建具の里、慈光寺 #5

「般若心経の道」を上ってやっと「観音堂」に到着しました。
いかにも山腹を削って平場にしたといった感じの境内で、「観音堂」の後ろには山肌が迫っています。
また、一方の崖側は非常に眺めが良さそうな場所なのですが、樹木によって眺望は期待するほどのものではありません。

慈光寺観音堂

観音堂 思ったよりも大きな観音堂です。また見るからに歴史を感じさせる建造物です。

先ずは参拝を済ませます。

都幾川村指定文化財 慈光寺観音堂 1棟
江戸時代・享和3年(1803)、平成元年4月11日指定、平成9年4月12日修復
阪東33観音霊場第9番札所都幾山慈光寺観音堂の本尊は木造千手観音立像です。寺伝に寄れば、天武天皇2年(673)に僧慈訓により創建されたといわれます。
現在の観音堂は、享和3年(1803)に99世義然が再建したものですが、歳月の中で老朽化は進み将来への継承が心配されていました。そのため修復事業に着手し、村内外からの寄付金、県・村などの補助金と慈光寺により平成5年度から4ヶ年をかけ、本尊の解体修理や茅葺から銅葺への改修、堂内外の修復と周辺整備を行ないました。
観音堂は、入母屋造・銅板葺きの屋根、軒は二重繁垂木とし、本尊を安置する内陣の柱は円柱で三間(約5.4メートル)四面です。前方に12尺3寸(約3.7メートル)出して礼拝の間(外陣)を設け、その前方には1間の軒唐破風付きの向拝を出しています。外陣は吹き放しで、履物のまま昇殿できる様式は札所建築の特徴でもあります。さらに細部をみると、柱ごとに彫刻木鼻をつけ、虹梁に細かい文様の地彫または彫刻を施し、その上は彫刻欄間で飾っています。内陣は格天井とし紋尽くしの文様を画き、来迎柱には極彩色が施されています。なお、外陣に千手観音の眷属である風神・雷神をはじめ28部衆の欄間彫刻があることは特徴でもあります。
本尊千手観音立像は秘仏ですが、毎年4月第2日曜日と17日に厨子が開かれ拝観することができます。この御開帳日には多くの信者が登山し、盛大に護摩法要が行なわれ賑わいます。また、季節を通じ全国から多くの巡礼者の参詣が絶えません。
堂内には廃絶した山内諸堂から木造十一面観音立像・木造毘沙門天立像が合祀され、外陣には寶頭盧尊者坐像、その天井には伝説の「夜荒らしの名馬」が安置されています。

埼玉県指定文化財
本尊:木造千手観音立像、像高:270センチメートル、頭部:室町時代・天文18年(1549)制作、体部:江戸時代・享和2年(1802)制作
平成12年12月 都幾川村教育委員会
(現地案内板説明文より)

観音堂 外陣 観音堂 外陣 この部分が外陣で、柱の彫刻木鼻、虹梁の地彫・彫刻、彫刻欄間などを見て取ることができます。
柱や梁などのボケた朱色を見ると、元々は鮮やかな朱色だったのだろうと想像できますが、個人的にはどうもあの鮮やかな極彩色はキッチュに思えて仕方ないのですが・・・。

観音堂 夜荒らしの名馬 天井からは伝説の「夜荒らしの名馬」が安置されています。これも意外と大きなものですね。
伝説については建具会館で呼んだとおりですが、口元は縛られていましたが、尾は切られていませんでしたね。
生えてきたのでしょうかね。

内陣はあまり撮影は難しいのですが、かすかに見えたのが本尊の・・・、当然秘仏ですからここで見れるのは写真だけです。
観音堂 本尊 その本尊の写真額のある来迎壁の部分が復元された極彩色でしょうか。確かに壮麗な色合いを醸し出しています。

木造十一面観音立像 本尊の左側には木造十一面観音立像が安置されています。残念ながら木造毘沙門天立像は写せませんでした。

ほんの一端に触れてみましたが、荘厳でありながら華麗であっただろうと思われる外観などなど、慈光寺の歴史の奥深さを感じ取った観音堂でした。

般若心経の道、再び

慈光寺観音堂の参拝を済ませて、本坊に戻ります。
ここから急な石段を下りて一旦道路に出られるようですが、般若心経の道をまたのんびり書に浸りながら戻ることにします。
本坊に戻り山門を抜けて石段を下りると突き当たりのT字路となります。 右に進めば、最初に通った売店横を抜けて駐車場に戻ります。そして左に進むのが般若心経の道ですから、迷うことなく左手に進みます。

空海書 破体心経 空海書 破体心経 すると右側に大きな石碑があります。「空海書 破体心経」の碑です。

空海書 破体心経 平安時代・弘仁12年(821) 広隆寺蔵
空海(774から835)は、通行の楷・行・草の各体に傑出するのみならず、渡唐して古文・纂隷・雑体と多様な書法を見につけた。この書は、梵字を書くための木筆という、固い刷毛状の筆を用いている。楷・行・草に隷書や章草と呼ぶ特殊な書体を混え、しかも梵字の書法で揮毫している。いかにも天才・空海ならではの破体表現により、密教の神秘性と曼荼羅的世界をいかんなく表している。「般若心経秘鍵」を著し、密教としての心経を説いた空海ならではである。悠久3000年の書の歴史にあって、書で宗教を表現したのは、一人空海のみである。
解説 飯島太千雄(「般若心経秀筆」講談社刊より) 平成4年5月
(現地案内板説明文より)

要するに破体とは、様々な書体を組み合わせて一つの作品を作るといった意味のようです。アップにすると何となくバランスが良いのか悪いのか個人的には判断のつかない書に思えるのですが・・・。
ある意味、書における破体はアートとしての真髄、あるいはオリジナリティの極致ともいえるのでしょうが、一歩間違えれば「芸術は爆発・・・」になってしまいます。
ですから、こういったモノは一応名を成した人がするのが無難なのでしょうが、既存の勢力に打ち勝てない新参アーティストは得てして一発逆転を狙い、結局理解されないか、亡くなってから理解されるなどというパターンが多いようです。
これが空海ではなく、一書家が始めたら評価はどうだったのでしょうかね、ちょっと興味深いです。

良寛書 楷書心経 良寛書 楷書心経 その反対側には「良寛書 楷書心経」があります。

良寛書 楷書心経 江戸時代 個人蔵
良寛(1758から1831)は、ある最も日本的な心を書表現として完成してしまった人だ。だから良寛の心経は、日本人の心経に対する心と、美学を端的に表していると言える。この書の内に孕んだ空間が、そのまま外なる空間となる様は、法悦の堺であり、心経を唱える人における、「空」や「無明」の知覚との相関に等しく思える。
本書では、「書く」ことの意識から脱却した、書法を超越した良寛の書と、悟りに達した良寛が端座している。
越後に戻った良寛の狂おしいまでの書法猛習を、単なる芸術志向や自己顕示欲の表れと律して良いのだろうか。
想うに良寛は、この書法の猛習によって、備中玉島・円通寺での永く厳しい只管打座の禅定でも得られなかった、真の悟道に達したではないか。
彼は、ひたぶる書作に邁進し、書によって解脱を期した。良寛は、終にそれを果し、その超越の書をこうして永遠にすることができた。
解説 飯島太千雄(「般若心経秀筆」講談社刊より) 平成4年5月
(現地案内板説明文より)

この解説を理解しようとするのは、生半可の知識では飯島氏に失礼でしょう。では生半可でない、そう一所懸命調べるつもりも無いので、これはこれとして置いておきましょう。
一般的な良寛のイメージは子供と遊ぶ良寛でしょう。実際に良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達と遊ぶことを好み、かくれんぼや、手毬をついたりしてよく遊んだと言われています。勿論、名書家の良寛ですから書の依頼も多かったようですが、高名な方の依頼は断る傾向だったそうですが、反面、子供達から凧に字を書いて欲しいと頼まれると「天上大風」と喜んで書いたそうです。そんなエピソードがこの書の説明とリンクするかどうかさえわかりませんが、とりあえず煙に巻いておきましょう。
「因みに・・・」が好きな私としては是非一言添えておきたいことがあります。
因みにWikiによる伝説では、豊臣秀吉の6代目の子孫が良寛だとか・・・。それはそれで面白い話です。

以上で「般若心経の道」は終わりのようです。
この道を歩けば古から現代までの書の歴史の一端に触れることができる、なかなか素敵な小道でしたが、最後まで般若心経が何なのかは理解できませんでした。

ということで、最後に面白い物を見つけました。
般若心経を音声で聞くのは当たり前ですが、これはお経を聞きながら経文表示や背景画像が変えられるカラオケ風表示ができ、更にお経にエコーも掛けられ、なんとデスクトップをお経で埋めつくすという、至れり尽くせりの般若心経ソフトです。
極めつけは良く分からない方には、お経の速度が変えられ、常に経文を表示したければタスクバーにも表示できるという、ホスピタリティ溢れるソフトなのです。
ダウンロードは以下のサイトです。

参考:【般若心経】 http://www.dynasys.co.jp/FreeSoft/Hnw/index.htm

一家に一ソフト、有るといいかもしれませんよ。

鐘楼

鐘楼 この「般若心経の道」をそのまま進むと左手に鐘楼があります。

国指定重要文化財 寛元三年銘 銅鐘 一口 
鎌倉時代・寛元3年(1245) 昭和25年8月29日指定
この鐘は鎌倉時代の寛元3年(1245)5月18日に栄朝が願主となって東国の名工「物部重光」が鋳造し、慈光寺に奉納した銅製の梵鐘です。
鐘の表面(池の間)には陽鋳による銘文が次のようにあります。

池の間第一区銘文
「奉冶鋳 六尺椎鐘一口 天台別院 慈光寺 大勧進遍照金剛深慶 善知識入唐沙門妙空 大工物部重光 寛元三年乙巳五月十八日辛亥 願主権律師法橋上人位栄朝」
池の間第四区名文
「銅一千二百斤」

この銘文によると、鎌倉時代に隆盛を極めていた慈光寺が「天台別院」であったこと、後に鎌倉大仏や鎌倉建長寺の梵鐘(国宝)の製作で知られた「物部重光」が鋳造したこと。臨済禅を日本に伝えた栄西の弟子で、霊山院や群馬県尾島町世良田の長楽寺を開山した「栄朝」が願主として奉納したことがわかります。また、「銅一千弐百斤」(約720キログラム)とあり、原料の使用量がわかります。
この鐘は総高150センチ、口径88センチで、重量は709キログラムあります。年代のわかる梵鐘では埼玉県内最古であり、鎌倉時代から南北朝時代にかけて関東で活躍した物部姓鋳物師の研究や慈光寺の繁栄を物語る貴重な文化財であります。
なお、この鐘楼は昭和60年11月26日の火災により釈迦堂や蔵王堂とともに焼失しましたが、寺の復興を願う関係者の浄財により平成2年に再建しました。 平成12年3月 都幾川村教育委員会
(現地案内板説明文より)

ここでは当然、物部姓鋳物師について調べなければならないでしょう。
物部姓鋳物師は、もともと河内国丹南郡、現在の大阪府南河内郡美原町辺りを中心とする地域を本拠とした金属鋳造の技術者およびその集団で、諸国を回って鋳造や鋳物の販売などを行ってたそうです。これは当時の朝廷に鉄燈籠などを献上したことなどにより鋳物事業を独占し、税の免除、全国通行自由などが保障された特権階級だったからです。
そして鎌倉時代の1252(建長4)年、時の執権北条氏から、現在の鎌倉の大仏である銅造阿弥陀如来坐像の鋳造のため呼ばれ、その時に丹治・広階・大中臣といった同じ河内国に本拠地を置いた鋳物師も呼ばれていたようです。
この大仏鋳造以前の1245(寛元3)年には、この物部姓鋳物師の物部重光が慈光寺の梵鐘を鋳造しているのですから、すでに関東に定着していたのか、あるいはこの時は河内から来ていたのかは不明ですが、すでに関東では物部姓鋳物師の名は知られていたのでしょう。
そして無事に大仏の鋳造が終わると丹治姓鋳物師は河内国に戻るのですが、広階・大中臣姓鋳物師は上総団(千葉県)方面に移住して活動を続け、物部姓鋳物師は相模国北西部の毛利荘内(厚木市付近)に移住・定着したと言われ、需要の増大した鎌倉を中心に相模・武蔵国の寺院の鐘を鋳造しており、「西の丹治」に対して「東の物部」と称賛されたそうです。
この様に名声をほしいままにしていた物部姓鋳物師でしたが、その隆盛の一つの理由が鎌倉幕府との深い関係性であることから、南北朝時代を境にしてその名が出ることはありませんでした。官民癒着の構造の果て、とでも言うのでしょうか。
しかし、この100年以上の間、物部姓鋳物師は慈光寺を始めとして鎌倉の建長寺、円覚寺、横浜の東漸寺や榛名寺など、20口を数える銅鐘を鋳造したそうです。そしてその中の幾つかは国宝や重文などに指定されており、物部姓鋳物師ここにありと現代でもアピールしているのでしょうか。

銅鐘 これが物部重光の力作の「銅鐘」です。

古の技術のホンの一端だけでも感じることができるでしょう。

釈迦堂跡

釈迦堂跡 鐘楼を抜けると右手に最初にみた寺号が刻まれた石碑があり、舗装された道路沿いに何か綺麗に整地された土地があります。

その前の案内板です。

釈迦堂跡
昭和60年11月26日に焼失した釈迦堂は、元禄8年(1695)に奥州津軽の行者、釈見性が諸国を勧化して回り、喜捨された浄財で再建したものである。近年の調査で鰐口に「元禄8年当院40世学頭翁鎮釈見性法印」とあり、当寺歴代80世翁鎮の代に、釈見性の勧進により建立されたことを確認することができた。
間口8間(14.8メートル)奥行7.5間(13.88メートル)さらに5尺(1.65メートル)の外縁をもつ大講堂の内陣には、大講堂にふさわしく高さ2.26メートルの巨大な釈迦如来坐像が安置されていた。厨子の丸柱に金箔が残っていたことから往時は極彩色であったことがうかがえる。
「慈光事実録」によると当山には学徒と行徒の2派があり、1夏90日間行徒は回峰修行し、学徒はこの講堂に閉じこもり論談決択勤行を行なった。寛元の鐘を鳴らしこの堂に全山の僧が集まり内陣は75坊の住職、内外陣には修行僧が坐して勤行したと伝えられている。外陣の左右に安置されていた仁王像は、廃仏毀釈により明治末期まで山門にあったがここに移転奉祀されたものである。高さ3.5メートルの巨像で「慈光の仁王様」と呼ばれ地元人々から親しまれ「仁王奇行」という伝説も残されている。
なお、釈迦堂とともに釈迦如来坐像、仁王像、蔵王堂及び蔵王権現立像が焼失した。
平成17年12月 都幾川村教育委員会
(現地案内板説明文より)

その釈迦堂の写真が案内板に掲載されています。
釈迦堂 写真 茅葺のかなり大きな堂だったようです。

ここに記載されている「仁王奇行」という伝説も建具会館で読んだあの伝説でした。写真もありましたが、3.5メートルの仁王像ですから、さぞや存在感があったのでしょうね。
世の常ですが、様々な建造物や仏像などが焼失してしまっているのは返すがえす残念なことですが、「・・・たら」「・・・れば」を考えてみるのも歴史の面白さの醍醐味でしょう。

慈光寺開山堂

開山堂 覆屋 釈迦堂跡の先にお堂が見えます。「慈光寺開山堂」というそうです。

国指定重要文化財 慈光寺開山堂 1基
室町時代 天文25年(1556) 昭和28年8月29日指定
慈光寺開山塔は、鑑真の弟子で慈光寺を開山した釈道忠(広恵菩薩)の墓に建てられたと伝えられ、正面に見える覆堂の中に収められています。
現在の開山塔は、総高5.10メートルの比較的小型の木造宝塔で、室町時代末の天文25年(1556)の銘が露盤にあったという記録と建築技法により、この頃に建てられたものと考えられています。
1階は八角形の土台に8本の円柱を建てて円筒状とし、上端に厚板の亀腹、側面の四方に桟唐戸(扉)を設けています。
2階は1階床から立て上げた円形の軸部(中心部)の上部に組物を置き、方形の屋根を支えています。屋根は板で葺いた「とち葺き」で勾配が急になっています。塔の先端にある相輪は欠損していましたが、昭和39年の解体修理により復元したものです。なお、この修理の際に、基壇の下から火葬した人骨を納めた須恵器製の蔵骨器や飾り金具など(埼玉県指定文化財)が発見されています。
慈光寺開山塔は、独特の建築技法とともに国内唯一の室町時代の木造宝塔として、極めて貴重な存在であります。
平成11年3月 都幾川村教育委員会
(現地案内板説明文より)

これが慈光寺での最後の建造物です。
開山堂 イラスト 開山堂の周りに鉄柵が張り巡らされているので、中の様子はわかりませんが、案内板にある図ではこのような形のもののようです。

この説明で慈光寺を開山した道忠は鑑真の高弟だったことは判りますが、やはり慈光寺散策もこれで終了ですから、最後に開山堂にふさわしく道忠について紐解いてみます。

道忠の誕生や育った環境などは殆どわかっていませんが、鑑真和上が来日した754(天平勝宝6)年には20歳位になっていて、早い時期から鑑真に仕え鑑真から戒律を学び、戒律を守る事にかけては弟子の中でも一番優秀であると言われていたようで戒学に秀でていたようです。
こうして鑑真の下で学んだ道忠が東国に赴いたのは761(天平宝字5)年のことで、これは現在の栃木県下野市にかつて存在した「下野薬師寺」に戒壇が設置された事と関係があったといわれています。この戒壇とは僧侶に戒律を授けて正式な僧侶の資格証明を与える機関のことで、この「下野薬師寺」は東国の僧侶に対することから、中央および西戒壇に対して東戒壇といわれていたようで、この設置に関連して道忠が派遣されたと考えられているのです。
こうして東国での道忠は民衆を教化し、その勢力は上野(群馬)・下野(栃木)・武蔵(埼玉・東京)・信濃(長野)に及び、多くの弟子や信者から菩薩と仰がれ、一大教団を形成したのでした。
このころの状況が記録にあるようで、最澄の伝記「叡山大師伝」では、「有東国化主道忠禅師者 是此大唐鑑真和上 持戒第一弟子也 伝法利生常自為事」と記載されており、これを根拠として「元享釈書」でも「釈道忠 事鑑真禀戒学 真称持戒第一嘗為東州導師 好行利済民族呼菩薩」とあるように、まさに東国での力をまざまざと誇示していたようです。
そして、この最澄の伝記にも記載されているように、この後は最澄との関係を築いていくのです。

道忠と最澄が親密となるのは、797(延暦16)年に最澄が発願した一切経整備にこたえて、道忠が二千余巻を助写したことにはじまるのです。789(延暦7)年比叡山に一乗止観院(現在の根本中堂)とともに経蔵が建設されたのですが、10年経っても経典が整わず、あせった最澄は周辺の寺院に一切経の書写を要請したのでした。これに積極的に応じた一人が道忠だったのです。
東国にいた道忠が、どのようにしてこの最澄の要請を知ったかは不明ですが、短期間で2000巻の経典を書写する体制と経済的な基盤を作り上げたようで、「続日本後紀」によれば、834(承和元)年に相模・上総・上野など坂東六カ国に一切経書写が命ぜられたと記載されていたそうです。そしてこの2000巻の経典を奉納したのは慈光寺の由緒にあるとおりで、こうして道忠と最澄は深く結びつき、イコール天台宗の東国での拠点ともなっていきながら、比叡山での道忠の力も大きなものになっていったようです。
その史実が道忠の弟子に如実に現れているようです

このころの道忠の弟子として高名なのが円澄と広智です。
宝亀3年武蔵国埼玉郡に生まれた円澄は、18歳で道忠に授戒を受け出家し法鏡行者と称したのですが、798(延暦17)年27歳のときに比叡山に上り最澄に師事し、最澄の一字を与えられて円澄と改名しました。その後、徐々に上首となり、833(天長10)年の最澄の後の第2世天台座主に就任し、比叡山に西塔院・寂光院を建立しているのです。
一方の広智は円澄と同年輩と見られていますが、出自は明らかではないようです。道忠に師事し常に傍らにいて道忠の活動を助けていたと言われ、道忠没後、道忠の作り上げた東国教団を引き継ぎました。これは「慈覚大師伝」によれば「唐僧鑑真和上第三代弟子也 徳行該博 戒定具足 虚己利他 国人號広智菩薩」と記載されていて、これにより鑑真和上→道忠→広智の流れが確立していたことがわかります。

最澄との関係を深めた道忠を引き継いだ広智もまた、道忠以上に天台宗(比叡山)との関係をより深め、815(弘仁6)年、最澄の東国巡化の際にはこれを助け、下野国の宝塔建立を援助しました。こういったことから広智の一大教団は天台宗の東国における拠点となったのでした。
こうした中で広智は積極的に優秀な人材を最澄の下に送り込んだのです。
その一人が先の慈覚大師・円仁です。
794(延暦13)年下野国都賀郡壬生町に生まれた円仁は9歳で出家し、15歳の時に広智について叡山に登り最澄の門下となりました。その後、第3世天台座主となったのです。
また、もう一人が安慧で、円仁と同じ794(延暦13)年生まれの安慧はやはり下野で生まれ、7歳の時に広智門下に入り、806(大同元)年13歳のときに、やはり広智につれられ叡山に登ったのです。その後、848(承和13)年、延暦寺定心院十禅師に任じられ、内供奉十禅師を経て、864(貞観6)年第4世天台座主に就任したのでした。
後にこの広智が亡くなってからは、道忠教団も消滅の兆しが現れてくるのですが、見てきたように鑑真、道忠、広智の流れの東国教団は初期の天台宗(比叡山)を支え、広めた重要な教団だったことは非常に興味深い史実であり、道忠が鑑真の高弟で、単なる慈光寺の開祖だけでは無かったことが興味深いところでした。

文化財の宝庫としての慈光寺は十分見ごたえのある寺院でしたが、その背景にある歴史や文化といったものまでが、非常に奥深いものでした。
3.5メートルのシンボルとも言うべき仁王像を眺めながら、多くの学徒と行徒が切磋琢磨して修行を行っていた光景を思わず思い浮かべてしまいそなほど、強烈な歴史を持っていました。
国宝のみならず、歴史、文化、そして自然に触れられる慈光寺は、一度は訪れてみたい魅力的な寺院でした。

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