大沢家政婦紹介所は主に上流階級家庭に派遣されるので、ひょっとしたら派遣されたことがあるエリアかも知れません。
港区の沿革から言えば、芝区、麻布区、赤坂区が合併して港区となったことからオフィス街の芝、住宅街の麻布、商業の赤坂と大きく分類できるのですが、その中での“三田”は住宅街の麻布と、オフィス街の芝を併せ持った町です。
今回の散策は、その三田を中心として、芝・高輪エリアを含めた江戸元禄~幕末・明治にかけて主役となった町なのです。
先ずは最寄り駅であるJR田町駅からスタートです。

芝さつまの道

JR田町駅は山手線と京浜東北線だけが停車する駅で、東京駅方向から手前が浜松町駅で、先が品川駅です。

JR田町駅三田口 JR田町駅芝浦口

三田口と芝浦口

品川方向(南)に向かって右側が“三田口(西口)”で左側が“芝浦口(東口)”となります。
田町と言う駅名は江戸時代には田畑が町屋に変ったことから“田町”と呼ばれ、明治初期には“芝田町”と呼ばれており新橋-品川間の開通に伴って田町駅が1909年に開業したのです。
ペデストリアンデッキ

汚いものを隠しているかのようなデッキ

ここはまず三田口に下りるのですが、駅の東西はペデストリアンデッキで結ばれているのは昨今の流行でしょう。
デッキを下りた先は国道15号線、通称・第一京浜です。

西郷・海舟会見の地

「三菱自動車工業」本社

レッズの親会社なので埼玉県とも。。。

第一京浜沿いを北東に少し歩くと右側にあるのが「三菱自動車工業」の本社です。
「江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地」碑 「江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地」碑

国道沿いに大きな丸い石碑は目立ちます

そしてこのビルの左端前にある丸い石碑が「江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地」碑です。
新政府軍の江戸城総攻撃は慶応4年3月15日と予定されていて、その直前、西郷隆盛と勝海舟の会談が2回にわたって行われたのです。
1度目の予備会談は3月13日高輪の薩摩藩邸で、2度目の会談は14日ここ田町薩摩藩蔵屋敷で行われたのです。

旅歴メモ -江戸藩邸- 江戸藩邸とは江戸城近辺に幕府が土地を与えて構えさせた大名屋敷のことで、各藩の大使館のような役割を担っていました。
大名とその家族が居住する屋敷が「上屋敷」と呼ばれ、郊外に別邸として設置された「下屋敷」と使い分けられました。下屋敷は庭園や物資を貯蔵する施設としての役割が大きく、江戸大火の際の避難場所、復興までの仮屋敷など藩によって様々に活用されたのです。
このほか、藩によって上屋敷の控として隠居した主や成人した跡継ぎの屋敷などの目的の「中屋敷」、年貢米や特産物を貯蔵する「蔵屋敷」をもっていました。
また、建造方法で分類すると江戸幕府から与えられた土地に建てられた屋敷が「拝領屋敷」で、大名が独自に購入した土地に建築した屋敷を「抱屋敷」と呼ぶ2種類があり、目的別にいえば基本的に「抱屋敷」は下屋敷となるのが一般的です。
このような江戸藩邸のシステムの中で、中屋敷を持たない藩や下屋敷をいくつも持つ藩など、藩によって様々な形態があったのです。

薩摩藩の場合、旧上屋敷であった“桜田屋敷”と、その後の上屋敷である“三田上屋敷”、“高輪中屋敷”があり、海に面して物資の搬出入に利用した“田町蔵屋敷”、そして篤姫が輿入れするまで一時期居住した“渋谷下屋敷”がありました。更に“白金”と“大井”に抱屋敷があり、全部で7つの藩邸をもっていた大藩だったのです。
しかしながら幕末時の三田上屋敷焼き討ち事件のため、この会見時には上屋敷が無かったことから、ここ蔵屋敷が利用されたのです。

会見時のレリーフ

会見時のレリーフ

碑には左が西郷隆盛で床の間を背にしたのが勝海舟という会見時の模様のレリーフが掲げられています。小説やドラマでは演出上勝と西郷の二人が面会したように描かれているのですが、実際には幕府側からは会計総裁・大久保一翁、山岡鉄舟、新政府側からは村田新八・桐野利秋らが同席していたと考えられているようです。
いずれにしても江戸城無血開城ということで合意された幕末における歴史的な会見だったのです。

「芝濱」雑魚場

三菱自動車工業本社脇の路地

三菱自動車工業本社脇の路地

会見之碑の横の路地を進むと突き当たりに小さな神社があります。
平成18(2006)年に建立された社殿

平成18(2006)年に建立された社殿

相殿となった2社の扁額

相殿となった2社の扁額

社号標には「御穂鹿嶋神社」と刻まれていて、もともと文明11(1479)年創建の御穂神社と、寛永年間(1624~44)創建の鹿嶋神社が相殿となった神社です。ただし、別の神社であっても本芝両社と呼ばれ、宮司は兼任で江戸時代に遡れば別当も兼任、祭礼も同日だったそうです。
平成17(2005)年に社殿の老朽化により、鹿嶋神社を御穂神社に合わせ祀り、翌18(2006)年に旧鹿嶋神社の社地に建立されたものです。

ここで注目するのが鳥居の左にある大きな記念碑です。

芝濱囃子碑

昭和53年芝濱囃子設立20周年を
記念して建立された碑

港区芝の“本芝町会”のよって建立された落語「芝濱」の記念碑で、題字は寄席文字の大家「橘右近」によるものです。

旅歴メモ -落語「芝濱」-

酒好きの怠け者である魚屋の勝五郎が、ある日芝浜の魚河岸で大金(42、50、82両と噺家によって変えられる!?)の入った財布を拾って豪遊する。
しかし朝起きると財布が無く、女房も「拾った財布は夢で、散財したのは現実」と言われた勝五郎は心を入れ替え、酒も絶って真面目に働き3年で表通りへ魚屋の店を構えるほどになった。
その年の大晦日、女房から拾った財布は本当のことで、亭主を改心させるために嘘をついたと告白されるが、勝五郎は女房を叱りつけるどころか、改心させてくれたことに感謝、感謝。
女房は勝五郎の労をねぎらって絶っていた酒を勧めるが勝五郎はこれをキッパリ断ります。
「よそう。また夢になるといけねぇ」

三遊亭圓朝の作とも言われているのですが、3代目桂三木助の改作が有名で、三木助による名演以降、夫婦の愛情を暖かく描いた屈指の人情噺として知られるようになったそうで、この落語の舞台となったのがこのあたりなのです。

本芝公園

JRがすぐ脇を走っている「本芝公園」

その河岸後跡と言われているのが現在の「港区立本芝公園」で、御穂鹿嶋神社の前に広がっています。
案内板の江戸時代の地図

案内板の江戸時代の地図

江戸名所図会の御穂・鹿嶋神社挿絵

江戸名所図会の
御穂・鹿嶋神社挿絵

案内板によれば、公園の位置は東海道の裏あたりの海に面した砂浜で、江戸時代には魚が水揚げされたため“雑魚場”と呼ばれていました。
昭和38年の雑魚場

昭和38年の雑魚場
(c)goo地図

昭和38年の雑魚場

右側が東京湾で雑魚場から運河で繋がっていた
(c)goo地図

明治5年に開通した鉄道は海上の堤防を走ったことから、雑魚場はガード下から東京湾に通じていたのです。昭和39年のオリンピックを契機として昭和43年に埋め立てられたのですから、比較的最近まで海岸の名残を残していたのでしょう。
貝殻のモニュメント

雑魚場の趣を残す公園にある貝殻のモニュメント

ガード下

現在は歩道と自転車道となったガード下

そのガードがここで、ここから先が海岸だったと言うことですので、ガードを潜ってかつての海に出てみます。
東京オリンピックの申し子

東京オリンピックの申し子とも言うべき東京モノレール

港区スポーツセンター

左側にあるのは「港区スポーツセンター」

まさに東京オリンピックのために埋め立てられた感のある風景で、かつての川跡は公園に変わっています。
このあたりの地番は“芝浦”で、まさに芝の海岸であったことを示しています。

放送記念碑

港区スポーツセンターの前を南に向うとJR田町駅の芝浦口となります。こちらは芝と比べれば町自体が新しいので、その分再開発も遅れたようです。

田町駅

田町駅東西を結ぶデッキ

芝浦口ロータリー モニュメント

芝浦口ロータリーと芝浦らしいモニュメント


放送記念碑

駅前にある「放送記念碑」

駅前の一画に塀をえぐったように「放送記念碑」が立っています。
ここは大正14年3月22日に日本初の放送電波が発せられたゆかりの場所なのです。所謂、現在のNHKの前身である東京放送局が、当時ここにあった東京高等工芸学校の図書室を仮放送所としてラジオの第一声を送り出した場所なのです。
そして放送開始30周年を記念してNHKにより建立されたのです。

旅歴メモ -日本初のラジオ放送-
1925年当時の番組表

1925年当時の番組表

日本初のラジオ放送は1925年3月22日9時30分、社団法人東京放送局の仮送信所から“京田武男”アナウンサーによって発せられました。
その第一声は、「アーアー、聞こえますか。(間)JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始致します」というもので、当時使われていたラジオは探り式鉱石受信機がほとんどだったため、第一声の「アーアー」は、この間に聴取者が鉱石の針先を一番感度の良い部分に調節できるようにするための配慮と言われているのです。
また、本来は3月1日放送開始の予定でしたが、当時日本に1台しかない送信機が大阪放送局に買い取られてしまったため、急遽別のを借りて行おうとしたのですが、逓信省の許可が下りなかったため“試験放送”の名義でまずは3月1日に放送を開始し、3月22日から仮放送(仮施設からの放送の意味)を行い、7月12日より現在の愛宕山からの本放送が開始されたのです。
したがって僅か4ヶ月ほどここから放送されたということになるのです。

東京工業大学附属科学技術高等学校

近代的な校舎になっていることに
隔世の感を拭えない

記念碑

記念碑

そしてかつて東京高等工芸学校であった地にあるのが「東京工業大学附属科学技術高等学校」で、実は私の母校でもあるのです。
案内板に寄れば「東京高等工芸学校」は大正10(1921)年に創設され、戦時下の昭和19(1944)年の東京工業専門学校と仮称されたのです。
しかし昭和20年5月の空襲により校舎・工場などが焼失し、戦後の同年10月に再建を断念し千葉県松戸市に移転、昭和24年の学制改革により新制大学の千葉大学工芸学部となったのです。

旅歴メモ -東京工業大学附属科学技術高等学校- 東京高等工芸学校移転後にいきなり東工大附属ができたかというと、じつに複雑な歴史を持っており、卒業生でもある私も良くわかっていませんでした。
東京工業大学附属科学技術高等学校の沿革 東京工業大学附属科学技術高等学校の沿革

東京工業大学附属科学技術高等学校の沿革

詳細はサイトの沿革を見ていただくとして、簡単に言ってしまえば、明治19年創立の東京商業学校(現在の一橋大学)附設商工徒弟講習所の職工科と、昭和18年に創立した東京高等工芸学校電気通信専修科、更に明治32年に創立された東京工業学校(現在の東京工業大学)附設工業教員養成所附属工業補習学校の3校が母体となっていて、昭和26年に前の2校が東京工業大学附属工業高等学校と東京工業大学附属工業高等学校専攻科を経て、昭和41年に東京工業大学工学部附属工業高等学校と改称され、平成17年、東京工業大学附属科学技術高等学校と改称されたのです。

実習棟

当時建設されたばかりの実習棟

40年以上も前に卒業したので現在とは大分変っているでしょうが、こちらの建物は当時実習棟として建てられたばかりの校舎でした。その分一般校舎は木造でしたが。。。
学校前の飲食店

40年前とイメージは変っていない
学校前の飲食店

wikiに記載されているとおり、私服校で昼食は周辺の店を利用していました。また共学でありながら現在は男子が8割とありますが、当時1学年約150人の内女性は3名でした。
当時と大きく変っているのは進学で、現在は東工大に推薦や進学する人がいるようですが、当時東工大に進学するものは皆無で、その点では偏差値(当時偏差値はなかったが)が相当上がっているといえそうです。
また、当時校歌を歌うのは禁止で、3年間ついに校歌を知らずに卒業したのですが現在はどうなっているのでしょうかね。
青春の一ページって奴ですね。

ここからは田町駅を渡って再び三田口に戻ります。

水野監物邸跡

今度は三田口の真っ直ぐ先にある「慶応仲通り商店街」に向かいます。

慶応仲通り商店街 慶応仲通り商店街

三田口前の慶応仲通り商店街入口

港区三田と言えばあの「慶應大学」というほど有名な大学で、私学では早稲田大学と並んで歴史・伝統・名声を誇り、全国的にも多くの方に知られています。

慶応仲通り商店街

まさに路地のような慶応仲通り商店街

「慶応仲通り商店街」はそのJR田町駅から慶應大学に繋がっている商店街なのです。私が高校に通っていた頃もありましたから、少なくとも50年以上は経過しているでしょう。
確かに商店街なのですが、どちらかと言えば現在は飲み屋街といった風情です。記憶では入口付近に「洗濯船」という喫茶店があって、かつては良く通っていたのですが、ありませんよね。

水野監物邸跡 水野監物邸跡

こんなところに史跡があるとは。。。

その路地を進んだ突き当りのT字路の右側に「水野監物邸跡」の案内板が設置されています。
このあたりは三河岡崎藩主・水野氏の中屋敷跡で、水野家は後に天保の改革をおこなった水野忠邦を輩出した名門の家柄で、水野監物忠之(1669~1731)は、第4代藩主です。
この屋敷は1703年1月30日の赤穂事件で討ち入った赤穂浪士の内9名が預かりとなった屋敷で、同年3月20日にこの屋敷にて切腹し泉岳寺に埋葬された忠臣蔵ゆかりの屋敷跡なのです。
実際の屋敷はここから50m北にあったそうですが、現在はこちらの灯籠だけが現存しているのだそうです。

旅歴メモ -赤穂事件始末記- 水野監物忠之は赤穂事件の始末を随分としているのです。
元禄14年の浅野長矩の刃傷沙汰の際には、赤穂藩の鉄砲洲屋敷に向い騒動の取り鎮めにあたり、翌年の赤穂浪士討ち入り後、幕府に出頭した後には、47士の内、間光興・奥田行高・矢頭教兼・村松高直・間瀬正辰・茅野常成・横川宗利・三村包常・神崎則休9名の預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷で預かったのです。
水野忠之は大石良雄を預かった肥後熊本藩主細川綱利に倣って、浪士たちを賞賛しよくもてなしたようです。当時四家に分散・収容された47士の扱いに対して、江戸の庶民は「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌を詠っています。これは細川家と水野家が浪士たちを厚遇し、毛利家と久松松平家が冷遇したことを表したものなのです。

路地の先が水野邸

この路地の先が水野邸

ちょうどこの路地の突き当たりが水野邸だったようです。
毛利甲斐守邸跡は、以前【温故知新、クールな都会の七福神めぐり】で訪れた現在の六本木ヒルズのあたりで、細川家と久松松平家はこの後訪れることになるのです。

芝さつまの道

夜に来たい仲通り

夜に来たい仲通り

日本電気(NEC)本社ビル

聳え立つ白亜の巨大ビル

このまま仲通り商店街を進みたいのですが、ここは再び北方向に進むと交差点の先に白い綺麗な建物が聳え立っています。
このビルは日本電気(NEC)本社ビルなのです。
建物名は“NECスーパータワー”と言うそうで、何かカッコよいですね。

NEC残存基礎 NEC残存基礎

日本電気の創立当初に建てられた建物の残存基礎

ビルの周囲は綺麗に整備された通路となっていて、その一画に煉瓦造りの基礎が残されています。
明治44年頃に建てられた建物は煉瓦造りの2階建てで、大正14年から始まった旧本社ビル建設で姿を消したものだそうです。
今の本社ビルをこの当時想像できたでしょうかね。
薩摩屋敷跡碑

NEC本社ビル北側の植え込みにある碑

ビルの敷地の北側の植え込みには「薩摩屋敷跡碑」が立っています。西郷吉之助書とあるのは隆盛の孫ですね。隆盛も通称、吉之介でしたが、“すけ”の字が違いますから。。。 
西郷南洲(隆盛)・勝海舟会見の地碑も吉之助によるものでした。

芝さつまの道

NECから北側の歩道

そしてこのNEC本社ビルから、1ブロック北にある三井住友信託ビル・セレスティンホテルあたりまでが薩摩上屋敷跡で、相当広い敷地であったようです。
芝さつまの道

“芝さつまの道”案内板

当時の薩摩上屋敷地図

当時の薩摩上屋敷地図

現在、三井住友信託ビル・セレスティンホテル前が薩摩屋敷跡を偲ぶ「芝さつまの道」として整備されています。

旅歴メモ -薩摩屋敷焼き討ち事件- この薩摩屋敷は慶應3(1867)年12月に焼き討ち事件の舞台となった場所です。
同年10月頃から西郷隆盛の指示により益満休之助、伊牟田尚平らが浪士を集め、江戸市中で乱暴狼藉を繰り返し、12月にはいってから挑発は益々エスカレートし、新徴組の詰め所に小銃が打ち込まれる事件も発生したのです。
この挑発に耐えられなかった庄内藩、新撰組および幕府側はこの三田の薩摩藩邸を囲み浪士の引渡しを迫り、その際の対応に現れた薩摩藩の留守居役・篠崎彦十郎を血祭りにあげたところから銃撃戦が始まり、103名が捕縛され、49人が戦闘で命を落としたのです。 この薩摩藩邸焼き討ち事件が大阪城に集結していた旧幕府軍・会津藩に伝わり一気に鳥羽伏見の戦い、つまり戊辰戦争の開戦となるのです。
薩摩、西郷の挑発が、結果的に幕府の瓦解、明治維新に繋がっていくエポックメイキングな薩摩屋敷焼き討ち事件なのです。
芝三田二本榎高輪邉繪圖】(絵図右中央付近に松平薩摩守上屋敷が描かれています。)

様々なモニュメントが、かつての薩摩屋敷をイメージさせているのです。

記憶のミュージアム

「記憶のミュージアム」
薩摩上屋敷の歴史表現としてのショーケース

「蔵跡」

「蔵跡」
蔵のあった場所を偲ぶ石のベンチ

記憶の井戸

「記憶の井戸」
堀や庭園に使用された石


薩摩屋敷跡碑 薩摩屋敷跡碑

薩摩藩の紋が目立つ四国町と薩摩屋敷跡碑

芝さつまの道のそばには「四国町と薩摩屋敷跡碑」が立っています。絵図に寄ればこのあたりが薩摩藩邸の北限のようで、かつてこのあたりに四国の大名屋敷(阿波徳島・土佐高知・讃岐高松・伊予松山の各藩邸)があったといわれていることから、明治期になって三田四国町となったそうですが、昭和39年の住居表示改正により芝2、3丁目となりました。

初代オランダ公使館跡

薩摩屋敷の隣の「西應寺」

薩摩屋敷の隣の「西應寺」(c)goo地図

最後はNEC本社ビルから東へ5分ほど歩いた「西應寺」を訪れます。先の絵図にも薩摩藩邸の東隣に大きな敷地を有しているのが見て取れます。

西應寺山門

非常に新しい山門

西應寺本堂

寺院の幼稚園というより、幼稚園の中の寺院

鎌倉幕府執権の北条高時の末娘“時姫”が出家し、この地に「田中庵」として草庵を結んだのが最初で、天正19(1591)年には家康より寺領10石が寄進され、境内地を含めて9,018坪という広大な寺領を有していた名刹なのです。それゆえに正式名称を「田中山相福院西應寺」というのです。
しかし、薩摩藩邸焼き討ち事件にはじまり、関東大震災、第二次大戦などにより堂宇は焼失し、再建された瀟洒な本堂と幼稚園の境内という現在に至っているのです。
最初のオランダ公使宿館跡

東京都指定旧跡「最初のオランダ公使宿館跡」

幼稚園建物

公使宿館のあった現在の幼稚園建物

名刹としての見所のほかに、山門脇に建てられている碑に注目です。
ここは最初のオランダ公使宿館跡で、当時の公使宿館は現在の幼稚園のあたりにあったそうです。

旅歴メモ -修好通商条約- ペリー来航をきっかけに開国した日本は、安政4(1858)年に大老に就任した井伊直弼が日米修好通商条約を締結し、同様の条約がイギリス、フランス、オランダ、ロシアともに安政五カ国条約として結ばれたのです。
安政五カ国条約

横浜税関資料展示室の「安政五カ国条約」

この修好通商条約は不平等条約として有名ですが、唯一この条約で麻薬の輸入禁止をうたったことから、現在でもおその恩恵を受けているのです。
そしてイギリス使節エルギン卿一行が西應寺に滞在し、安政5(1578)年に“日英修好通商条約”は結ばれた地でもあるのです。
更に安政6年に最初のオランダ公使宿館が設置され、初代公使クルチウスらが駐在したのです。
その後、慶應元(1865)年以降に長応寺でのオランダ公使館に冠する普請記録があることから、短い期間の公使館だったようですが、幕末の歴史の1ページとして外せない寺院です。

この後は三田エリアに向かいます。

2014.03.06記(つづく)

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