畠山重忠 #3

「畠山重忠公史跡公園」を後にして次に向ったのが「満福寺」です。
こちらも畠山重忠ゆかりの寺院で、より荒川に近い場所ですので、地理的には重忠橋へ戻るような方向です。
重忠ゆかりの町、川本町ならではで重忠の歴史は尽きることが無い様にさえ思えます。

満福寺

満福寺 車で5、6分程度進んだところで目的地の「満福寺」に到着ですが、何故パトカーが・・・。

満福寺
所在地 大里郡川本町大字畠山
白田山観音院満福寺は、真言宗豊山派の寺院で鳥羽天皇(1110年頃)の御代に弘誓房深海上人が草創した。
後に畠山重忠公が寿永年間に再興し、菩堤寺としたものである。
本尊は不動明王、制迦、矜羯羅両脇侍の三尊立像で彩色の宮殿に安置され、須弥壇、前机と共に町指定文化財になっている。
現本堂は、以前は講堂で間口10間、奥行7間あり、寛政4年(1792年)建立のものである。
重忠公の菩提寺として実山宗眞大居士の位牌があり、寺宝として茶釜、茶碗、太刀、長刀、大般若経、御朱印状などが伝えられている。
別棟の観音閣には、重忠公の守本尊(等身大)である6尺3寸の千手観音像が安置され、秩父坂東西国百番観音像、算額絵馬(和算家が自己の発見した数学の問題や解法を書いて奉納した絵馬)などがある。
また、当寺の裏には、彰義隊士水橋右京之亮の墓、重忠廟の碑もある。
平成11年9月 埼玉県
(現地案内板説明文より)

確か福島県いわき市の国宝・白水阿弥陀堂の白水は奥州平泉の「泉」の文字を分字したものですが、この満福寺の山号は、畠山の「畠」を分字して「白田山」としたそうです。

満福寺観音閣 この駐車場のすぐ目の前に、観音閣が建っています。
歴史もありそうですが重厚感ある観音堂です。中を見ることはできませんが、等身大の千手観音像は是非とも見たいものですね。

満福寺重忠廟 観音閣の裏手には重忠廟と刻まれた碑があります。
菩提寺ですから嘗てはここに墓があったということでしょうか。それとも重忠一族の墓があったということでしょうか。

満福寺参道 ここから右手に参道が続いています。参道の右側には様々な石碑や庚申塔、などが置かれています。

参道の左側に大きな本堂が建っています。
満福寺本堂 あまり装飾がないのが、嘗ての講堂の名残かもしれませんが、その分大きく歴史を感じさせる建物です。

帰りは山門を逆に抜けて境内を出ます。
満福寺山門 山門はそれ程大きくはありませんが、しっかりとした立派な寺号標が立てられている、重忠の息吹を感じる寺院でした。

井椋神社

「満福寺」の境内のすぐ右手に鳥居と灯籠があります。
井椋神社一の鳥居 ここが「井椋神社」の参道口です。

「満福寺」のすぐ隣が「井椋神社」の参道ですから、もしかすると神仏習合の時代は神宮寺、境内社の関係にあったのかも知れません。
それにしても参道は結構長いです。のんびり歩くと5分くらい掛かるのではないでしょうか。

井椋神社社叢 暫くすると社叢に被われた二の鳥居が見えてきます。

川本町井椋神社社叢ふるさとの森  平成3年3月29日指定
身近な緑が次々に姿を消していく中で、残された貴重な緑を私たちの手で守り、将来に伝えていくために、この井椋神社の社叢が「ふるさとの森」に指定されました。
この森は、郷土の武将畠山重忠公ゆかりの鶯の瀬(荒川)を見下ろす位置にあり、遠く秩父、赤城、日光連山がつらなり、山や水辺の展望地として、また、野鳥の観察地としても絶好の場所になっています。
規模の大きな社叢ではありませんが、スギ、ヒノキ、ケヤキといった様々な種類の樹木が生育しており、その四季折々の風景は私たちに潤いと安らぎを与えてくれます。
平成4年3月 埼玉県・川本町
(現地案内板説明文より)

井椋神社 社叢 確かにこじんまりとした社叢ですが、それゆえに社叢の形状が一目瞭然で、返って景色としては存在感のある社叢に見えます。

井椋神社 二の鳥居 二の鳥居にそばに神社の由緒書きがあります。

井椋神社
所在地 大里郡川本町大字畠山
井椋神社は、畠山氏の先祖である将恒から武基、武綱、重綱、重弘、重能の代に至る間、秩父吉田郷領主として井椋五所宮を敬ってきた。その後、重忠の父重能が畠山庄司となって館を畠山に移したとき、祖父重綱が勧請(分詞)したものである。
はじめは、井椋御所大明神、井椋五所宮と号していたが後に井椋神社と改称したものである。
祭神は、猿田彦大神ほか四柱である。そのほか境内には近所の各神社が合祀され、蚕の神様である蚕影神社、源氏の白旗を祀った白幡八幡神社等がある。 また、社殿の裏の荒川断崖に鶯の瀬の碑が建立されている。
平成11年9月 埼玉県
(現地案内板説明文より)

ここではまず始めから頻繁に登場する秩父氏について紐解いてみます。

秩父氏は、桓武平氏良文流である平忠頼の息子の平将恒が武蔵国秩父郡において秩父氏を称したことからはじまります。ちょうど前九年・後三年の役にこの秩父氏一族が従軍した時代背景で、この後三年の役での秩父武綱の功績により、秩父氏が発展していきます。
そして武綱の息子の重綱の代には、武蔵国国守の代理職である「武蔵国留守所総検校職」に就き、一族は大いに発展したのでした。
その後、秩父氏の家督は長男の血筋(畠山氏など)ではなく、次男の血筋(河越氏)が継承し、嫡流の河越氏を中心に秩父党が形成されていくことになるのですが、これが後の内紛の火種になるのです。
この当時の秩父一族は入間川(現荒川)流域を中心に支配をしていました。例えば、河越の河越氏や、豊島氏、江戸湊と浅草を支配する江戸氏などがおり、入間川とつながる利根川水系の一部や国衙のある多摩川下流などにも葛西城の葛西氏や、登戸の稲毛氏などが支配をしていたのです。

家督を継いだ河越氏の秩父重隆は、足利氏、新田義重、そしてその同盟者の源義朝と争っていました。また、義朝と組んだ甥の畠山重能とも家督を巡って対立していたのですが、1155年、重隆は源義平に討たれ家督は畠山氏に移ったのでした。
1156年の保元の乱では秩父氏は源義朝の下で戦いますが、1159年の平治の乱で源義朝が敗死すると、家督は再び河越氏に戻ったのでした。
源頼朝が挙兵後は前述したとおり畠山重忠、河越重頼、江戸重長の秩父一族は頼朝に服属し、特に河越重頼は源義経に娘を嫁がせたのですが、義経失脚と同時に連座して討伐され、秩父氏惣領の地位は再び重忠に与えられました。
しかし、秩父一族である稲毛重成の讒訴により畠山重忠の乱が起きると、河越重頼の子である重時・重員兄弟は討伐軍に参加し、重時は三度惣領の座を奪還したのでした。
この時点で畠山氏・稲毛氏といった秩父重弘の子孫同士が争い、有力者が絶えたことから家督争いにも終止符が打たれます。
その後、鎌倉幕府の御家人、南北朝時代の勲功、室町幕府での相模国守護や伊豆国守護などに任じられたのですが、その後解任され、1368年武蔵平一揆の乱で敗北し伊勢国に逃亡したのでした。
秩父氏、それは内紛の血筋だったのかもしれませんが、こうしてみると以前、秩父郡の長瀞町郷土資料館の方が埼玉県は秩父の秩父氏からはじまって広がった民族なのですと、説明されたのが何となく今になって理解できるのです。

そうなると次ぎは秩父市での井椋五所宮について知らなければならないでしょう。

「井椋五所宮」は嘗て平将門討伐をした俵藤太が春日4神を祀ったことから「井椋五所宮」と呼ばれるようになったそうです。
その後、畠山では「井椋神社」と仮称されたようですが、秩父市では「椋神社」と改称されました。更に、現在秩父地方には「椋神社」は5社あり、本来の「井椋五所宮」が下吉田の椋神社で、そのほかに、上蒔田、中蒔田、皆野町野巻、皆野町皆野の鎮座しています。
この下吉田の「椋神社」は10月に【吉田の龍勢祭り】で訪れた神社で、秩父事件にも縁のある実に由緒ある神社で、境内にある八幡神社は嘗て畠山重忠が鶴窪八幡宮を祀ったのが始まりとされている神社で、社殿には重忠が太刀一口を献ずという記述もあるようです。
このように「井椋神社」は秩父氏、及びその系統にとっても重要な神社といえるのでしょう。

二の鳥居を潜って参道を進むと、社叢からの木漏れ日が社殿を照らしています。
井椋神社 拝殿 井椋神社 本殿覆屋 決して立派な社殿ではありませんが、地元の方から親しまれるような妙な飾りのない素朴な社殿です。

お参りをして境内を散策すると説明にあった境内社があります。
蚕影神社 白幡八幡神社 左が蚕影神社で、右が白幡八幡神社のようです。

何故蚕の神様なのかは不明ですが、そもそも秩父地方は近世以降、養蚕が盛んで「椋神社」が養蚕の神として崇敬されたそうですから、そんな関係もあって勧請したのではないでしょうかね。

鶯の瀬

「井椋神社」の境内をそのまま先に抜けると、荒川に突き当たります。ちょうど神社の裏手にあたります。
かわもと郷土かるた 裏手に出るとまず目に付くのが、例の郷土かるたです。

鶯の瀬公園 荒川 このあたりは、きれいに整備された鶯の瀬公園となっていて、公園からは社叢の間から荒川を見ることができます。

鶯の瀬記念碑 左側に石碑と案内板があります。

鶯の瀬
所在地 大里郡川本町大字畠山
荒川のせせらぎの聞えるこの地を鶯の瀬といい、増水時でも川瀬の変わらぬ浅瀬である。
ここは、畠山重忠公が榛沢六郎成清のもとに行き、帰路豪雨に逢い、洪水で渡れないでいるときに一羽の鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたと言い伝えられており、その故事を詠んだのが次の歌である。
「時ならぬ岸の小笹の鶯は 浅瀬たずねて鳴き渡るらん」
また、この上流には、古くから熊谷市・江南村方面にかんがい用水を送ってきた六堰があり、遠く秩父連山を眺めながら鮎、ウグイ(通称ハヤ、クキ)等の釣り場として親しまれている名所でもある。
平成11年9月 埼玉県』(現地案内板説明文より)

この鶯の瀬は一年中浅瀬なのですが、その理由は、この浅瀬の畠山凝灰岩と呼ばれる地層が周囲の地層より硬いために、水に削られにくくなっているためといわれており、この層の厚さは約320mもあるそうです。
当分、鶯の瀬がなくなることはないということでしょうね。

そしてこの碑の左手方向の社叢が切れるところから、その「鶯の瀬」を望むことができます。
鶯の瀬 鶯の瀬 嘗てここを畠山重忠が渡った情景を思い浮かべると、情緒ある景色・・・、豪雨の土砂降りですから情緒も何もありませんね。

六堰 川の左側を望むと、先に訪れた「重忠橋」の六堰を見ることができます。

「荒ぶる川」荒川とは思えない長閑で癒される光景です。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks