歴史を尋ねる散策記。歴史の必然、偶然を楽しんでいます!!!!
“アジール”或いは“アサイラム”とは、歴史的・社会的な概念で「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などと呼ばれる特殊なエリアを意味し、現代で云えば、在外公館の内部の“治外法権の認められた場所”といえます。
こうした治外法権の場の一つに江戸時代の縁切寺がありました。
当時、縁切寺は「駈け込み寺」と呼ばれ、基本的には生命や身体の危険を避けるためのアジールなのですが、この当時は、夫の不法に泣く女性を救済して、離婚を達成させる意味合いが強かったようです。
現在、こうした調停は裁判所などにゆだねられているのですが、当時の縁切寺である東慶寺を見ながら、その歴史を追ってみます。
東慶寺の過去帳などに「開山潮音院覚山志道和尚」という記述がります。
「覚山尼」とは、鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗の夫人で、1284年、北条時宗の臨終の間際、無学祖元を導師として夫婦揃って出家して覚山志道大姉と名乗り、翌1285年に第9代執権・北条貞時を開基、覚山尼を開山として当寺は、尼寺として建立されました。
その後、南北朝時代に5世住持となったのが「用堂尼」。
用堂尼は、建武の新政を果たした護良親王の妹ですから、後醍醐天皇の皇女であり護良親王が殺された後、兄の菩提を弔うために東慶寺に入ったのです。
これ以来、東慶寺は「松岡御所」と呼ばれ、寺の格式も自ずと上がったのです。
江戸初期、徳川秀忠と江の間に生まれた千姫は、豊臣秀頼と結婚するも、大阪夏の陣で家康の命により大阪城から救出されます。
その後、秀頼と側室の娘である「天秀尼」が処刑されそうになると、千姫は、天秀尼を自らの養女として助命し、20世住持として天秀尼は東慶寺に入ったのです。
これ以降、東慶寺は幕府直轄の寺となり、寺領は、鎌倉の寺院では円覚寺の144貫に次ぐ112貫を誇っていたのです。
このように尼寺である東慶寺はこれらの3人の住持を中心に発展していったのです。
この三人の住持は、境内の歴代住持の墓苑に葬られています。
「天秀尼」は、歴代住持の中でも一番大きな宝塔です。
江戸時代以前より男子禁制の尼寺には、一般邸に縁切寺的な機能があったと云われています。
しかし、正式に幕府から公認された縁切寺は、江戸時代中期以降の、ここ東慶寺と群馬県の満徳寺の二つだけでした。
スタンダールの“恋愛論”では、縁切寺のような女性のための楽園を夢見ています。これが書かれたのは1822ですから、この日本の縁切寺は世界で二つしかない、と云っても過言ではないかもしれません。
縁切寺が正式に確立したのは、徳川家康の孫娘・千姫にかかわるところが大きいのです。
豊臣秀頼の妻であった家康の孫・千姫は、大阪夏の陣での大阪城落城の際助けられ、一旦、秀頼との離婚をするために群馬県の満徳寺に入寺したことから、満徳寺の縁切寺法の特権が与えられたのです。
そして、前述したように千姫が助けた秀頼の娘天秀尼が、東慶寺への入寺にあたり、同じく特権が与えられたのです。
こうして日本で2つだけの縁切寺確立したのです。
東慶寺の山門は、世俗とアジールの結界として、その石段とあえて小さくされた山門が名残を留め、この山門を入れば、誰にも手の出せない世界となるのです
その東慶寺の縁切寺としての資料が、境内の『松ヶ岡宝蔵』に保管・展示されています。
重要文化財の『木造聖観音立像』が受付の先でお出迎え。
階段を上がると、天秀尼が父豊臣秀頼の菩提のために作らせた『雲版』があります。
まさに所縁の寺です。
展示室は縁切寺に関する資料が展示されています。
所謂『離縁状』
当時は、文字を掛けない人が多かったので、3本の線とその半分の線を書けば、離縁状と同じ効果を持つものとしました。
これが離婚することを『三行半(みくだりはん)』と云う言葉の語源となったのです。
慶應二年の『松岡日記』
駆け入りに女性達を記録したもので、この年の駆け入った女性は41人だったそうです。
境内は、花の寺としても知られています。
春の桜、夏の紫陽花、そして東慶寺で有名な“イワタバコ”や“イワガラミ”が岩肌一面に咲く様子は、多くの写真家の被写体となります。
そして秋にはコスモスやリンドウが咲、紅葉が始まるのです。
本堂に向かう参道
鐘楼や茶室も趣があります。
この時期に咲いている華麗な花々
境内の墓所には、先の歴代住持以外に、多くの文人達が眠っているのも珍しい。
鈴木大拙のほか、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、小林秀雄、高木惣吉、田村俊子、真杉静枝、高見順、三枝博音、三上次男、東畑精一、谷川徹三、野上弥生子などの墓があります。
竹林が涼やかな風を運びます。
苔むす墓所は、それだけでも趣がある。
哲学者・西田幾多郎墓所
岩波書店創業者・岩波茂雄墓所
東慶寺は禅寺なのですが、明治以降縁切寺としての機能が無くなり、更に、明治35年、順荘尼がなくなって東慶寺は尼寺としての歴史を閉じたのです。
そしてそのあと住持となったのが釈宗演老師で、後に東慶寺中興の称号が与えられた高層。
その理由は、明治26年シカゴでの万国宗教大会で、宗演は四人の日本仏教代表の団長として出席し、大いに禅を世界に広めるきっかけとなったからなのです。
この時期はある意味落ち着いた佇まいの境内です。
興味深いのが、山門の手前にある『夏目漱石参禅百年記念碑』
夏目漱石の小説「門」には、明治27年末に漱石が精神衰弱により、鎌倉の円覚寺に参禅した体験が描かれています。
その時、訪ねたのが当時円覚寺の住持だった釈宗演老師でした。
その後、大正元年に再び釈宗演老師を訪ねた時は、東慶寺の住持でしたので、漱石は友人と共に東慶寺を訪れたのです。
その東慶寺を訪れた時に、同道した友人が事もあろうか山門手前の田んぼで立小便をしてしまいます。漱石は、後で尿意を催さないように、用心の為として“連れション”をしたのですが、このことは、漱石の小品「初秋の一日」に描かれています。
そして漱石は、釈宗演老師と再会を果たし、老師は、この漱石の来訪を手紙でジャーナリストの阿部無仏に送ったのでした。
このことを記念して碑が建てられたのですが、碑には「初秋の一日」と手紙の一部が刻まれており、“連れション”をした場所に碑が建てられているのです。
また参道口には『東慶寺ギャラリーショップ』もあり、かつての尼寺らしい名残を醸し出しています。
四季折々に楽しめる東慶寺です。
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埼玉県上尾市在住で、埼玉県を中心に散策してみつけた歴史を楽しんでいます。
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