建具の里、慈光寺 #1

今回の散策の主目的は当然ながら「萩日吉神社の流鏑馬」ですが、ときがわ町には非常に貴重なものが存在しているのです。
それは現在埼玉県で4件しかない国宝のうちの一つを所有していることです。その貴重な国宝を所有しているのが慈光寺で、埼玉県では数少ない文化財の宝庫といわれる寺院なのです。
勿論、ときがわ町は、建具の里としての自然豊かな町であることが特色のひとつですが、やはり慈光寺=ときがわ町という図式の方が学術的にはメジャーでしょう。
特に今回の流鏑馬のメインが午後からと言うこともあり、午前中はこの慈光寺を散策することにしたのです。
朝出発した後は特に渋滞もなく、AM10:00頃には、ときがわ町に到着しました。

建具会館

ときがわ町に到着し最初に訪れたのが「建具会館」です。
建具の里と言うくらいですから、そのエッセンスが凝縮されたときがわ町のランドマークといっても過言ではないでしょう。ずっと休憩もなしだったことから、慈光寺へのまえの一休みとして「建具会館」に立ち寄りました。
建具会館 建具会館 この日は流鏑馬の日なので、エントランスでは焼きそばや、あげまんじゅうなど地元の方々の露店や、地場の野菜の直売などが準備されているようです。

建具会館 建具会館 館内では、建具を初めとして木材でできた様々な加工品が展示・販売されています。
見ているだけでも結構楽しいものです。

建具会館 飾り炭 こんな変わったものもありました。「飾り炭」というそうです。

飾り炭 造形炭
炭は多孔質で通気性があり、空気の浄化、調湿、消臭など炭本来の特質を有し、自然が作り出す造形美や創造を越える変化の面白さ、木の素材が見せる表情の輝きなど、人工的にできない自然だからこその不思議さと魅力を持った唯一の作品です。生活の一部に置いてお楽しみ下さい。
窯元 炭工芸 杣人
(現地キャプションより)

意外な面白さを感じます。アートと実用を兼ねたファンタスティックな商品です。

一画に、この地ときがわに伝わる伝説が書かれた額と、その関連する写真が掲出されています。

建具会館 伝説 仁王奇行 1つは「伝説 仁王奇行」と題された伝説です。

伝説 仁王奇行
赤い顔をした仁王さんは、いつも元気でした。しかし仁王さんはうそが大きらいでした。そして誰がうそつきであるかちゃんと知っていました。この仁王さんのいる仁王門の近くに一軒の農家がありました。そこのおかみさんは口癖のように、子供に向かって「泣くと仁王さんにくれてしまうよ」といいました。
ある日の夕方も、えん先で泣きじゃくっている子供に母はいつものようにいいました。しかし子供はどうしても泣き止みません。うるさいと思った母は子どもをほおっておいてお勝手仕事をしていました。いつか夕やみがせまって、あたりがぽっと暮れてきました。
母は思い出したようにきき耳を立てましたが、子どもの泣き声が聞こえないので、表にとんできましたが、子供の姿はみあたりませんでした。母はきちがいのようになってさがしました。しかし子供はいませんでした。
この時、母の胸を強くうったのは仁王さんのことでした。「もしかしたら・・・」そう思って母は髪をふり乱して、血走った眼をみはって、慈光坂をいきも切れそうに走って行きました。
仁王門の所に来て、うすくらがりの中に立っている仁王さんを見た時、は母は「あっ」といってしまいました。そのはずです。仁王さんの口元から見おぼえのある子供の付紐が下がっていました。母は自分の言ったことを後悔しながらも、むっと怒って仁王さんを突き出して谷へよっこらさと落としました。仁王さんもしかたが無いと苦笑いしながら「オホホ、オホホ」ところび落ちて行きました。今もその地を「オホホ沢」と呼んでいます。
「オホホ、オホホ」と笑いながら仁王さんは「ビリビリ」とおならをしたので、後の人がそこを「ビリ沢」といいます。こうして仁王さんはどんどん転がって都幾川へ流れこみました。仁王さんはざんぶと水に入った時、夢からさめた時のように大あくびをして、流れのままにごろんごろん川下へ行きました。川下の人たちは川の中の大入道におどろきましたが、仁王さんでしたから、ひろいあげて元の所にまつりました。
(現地掲出額より)

掲出されている写真額にキャプションがありませんが、慈光坂や都幾川という名称がでてきているので、恐らく慈光寺に関連したものでしょう。あるいは慈光寺の仁王門の仁王像ということでしょう・・・。
さらに“オホホ沢”や“ビリ沢”という地名にも興味を惹かれますが、この先で知ることができるのでしょうかね。

伝説 夜荒しの名馬 もう一つが「夜荒しの名馬」と題された伝説です。

夜荒しの名馬
左甚五郎の持つのみはいきよいよく彫り進み、二日三日と過ぎて行くうちに、太い丸木は馬の頭になり足になり尾になって行きました。
甚五郎は目を入れるときふとあらあらしい気持ちになりました。
甚五郎は「この馬は、少し気があらいようだ」とつぶやきました。
この馬は夜になるとそっとぬけだして付近の畑の作物を荒らし回りました。
ある時は二里も三里も遠方まで駆けて行くこともありました。百姓たちは不思議に思いましたが、まさか、この名馬のしわざとは思いませんでした。しかしいく日かするとだれ言うとなく、あの名馬が夜になると姿をあらわすと言いました。
そこで百姓たちは相談して、夜になるのを待って二・三人ずつが分かれて、思い思いの方面に行ってかくれていました。名馬はそれとはしらずに、その夜ものそりのそりとやって来ました。
「やっ、たしかにあの馬だ。しかし不思議なことだ・・・」
百姓たちはあっけにとられました。こうしたことがいくたびも続きましたので、百姓たちも怒って、その尾を切ったり、鉄鎖で口元をしっかりしばったりして、観音堂の上に納めてしまいました。
(現地掲出額より)

写真額は光が反射して判りにくいのですが、これはどうやら後で慈光寺で見られそうなので、後々のお楽しみとしましょう。
やはり慈光寺=ときがわ町の歴史ある町だからこそ、伝説もたくさんあるのかもしれません。

館内に飲食スペースがあるので一息つくことにしました。
揚げまんじゅう 置物 外の露店で揚げまんじゅうを購入し、ここでコーヒーを注文して一休みです。
流石に建具の里というだけあって、こんな置物が飾られていました。結構素敵な置物でしょう。

ちょっとした休憩を取って、いよいよ慈光寺へ向います。

女人堂

建具会館から5分もかからない二股に分かれた交差点の角に「女人堂」があります。

女人堂 女人堂 女人堂 入口のところに女人堂と刻まれた社号標や道標など3つの石碑があり、奥に進むと左側に地蔵堂があり、その横に案内板があります。

国宝「慈光寺経」装飾法華経提婆達多品
鎌倉時代 慈光寺蔵
慈光寺を創建された道忠禅師は、奈良の都で、唐より波濤を越えて来朝された鑑真和上に、仏教を学ばれ、持戒第一の弟子といわれました。生まれ故郷の武蔵国に帰り、ここ都幾山を根拠に上野(群馬)に浄法寺(緑野寺)を建立し、下野(栃木)の大慈寺を復興して関東一円に仏教を広めました。これにより慈光寺は、平安、鎌倉、室町時代と東国仏教の大中心として栄華隆盛を極め、最盛期には寺坊75を数えるほどでした。
諸説伝承によると、この女人堂も平安初期において、女人禁制のため、慈光坂途中に建立されていました。女人信仰の御堂として世世、増改築や移設もされ、この地元住民の遠き親達の誠実な祈りと尊き志により護られ維持されてきました。
このたび山頂の慈光寺に伝来する国宝「慈光寺経」の内、金泥文字の剥落はあるもののほぼ完全な姿で伝えられてきた「装飾法華経提婆達多品第十二」を拡大陶窯焼成して、諸衆の祈念に、とりわけ女性の幸せのために掲立しました。
この「装飾法華経提婆達多品」の本文には、サーガラ竜王の娘が、「解悟」に達したことに、釈迦の高弟サーリプトラ(舎利佛)が疑義をはさむが、彼女は、これを論破して、衆生に法を説き、「解悟」をえさせて信愛させてゆく物語がある。この故に、女人成仏の経巻として、古来よりあまた女人の信仰篤く、はからずもこの女人堂にもっともふさわしい機縁に恵まれたことになる。
本経の結縁者は、文永7年(1270)の「一品経書写次第」に吉祥御前と記されている。
見返絵は、金箔、砂子を霞濃淡に横断させた上に、墨絵による松、柳、もみじを描き、下方に芦、おみなえしと岩を配している。この絵の中に、「法華経序品」の『或有諸比丘、精進持浄戒、猶如護明珠』の文字が芦手絵図に見え隠れする。
本文は金泥の文字で界線は、世にも珍しいきり金による三重線である。その下地は金地に金による波寄する州浜の絵がある金尽くしの豪華な経巻である。
王朝文化の衰退しつつある後鳥羽宮廷の作品で陰影深く高貴な趣をみせている。
南無妙法蓮華経 合掌
平成10年5月 慈光寺 百七世明了
(現地案内板説明文より)

簡単に言ってしまえば、平安時代初期のころ慈光寺が女人禁制だった為、女性の信仰のために慈光寺への途中に建てられたのが「女人堂」で、サーガラ竜王の娘を題材とした経典が、女性の教えにぴったりだったということでしょうか。

このサーガラ竜王というのは、仏法を守る難陀(ナンダ)・跋難陀(ウパナンダ)・娑迦羅(サーガラ)・和修吉(ヴァースキ)・徳叉迦(タクシャカ)・阿那婆達(アナヴァタプタ)・摩那斯(マナスヴィン)・優鉢羅(ウッパラカ)の八体の竜神の1神で、「海竜王」とも言われ、海と非常に関連が深い竜王で兄弟竜王と戦って海中に猛毒を撒き散らした神だったようです。
そして「・・・提婆達多品」に登場する竜王の娘とは、竜王の第三王女で「善女龍王」と呼ばれた8歳の娘だったそうです。
日本では、サーガラ竜王よりこの「善女龍王」の方が有名なのだそうで、空海が新しく名付けた「清瀧権現」がまさに「善女龍王」のことで、醍醐寺派総本山の京都・醍醐寺の守護女神となっているそうです。
因みに、この醍醐寺の『醍醐寺新要録』巻第二「厳島明神託宣事」には、清滝権現は娑伽羅竜王の三女、安芸国の一宮伊都岐嶋(厳島)の明神は長女、仏がいたとき8歳だったのは次女であると言うことが書かれているそうです。

いずれにしても、日本では父親より3姉妹の方が有名だと言うことになるのでしょうが、暇つぶしに現在の日本でこの状況の有名人を探してみました。
すぐに思いついたのが、現在大河ドラマで放映中の「江」です。
いわゆる浅井三姉妹で、父親はご存知浅井長政、長女の茶々は後の豊臣秀吉側室の淀殿、次女の初は後の京極高次正室の常高院、そして三女の江は後の徳川秀忠正室の崇源院ですから結構パターンになっていますよね。但し見方によっては母の市と共に両親の方が有名過ぎているかも知れませんので、若干無理があるかもしれません。
現代で探してみると唯一それらしい芸能人は、あの正司歌江・正司照江・正司花江、三兄弟の「かしまし娘」で、父親は旅芸人一座の座長だったようですから、この家族が調べた中では一番近いかもしれません。
また、父親ではなく母親であれば、コシノヒロコ・コシノジュンコ・コシノミチコの三姉妹がそうで、母親の小篠綾子は最初は洋品店として、そして後にファッションデザイナーとして、母校の府立和泉高校の制服のデザインを手がけたりしたそうです。

まあ、三姉妹で活躍すること自体が大変ですから、そうそうそんな家族はあまりいないでしょうね。

奥のお堂で参拝です。
女人堂 いつ頃再建されたのかはわかりませんが、小振りのお堂です。

堂内には仏像などが安置されています。
女人堂 中央にあるのが千手観音像で、その右側の仏像が阿弥陀如来像のようです。
その後ろにあるのが「装飾法華経提婆達多品」のレプリカでしょうか。

何となく貴重なものを見た気がします。

慈光山歴史公苑

「女人堂」の前の道からは上り坂となり、慈光山を登ることになります。
道路は舗装されていて車には何の問題もありませんが、嘗てはこの道を歩いて上ったのでしょう。
とても歩いて登る気にはなれない坂道です

僧坊跡 道の途中のちょっと開けた場所に僧坊跡とだけ簡素に記された石柱が立っています。

何の説明も無いので後で調べたところ、このあたりは埼玉県選定の重要遺跡「旧慈光寺跡(僧坊跡)」なのだそうです。
慈光寺はかつて関東屈指の大寺院で、山中には75坊の僧坊があり栄華を極めていたようです。その名残が山腹にある平場で、この慈光山にそのような平場が数多く残っているということでしょう。

慈光寺歴史公苑 先に進むと大きな木の門のようなものが組み立てられ、「慈光山歴史公苑」と書かれています。
いわゆる慈光寺を中心としたこの慈光山周辺を悠久の歴史を刻む地として命名されたものでしょう。

シャガ群生地 ちょうどこの辺りには「シャガ」の花が咲くエリアのようで、その群生地との立看板が立っています。

このシャガという花は、アヤメ科で種の学名はまさに「japonica」(「日本の」という意味)をもつ本州から九州、中国に分布する常緑の草本ですが、中国原産で古い時代に日本に入ってきたと言われています。
通常一般的な草花は遺伝をつかさどる染色体を2組持つ二倍体植物なのですが、このシャガは染色体を3組持つ三倍体植物なので花や葉は大きくなるのですが、種子を造ることができないそうです。
ヒガンバナや種無しスイカも三倍体植物だそうです。

こうした花の特性から、何も無いところにシャガが自生することはありえず、先ず最初は人の手が入らないとシャガは繁殖しないのです。シャガは春に茎を斜めに伸ばして、その先に白地に青い斑点の入る花を多数咲かせることから、この長い地下茎を伸ばしてその先に芽を作って増殖するため、大きな群落を造るのが普通なのだそうです。
その様なシャガの特徴から、最初にシャガがあればここのように群生地となるのが一般的なようです。

シャガ 残念ながら現在はその季節では無いのでシャガの花を見ることはできませんが、白色をベースに青い斑点のついた綺麗な花だそうです。
今回は写真で我慢しておきましょう。

その群生地の少し手前に「歌人 土屋文明先生墓所 入口」と書かれた立て札があります。
土屋文明とは、現在の群馬県高崎市に生まれた、日本の歌人であり国文学者です。子規の短歌論を信望し「アララギ」に拠った歌人達「アララギ派」の指導的存在として歌人としての名声を確立した人だそうです。
晩年(と言って100歳でなくなったので晩年が長いのですが)は、日本芸術院会員・宮中歌会の選者、文化功労者、そして1986年に文化勲章を受章し、その後、東京都名誉都民・群馬県名誉県民となり歌壇の最長老として君臨し、1990年に100歳で逝去し、没後従三位に叙されたそうです。
そんな大歌人の土屋文明は、生誕の地群馬県以外では多くを東京で過ごしたにもかかわらず、何故この地に墓所を定めたのかは、はっきりと判らないようです。
しかしながら、おぼろげに推測するところ、万葉集の研究にも勤しんだ文明が都幾川周辺を調査し、さらに鎌倉時代の万葉学者・仙覚律師が晩年に滞在した現在のの小川町も近いことから、この地への親しみと仙覚への敬慕があったことからでは無いか、推測されているそうです。

残念ながらどの墓石が文明の墓所かはわかりませんでしたが、墓地エリアには「亡き後を言ふにあらねど比企の郡槻の丘には待つ者が有る」という歌碑がありました。
土屋文明碑 大歌人である土屋文明の歌碑は、高崎市にある土屋文明記念文学館とここにある歌碑の2基しかないようです。生前、歌碑建立の申し出を「犬の便所にになるだけ」といってことごとく断ってきたからだそうです。

大歌人の意外な性格と貴重な歌碑を知ることができました。

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