ある意味では今まではプロローグと言っても良いかもしれない関根画伯と武州鉄道の紹介でしたが、
後半は関根画伯の本来の縁の地を武州鉄道で走り抜けます。

関根画伯を辿る鉄の道 後編

一旦、日光御成道と交差した武州鉄道廃線跡は前編にもあったとおり、ここからは西の方角に向かって終点蓮田駅を目指します。
どんな光景が見られるか、お楽しみです。

武州鉄道の旅

ゆかりの地と意気込んでは見たものの、この辺りからは色濃く残った痕跡がないので廃線跡も凡その推定となります。
道路としては特に名も無い道路に沿って進みます。

岩槻北口駅~本宿

日の出町、美幸町と非常にめでたい様な町を抜けると岩槻(岩槻区岩槻)に差し掛かります。
この住宅街の一画に廃線跡の痕跡が伺えます。

岩槻エリア航空写真

岩槻エリア航空写真(c)グーグルマップ

地図で見ると二股(Vの字)に分かれた道路それぞれから、不自然に斜めに突き出している道路が判別できます。
この斜めの道路をつなげると廃線跡となり、航空写真でもその住宅の並びが不自然な一列を見出すことが出来るでしょう。
蓮田駅方面への廃線跡

蓮田駅方面への廃線跡

岩槻駅方面への廃線跡

岩槻駅方面への廃線跡

地上で見ると、左の写真が蓮田駅方向で、右の写真が岩槻駅方向となり、建物や道路が不自然に斜めになっているのが見て取れますね。
恐らくこの辺りはあまり住宅も無く、畑などの地ではなかったかと思えます。

本宿への交差点

本宿方面への交差点

この先に進むと名も無き交差点に到着しますが、この交差点を右(北東)方向に進むといよいよ画伯の生まれ育った「本宿」となるのです。
今年亡くなられるまでずっと本宿に住んでおられたようですが、正式な住所がわかりませんのでピンポイントでの散策は無理なようです。

旅歴メモ -関根家- 埼玉苗字事典に興味深い記述があります。

同郡本宿村(岩槻市):当村に此氏多く存す。当村出稼衆の土豪関根隼人の長男蔵人は岩付落城後、当村へ帰農し子孫は本宿大尽と称される。其の後裔に画伯関根雅雄あり。隼人の次男新八郎は小田原城大野口に於いて討死す。

同郡は“埼玉郡”のことで、此氏は当然“関根”姓のことです。
更にこのような記述もあります。

岩附城士の関根氏 内山文書に「天正十五年正月六日、太田氏房は、関根石見守に小田原城普請のため、人足ばかり三人の出役を命ず」と。岩槻巷談に「天正十八年、関根蔵人は岩槻本丸に籠城し、関根隼人・関根新八は小田原籠城す」と見ゆ。

この太田氏房とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。
岩付城主・太田氏資が1567(永禄10)年に戦死したため、北条氏政の三男であった氏房がその娘を娶って家督を継ぎ太武蔵国岩付城主となったのです。
1590(天正18)年、秀吉の小田原征伐では居城の岩槻城は家臣に守らせ、自身は小田原城に籠城したのです。そして岩槻城を守ったのが、当地の土豪関根隼人の長男蔵人で、戦後、蔵人だけが生き残ったことから、この子孫が繁栄し本宿大尽(資産家)となったということのようで、この末裔が関根画伯と言うことになるわけです。

少なくとも江戸時代以降、この本宿での関根家は代々続く名家といえるのでしょう。
戦前に美術学校に通えるということは、やはりそれなりの出身でないと通うことはむりでしょうから。

本宿地区

本宿の住居表示

本宿の地番表示が見えるようになると、道路に「市立城北中学校」「市立城北小学校」の標識が見えますが、この道を挟んで東西に学校があるのです。
この小・中学校も関根画伯による校章が制定された学校なのです。

市立城北小学校 市立城北小学校校章

さいたま市立城北小学校と校章

城北小学校は昭和51年ですから結構新しい学校として開校していて、特に説明はありませんが“小鳥”をモチーフにした校章のようです。

市立城北中学校 市立城北中学校校章

さいたま市立城北中学校と校章

城北中学校は小学校より少し早い昭和46年に岩槻市立岩槻中学校を分離し開校されたそうです。
こちらも画伯の図案で、やはり太田道灌ゆかりの山吹の花と葉をあしらったもので、中央に花を配置し、両翼から「中」を囲んでいる葉は生徒の向学心と友好を象徴したものなのだそうです。
ゆかりの学校には違いないのですが、母校ということではないようです。
因みにこの通りを南西に戻り旧122号線を越えると「さいたま市立西原中学校」と「さいたま市立西原小学校」が並んであります。

西原小学校の校章

西原小学校の校章

こちらの学校の校章も画伯の図案によるものなのです。
西原小学校は昭和54年の開校ですから城北小学校よりも更に新しいのですが、このような近い場所で同じ時期に開校しているのは、この辺りが急激に発展し子供が増加したからと考えられますね。
こちらの校章も特に説明はありませんが、やはり鳥をモチーフにしているようです。

西原中学校の校章

西原中学校の校章

西原中学は昭和59年に岩槻中学校・城北中学校より分離開校したそうなので、溢れるばかりの子供の増加現象だったのではないでしょうかね。
こちらの校章には由来が記されています。

西原の文字を左右に配し白鶴の双翼とした。白鶴は岩槻城の別称。古き郷土を認識し、新しき若き生徒諸君の大いなる飛躍を願って、中央に中を図案し、西原中学校を端的に表現したものである。

やはり当地では太田道灌か岩槻城に起因するものが多くなるのは当然なのでしょうね。

本宿~河合駅

再び本宿から西方向に進みます。

平林寺公民館 平林寺公民館

廃線マニアにはお馴染みの平林寺公民館

約1kmほど進むと「平林寺公民館」があります。この公民館は廃線マニアにはお馴染みの公民館だそうで、現在の公民館の前の駐車場そのものが廃線跡なのだそうです。

興味をひかれる民家

民家になっている廃線跡

公民館の先が岩槻方面ですから道路の反対側は当然蓮田方面ですが、民家の庭には「馬」の模型でしょうか、それも白馬が置かれています。
妙な光景といえば言えなくもないですが、こよなく馬を愛でているのかもしれません。
廃線跡はしっかりと確認できましたが、この「平林寺公民館」の“平林寺”と言う名称はここでは地番にもなっている位で、あの新座市野火止の平林寺と何か関係があるのかと思えば、まさに関係は大有りだったのです。

平林寺跡標識

平林寺跡の案内標識

交差点角に「平林寺跡」という標識があったので、この辺りに平林寺ゆかりの寺があったのかもしれません。
ということでここは少し寄り道をして「平林寺跡」を訪ねて見ることにします。
平林寺跡碑 平林寺跡碑

「平林寺跡」碑

公民館から凡そ北に500mほどいった所に「平林寺跡」碑が残されています。

旅歴メモ -平林寺- 平林寺は金鳳山平林寺といい、1375(永和元)年、大檀那大田美州沙弥薀沢によって武蔵国埼西郡渋江郷金重村に創建されました。戦乱での荒廃を重ねましたが、家康により駿河国臨済寺の住職を平林寺に招いて、1590(天正18)年寺領50石を与えたのです。
1618(元和4)年に平林寺の檀那となった川越藩主松平伊豆守信綱は自分の所領に移転しようとしたのですが果せず、子の輝綱が1663(寛文3)年に現在の新座市野火止の移り、寺領50石は平林寺村から西堀村に代わったのです。

まさに縁、というより平林寺そのものがここにあったわけなのです。
それにしても元々は金重村にあった平林寺ですが、近世になって金重村から分村し、いつのまにやら「平林寺村」と称するようになったそうで、それが現在でも“金重”“平林寺”という地番で残っているのです。

関白神社 関白神社

関白神社の一の鳥居と社殿

碑のすぐ北側には小さい「関白神社」があり、岩槻区の散策マップには、“江戸時代には船越明神社といい、南北朝時代に戦に破れた新田氏が、この先の地点で船頭に頼んで元荒川を渡って対岸に落ち延びたのですが、その際船頭が追っ手によって殺されたのです。 その後、新田氏がこの地を訪ね船頭の冥福を祈って建てた社が“船越明神”で、開基した寺院が「平林寺」になった”とあり、まさに新田義貞の関連と読み下しできそうな内容の伝説です。
一方、埼玉県神社庁発行の「埼玉の神社」では、“岩槻城が落城した際、杉戸の武将が元荒川沿いに逃げ、たまたま渡し場に船頭がいたので船で渡してもらい、この地の平林寺に逃げ込み、僧侶の衣を着て坊主になり難を逃れたのです。しかし船頭が疑われ渡したことがバレたために追っ手に殺されてしまったのです。 後に僧となった杉戸の元武将は船頭のために碑を建て、それが船越明神となったのです。”
後者の方が現実性が高く感じますが、伝説としては前者の方がより面白いですね。いずれにしても伝説ですからどう語っても構わないわけです。
因みに、その後、船頭を祀った神社のため社格がない事を憂いた氏子が京都に社格を受けに行ったところ、「正一位より上の関白」をと、いたずら心で関白ではなく“閑白”を与え、無学な氏子は喜んで「閑白神社」と呼んだそうです。
当然、現在は「関白神社」と改称されていますが、何気ない小さな神社ながら実に多くの伝説が語られているところが興味深いところです。

ここからは再び平林寺公民館に戻って廃線跡を進みます。

平林寺周辺の廃線跡航空写真

平林寺周辺の廃線跡航空写真(c)グーグルマップ

先ずは航空写真と参照してもらうと、その線路跡がより判りやすくなります。
再び不自然な角度の建物を探せば、公民館からはほぼ一直線で線路があったことがわかると思います。

河合駅があったと思われる工場 河合駅があったと思われる工場

河合駅があったと思われる工場

工場の建物がこのように斜めになっているのが、まさに廃線跡の印といえます。
この工場の辺りに河合駅があったといわれています。

低い境界を表すブロック塀が痕跡

低い境界を表すブロック塀が痕跡

工場の隙間にある植え込みが斜めになった痕跡

工場の隙間にある植え込みが斜めになった痕跡

この工場の延長線は民家と工場ですが、それぞれその斜めの塀が痕跡を残していますね。

工場の「花菓志」 店舗の「癒菓の店」

工場の「花菓志」と店舗の「癒菓の店」

余談ながらこの工場は「花菓志」と書いて“かかし”という菓子製造工場です。
この日は製造直売をしており、店は癒しと菓子で「癒菓の店」(ゆかのみせ)というそうで、社名共々中々風情のあるネーミングに轢かれて覗いてみました。
店内 かりんとうと煎餅

店内と商品

お勧めを伺うと“かりんとう”と“せんべい”とのことで、それぞれのお勧めを1袋ずつ各250円で購入してみました。
一つは「たまりげんこつ」の揚げせんべいで、甘い醤油と意外と柔らかい噛みごごちの美味しいせんべいです。もう一つは「きんぴらごぼう」のかりんとうです。
「きぴらごぼう」かりんとう

「きんぴらごぼう」のかりんとう

口に入れた瞬間ごぼうの香りが広がり、最初はほのかに(一般的なかりんとうの甘さはありません)甘さが漂った後に、意外と強力な辛さが襲ってくるのです。
“辛いかりんとう”と言うのは初めてですが、甘くて辛いの繰り返しで、私的には病みつきになりそうな逸品でした。

余談が長くなりましたが、ここからは武州鉄道のクライマックスに向かいます。

河合駅~馬込駅

ここからは再び航空写真を確認してみます。

河合駅跡からの航空写真

河合駅跡からの航空写真(c)グーグルマップ

花菓志の工場から廃線跡は再び直進し、河合幼稚園を横切り、河合小学校の前を通っています。
河合幼稚園 河合幼稚園

河合幼稚園

こちらが「河合幼稚園」で、まさにこの正門の通路が廃線跡そのものだそうです。ここも前の通りに対して通路が斜めになっていることが伺えますね。
それにしても斬新なデザインの建物ですね。

廃線跡の道路

廃線跡の道路

河合幼稚園から振り返った直進する道路そのものが廃線跡なのです。ここでもこの道路が斜めに進んでいるのがわかりますね。
河合小学校

河合小学校

河合小学校

正面の横断橋

廃線跡を進むと左手に小学校の正門で、正面に横断橋と小さな社を見ることができます。
この下を蒸気機関車が走っていたのですから、想像するだけでも楽しくなってきますね。

さて、この河合小学校ですが武州鉄道が走っていただけの場所ではないのです。
はっきりとした文献は見つかりませんでしたが、恐らく関根画伯の母校だったのではないかと考えられる学校なのです。 それはこの河合小学校の歴史から頷けるのです。
前身も含めた創立は何と1873(明治6)年で、平林寺村宝蔵寺に平林学校を創設し、掛、金重、本宿、箕輪、平林寺の5ヶ村の児童の教育にあたるとあります。
そしてその後、明治8年に馬込村満蔵寺には馬込学校を開設し、馬込村、川島村の児童の教育にあたるのですが、明治19年の小学校令実施に伴い馬込学校を平林学校に併合したのですが、明治25年には再び馬込尋常小学校、平林尋常小学校と別々に独立したのです。
しかし明治41年に馬込尋常小学校を再び併合し河合尋常小学校と称し、現在地に校舎新築し河合村小学校が開校したのです。
関根画伯の生まれは1919(大正8)年で、出生地は本宿ですから年代的にこの学校しか考えられないからなのです。丁度、大正14年には「河合公民学校」と改称された時期で、その後、旧制粕壁中学(現春日部高校)、東京美術学校(現東京芸大)と進んだのです。
因みに昭和16年に校名を埼玉県南埼玉郡河合国民学校と称し、河合国民学校々章・校旗、校歌制定されたのですが、流石にこの頃は美術学校の頃ですから、まだ全く無名の時代ですね。
あくまで勝手な推測ですが、もし正確な情報をお持ちの方が居られたら、是非お教え願いたいものです。

更にこの小学校に注目すべきことは、これだけではないのです。

河合村役場跡記念碑

河合村役場跡記念碑

学校の裏門の横にある碑が歴史を物語っており、そこには「河合村役場跡記念碑」が建立されているのです。

旅歴メモ -河合村- 河合村は、かつて埼玉県南埼玉郡に存在した村です。
そもそもは1889(明治22)年4月の町村制施行に平行して掛、金重、本宿、箕輪、馬込、川島、平林寺の7ヶ村が合併し河合村が成立したのです。
そして1954(昭和29)年5月に岩槻町、新和村、和土村、川通村、柏崎村、慈恩寺村と合併し岩槻町が成立したことから、河合村は消滅したのです。

ここに存在した河合村役場は、約65年間元荒川の西側、現在の岩槻区の北西部を占める村の中心地として存在し、同時に河合小学校もまた当時としては数少ない学校の一つとして児童を育てていたのです。
この様な歴史を持ち、かつての役場跡もあり、現在でも河合幼稚園、河合小学校として呼び名として残ってはいるものの、地番としては残っていないのが実に不可思議です。
実際、河合小学校の地番は“さいたま市岩槻区大字平林寺”ですから、河合村合併以前の7ヶ村の名称が現在も地番として残っているのも皮肉なものです。

平林寺境界の土塁!? 平林寺境界の土塁!?

平林寺境界の土塁!?

更にこの碑の西方向にあるこんもりした樹林がありますが、ここから南につづく地が、平林寺境界の土塁といわれているところだそうです。
地元では“シンボリ”と呼んでいるようですが、旧平林寺の土塁のほか、岩槻城の外溝などの説もあるそうです。
いずれにしても現在一部工事で取り崩されていますので、はっきりとした遺跡にならないと消滅してしまうかもしれないですね。

名残のない廃線跡

ほとんど名残のない廃線跡

かつての河合村の中心部から再び武州鉄道跡を辿りますが、このたりは廃線跡の名残を感じさせてくれるのは雑木林だけのようです。
岩槻バイパスに阻まれる廃線跡

岩槻バイパスに阻まれる廃線跡

岩槻バイパスの先の廃線跡

岩槻バイパスの先の廃線跡

河合小学校前を真っ直ぐ進むと現在は岩槻バイパスに阻まれ迂回するのですが、その先はまた真っ直ぐ廃線跡が続いています。
このあたりは馬込地区となり、岩槻区と蓮田市の境界となります。
河合村に合併するまえの馬込村だったところですが、廃線跡の南に2つの象徴的な社寺があります。

一つはこちらの「第六天神社」です。

富士塚 富士塚

富士塚

堂々とした朱の一の鳥居の横には富士塚があり、信仰の歴史がうかがえます。
鳥居と参道 手水舎

ちょっと興味深い手水舎

興味をそそられるのは参道右手にある手水舎で、狛犬が手水鉢を背負っていますが、さぞ重いことでしょうが、動物虐待・・・、にはならないでしょうね。

正面が社殿です。

社殿

社殿

社殿と境内社

扇型に配された境内社と神楽殿

どこにでもありそうな極々一般的な社殿です。
しかし一見の価値がありそうなのが社殿の左側に扇型に配置された境内社と神楽殿です。
境内社には「八幡神社」「深津神社」「愛宕神社」「神明社」「雷電社」の五社があり、「天神社」が六番目の神社なので「第六天神社」と本気で思っていました。

旅歴メモ -第六天- 「第六天」は「大六天」と表記される場合もあるそうで、欲界天の第六、つまり最高所に宮殿を持つ魔王なのです。身長は2里、寿命は人間の1600歳を1日として、1万6千歳の寿命とされています。
男女に対して自由に交淫・受胎させることができる力があるとされ、他人の楽しみ事を自由自在に自分の楽しみにかえる法力を持っているので、他化自在天と呼ぶのが本来の名だそうです。
この第六天魔王を祀ったのが「第六天神社」ですが、あえて魔王を祀る理由は、自ら「第六天魔王」と称した信長のように時代の価値観が変化し、戦国の争乱の中の民衆信仰として、人に災いをもたらすものだからこそ、丁重に祀って災厄を守る神に転化させるという考え方のためだったようです。

決して“六番目”という意味ではなく、「第六天」ということを覚えておきましょう。

主の居ない台座

主の居ない台座

この「第六天神社」は関東地方に多く、江戸時代には3000~4000社あったそうですが、明治維新とともに祭神を替えたり、社名を変えたりしたことから、現在では非常に少ないのだそうです。
そんな中で岩槻区にはここと「武蔵第六天社」の2社あるのも非常に珍しいことなのでしょう。

満蔵寺山門と本堂 満蔵寺本堂

満蔵寺山門と本堂

もう一つが「満蔵寺」です。
850(嘉祥3)年、慈覚大師が開いたといわれている古刹です。
天文16年銘地蔵画像板碑

天文16年銘地蔵画像板碑
(案内板写真)

古刹ゆえに天文16年銘地蔵画像板碑や薬師如来像、庚申塔など貴重な文化財・寺宝があるそうです。
そして何よりも明治8年、ここ満蔵寺に馬込学校が設置されたことは特筆すべきことでしょう。

馬込駅跡周辺航空写真

馬込駅跡周辺航空写真(c)グーグルマップ

歴史を残す馬込地区で再び廃線跡に戻って進みますが、この周辺の位置関係を確認してきます。

広い空き地の先の雑木林方面が廃線跡

広い空き地の先の雑木林方面が廃線跡

この先は一旦広い空き地となりますが、先に見える雑木林の方角が廃線方向です。
フェンスが斜めになっている岩槻方向

フェンスが斜めになっている岩槻方向

建物が斜めに建っている蓮田方向

建物が斜めに建っている蓮田方向

廃線跡は国道122号線と交差します。
馬込駅跡周辺

この建物辺りが馬込駅跡周辺

ここにある材木店の辺りに「馬込駅」があったのだそうです。
緑のトラスト保全地区

緑のトラスト保全地区

蓮田側から見た廃線跡

蓮田側から見た廃線跡

この周辺の樹林が「緑のトラスト保全地区」でここを突き抜けて武州鉄道は蓮田駅へ向かったのです。
もしかすると関根画伯も当時の武州鉄道を利用したかもしれませんね。

関根画伯の縁の地を訪ねて武州鉄道廃線跡を辿ってきましたが、やはり興味深い歴史が多く散在している地でした。

蓮田駅跡周辺

蓮田駅跡周辺

最後の付録でこちらが終点の蓮田駅跡周辺です。
この後はもう一つの道である“街の道”、「日光御成道」を辿って更に歴史を訪ねます。

2013.12.22記(つづく)

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