生まれたのがこの嵐山町で、先ずは嵐山町銭形にある「班渓寺」を訪ねます。

六辻 くよづかのべったら地蔵

拝顔することができなかった「くよづかのべったら地蔵」

途中にある地蔵は「くよづかのべったら地蔵」というそうで、この地蔵尊を正面から見ると円満慈悲の姿で、横から見るとただの平たい青石にしか見えないことから、この名前が付いたそうです。
宝永六巳丑と刻まれていて、1709年になりますから江戸時代中期のものです。

班渓寺

班渓寺 「木曽義仲公誕生之地」碑

班渓寺山門と「木曽義仲公誕生之地」碑

山門の横には「木曽義仲公誕生之地」と刻まれた大きな石碑が目に入ります。
この寺の由緒は梵鐘にあるそうで「木曽義仲 長男 清水冠者源義高為 阿母威徳院殿斑渓妙虎大姉 創建スル所也」と記されているところです。
つまり木曾義仲の妻である妙虎大姉(山吹姫)が我が子である源義高を弔うために建立した寺ということになるのです。戒名の阿母威徳院殿班渓妙虎大姉に“班渓”の名が入っているところがその証なのですね。
この源義高については、【入間川七夕まつり】で訪れた清水冠者源義高終焉の地である「清水八幡神社」で詳しく知ったのですが、要するに頼朝によって義仲の一族として殺害されたのです。

本堂

質素な佇まいの班渓寺本堂

鎮守堂と義仲顕彰碑

鎮守堂と義仲顕彰碑

そしてこの地に菩提をともらうために建立したのは、やはり義仲の出生の地であったからで、この班渓寺の裏手に「木曽殿館」と言われる下屋敷が義仲誕生の地であったからなのでしょう。
境内には質素な佇まいの本堂があり、班渓寺の扁額が歴史を物語っているようです。
本堂の横の「鎮守堂」の前に立派な顕彰碑があり、この碑文によって義仲の生き様を知ることができるのです。

旅歴メモ -木曾義仲公顕彰碑- 義仲は1155(久寿2)年この地に生まれ幼名は“駒王丸”で、父・帯刀先生源義賢が甥の悪源太義平に殺害たれた時は僅かに2歳だったそうです。
当然一族の駒王丸も殺害される運命にあったのですが、畠山重能(畠山重忠の父)と斉藤別当実盛に助けられ、信濃国(現長野県)の中原兼遠のもとに送られ、その山中にかくまわれて元服し木曾次郎義仲と称し、その後、平家政権のもと、現在の長野県日義村の八幡宮で挙兵し数々の戦の後、平家を追って京都に上り、義仲は後白河法皇より“朝日将軍”の名称を贈られ、平家追討のため出撃したのです。
しかしながら法皇は一方で、鎌倉の源頼朝に義仲を討つよう命じたため、義仲は従兄弟の頼朝と対決することになったのです。これは義仲の皇位継承問題への介入や治安回復の失敗などによる法皇との不和が原因といわれているのです。
その後、征夷大将軍に命じられた義仲も1184(寿永3)年、頼朝の追討軍によって討たれたのです。
義仲31歳のときだったそうです。

山吹姫の墓

山吹姫の墓

班渓寺にはもう一つその威徳院殿斑渓妙虎大姉である山吹姫の墓があります。
説明によれば山吹姫は木曽育ちの娘、義仲の室とし幾度かの合戦に従軍し建久元年(1190)11月22日ここに寂すとあります。
平家物語では義仲に従い京都に至り、攻め寄せる頼朝軍に対し義仲は出撃するのですが 山吹は病のため京都に残ることとなっていますが、それには後日談があり、義仲が頼朝の手の者に討たれ巴御前も囚われの身になったことを知ると、暗夜に乗じ京都を脱し、木曽谷から佐久を通り、上野国を抜けてこの地、鎌形へ来たと話しが作られていたようです。

旅歴メモ -巴御前と山吹姫- 「平家物語」の“覚一本”にこのような記載があります。
「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者なり」
ここでいう“便女”とは文字通りの「便利な女」のことで、武将の身の回りの世話をする召使の女ということで、現在の秘書ということになるわけです。
ただし、その秘書が子供を生んだわけですから現代社会ではひと悶着起るところですが、妾という要素も含まれているのは古では当然のことでしょう。

班渓寺橋と都幾川 班渓寺橋と都幾川

優美な班渓寺橋と都幾川

班渓寺の横を流れる都幾川にかかる橋は、朱色の欄干に擬宝珠のついた古を模した「班渓寺橋」ですが、山吹姫に相応しい優美な橋といえるでしょう。

銭形八幡神社

銭形八幡神社参道

銭形八幡神社参道

班渓寺から約10分くらいのところに「銭形八幡神社」があります。
由緒書きによれば、平安時代の初期の延暦年間に坂上田村麻呂が、九州の宇佐八幡宮を勧請したのが始まりといわれているようです。
八幡宮ですから武門の神として信仰され、源氏に縁のあるこの地の氏神として仰がれたのは言うまでもないことですが、特にここは木曽義仲の産湯の清水が湧いているところとして有名なのです。
銭形八幡神社神門 社殿

神門と銭形八幡神社社殿

参道の途中の神門(?)を潜り抜けると、正面に社殿が鎮座しています。
かなり凝った彫刻のされている社殿で、それもそのはずで本殿は町指定の建造物で、江戸時代の1749年に建立されたものだそうです。
社殿

社殿の彫刻と覆い屋

残念ながら本殿は覆い屋で囲われているので見られませんが、簡素ではありながらも整った本殿なのだそうです。

手水舎

義仲の産湯である清水の手水舎

そして社殿の前にある手水舎が義仲の産湯である清水ですが。。。
え~~、っと、止められています。そして何ゆえか沢山のペットボトルに詰められています。
義仲縁の名水 義仲縁の名水

義仲縁の名水!?

まあ手水舎のお清めですから呑めないことは無いのでしょうが、それにしてもこれって名水とかで多くの人が汲みに来るんでしょうか。
史跡であることの石碑

史跡であることの石碑

ご家族で汲みに来ているようで、何かしら信仰めいたものがあるのでしょうかね。とりあえず今日のところは湧き出る清水はまたの機会として史跡だけを見学と言うことにしておきましょう。
まさに横須賀でみた「ヴェルニーの水」といえるかもしれませんね。

兎にも角にも義仲縁の地を巡り、次なるは義仲の父であり義賢縁の地を訪ねます。

2013.11.26記(後半につづく)

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コメント

  1. ご無沙汰です~。拝見してビックリ!
    同日に同じ所に行っていたのですね~。
    私は昼の前後にかけてです。
    そこそこ人出もあり、撮るのに気遣いました。
    昔は今より盛況だったようですね。
    決して広くは無い所ですが、どうなっていたのでしょうね。

    ( 12:39 )

  2. 薄荷脳70 | -

    Re: タイトルなし

    山ぼうしさん、ありがとうございます。
    まさにニアミスですね!
    確かにアマチュアカメラマンがすごかったですね。
    かつてはもう少し風雅に楽しんでいたのではないでしょうかね。時代とともに楽しみ方も代わるものですから^^

    ( 03:21 )

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