【関根将雄】は、ジャンルDにおいて、得票数8,375票を獲得して第4位にランクされました。

日本画家。岩槻市本宿生れ。1946(昭和21)年の日展初入選以来、連続入選261991(平成3)年からは県文化団体連合会長を務める。県内の小中高30校以上の校章や20施設のどん帳をデザインするなど、卓越した才能を発揮し芸術文化の振興に貢献。勲五等瑞宝章のほか、数々の功労賞を受賞しており、2000(平成12)年3月には岩槻市の名誉市民に選ばれた。
同氏は「さいたま新都心開業を祝してのさいたま100選。後世に伝えるべき責任と誇りを持って守ろう。そして発信しよう。地方分権はまずこの文化面からだ」と話している。
(本書より)

関根将雄画伯

関根将雄画伯

関根画伯は惜しくも今年、2013年4月6日に老衰(享年93才)のため亡くなられました。
旧制粕壁中学(現春日部高校)在学中に画家を志し父親に反対されたのですが、美術教師になるならと許され東京美術学校(現東京芸大)に進みました。
美術学校卒業後は戦時中と重なったため出兵し、帰国後の1946年より伊東深水に師事して本格的に日本画家として画業に専念するのです。因みに伊東深水とは歌川派浮世絵の正統を継いだ浮世絵師・日本画家で、タレントの朝丘雪路の父といえばお分かりになる方も多いでしょう。
日展退会以降は無所属作家として個展の傍ら度々渡欧し、日本のみならず国内外の風景画をモチーフとした画趣を展開していたそうです。

画伯の生れは本書にもあるように「岩槻市本宿」とありますが、現在は「さいたま市岩槻区本宿」となります。
今回は2009年3月に【岩槻のひな人形】 で訪れて以来の2回目の岩槻散策となります。
“人形の町・岩槻”として全国的に有名な町ですが、今回は画伯ゆかりの町として人形以外の歴史・文化を辿ってみます。
因みにこの「埼玉100選」の選定委員会の会長でしたからご自分が選ばれるにはちょっと気恥ずかしかったかもしれませんね。

関根画伯を辿る鉄の道 前編

本書にもあるとおり関根画伯の生れは岩槻市本宿で、地理的には現在の岩槻区の中央やや北側と言えるでしょう。
まずはその本宿を訪ねる前に、岩槻の中心地である岩槻城址公園からスタートです。

人形モニュメント

以前にも訪れたかつて岩附城のあった岩槻城址公園で、ここには人形の町・岩槻をシンボルする「人形塚」があります。

人形塚モニュメント 人形塚モニュメント

人形塚モニュメント

この人形塚のモニュメントこそが関根画伯デザインなのです。
これは1971(昭和46)年岩槻人形連合協会が10月15日を「人形の日」と決め、埼玉100年を記念してここに碑を建立したものなのです。
イメージは男雛、女雛が仲むつまじく寄りそった姿で、その寄り添う姿が「人」という字を表し、世界平和と郷土発展を願ったものだそうです。
毎年、11月3日にはここで「岩槻人形供養祭」が行われ、各地の人形を周りに並べ約20名の僧侶の読経のもとで焼香し、供養札を炊き上げるのです。まさに人形の町・岩槻の、岩槻たる由縁の地なのです。

もう一つこのモニュメントのある場所があるので移動します。

岩槻高校校舎

岩槻高校校舎

公園からほど近くにある「県立岩槻高等学校」です。
雛時計

可愛らしい雛時計

正門の正面にある校舎の屋上にそのモニュメントがあり、モニュメントをモチーフにした「雛時計」というそうです。
公園と違いこちらはツートンのカラーで可愛らしさが感じられます。

岩槻高校は昭和23年、岩槻町他9カ町組合立埼玉県立春日部高等学校岩槻分校として開校し、昭和37年、岩槻市に移管され埼玉県岩槻高等学校として開校したのです。

白鶴を図案化した校章

関根画伯が白鶴を図案化した校章

このときに制定されたのがこちらの校章で、この校章も関根画伯の創案なのです。
これは旧岩槻市の旧跡である白鶴城の白鶴を図案化したもので、その飛翔の姿は希望に燃える青年の情熱を象徴しペンは生徒の本分である学問に対する熱意を具象化したものだそうです。
まさに関根画伯のエッセンスの詰まった学校といえるでしょう。

武州鉄道の旅

ここからは関根画伯の縁の地を訪ねる「武州鉄道」の旅です。
といっても現在は走っていない、ある意味では幻とも言える鉄道路線で廃線マニアなどには有名ですが、一般的にはあまり知られていないようで私自身も初めて知ったのです。

旅歴メモ -武州鉄道- 武州鉄道は、1924(大正13)年から1938(昭和13)年にかけて埼玉県を拠点に、同県南埼玉郡綾瀬村蓮田(現・蓮田市)の蓮田駅(JR東北本線(宇都宮線))から同郡岩槻町(さいたま市岩槻区)を経て同県北足立郡神根村石神(現・川口市)の神根駅までの間で運行されていた鉄道です。
当初の計画では北千住を起点として川口・岩槻・幸手・栗橋・古河を経て日光に至るもので、この時点では東武日光線は未開通だったのです。

蓮田-神根駅間には14駅が存在したのですが、そのうち岩槻市内では、(蓮田駅)-馬込駅-河合駅-岩槻北口駅-岩槻本通駅-岩槻駅-真福寺駅-浮谷駅-笹久保駅-(武州野田駅)-(武州大門駅)-(下大門駅)-(行衛駅)-(神根駅)の8駅(※カッコ内は岩槻市以外)が存在したようです。

武州鉄道・推定廃線路線図

武州鉄道・推定廃線路線図

青線が推定される武州鉄道跡で、赤線が日光御成道です。
そこで今回は岩槻高校の近くにある「真福寺駅」あたりからスタートすることにします。

真福寺駅~岩槻駅

スタートは「真福寺」で、岩槻高校の南東方向の「真福寺貝塚」に向います。

真福寺貝塚碑 貝塚エリア地図

真福寺貝塚碑と貝塚エリア地図

文字通りの貝塚ですが、国の史跡となってるほどの貝塚で、縄文時代後期から晩期という約3500~2800年前の貝塚だそうです。
杭で立ち入り禁止となっている貝塚

杭で立ち入り禁止となっている貝塚

地図にもあるように結構広範囲に分布していて、貝はもとより土偶や装飾品、建物跡などが発見されたそうですが、このような杭で立入禁止となっていますが、外からでは全くその貴重さはわかりません。

本題はこれからです。

北西方向の住宅

北西方向の住宅

南東方向の住宅

南東方向の住宅

この貝塚の近くの民家の一画にこのような道路に対して一部だけ斜めに建てられた家屋があります。
ほぼ南北を貫く路地に対して南東から北西に向って貫かれている住宅が並んでいますが、これが「武州鉄道」廃線跡なのです。
当時の武州鉄道

当時の武州鉄道

武州鉄道は全て単線でしたので、ほぼ家一件分(短辺)の幅と考えて良さそうです。
武州鉄道跡航空写真

武州鉄道跡航空写真
(c)グーグルマップ

これを航空写真で見ると、他の住宅と違いこの一列の住宅だけが並び方(建物の向き)が不自然なのが判るでしょうか。これが武州鉄道の廃線跡で、このように武州鉄道の路線跡は所々に痕跡を残しているのです。
因みに、ここから約750mほど南下した県道324号線沿いに真福寺駅があったそうです。

ここから廃線跡を北上します。

北西方向の住宅

ブロック塀が不自然な北西方向の住宅

南東方向の住宅

こちらも不自然な南東方向の住宅

ちょうど岩槻高校から2ブロック東側にもこのような痕跡がみられます。
左右の道路が16号線

左右の道路が16号線

そしてその北側に東西に廃線跡を横断する国道16号線と交差しますが、この16号線にも痕跡が見て取れるのです。
不自然なパン屋の裏側の住宅 不自然なパン屋の裏側の住宅

16号線の先の不自然なパン屋の裏側の住宅

ここからまた廃線跡は住宅街を進んでいるのです。
北に向う

この辺りからはほぼ北に向う

ホンの僅かな痕跡ですが、丹念に探っていくともっと色々な痕跡を見つけることができるでしょうが、なんと言っても私有地ですから勝手に入るわけにも行きませんね。

さいたま市立岩槻中学校さいたま市立太田小学校

左側が北に位置する「さいたま市立岩槻中学校」で、右が南に位置する「さいたま市立太田小学校」

そしてこのまま北上すると廃線跡は二つの学校を縦貫します。
岩槻駅前の道路

この通りが岩槻駅前の道路だったところ

南北に位置する学校の間の道路と交差して路線が走り、このあたりに「武州鉄道・岩槻駅」があったそうです。
ここは岩槻駅だけではなく、武州鉄道の本社や車両基地があった要衝の地だそうで、逆に占有面積が広かったために痕跡が見当たらないのかもしれません。

太田小学校校章

太田小学校校章

そして本来の目的を見失いがちになりますが、この「太田小学校」の校章のアートディレクトが関根画伯なのです。
1968(昭和43)年に開校した際に制定された校章で、岩槻城を築城した太田道灌の家紋である“キキョウ”の花をモチーフとしたものだそうです。
因みに隣の岩槻中学の校章は手掛けていませんが、こちらの中学の校歌は同じ埼玉県の偉人である作曲家【下總皖一】によって作曲されたものです。

岩槻駅~岩槻本通り駅・岩槻北口駅

岩槻駅跡から再び北上します。

「岩槻本通り駅」跡

県道2号線付近の「岩槻本通り駅」跡

およそ約400m行った所が「岩槻本通り駅」跡で実に短い距離の駅間ですが、現在の県道2号線、かつての日光御成道の街道近くだったこともあってこの辺りに駅を造ったのでしょう。
武州鉄道の小径 武州鉄道の小径

細い路地と路地に立っている看板

そして2号線を渡った先は細い路地になっているのですが、ここに「武州鉄道の小径」の看板が立っており、確実に廃線跡を記念として残している部分です。
武州鉄道の小径

まさに江ノ電のような光景

現在、もしここを通っていたらまぎれも無く“江ノ電”の世界でしょうね。

浄安寺山門

浄安寺山門

この廃線跡を辿っていくと急に視界が開け右手に山門が現れるのですが、ここは「浄安寺」です。
この浄安寺は1505(永正2)年に宗旨替えをして現在の浄土宗になったそうですが、創建は更に遡った時代となるようです。
現在の地番は“本町”ですが、元々は「渋江町」といい、町名の由来が平安時代末から鎌倉時代に活躍した野与党の一族渋江氏の本拠地だったとの一説もあることから、遅くとも鎌倉時代くらいには創建されていたと考えられるようです。
現地案内板

現地案内板

そして京都知恩院の末寺でもあることから寺宝や文化財も多いそうで、山門前の案内板には、鎌倉時代の作といわれる「木造阿弥陀如来立像」、江戸時代における「円空仏」「児玉南柯の墓」「高力清長の墓」「標客紀事及び徳教編版木」という文化財が市指定されているのです。
落ち着いた佇まいの本堂

落ち着いた佇まいの本堂

山門をくぐった境内は落ち着いた佇まいで、重厚感のある本堂が歴史を物語っているようです。
閻魔堂 閻魔堂

違った意味で不気味な閻魔堂

境内左側には「閻魔堂」があり、“閻魔大王・奪衣婆”が笑っているのがかえって不気味であり、落ち着いた境内の佇まいに空気を一変させているようです。
当時の武州鉄道

当時の武州鉄道(蓮田市HPより)

現在の山門前

現在の光景で、右の路地が「小径」

ここで改めて一枚の写真をみて見ます。蓮田市のHPに掲載されていた写真を勝手ながら掲出させていただきましたが、よく見ていただくと判るように、まさに浄安寺の山門前を汽車が走っているのが判ります。
このように残された数少ない写真に、現在が残されているのも感動的なものです。

武州鉄道の小径

武州鉄道の小径

「浄安寺」を後にして再び山門前の小径を進みます。
「東武野田線」の高架線 渋江ガード

「東武野田線」の高架線と渋江ガード

小径のさきに突如高架線が現れます。「東武野田線」の高架線で、高架線の下はこの何の変哲も無い小径のためにガードになっているのです。
これは武州鉄道の蓮田-岩槻間が1924(大正13)年の開業に対して、昭和4年の開通を目指して計画された北総鉄道(現東武野田線)が平面交差をするわけにもいかないため、巨費を投じて建設した“渋江ガード”なのです。
しかし皮肉なことにこの総武鉄道の開通によって荷客が移り、約9年後には武州鉄道が廃線になってしまうのですから、実に散在したガードだったともいえますね。
当然、当時は武州鉄道も総武鉄道も単線でしたが、野田線の複線化の際に橋を架け替えたため当時の橋は残っていないのです。

岩槻北口駅跡周辺

岩槻北口駅跡周辺航空写真
(c)グーグルマップ

岩槻北口駅跡

岩槻北口駅跡周辺

渋江ガードをくぐって先に進むと住宅街となり廃線跡も判りずらくなりますが、この辺りが「岩槻北口駅」があったところらしいです。
「久伊豆神社」の社号標

「久伊豆神社」の社号標

そして比較的広い道路に出ると、そこにはここからが参道であることを示していた「久伊豆神社」の社号標が立っており、この通りが現在の県道65号線でかつての日光御成道だったのです。
「田中町」標柱

「田中町」標柱

久伊豆神社の標柱の近くには「田中町」と刻まれた標柱があります。
一見したところ何の変哲も無い町名ですが、ある意味由緒正しい町名なのだそうです。

旅歴メモ -岩槻城下町- 戦国時代から江戸時代にかけて岩槻は城下町、そして日光御成道の宿場町として栄えました。その当時、岩槻城内では「本丸」「三の丸」「新曲輪」などの名前が付けられ、武士の住む地区の通り名は「小路」、庶民の住む地区は「町」と呼ばれていたのです。
こうした地名や景観が1970年代以降バブル経済に乗って急速に失われたのですが、その面影は今でも留めていることから平成元年、岩槻市教育委員会によって「城のまちの標柱」として“城下町の旧跡名称”の標柱が24箇所(本丸、三の丸、大手口、広小路/渋江小路、新小路、江戸小路、天神小路、裏小路、 *諏訪小路、新曲輪、新正寺曲輪、新曲輪町、林道町、富士宿町、元浅間町、横町、 *新町、市宿町、 久保宿町、大工町、丹過町、渋江町、田中町、出口町)に設置されたのです。

岩槻城址図

岩槻城址図

当時町の北側に城下町の出入り口があり“田中口”と呼ばれたことから、この町名が付いたのです。当時この「田中」は“岩槻城下九町”(市宿・久保宿・渋江・横町・新町・富士宿・林道・田中・新曲輪)の一つだったのです。
日光御成道に沿って町が形成され、1746(延享3)年には番所や高札場があり、長さ凡そ250m、人口約250人の町だったそうです。
こうしたことからこのあたりは昭和初期には岩槻の中心街の一つとして北口駅が開設されたものと推測されますね。
その後、あの渋江ガード付近に北総鉄道の渋江駅(1950年廃止) が存在したことがあることからも伺えますね。

日光御成道

日光御成道

武州鉄道廃線跡方面

武州鉄道廃線跡方面

こうして日光御成道と交差した武州鉄道はここから進行方向を西に向けて蓮田方面に向かい、日光御成道は北に向けて日光方面に向かうのです。
この後は武州鉄道の跡を追いながら関根画伯縁の地を訪ねます。

2013.12.18記(つづく)

 
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