第2章は三田エリアです。
先にも述べた通り、三田=慶應大学と言うイメージが強いのですが、意外と寺の町であることもはじめて知りました。
ある意味では歴史が融合している町としても捕らえられる興味深いエリアでもあるのです。

綱と諭吉

前章の「芝さつまの道」から西方向に5分も歩くと国道1号線に到着します。

三田1丁目交差点

国道1号線先に見える東京タワー

目の前にある交差点が「三田一丁目」交差点で、ここから西側が三田エリアとなるのです。
1号線の先には芝公園の東京タワーを見ることができます。やはりいつ見ても気になる存在です。

久留米藩有馬家上屋敷跡

三田国際ビルディング

実は曰く有の
「三田国際ビルディング」

交差点の西側には「三田国際ビルディング」が聳え立っています。
何気ないオフィスビルなのですが、この敷地は江戸時代は有馬中務家拝領本屋敷、明治以降は陸軍工廠のあった地で、昭和40年代まで済生会中央病院および三田警察署があったのですが、三菱地所に売却され現在に至っているのです。
やはりここも元々は久留米藩有馬家の上屋敷で、芝と同様江戸時代は屋敷町だったのです。

旅歴メモ -有馬記念の由来- 久留米藩は現在の福岡県久留米市に藩庁を置いた藩で、1620年以降幕末まで摂津有馬氏が藩主を務めていました。久留米藩主としての初代は有馬豊ですが、久留米藩有馬家当主の初代は父の有馬則頼ということになるのだそうです。
7代藩主の有馬頼?は数学者大名として有名だったそうですが、藩政においては芳しいとは言えなかったようですが、8代藩主有馬頼貴は藩校を開き、幕末の勤王家・真木和泉を排出し、後の福岡県立明善高等学校となっています。
11代藩主有馬頼咸の代で廃藩置県となり、有馬家は華族に列し14代当主有馬頼万は伯爵となったのです。
そして15代当主有馬頼寧は、大正・昭和期に活動した政治家として知られ、農政・教育・社会事業に携わり、戦前は農林大臣などを歴任し、戦後は日本中央競馬会第2代理事長としてファン投票による出走馬の選定という当時前代未聞の画期的な選抜方法を考案した人だったのです。
これを記念したのが「有馬記念」となったのです。競馬ファンは足を向けて寝られませんね。

渡辺綱

三田国際ビルディングの前の坂を西に進みます。

綱の手引坂

奇妙な名称の「綱の手引坂」

この坂は「綱の手引坂」という珍しい名前の坂で、平安時代の勇士源頼光四天王の一人、渡辺綱が幼少の頃に姥に手を引かれて行き来したという伝説によって名付けられた坂です。

旅歴メモ -渡辺姓の祖- 渡辺綱の先祖は、嵯峨天皇の12男である嵯峨源氏の祖となる源融に行き付き、この源融は光源氏のモデルとして実在した人なのです。この融の孫が源仕で、各地を転々とした末に足立郡箕田(現在の埼玉県鴻巣市箕田)に館を構え、一族を“箕田源氏”と名乗ることにしたのです。
“箕田源氏”はその後三代に渡り勢力を伸ばし、その三代目の“源綱”が953年、鴻巣(足立郡箕田)で生まれたのです。しかし若くして父を亡くしたため、母方の実家のある摂津国渡辺(現在の大阪市西成)に預けられ、そこの地名になっていた“渡辺”の名を取って「渡辺綱」と日本で初めて“渡辺”姓を名乗るのです。
その後、渡辺綱は剣術に優れ、平安の武将、源頼光の四天王呼ばれ活躍するのですが、四天王の1人に足柄山の金太郎こと坂田金時が居たそうです。
その活躍の中での鬼退治の一つが謡曲「羅生門」となったそうですが、数々の鬼退治の伝説を持つ渡辺綱は、特に鬼から恐れられていることから、現在でも“渡辺”さんの家では鬼が現れないので、節分の豆まきはしないといわれているようです。
まあ、由緒ある「渡辺さん」だけかもしれませんが。。。

綱の手引坂と綱坂

左手の細い路地が「綱坂」

綱の手引坂の頂き辺りから左に下る坂がありますが、こちらが渡辺綱を由来した「綱坂」です。
ここで明確にしておかなければならないのが渡辺綱ゆかりの地が何故三田なのかで、通説では渡辺綱の誕生は足立郡箕田ですが、“箕田”が“三田”となった伝承の一つに基づいてゆかりの地となったと考えて良さそうです。
まあ、全国にはこのような伝承がたくさんありますからね。
その上で注目したいのが、綱坂との交差点角にある洋風の瀟洒な建物である「綱町三井倶楽部」です。
綱町三井倶楽部 綱町三井倶楽部

綱町三井倶楽部

この綱町三井倶楽部は、一般公開されていない三井グループ関係者の社交クラブとして使用されています。
この敷地、江戸時代は佐土原藩島津家・会津藩保科家の屋敷があったところで、三井総領家第10代当主三井八郎右衞門高棟が鹿鳴館や銀座煉瓦街などに携わったジョサイア・コンドルに設計を依頼し、大正2(1913)年に建てられたものです。
この門も平成20年に復元されたものだそうで、大正時代の趣を残しているのです。
因みにこのあたりは渡辺綱に由来し“三田綱町”と呼ばれていたことから、現在も建物の名前などに三田綱町の名が残されているのです。

もう一つ綱繋がりがあります。

神明坂

文字通りの「神明坂」

綱の手引き坂を更に進んで、右に折れる「神明坂」を北に向った先にあるのが「小山神明宮」です。
小山神明宮

社号標には「天祖神社」と刻まれている

かつてこのあたりは小山町と呼ばれたことからですが、そもそもは寛弘2(1005)年、一条天皇の勅命により創建された渡辺綱の産土神で崇敬を受けていたのです。
天正年間に徳川家より神宝・御神体を飯倉神明(芝大神宮)に遷すよう命じられたのですが、氏子の人々が「御神体だけは渡せない」と夜通し警護して守ったことから、以来、芝神明に対して元神明宮と称されるようになり、それが社号標にも刻まれているのです。
因みに「天祖神社」は明治政府により定められた社号だそうです。
小山神明宮 江戸名所図会の小山神明宮

近代的なデザインの社殿と江戸名所図会での小山神明宮

社殿は近代的なコンクリートの建物の中に、木造の社殿が建つという斬新なデザインの社殿です。江戸時代の人々はこの社殿の姿は想像できなかったでしょうね。

旅歴メモ -水天宮- 相殿に祀られている水天宮は、もともと隣接する久留米藩有馬家の上屋敷に祀られていたものですが、明治元年に有馬邸とともに青山に移転されたのですが、その際に分霊を祀ったものだそうです。
なお、青山に移転した水天宮は5年後の明治5年日本橋蛎殻町の有馬家中屋敷に遷されたのです。この水天宮が現在安産の神として全国的に名高い日本橋の水天宮なのです。
有馬家の遺産は有馬記念や水天宮として現在の我々に多々なる恩恵を与えているのです。

渡辺綱のゆかりの地を巡り非常に興味深い歴史を見てきたのですが、埼玉県鴻巣市に生れたとありながら、この周辺で生れたということも、まあ、古の出来事として受け入れておきましょう。

松平隠岐守邸跡

綱坂

渡辺綱が生れたとの伝説による「綱坂」

綱坂に戻ってここからは南に向かいます。
イタリア大使館 イタリア大使館

イタリア大使館前の路地と大使館

坂をくだった最初の路地を左に曲がると、右側に続く建物が「イタリア大使館」です。
イタリア大使館正門

イタリア大使館正門

このイタリア大使館はもともと伊予松山藩松平隠岐守の中屋敷だったところで、明治になってから大物政治家・松方正義の土地となり、昭和7(1932)年にイタリア大使館となったところです。
松平隠岐守と言えば、水野監物邸跡でも出てきたあの忠臣蔵四十七士の内、10名を預かり、この庭で切腹したところでもあるのです。 昭和14(1939)年、当時駐留していたイタリア大使によって大使館内に碑が建立され、命日には現在でもイタリア大使が供養を行っているそうです。

旅歴メモ -赤穂浪士終焉の地- 水野監物邸跡で知った赤穂浪士終焉の地は、麻布の毛利甲斐守邸、芝の水野監物邸に続く3邸目です。
当時の狂歌「細川の 水の(水野忠之)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」に表される様に浪士の扱いに批判されたのは前述したとおりです。
47名の内、大石良金・堀部武庸・木村貞行・中村正辰・菅谷政利・千馬光忠・不破正種・大高忠雄・貝賀友信・岡野包秀の預かりを命じられた時の藩主・松平隠岐守定直は、病床にあったため登城できず家臣を通じてこの命令を受けたそうです。
その後、年が明けてから浪士達との会見では、会見の遅れと仇討ちへの称賛を送り「もっと大歓迎をしたいところだが、幕府からのお預かり人であるためできない。しかし諸事不自由はさせない。用事があれば遠慮なく家臣に申し付けてくれてかまわない」と述べているそうですが、表立った歓迎ができなかったことや、家臣たちの対応がその狂歌に繋がってしまったのかもしれませんね。

弘法寺龍生院

完全に何も見えない「弘法寺龍生院」

イタリア大使館から東に路地を進むと途中に建て直し中の「弘法寺龍生院」があります。
この弘法寺龍生院はあの渡辺綱の屋敷跡にあり、境内の一角には綱産湯の井戸が史蹟として残っているいるのだそうです。
弘法寺龍生院

巨大な納骨堂と反対運動

しかしながら、現在は巨大な納骨堂を建立中で、地域住民の反対運動もあるようですので、ここは井戸どころではないと先に進むことにしましょう。

三田春日明神社

龍生院を抜けると再び国道1号線に交差します。

三田春日明神社

三田春日明神社

国道1号線を南下していくと右手に「三田春日明神社」が現れます。
由緒は古く天徳2(958)年に荏原三田邑に天児屋命を祀ったことを創祀としています。江戸府内唯一の春日社として徳川家や諸大名家の崇敬が篤かったそうです。
三田春日明神社 江戸名所図絵での三田春日明神社

昭和34年に再建された現在の社殿と江戸名所図会での春日神明社

かつての社殿は総欅造りで彫刻が見事だったそうですが、先の大戦で焼失してしまったのです。
赤羽稲荷

赤羽稲荷

また、境内にある赤羽稲荷はもとは芝公園丸山から赤羽橋付近の円明院に勧請され、更に正光院に遷された後、戦災により焼失し平成6年にこの境内に遷座再興されたのだそうです。
「慶應義塾大学」東門

境内社の福徳稲荷の隣に見える煉瓦の建物

この春日神明社の隣に見える煉瓦の建物が「慶應義塾大学」東門です。

文銭堂本舗

神明社の隣の菓子屋

学問のすすめ

銘菓「学問のすすめ」!?

早速その東門に向かいますが、その手前には「文銭堂本舗」という和菓子屋があります。 店舗の横には登録銘菓「学問のすすめ」なる看板と、ディスプレイにはその銘菓が置かれています。まさに福澤先生様様って所でしょうか。

福澤諭吉

「慶應義塾大学」東門 「慶應義塾大学」東門

東門と慶應のシンボル

そしてこちらが慶應義塾大学の東門です。中央のあたりにシンボルのペンのマークの校章が見えますが、その下には「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」を意味するラテン語「HOMO NEC VLLVS CVIQVAM PRAEPOSITVS NEC SVBDITVS CREATVR」が書かれています。
直訳すると「いかなる人もある者の上につくられてはいないし、いかなる人もある者の下につくられてはいない」という意味だそうで、日本語の「天」がもつ語感を表すため、受身の形及び否定により表現されているそうです。
「慶應義塾大学」東門

東館である東門

警備の方にお聞きしたところ、本格的な撮影は許可が必要だそうですが、スナップ写真ならOKとのことでしたので、早速東館を抜けてキャンパスに入ります。

ブリッジ

ここからが散策の始まり

東門を抜けて左に進みブリッジを抜けた先に石と煉瓦の門があります。
幻の門 馬留石

幻の門と馬留石

これが「幻の門」呼ばれる由縁は結局良く判っていないようですが、カレッジソングに“幻の門”があり、かつての旧正門(現在の東門)を言っていたようです。
但し、最初の旧正門は旧島原藩邸当時の木の黒門だったそうで、洋風の石の門に変えられたのは大正2年だったのです。
その幻の門がこの坂道の上に移設され、坂道の端には、旧島原藩邸の時代に馬をつないだといわれる馬留石も移設されているのです。

旅歴メモ -慶應義塾大学- そもそも慶應義塾大学は、中津藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に1858年(安政5年)に開校した蘭学塾を起源に持つ大学でした。
明治維新後に人の住まなくなった肥前国島原藩松平主殿頭の中屋敷に目をつけたのが福沢諭吉で、明治4年に政府からこの屋敷を借り受け慶應義塾大学を移転させたのです。
といっても人のものを簡単に手に入れられるわけも無く、東京府から警察組織制度の調査依頼などの機会と交換条件などの手段を講じて島原藩上げ邸1万1856坪(新政府により当時、上屋敷、中屋敷、下屋敷の三つの内一つを残してあとは上地させる旨の取決があった)を手に入れたのです。
影では岩倉具視が動いたとも言われ、まあ、政治的な計略によって入手したといえるのでしょう。

幻の門の先には小さなスペースの緑地があります。

福澤記念園

往時は約900坪もあった現在の福澤記念園

このスペースは「福澤記念園」と呼ばれるもので、かつては福沢諭吉の邸宅があったところだそうです。明治7~8年頃に建てられたそうで、改築が重ねられ明治24年頃には建坪400坪の大きな邸宅だったそうです。
福澤諭吉終焉之地記念碑 適塾蘭

福澤諭吉終焉之地記念碑と適塾蘭

記念園のなかにある碑が「福澤諭吉終焉之地記念碑」です。江戸築地鉄砲洲から移ってから30年間住んだこの邸宅で明治34(1901)年脳出血で亡くなったのです。
この碑は昭和46年の三田移転100年を機に建立されたものだそうです。なお、この碑の周りに植えられている藪蘭の花は、緒方洪庵の適塾の中庭にあったものを、洪庵の曾孫緒方富雄東京大学名誉教授が「適塾蘭」と命名し、その一部が移されたものだそうです。

再び幻の門方面に戻ると正面に煉瓦建ての大きな建物が眼に入ります。

慶應義塾大学図書館 慶應義塾大学図書館 慶應義塾大学図書館

慶應義塾大学図書館


福澤諭吉銅像 50周年記念

福澤諭吉銅像と50周年記念

見事なレンガ造りの「慶応義塾図書館」で、創立50年を記念して明治45年に建てられたものです。
現在は重要文化財となっていて、明治後期の代表的建造物として残されているのです。
図書館1階ホール

図書館1階ホール

この図書館へは一般の人も1階には入れるということで、足を踏み込んでみると確かに重厚でありながら、どこか華やかな造りの明治の息吹が感じられます。
一階の両側にはレプリカですが、貴重な資料が展示されています。
学問のすすめ(初編)

学問のすすめ(初編)

諭吉、伊藤博文宛書簡

諭吉、伊藤博文宛書簡

サンフランシスコで写した写真館の少女との写真

サンフランシスコで写した写真館の少女との写真


ステンドグラス

踊り場の見事なステンドグラス

正面の階段の踊り場にあるのが色鮮やかなステンドグラスです。大正14年に造られたもので、原画は画伯・和田英作氏で制作は技師・小川三知氏、高さ6.45メートル、幅2.61メートルの大きさだそうです。
図柄は甲冑に身を固めた武将が馬から降りて、ペンを手にした自由の女神を迎えているのだそうです。権力には屈しないといった意味合いですね。
ステンドグラス

このラテン語が重要

そしてステンドグラスの下に書かれている「Calamvs Gladio Fortior」が“ペンは剣よりも強し”で、その左右に慶応義塾創立の年(1858)と図書館建設計画のなされた創立50年記念の年(1907)がローマ数字で書かれているのです。
このように慶応義塾の歴史・文化を表した貴重なステンドグラスですが、実際には大戦で焼失し、昭和49年に復元されたものなのです。

塾監局

大正期の「塾監局」

南館

昭和の「南校舎」

図書館を出たあとは一気に反対側のキャンパスの南西に向かいますが、キャンパス内には大正期に竣工された「塾監局」など、明治、大正、昭和の建築物が配置されているのも興味深いところです。
商工学校創立70周年記念時計塔稲荷山

商工学校創立70周年記念時計塔と正門

この辺りはキャンパス内でも一際土地が高い場所にあり「稲荷山」と呼ばれているところです。稲荷山から現在の正門(南門)を見るとその高低差が理解できるでしょう。
明治38年にはこの正門付近に商工学校があり、新制度により昭和22年に廃校になったのを偲んで建立された時計塔なのです。

旅歴メモ -稲荷山- この大地を何故「稲荷山」と呼ぶようになったかといえば、それは江戸時代にさかのぼります。
慶應のキャンパスが元島原藩の中屋敷であったことは前述した通りで、江戸時代末期の文化文政期には藩の財政負担軽減のため、諸大名が屋敷内に如何わしい祠を祀り、周辺の町人に開放して日銭稼ぎをしていたそうです。
島原藩もこれに倣って藩邸南西部に稲荷祠を設けて僅かながらの現金収入を得ると共に、近隣の町民に品川の海の眺望を見せたようです。
文政12年の記録には、三田島原候の別邸に住む老狐は、数百年の星霜を経ていて神霊に通じる力があるとの噂を載せているとのことです。
こうしたことからこの場所が「稲荷山」と呼ばれるようになったのだそうです。

三田演説館 三田演説館

古風ながら何かモダンな三田演説館

時計塔の先にはキャンパスには似つかわしくないなまこ壁の建物があります。この建物は明治8(1875)年、日本最初の演説会堂として建設された演説館で、平成7年に解体修復が行われ国の重要文化財に指定されている建造物なのです。
日本独自のなまこ壁と木造瓦葺ながら、洋風の香りのするやはり明治らしい建物で、現在でも三田演説会など慶應の公式行事が開かれているのだそうです。

流石に私学の雄である慶應義塾大学で、歴史的にも見所は多いです。

改めて今回の散策を振り返ると、今回散策してきたのは三田1丁目~2丁目です。

古地図

江戸時代の三田1,2丁目(c)goo地図

江戸時代の古地図に寄れば、やはりこのエリアには大名屋敷が密集して、かつての大名屋敷が現在の歴史的な建造物に変っているのも見逃せませんね。

最後に慶応義塾大学前にある2つの象徴的なお店を見て起きましょう。

秋色庵大坂家

近代的な街の中に埋没しそうな老舗

元禄年間(1688~1703)の約300年前に創業した「秋色庵大坂家」です。元々は日本橋小網町で店を構えていたそうですが、その後、大火や関東大震災などにより現在の地に移ってきたそうです。
和菓子では老舗中の老舗といえるでしょう。

ラーメン二郎

いつ見ても行列が絶えない

そしてもう1店舗はあの「ラーメン二郎」の“三田本店”です。創業は昭和43(1968)年と新しいですが、現在のラーメンブームの一因として有名でしょう。
そもそもは目黒の都立大学近くで「ラーメン次郎」として創業したそうですが、1970年代に移転する際に客として来ていた慶應大学の学生から情報を聞き、港区三田・三田通りの元洋食屋店舗に移転することになったのだそうです。
その際、看板屋が新店舗の看板を“次郎”のところを“二郎”にしたことから、以降はこのまま「ラーメン二郎」となったそうです。

慶應大学正門から見て、秋色庵大坂家は左端、ラーメン二郎は右端という対比も面白いところです。
このあとは、三田3丁目~4丁目を散策します。

2014.03.12記(つづく)

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