建具の里、慈光寺 #2

「女人堂」を参詣し、歴史公苑を抜けるといよいよ慈光寺に向うこととなります。
道の両側はいよいよ緑濃くなっていきます。そして山をぐんぐん上っていくことになりますが、今日は比較的気温も安定していて、それ程寒さを感じることはありません。

慈光寺山門跡の板碑群

道を進んで右カーブを曲がると、右側の路肩に板碑が並んでいます。
板石塔婆 これが慈光寺の板碑群です。
絶対に見落とさないくらいまとまった数の板碑群です。

慈光寺山門跡の板碑群
慈光寺山門跡に立つ9基の板碑は、鎌倉時代から室町時代にかけて造られた供養塔です。表面の大きな梵字は本尊を表し、仏像彫刻と同じように蓮座の上に刻まれています。蓮座の下には年号や願文など造立の目的が刻まれています。
個々の板碑の造立目的をみると、摩滅の進んだ十三仏種子板碑は判読できませんが、1番大きい貞治4年銘板碑は、慶秀・頼承・慶救の3名が、寺ゆかりの頼憲・専信・頼慶など14名の僧侶の霊を供養するために造立したことがわかります。また、元亨4年銘板碑は朋全という僧侶が自らの死後の往生を願う逆修供養のために造立したことがわかります。これと同様に逆修供養のために造立した板碑が5基1、2、6、8、9があります。
この場所は大型板碑が群立する景観として知られていますが、明治時代の初期に山中の僧坊跡から移設したものと考えられています。
なお、板碑の年代および現状の大きさについては、左から順に次のとおりです。

1.嘉暦2年(1327)銘  阿弥陀一尊種子板碑  鎌倉時代   高さ 141.0cm 幅 40.0cm 厚さ 5.5cm
2.文和4年(1355)銘  阿弥陀三尊種子板碑  南北朝時代  高さ 137.0cm 幅 39.0cm 厚さ 5.0cm
3.弘安7年(1284)銘  阿弥陀一尊種子板碑  鎌倉時代   高さ 123.0cm 幅 42.4cm 厚さ 4.5cm
4.十三仏種子板碑(年代不詳)                  高さ 140.0cm 幅 40.4cm 厚さ 3.5cm
5.貞治4年(1365)銘  阿弥陀一尊種子板碑  南北朝時代  高さ 272.0cm 幅 65.0cm 厚さ 7.0cm
6.元亨4年(1324)銘  阿弥陀一尊種子板碑  鎌倉時代   高さ 256.0cm 幅 64.0cm 厚さ11.0cm
7.元亨4年(1324)銘  阿弥陀一尊種子板碑  鎌倉時代   高さ 255.0cm 幅 65.0cm 厚さ10.7cm
8.徳治2年(1307)銘  阿弥陀一尊種子板碑  鎌倉時代   高さ 221.0cm 幅 56.0cm 厚さ 9.0cm
9.寛正5年(1464)銘  胎蔵界大日種子板碑  室町時代   高さ 218.0cm 幅 68.0cm 厚さ 7.0cm
(現地案内板説明文より)

埼玉県は板碑の宝庫のようなところで、各地に貴重な板碑が残されていますが、板碑の目的を説明されていたのは初めてかもしれません。
勿論供養と言うことはわかっていましたが、自己の死後の往生を願うなどと言うことには少し驚かされました。

左側の写真の2基が左から1,2、中央の写真の2基が左から3、4で、右側の写真の5基が左から5、6、7、8、9となります。
板石塔婆-2 板石塔婆-1 板石塔婆-3

縮尺の関係で大きさの比は明確ではありませんが、凡そそのイメージはつかめるでしょう。

それにしても鎌倉から室町までの板碑群とは、移設といいながらも確かに壮観です。では何故このような何も無い場所に移設されたのかが不思議なのですが、案内板にある絵によって意味がわかりました。

板石塔婆 案内板にある絵がこれで、このような説明があります。

江戸時代の絵図によると、この場所には山門(仁王門)や女人禁制を示す結界がありました。女性は結界を避けて「女人道」と呼ばれている西側の尾根道を登り、坂東観音霊場9番札所慈光寺観音堂へと向いました。
(現地案内板説明文より)

この場所に慈光寺の山門である仁王門があったと言うことは、「仁王奇行」の伝説は、この仁王像のことなのでしょう。
一般的に霊山などの入山規制の境界には女人境界石という石柱のようなものが建てられていたようですが、ここでは仁王門の先の黒い門がその代わりだったのでしょうか。その手前に女人道があることからもいえるでしょう。
このかなり手前にも僧坊跡があったのですから、このあたりに絵図にあるような施設があっても不思議では無いことです。そうした立地からこのあたりに板碑が集められたことも頷けます。
それにしても女人道で観音堂へ上がれるということは、女人禁制ながら実際は入山できたと言うことでしょうか・・・。

慈光寺本坊

やがて慈光寺境内入口に到着です。
慈光寺 寺号碑 「慈光寺」と刻まれた大きな寺号標が歴史と嘗ての栄華を物語っているようです。

ただしこのあたりでは車が停められないので先に進んで、慈光寺の駐車場に車を停めます。

慈光寺 売店 駐車場のすぐ横には売店兼休憩所があります。時期がよければ大勢の参拝客が訪れるのでしょう。

売店の横を通って本坊に向います。
慈光寺山門 2.3分進むと左手が本坊への山門で、真っ直ぐ進むと先ほどの寺号標のある場所に行き着きます。まず、ここは本坊に向います。

慈光寺 山門 石段の上に山門がありますが、結構新しい山門のようです。

慈光寺 本坊 山門を抜けると目の前が本坊です。

朱印は観音堂参拝の後にとかかれた張り紙が印象的で、恐らく坂東33観音巡礼の方で朱印だけとにかくいただくというかたが多いのかもしれません。様々な巡礼先で同じようなことが言われているのを見てきましたので、折角の巡礼、あるいは祈願ですから先ずは参拝を済ませてからの方が、やはり常識的なのでしょうね。
私の場合は散策が主ですから、ついでに参拝、って何てことを・・・。また罰当たりなことを口走ってしまいましたが、これでも参拝だけは欠かしていません(キッパリ!)。だからどうしたと言うわけではありませんが・・・。

慈光寺 阿弥陀堂 右側の建物は「阿弥陀堂」だそうです。
正式ではありませんが、一応ここが本堂となるようです。

特に由来などの記載が無いのでオフィシャルサイトの縁起を引用します。

九十六世信海が書きました寺伝『都幾山慈光寺実録』によりますと、天武天皇の2年(673年)癸酉、僧慈訓が当山に登り慈光老翁の委嘱を受け、千手観音堂を建て、観音霊場として開基しました。
その頃、役小角が伊豆の国に配流となり、関東を歴遊して当山に至り、西蔵坊を設け修験道場としました。
奈良時代になりまして、唐より波濤を越えて来朝しました鑑真和上の高弟、釈道忠によって、慈光寺は創建されました。道忠は、仏法を広めるため東国を巡錫しましたが、徳望篤く利生に努めましたので、民衆より広恵菩薩と敬称されました。道忠は、当山に仏像を建て、1尺6丈の釈迦如来像を安置し、一山学生修学の大講堂としました。
平安時代になりますと、伝教大師最澄が比叡山に天台宗を開教しましたが、その折には道忠教団によって2000余巻の経典が奉納されたと『叡山大師伝』に記されております。
桓武天皇の延暦2年(783年)、伝教大師により天台密教の教旨が当山に弘通されました。その後は、台密の教法を修学する学徒と役小角の流れをくむ行徒二派が修行する女人禁制の道場として、また千手観音の霊場として栄えました。特に清和天皇には、天台別院として「一乗法華院」の勅額を賜りました。
貞観13年(871年)には上野国大目安部小水麻呂が、「大般若経」六百巻を書写し、当山に奉納しました。これは、筆跡優れた古写経として、国の重要文化財に指定されて現存しております。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、当寺に崇敬の念篤く、文治5年(1189年)奥州の藤原泰衡追討に際し、戦勝祈願のため愛染明王像を当山に贈りました。また、寺領として1200町歩を寄進した建久2年(1191年)の源頼朝寄進状が、今に残っています。このためでしょうか、華麗優婉な装飾経として有名な国宝「慈光寺経」がもたらされて伝来しております。これは、後鳥羽上皇を筆頭とする藤原兼実一門が結縁のため書写した「法華経」の一品経であります。
建久8年には、臨済宗の祖・栄西禅師の高弟栄朝禅師が参りまして、当山に臨済宗の霊山院を創建し、禅道場が開かれました。この頃が慈光寺の全盛でありまして75坊が甍を連ね、壮大な寺院群は、輪奐の美を誇ったといわれております。今残る慈光坂の丈余の板碑群は、その頃の栄華をしのぶものです。
戦国の時世では、当山も僧兵を傭し、近隣の城主との抗争に明け暮れましたが、それも太田道灌等によって焼き討ちの憂き目にあい、栄華を誇った寺院も衰運をたどることになりました。
江戸幕府の世となりまして、寺領百石が与えられましたが、とりわけ、3代将軍家光の室桂昌院の信仰があつく、奉納された貴重な品々を今に見ております。
昔は慈光寺がこの地方の政治・経済・文化の中核をなしておりまして、その伝統や技術が、今なお盛んな、ときがわ町の建具や、小川の手漉き和紙、そして狭山茶の産業として息づいているのであります。
今日、慈光寺は、比企山中の木立深き、静かな寺として、坂東三十三観音霊場第九番札所の巡礼を迎え、また週末には、マイカーの現代の人々が来山して憩う日々であります。
合掌
(慈光寺オフィシャルサイトより)

開基の時代背景をまず明確にしておくと、673年というと時代は飛鳥時代で、天智天皇の弟である大海人皇子と息子である大友皇子が争った壬申の乱が起こったのがまさに672年です。
そして奈良時代となるのが710年という時代ですから、様々な歴史が伝説ではなく史実として語られ始められた時代とも言えるでしょう。

この開基から室町時代までが慈光寺の栄華を極めた時代だったようで、その長い栄華の理由は、何よりも修験道場としての霊山であり続けたことであると考えられるのです。それは奈良時代に、台密教法を修学する学徒と役小角の流れをくむ行徒2派の道場として確立し、今で言えば文武両道・・・、頭脳明晰、スポーツ万能といったところでしょうか、修験道場として多くの僧たちが集まったことに由来しているでしょう。特に修験道の開祖と言われている呪術者「役 小角(えんのおづの)」の偶然とも思われる伊豆の国に配流によるところが大なのかもしれません。
その栄華をほしいままにしていた慈光寺ですが、まさに驕れる者は久しからず・・・、とは言い過ぎかも知れませんが、焼き討ちの憂き目とはなんとも悲劇です。比叡山焼き討ちの信長よりも100年位も前に同じようなことが行われていたということですから、歴史は繰り返すといったところでしょう。
それ以降、近世では信仰と産業、そして現在では、歴史と癒しといった穏やかな時代を過ごしているようです。

慈光寺 多羅葉 「阿弥陀堂」を参拝した後ろに大きな樹木が植えられています。

多羅葉(たらよう) 埼玉県指定天延記念物
モチノキ科の常緑喬木で幹回り2.7メートル、高さ18メートル、葉の表皮に棒などで字が書けるので「郵便葉書」の語源となる。
慈覚大師円仁(794から864)が天長年間に植えられたと言われる。
昭和63年(1988)4月7日の降雪によって、老木化していた枝が折れ、幹の内部が腐っていたので、枯枝を除去し、枝の高さや幅をつめ、木の陽焼けを防ぐため幹巻をし、ウロの中に垂れ下がっていた根を生かすために鹿沼土とともに施肥などの肥培管理をしたので、自然に生きる生命力の尊い姿を見せている。
補助金の内訳 県45万円、村22万5000円、所有者負担22万5000円、合計90万円
(現地案内板説明文より)

単純に樹齢1000年以上を誇る多羅葉とはまさに歴史そのもので、その幹の太さが歴史を物語っているようです。
多羅葉は【いわき散策記 vol.8-5】で訪れた長宗寺の多羅葉を見ていましたので、どのような樹木なのかは理解していましたが、そのときと同様落ち葉を拾ってくるのを忘れました。一度文字を書いてみたいのですが・・・。
ちなみに文化財といえども自己負担しなければならないのですね。個人だったら22万円は辛いですよね、庶民とでしたら・・・。

慈光寺 時の鐘 その奥には「時の鐘」という鐘楼があります。毎日正午と夕刻に撞かれているそうです。

やはり古刹によく似合うのは鐘の音、と言ったところでしょうかね。

慈光寺宝物殿(金蓮蔵)

本坊(阿弥陀堂)を参拝してから先に進むと左手に宝物殿である「金蓮蔵」があります。
慈光寺 参道 このあたりは今朝降った雪がうっすらと積もっています。
やはり若干気温がこちらは低いのでしょう。

さすがに文化財の宝庫と言われる慈光寺だけあって宝物殿は大きく立派なものです。
慈光寺 宝物殿 校倉造りではありませんが、そこはかとなく正倉院をモチーフにしたような現像物です。

宝物殿の前には「国宝慈光寺経 装飾法華経信解品」という立て札があり、まさに国宝があるという期待感が醸成されます。
それにしてもシンと静まり返っているのが不安ですが、宝物殿開殿中と張り紙がありますので一安心で入殿します。
中に入るとそこは事務所のようになっていますが係りの方がいません。横の張り紙に電気を付けて見学してくださいと書かれています。拝観料は後で良いようですが、そうしている間に係りの方がいらっしゃいました。
恐らく玄関を開けたときにチャイムが鳴っていたので、本坊に聞こえるようになっているのでしょう。

慈光寺 宝物殿チケット 拝観料300円を支払って拝観します。

慈光寺 宝物殿 こちらの引き戸の後ろが、文化財の数々が保管されているのですが、当然というか残念というか撮影禁止ですので、写真はここまでです。

したがってここでは主な文化財を挙げておきます。

国宝
法華経一品経・阿弥陀経・般若心経、33巻
鎌倉初期の文永7年(1270)、後鳥羽天皇をはじめ藤原兼実ほか一族32人の公卿門跡が書写したもので、法華経一品経29巻(うち5巻後補)、開経の無量義経、結経の観音賢経、阿弥陀経1巻、般若心経1巻、の全33巻と附録の文永七年の筆者目録1巻、寛政二年の補写目録1巻。厳島の平家納経、久能寺経とともに日本三大納経の一つ。

重要文化財
紙本墨書大般若経600巻
関東最古の写経で、貞観13年(871)3月に上野権大目安・阿倍小水麿(が書写して奉納したもので、600巻のうち152巻が現存しているそうです。
金銅密教法具14口
密教独特の宗教行事に使用する花瓶、独鈷鈴などの金工品です。このうち花瓶の一口に徳治2年(1307)の銘があり。
銘がある密教法具は珍しいようで、鎌倉時代の基準作とされているものです。

埼玉県指定文化財
経箱
経巻を納めたもとの伝えられる鎌倉時代の経箱。表面は黒漆塗り、内部は朱漆塗り、外縁を面取りして螺鈿を散らしてあります。
絹本着色徳川家康画像
江戸時代の絹本着色で上部に天海の賛が書かれている衣冠束帯姿の家康像。77.0×36.8センチメートル
絹本着色天海僧正画像
江戸時代の絹本着色で上部に墨書による偈があります。僧正の盛装姿の天海像です。77.0×41.2センチメートル
木造聖僧文殊坐像
寄木造、木眼で、胎内墨書銘「永仁三年丙申十月仏師光慶」があるそうです。像高93.6センチメートル
木造宝冠阿弥陀如来坐像
鎌倉時代。檜材の寄木造、玉眼、漆箔。宝冠・宝髻を欠失。慶派仏師の作。像高56.5センチメートル
蔵骨器
 昭和39年(1964)に重要文化財の開山塔を解体修理したとき、その基礎下から発見されました。
須恵器の大甕で高さ51.6cm、口径30cmのものです。

などなど、さすがに文化財の宝庫たる所以です。
この宝物殿はかなり温度や湿度などに対策がなされているようですが、国宝だけはどうやら完璧な保存管理で無いと(防犯等も含めて)いけないようで、この宝物殿に置かれている1点もレプリカのようです。
この慈光寺にある33巻のうち5巻は東京国立博物館と埼玉県立歴史と民俗の博物館に預託されているそうですので、原本を見るのはそちらの方のようです。
係りの方から教えていただいた話では、つい昨年の平成22年10月9日(土)から11月14日(日)に埼玉県立歴史と民俗の博物館で、「仏教伝来 埼玉の古代寺院」という特別展が開催されたそうで、そこで12巻展示されたそうです。
全巻をみることは到底不可能なのでしょうね。

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