寺町である3~4丁目のメインストリートとも言うべき聖坂に戻り、ここからは再び南方向に聖坂を上ります。

寺と坂道 その2

寺と坂道の取り合わせで江戸時代の歴史が堪能できますが、それ以上に往時の風光明媚であった風景を垣間見たような気になれたのも、何よりも散策の醍醐味かもしれません。

幽霊坂

亀塚公園の前を通り過ぎると、右側に細い路地があり「幽霊坂」と記載されています。

幽霊坂

幽霊坂

「幽霊坂」とは江戸時代から呼ばれていたもので、昼でも幽霊が出そうなほど暗い場所であったとか、それ程寂しい場所であったからとする説、更に明治時代、文部大臣・森有礼の屋敷があったといった説など幾つかあるようですが、正確な由来は不明だそうです。

聖坂と交差するところが坂上ですので、こちらからは下りになります。

幽霊坂

細い路地のような幽霊坂

この坂のもう一つの特徴は町の特徴でもある寺町の最たるもので、この路地の両側にはかつて8寺院があったそうで、それ故に墓地も多いことから「幽霊坂」と呼ばれていたという説が一番信憑性がありそうですね。
幽霊坂古地図

江戸時代の幽霊坂(c)goo地図

古地図に寄れば現在の亀塚公園である土岐美濃守邸から右側に「實相寺」「仙翁寺」「正泉寺」「随応寺」の4寺が並び、左側には「正覚寺」「玉鳳寺」「称讃寺」「長松寺」の4寺の計8寺が存在し、現在でも目黒区碑文谷へ移転した「正泉寺」以外は現存しているのです。ここではすべては紹介できませんのでピックアップしてみます。

實相寺

まずは坂の入口にある「實相寺」です。

實相寺 實相寺本堂

山門と重厚感のある本堂

慶長16(1611)年八丁堀で開創され、寛永12(1635)年この地に移転してきた寺院で、会津藩初代保科正之が江戸の菩提寺に定めた寺だそうです。

旅歴メモ -保科正之- 保科と名乗っても列記とした2代将軍秀忠の四男です。しかしながら母が侍妾であったことから、正室の体面や通例により城外で生まれたのち、武田信玄の次女である見性院の縁で信濃高遠藩保科家に預けられ、高遠藩主となった後、18歳の頃に初めて父秀忠と面会したそうです。
異母兄弟の3代将軍家光が特に可愛がり、会津藩23万石を与え正之は最初の藩主となります。家光の臨終の際、正之を呼び「宗家を頼む」と言い残したことに感じ、正之は「会津家訓十五箇条」で“会津藩は将軍家を守護する存在”と定め、これが幕末の最後の藩主である松平容保まで守られ、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦ったのです。
正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたのですが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯保科姓を通し、第3代・正容になってようやく松平姓と葵の紋が使用され親藩に列したのです。

聖光院之墓をはじめとする一族の墓 聖光院之墓をはじめとする一族の墓

聖光院之墓をはじめとする一族の墓

墓地には、正之の後妻・お万の方のお墓である「聖光院之墓」をはじめとして一族の墓が散見されます。
歴代の会津藩主の墓は福島県耶麻郡猪苗代町見祢山にあり、第2代の正経を除き全て神式で祀られているそうです。したがってこちらは江戸での菩提寺と言うことになるのです。
さらに会津松平家由来の「常香盤(香盤時計)」が文化財として残されているそうです。

玉鳳寺

幽霊坂の中ほどにある寺院が「玉鳳寺」です。

玉鳳寺 玉鳳寺

玉鳳寺山門と本堂

こちらは實相寺より少し早い慶長4(1599)年に八丁堀で開創され、同じ寛永12(1635)年にこの地に移ってきた寺院です。

この寺院の注目は「御化粧延命地蔵尊」、別名“おしろい地蔵”があることです。

御化粧延命地蔵尊

山門横に祀られている“おしろい地蔵”

この地蔵は八丁堀の地蔵橋畔に放置されていたものを住職が修復し、泥まみれだったものに白粉を塗って祀ったところ、住職の顔面の痣が消えたことから、病気のあるところと同じ部分に白粉を塗って祈願するようになったそうです。
御化粧延命地蔵尊

マニキュアまで塗られている

現在では病気から美顔まで、あらゆる祈願に訪れているようで、その願いは置かれている祈願用ノートに切々と願われているようです。
女性の美へのあくなき探求の最後は、やはり最後は神頼みってことでしょうか。
因みに、志村けんの“●●殿”のような白塗りですが、こちらは港区登録有形民俗文化財ですから、お忘れなく!

長松寺

最後は幽霊坂を下りきった左手にある「長松寺」です。

長松寺

国道前の参道と史蹟石柱

突き当たった通りは国道1号線、通称桜田通りですが結構静かなのには驚きました。
ここ長松寺も元々は八丁堀にあり、他の寺院と同じ時期にこの地に移ってきたのですが、史蹟碑にもあるように、この寺院は萩生徂徠の墓があることで有名なのです。
長松寺山門 長松寺本堂

山門と新しい本堂

境内に入ると本堂も新しいながら、鬱蒼とした気配も無く行き届いた清掃でより落ち着いた雰囲気の良い佇まいです。
案内板 墓所ロケーション

荻生徂徠の墓案内板とロケーション

史蹟でもあるその墓は案内板があるのですぐ判ります。荻生徂徠の墓は、先妻と後妻とともに一画に祀られています。

旅歴メモ -徂徠豆腐-
荻生徂徠

荻生徂徠

荻生徂徠って聞いたことはあるけど、、、という事で難しい話は置いといて、ここは落語でご機嫌を伺います。ポイントは、荻生徂徠が赤穂浪士の処遇を巡って“切腹”との見解を示し、幕府もこれを受け入れ赤穂浪士が切腹となり、徂徠がすっかり悪役になってしまったという時代背景です。

徂徠が貧困の学者時代に空腹のため豆腐を無銭飲食してしまいます。しかし豆腐屋はそれを許し、それ以降も差し入れをくれたりと支援してくれるのです。
その後、徂徠は幕府に重用され将軍の御用学者であった頃、その豆腐屋が赤穂浪士討入りの翌日大火で焼け出されたことを知り、恩義を感じて金と新しい店を豆腐屋に贈るのですが、浪士を切腹に導いた徂徠からの施しは受けないと豆腐屋は突っぱねます。
それに対して徂徠は「豆腐屋殿は貧しくて豆腐を只食いした自分の行為を『出世払い』にして、盗人となることから自分を救ってくれた。法を曲げずに情けをかけてくれたから、今の自分がある。自分も学者として法を曲げずに浪士に最大の情けをかけた、それは豆腐屋殿と同じ。」と法の道理を説き、さらに、「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある。」と武士の道徳について語った。
これには豆腐屋も納得して金と店の贈り物を受け、浪士の切腹と徂徠からの贈り物にかけて一言。
「先生はあっしのために自腹をきって下さった」

荻生徂徠墓石 墓石裏面

荻生徂徠墓と裏面の墓誌由来

墓の裏面には、伊勢神戸藩初代藩主の猗蘭侯(本多忠統)が墓誌を撰し、江戸時代中期の日本の書家である葛烏石(松下烏石)が書した旨を記した銘文が彫られているそうです。
先妻後妻の墓

先妻と後妻の墓石

近くには先妻と後妻の墓が並んでいますが、先妻のほうがやや大きいのは意図的でしょうか。

なんと言っても国指定の史蹟ですから、一度くらいはお参りしてもよろしいのではないでしょうかね。

魚藍坂

この後は国道1号線を南に下り、最初の交差点である「魚藍坂下交差点」を左折して、今度は坂を上ります。
丁度、幽霊坂と平行している坂です。

魚藍坂

文字通り魚藍観音からつけられた「魚藍坂」

片側1車線の比較的交通量の多い坂が「魚藍坂」で、坂の中腹に「魚藍観音」があることから名付けられた坂です。
この坂道沿いも幽霊坂と同じように実に寺院が多いのですが、ここも掻い摘んでみます。

魚藍坂を登ると程なく左手に記念碑があります。

史跡 石村近江碑 大信寺

史跡 石村近江碑と大信寺

史跡の碑で、石村近江「江戸における三味線製作の始祖」と刻まれています。代々名工を輩出しているのですが、江戸時代末期11代をもって途絶えたそうで、この「大信寺」に石村近江の墓所があることから記念碑が建てられたようです。

魚藍寺

そして坂を更に上がると中腹に朱の山門のある「魚藍寺」が現れます。

魚藍寺山門

六地蔵と目立つピンクの山門

多くの寺院が八丁堀から移転した寺院の中で、最初からこの地に創建された寺院ですが、創建は1652年と他の寺院の移転よりも遅いのです。
しかしながら、それでも正式名称「三田山水月院魚籃寺」と称していることから、三田での中心的寺院となっていたのでしょう。
魚藍寺本堂 江戸名所図絵の魚藍寺

山門に比べ意外と質素な本堂と江戸名所図会での「魚藍観音堂」

その理由は江戸三十三箇所観音霊場の第25番札所だったことにも寄るようで、当時の賑わいぶりは江戸名所図会にも現されています。
本尊の魚籃観音は、仏が美しい乙女の姿で現れ、竹かごに入れた魚を売りながら仏法を広めたという故事に基づいて造形されたものだそうで、通常単独で信仰されることは少なく、魚藍寺の他には三重県津市の初馬寺、千葉県松戸市の万満寺などにあるそうです。

薬王寺

魚藍坂から路地を左に進むと「薬王寺」があります。

薬王寺 薬王寺本堂

シンプルな山門に一段低い土地にある本堂

この薬王寺は元和7(1621)年に麻布狸穴に開創され、寛文元(1661)年に現在の場所に移転してきたそうです。

境内には3つの史跡があるようで、その一つが「朝顔の井戸」です。

朝顔の井戸碑 朝顔の井戸

朝顔の井戸の碑と実際の井戸

江戸時代の女流俳人、加賀の千代女が歌った「朝顔に、つるべ取られて、もらい水」の井戸が現存しています。殆ど素人の私でも知っている句ですので、本当に井戸があったとは驚きです。

二つ目は「明治の書聖・中村梧竹の墓」があるそうですが、判りませんでした。

空海・橘逸勢・嵯峨天皇といえば平安時代の三筆といわれた人で、三筆は各時代にあり、中村梧竹は、日下部鳴鶴・巌谷一六と共に明治の三筆と呼ばれた方だそうです。

三つ目は「御田小学校発祥の寺」です。

御田小学校

薬王寺の先に見える現在の御田小学校

御田小学校は、明治5(1872)年に「開蒙舎」としてここに創立され、後に「御田小学校」と改称されたそうです。
130年近い歴史を持つ小学校ですが、少子化の影響により2000年に明治7年に開校した近くの南海小学校と統合し「(新)御田小学校」となっているのです。

三田台公園

薬王寺の前の路地を魚藍坂とは反対方向に進むと聖坂と交差します。

三田台公園 三田台公園

聖坂のT字路にある「三田台公園」

交差点のT字路の先に見たような塀が連なっていますが、この塀は亀塚公園で見た塀と同じで、元は土岐家邸宅後、華頂宮邸の旧庭園の一部となった塀です。

公園としては特に遊具などのない単なる公園なのですが、昭和53(1978)年に縄文~古墳時代の貝塚断面が発見されたことから、一躍古代史の里のような公園になったのです。

貝塚の断面

貝塚の断面を切り取った展示

その貝塚の断面を切り取った地層が掲出されていますが、この貝塚の出土よりここを「伊皿子貝塚」と呼んでいるのです。
竪穴式住居のレプリカ

竪穴式住居のレプリカ

竪穴式住居のレプリカ

一見グロテスクな内部の様子

その先には当時の生活の様子の案内もあり、レプリカながらかなりしっかりした造りの竪穴式住居もあります。
しかも内部の生活の状況も再現されていて、このような場所で結構立派なものを作っているのに驚きました。

縄文時代の様子 埴輪モニュメント 埴輪モニュメント

縄文時代の様子と園内に点在する埴輪モニュメント

更に園内には古代人の文化や生活を説明したモニュメントもあり、実に学習になる公園です。
竪穴式住居の釜戸 古墳時代への生活の様子

古墳時代の竪穴式住居の釜戸と古墳時代への生活の様子

最後は竪穴式住居跡と、古墳時代の生活の様子を説明して終了しています。
いずれにしても、この伊皿子あたりは海と陸の狭間にあったようです。

江戸時代の香りの残る三田4丁目に突如現れた古代人といったところです。

園内にある井戸

園内にある井戸

そし最後は公園の一画に何気なく井戸があるのですが、これは明治・大正期の華頂宮邸の旧庭園にあった井戸だそうで、現在飲料水としては使用できないのですが、災害用としてポンプ式に変えられ残されているのだそうです。

三田台公園を出て、聖橋を南下すると間もなく魚藍坂と交差する「伊皿子交差点」となります。

伊皿子交差点

左右が魚藍坂の交差点

「伊皿子」とは珍しい名前で、中国の明の時代の“伊皿子(いんべいす)”が住んでいたといわれていますが、他に大仏(おさらぎ)のなまりとも考えられているようです。

この交差点の南方面からは、いよいよ最後の高輪エリアとなり、三田エリアもこれで終了です。

2014.03.25記(つづく)

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コメント

  1. 薄荷脳70 | -

    Re: タイトルなし

    還暦ライダーさん、ありがとうございます。
    お洒落な七福神というのも素敵でしたね^^
    スーラーお気に召していただければ幸いです。私も大好きなものですから。
    これからもできる限りラーメン食べて見ます。
    よろしくお願いします。

    ( 15:36 )

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