建具の里、慈光寺 #3

「宝物殿」で文化財の数々を堪能してから、なだらかな石段を上っていきます。
梅の花 天気も余り上々ではなく、しかも朝には雪がちらついたという気候ですが、境内の梅の木にはちらほらと梅の花が咲き始めています。
まだまだ寒い季節は続きますが、着実に春が近づいて来ているのでしょう。

国宝 慈光寺経妙法蓮華経授記品

般若心経堂 少し階段を上ると左手に見えるのが「般若心経堂」ですが、その手前に小さな石仏が祀られています。

申八梵王 江戸時代
猿は、古くから山の神、もしくは山の神の使いとして、信仰されています。山に出入りする人たちが、この石像を「お猿さん」とか、「申八梵王」と呼んで信仰し、親しまれてきました。
これは、地元、雲河原村(現在の都幾川村大字雲河原)産出のことど石を彫刻したものである。
横に「天明6年丙午9月19日」(1786)の刻字がある。この年、江戸幕府老中田沼意次が失脚している。
天明3年に浅間山噴火があり、天明の大飢饉の最中で、各地に一揆や打ち壊しが続発して、幕藩体制を揺るがしはじめたころである。
山村の無名の石工は、何かを祈りつつこの軽妙洒脱な御幣を持つお猿さんを彫ったと思われます。
平成5年10月 都幾山慈光寺
(現地案内板説明文より)

申八梵王 世の中暗いときには、少しでも明るくしようと祈願されたのでしょうか。

いつの時代でも反省猿は必要なので・・・、って反省猿ちゃうで。

その先の「般若心経堂」は自由に見学ができるようです。
中に入ると当然火の気は無く、入口は閉められないようになっており、しかも土足厳禁ですから足元からジンジン冷えてきますが、ここはじっと我慢のしどころです。

慈光寺経妙法蓮華経授記品 まず目に付くのは、大きな「法華経一品経」です。
あの国宝がレプリカとして展示されているようです。

重要文化財 尾張徳川家伝来装飾法華経観世音菩薩普門品 平安時代後期 徳川美術館蔵
観世音菩薩普門品第二十五は、法華経の中でもっとも、読誦されて、独立した観音経とさえ思われている。あまねく衆生の苦難救済をめざす観音信仰は、仏法伝来のこのかた、広く深く民衆の中に浸透している。そして、霊験あらたかな慈悲の観音像は、日本の山々の奥深く、海辺の津々浦々まで、木に彫られ、石に刻まれ、金銅に鋳されて建立されており、その数は無数といえる。それ程親しまれている観音様のお経である。
見返絵は、観音経の有名な章句である、大海で暴風雨に漂う難破船で、乗船者の一人が観音経を唱えることによって救われる劇的な物語を描いている。

假使黒風 吹其船舫 : 假使、黒風その船舫を吹きて
漂堕羅刹鬼国 其中若有 : 羅刹鬼の国に漂わし堕しめんに その中に若し
乃至一人 稱観世音菩薩名物 : 乃至一人ありて 観世音菩薩の名を稱えば
是諸人等 皆得解脱  羅刹之難 : この諸の人等は皆 羅刹の難を解脱ることを得ん
以是因縁 名観世音 : この因縁を以って観世音と名づくるなり

この経は、平安後期の装飾経が隆盛のころの作で料紙は国宝「久能寺経化城喩品」(鉄舟寺蔵)や国宝「源氏物語絵巻・蓬生」(徳川美術館蔵)の段の詞書料紙と同じ波模様の雲母摺りのものある。国宝「慈光寺経」を伝来宝蔵する当山にふさわしい観音経の優品であり、さらなる観音信仰の普及に貢献する仏縁を深く感謝する。
このたび、坂東観音霊場第九番慈光寺観音堂が、享和3年(1803)以来、約200年ぶりに大改修となった。その記念事業の一環として、本尊千手観音に祈念のため尾張徳川家伝来の重要文化財・装飾法華経観世音菩薩普門品を徳川美術館長徳川義宣様の格別のご好意により撮影させていただいた。さらに副館長山本泰一様のご指導のもとに、現代最先端の陶窯焼成技術を駆使して影印し、ここに掲立することができたことは、望外の喜びとするところである。
あわせて、今度の観音堂大改修の浄財寄進者のご芳名を裏面に記して後世に伝える結縁としている。
南無妙法蓮華経 平成7年6月
慈光寺 百七世 佐伯明了識 合掌
(現地堂内案内板説明文より)

尾張徳川家伝来装飾法華経観世音菩薩普門品 ということで、上段に展示されているのは国宝ではなかったようですが、これにしてもなかなか見れるものでは無いのでしょうから、実に良い機会です。

そして下段にあるのが国宝ようです。

国宝 慈光寺経妙法蓮華経授記品 鎌倉時代 慈光寺蔵
国宝「慈光寺経」は、国宝「久能寺経」や国宝「平家納経」と並び三大装飾経として、日本文化の神髄を極めている。紺紙金字経が多く、この「法華経授記品第六」を始めとして、「化城喩品第七」、「法師品第十」、「涌出品第十五」、「分別功徳品第十七」と結経の「観音賢経」、「般若心経」の7巻を数える。「久能寺経」には1巻もなく、「平家納経」さえ2巻である。
この「授記品第六」は銀界秀麗な金字の筆跡の素晴らしさと、天地欄外の金銀を縦横に駆使した華麗な装飾は、「慈光寺経」の他の紺紙経と雲泥の隔差がある。
蓮の花や葉を型文様に抜いた中に、金銀の砂子を撒き、花や葉の細い脈をさらに抜いたり、筆で銀の細い線を描いている。さらには、金箔の蓮花や銀箔の蓮葉を型に切って置く技法を使い、砂子、野毛や切箔を水面のようにあしらい散らした夢幻の蓮池の世界を作り上げている。
紺紙経の王者、奥州平泉の藤原三代の栄耀で作られた、国宝『中尊寺清衡一切経』と比べても書宇において、この欄外の装飾については凌ぐかと思われるが、瑠璃紺の美しさと、金銀交書一切経五千余巻の写経作善の大事業の深い祈りには及ばないと思わせる優れた芸術作品の経巻である。
経巻の頭初に飾る絵を見返絵といい、お釈迦様の霊鷲山説教図が多いが、経文の内容を絵画化したもの、時代の風俗、あるいは自然の風景もあって、漢字の縦列の経文の前段として安らぎを与える。
平成の今日現在、「慈光寺経」32巻のうち、当初の見返絵は殆ど亡失損傷され、折鑑に耐えうるのは、法華経「人記品第九」、「宝塔品第十一」、「提婆達多品第十二」、「勧持品第十三」、「随喜功徳品第十八」、「巌王品第二十七」、の六品のみである。この「授記品第六」の見返絵も完全に失われている。
今度の陶窯焼成に際して、京都国立博物館のご好意によって、「大宝積経巻第三十二」の見返絵「三菩薩奏楽散華図」を添えることができた。高麗仏教王朝の統和24年(1006)に穆宗の母后、千秋太后皇甫氏が発願した金字大蔵経の1巻で、現存するのはこの1巻のみ、高麗金字経の貴重な遺品である。天に楽器が飛び、音楽が流れ、花々が降り、地上の草花が喜々としているところ、蓮台上に三菩薩が優雅にして豊麗に立っておられる。千年を経んとしても生々彩々たるお姿に祈鑑お願い申し上げる。
日本には、早くに渡来して嘉慶2年(1388)8月に江州(滋賀県)の金剛輪寺に権律師豪憲が納めたことを記す朱書の銘文が残されている。
平成16年10月
(現地堂内案内板説明文より)

これが間違いなく国宝のレプリカです。
慈光寺経妙法蓮華経授記品 宝物殿にあったのは金色の地の経典でしたが、こちらのものが紺紙金字経というものです。
この説明を読んでやっと意味合いがわかってきました。

所謂法華経の経典を美しく飾った経典が装飾経というものなのですね。

そこでいつもの様に装飾経を少し調べてみました。
装飾経とは、文字通り仏教で使用される経典のうち、料紙に美麗な装飾を施したものをいい、紫、紺などの染紙を用い、金銀泥で経文を書写したものや、料紙に金銀泥などで下絵を描き、金銀の箔を散らした上に書写したものなどがあるようです。
最初に作られたのは奈良時代だったようで、この当時は国家安寧のために国家的プロジェクトにより写経を大々的に実施されたそうです。
当初は虫害予防のために黄檗で染めることがはじまりで、その後徐々に美麗になり、やがて虫害予防目的以外に、経典自体に荘厳さを持たせるための紫、あるいは紺色の紙に金銀泥での書写や金銀箔で装飾された装飾経となっていったそうです。
このように奈良時代に造られた装飾経ですが、現存するものは殆ど無いそうです。
平安時代になると紺色の紙に金泥で経文を書写する紺紙金字経が多く作られるようになりました。これは紺色に染めた料紙に金泥で区切り線を引き、金泥で文字を書くものです。ちょうど慈光寺経妙法蓮華経授記品がこの様式のようです。

この時代は奈良時代と違い国家的事業ではなく、極楽往生を願う貴族らによって作成され、寺院などに納められたのです。これは特に平安末期になり華経信仰や浄土信仰などの流行から、貴族的な美意識と共に贅を尽すほど功徳が得られるという考え方からも流行し、写経が美術品としての価値も持つののへと発展した時代背景があったものと考えられているようです。
そしてこの時代の代表作が、ここに記載のある三大装飾経なのです。しかもその中で紺紙金字経は「慈光寺経」の7巻もあるということが特筆すべきことと言っているのでしょう。

もう一つの特色は見返絵で、そもそも見返とは現在の冊子本で言うところでは表表紙の裏側を指し、巻物では表紙の裏側をいいます。一般的にここには、金銀の切箔、金銀箔を細長く裁断した砂子、金銀泥を細かく裁断した野毛などを撒いたり、あるいは、全面を金地、銀地に仕立てたりして装飾する場合が多いようですが、特に見返に草花、蝶、鳥などの下絵を描いたものを見返絵と言うのです。
因みに国宝『中尊寺清衡一切経』は三大装飾経よりも別格で、5000余巻というのも途方も無い量ですが、金銀交書経という紺紙に金字と銀字を1行ずつ交互に配したという大変手の込んだ装飾経だということで、さすがにこれには及ばないというところでしょうか。
いづれにせよレプリカとはいへ、国宝の持つ貴重性や荘厳さなどがひしひしと伝わってくる展示です。

般若心経堂

国宝以外にもここ「般若心経堂」には多くの貴重な品々が展示されているのですが、これらを見て判ったのですが、このお堂は仏像などを祀っているのではなく、般若心経に関するものを展示している展示館なのです(気付くのが遅いと・・・)。
後々知ったのですが、一番最初に到着した大きな寺号の刻まれた石碑のあるところから、観音堂に至る参道を般若心経の道といい、道すがらに様々な般若心経が展示されていて、その道の途中にある建物がこの「般若心経堂」という訳なのです。
その様々な般若心経を見る前に、この堂に関するモノから見ることにします。

般若心経堂 扁額 先ずはこの堂の入口にある扁額です。

この扁額に刻まれた文字は、天台宗の始祖・最澄が書いた文字なのですが、面白い試みによって描かれた扁額なのです。

集最澄書「般若心経堂」扁額
延暦7年(788)、伝教大師最澄(767から822)は、薬師如来を刻んで、比叡山に延暦寺を創建されました。そのころ東国にあって、衆生済慶に活躍していた、鑑真和上の持戒第一の弟子であり、当慈光寺を建立して、第一祖となった道忠禅師は、経・律・論2000余巻の仏典を書写して比叡山に送りとどけ、その草創を助けたと、「叡山大師伝」は記している。
この時、この写経事業を宰領し、比叡山経蔵に納め、自らも、そのまま、最澄に師事し天台第二代座主となられたのが、園澄和尚(771から837)である。
この方は、18歳の時、当慈光寺で、道忠禅師によって受戒されておられる。
この扁額の最澄筆字は、書道史家飯島太千雄氏が、現存の書蹟から集字構成したものである。「般若心経堂」は「最澄将来越州録」より、「最澄」は「天台法華宗年分縁起」より、「書」の字は、「空海請来目録」より集字した。
最澄その人の純粋な人間味溢れる書で、あくまでも清明、澄みきった風格は、後年の比叡山の混濁した宗史をあわせ思うと不思議な心境となる。
その混濁の中で学んだ、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮が、それぞれの宗門を築き、日本仏教が発展してきたことをみると、その原点の人、最澄の書は、貴重である。
願わくば、諸衆、この扁額を鑑賞されて、天台宗祖伝教大師最澄を偲ばれんことを。さらに、当慈光寺初代道忠禅師の遺徳を賞揚されるなら、法燈を継ぎ、伝える者として、幸甚これに勝るものはない。
平成6年3月 慈光寺 百七世明了 合掌
(現地堂内案内板説明文より)

日本の書の歴史は、基本的に中国の漢字と並行しているのですが、始まりは飛鳥時代で、聖徳太子の遣隋使などにより仏教の伝来と共に中国の六朝書道が日本に伝わったのが書の初期の時代です。
そして中国で中唐の時代に当たる日本の奈良時代では、遣唐使により更に中国との交流が盛んになり、特に聖武天皇の天平年間においては、六朝書道以外に王羲之の書法が学ばれ、現在正倉院に現存する王羲之の『楽毅論』など、この時代は王羲之の書がお手本だったようです。
この王羲之とは中国東晋の政治家・書家で、書道史上、最も優れた書家で書聖と称されており、顔真卿と共に中国書道界の二大宗師とか、「書道の革命家」「書道の最高峰」などと呼ばれるほどとにかくすごい人なのです。
中国でこれほどの書道家なのですから、当然日本でブームになることは必然でしょう。
こうして奈良時代に写経が盛んになると同時に書も発展し始め、後の書道の原型が形成され始めたのでした。

平安時代になると奈良時代の中国のモノマネから一歩進んで、日本独自の書文化が花開きはじめるのでした。
平安時代初期の代表的な能書家(歴史上の書人で今も書名の高い人物のこと)は三筆(嵯峨天皇、空海、橘逸勢)でした。特に空海は日本の王羲之ともいうべき不世出の能書家で、その重厚で装飾的な書風は大師流と言われているそうです。
その後、平安時代の中期に遣唐使が停止されると、書は益々日本オリジナルが増加し、「かな」の出現により「かな」と「漢字」の調和が求められ、小野道風により和様書道が完成されたのでした。この後、道風の後を継いだのが藤原佐理、藤原行成で、所謂、三蹟と言われる3人によって、書の黄金時代を形成されたのでした。
ちなみに日本人の大好きな三尽くしでは「書の三聖」という3人の書の名人がおり、空海・小野道風・菅原道真のことを言うそうです。

このような日本の書の歴史・文化のなかの代表的な三尽くしの能書家に隠れてしまっているものの、特筆すべき能書家として挙げられているのが「最澄」のようで、空海の変幻自在に比べて清澄で品格が高いと言われた能書家だったようです。
天台宗開祖、そして稀代の能書家としての「最澄」の扁額とは非常に貴重なものでしょう。

般若心経堂 額 そしてもう一つ特徴的なものが堂内の額で、こちらは書聖・王義之の書のようです。

集王義之書「般若心経堂」額
日本を代表する書人である空海(774から835)や小野道風(894から966)が、その傑出した書法を形成し得たのは、王義之(307から365)を学んだことによる。
また、私が制作した、この額と対をなす最澄(767から822)の「般若心経堂」の書も、王義之の影響を色濃く反映している。つまり日本の書に圧倒的な影響を与えたのが、東晋の王義之なのである。王義之は、日本に限らず中国・朝鮮でも、永遠の示範として今でも学ばれ続けている。そのため古来から義之の書を集字して成文することが尊ばれ、多くの集字碑が誕生した。その代表例が、「集王書心経」の元となった「集王聖教序碑」である。
私は、書の歴史研究に心してきたが、その方法論として比較研究を重視している。空海研究には、彼の書を6万字集めた字典を作り、王義之研究では、25,000字の「王義之大字典」を公刊した。言うまでもなく、この額は同書を検索して編集されている。
かくも大字に拡大するには、集字の底本は望み得る最良の拓本によらねばならない。陜西省博物館が所蔵する宋拓の「集王聖教序」が、精密な比較研究を経て底本として選ばれた。「堂」「集」字のみは、唐代の同じ集王書碑である「興福寺断碑」の旧拓本によっている。
慈光寺心経碑林の中核を成すのは、玄奨没後8年(672)の心経最古の資料「集王書心経」である。心経信仰の弘通に大きな役割を荷った空海も最澄も王義之の書法によっている。思えば、稀代の三人が、王義之と心経でリンケージしている。私が、額の筆者を、義之と最澄にして制作した所以は、慈光寺が天台宗であることもあるが、よりそのリンケージを重視したことにある。
平成6年3月  解説 飯島太千雄
(現地堂内案内板説明文より)

王義之については先ほどの調で凡そのことはわかりましたが、空海の6万字や王義之の25000字などの字典があることに驚きを覚えます。
そこでここではこの解説を書いている飯島太千雄なる方を調べてみます。
1942(昭和17)年、書家飯島春敬の三男として東京・六本木生まれで、学習院大学文学部仏文学科中退後、書藝文化新社で多くの複製・学術書の編集制作に携わるかたわら、書道史研究論文を「墨美」・「書品」などに発表。
1980年に退社し、著作・制作に専心し、編集工房「書玄」主宰されています。と言うことで、生まれながらにして書の道一筋と言ったところです。
著作の中には『弘法大師書蹟大成』『王羲之大字典』『般若心経秀華』などといった書にまつわる実に多くの著作があるようです。
嘗て書道のホンの入口をかじったことのある私としては、このような字典などを通じて、ある意味書学ともうべきものが大変興味深いです。詳しくはサイト見ていただくと概要がわかります。

参考:【《書から何が見えるか》飯島太千雄の世界】http://homepage3.nifty.com/shogen/

文化財の宝庫と言われる慈光寺ですが、それらの文化財とは違った角度で歴史を学べるといった「般若心経堂」です。

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