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鎌倉の『満福寺』は、源義経が“腰越状”を書いた寺院。
江ノ電の江の島駅の鎌倉寄りの一つ手前の駅・腰越駅にあり、最近はシラスでも有名な場所であり、その案内看板が華々しい。

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鎌倉方面から江ノ電に乗っていくと、腰越駅の手前で間近に満福寺を見ることができる。満福寺の山門前を江ノ電が通る光景はまさに江の島風情でしょう。

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江ノ電と云っても、このような風情では旧型の方が似合うのかもしれない。

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山門をくぐって左手の趣のある鐘楼を眺めると、正面に本堂が鎮座しています。

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僧・行基が744年に開山した古刹で、鎌倉で最古の寺院杉本寺が734年の創建ですから、その歴史も推して知るべしでしょう。
正式名は『龍護山医王院満福寺』、本尊は薬師三尊像。
医王院の山号通り、東国の疫病を鎮静するために勅命により創建されたもので、薬師如来を祀り病気平癒の仏として親しまれてきたのです。

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本堂の前にある2体の石像。
義経と弁慶の腰越状を書いている様子を表したものらしく、義経の緊迫した表情が当時の置かれている状況をよく表していそう。

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ここ腰越の地には、三浦半島を経由し海路で房総半島に向かう古代の海道が走っていた交通の要所で、鎌倉の西の玄関口の宿駅として栄えていたのです。
したがって西国で平家を打ち取った義経一行が、京都から鎌倉に来るためには、当然ここを通過することになるわけである。

それまでの経緯はこうです。
1184年に平氏を打倒した功績により、義経たちは後白河法皇から左衛門少尉に任ぜられ、検非違使となります。つまり、朝廷から官位をもらい、京都における治安維持をつかさどる役割となったのです。
単純に云えば、大変めでたいことなのだが、武士による政権を作りたいと考えている源頼朝にとっては、朝廷の権威などくそくらえで、逆に「朝廷に諂うとは、義経はいったい何を考えているのだ」と激怒したわけです。
更に火に油を注いだのが、義経の参謀として付いていた梶原景時で、「義経は戦功を自分一人のものと考えている」という密告がされたことから、1185年4月、頼朝は義経をはじめとした任官を受けたものたちを罵り、京都での勤めを命じて、東国への帰還を禁じたのです。

これに対して義経は、何と云っても平家を倒した最大の功労者であり、かつ弟である自分に対して帰還が許されないわけはないと高をくくり、壇ノ浦で捉えた平宗盛・平清宗父子を護送して5月7日に京を立ち、鎌倉に凱旋しようとしたのです。
こうして義経一行は、鎌倉の西の玄関口である腰越に到着した段階で、頼朝は宗盛父子だけ鎌倉に入れ、義経はここ満福寺に2週間留め置かれたのです。
事の重大性に気づいた義経は、慌てて頼朝対する詫び状を書くことになるのです。これが後世に伝えられた『腰越状』なのです。

境内には、義経・弁慶の所縁伝えられる様々なものが残されています。

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義経の硯石先には、実にキッチュなトンネルが異次元空間で、トンネルを抜けると、、、霊園なのです。

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庫裏には、お守りなどと共に資料館的な展示があります。

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その中でも一番の注目は、『腰越状の下書き』と呼ばれるものです。

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こんな書き出しです。

“源義経おそれながらもうしあげます。気持ちは鎌倉殿のお代官の一人に撰ばれ、天皇の命令のお使いとなって、父の恥をすすぎました。そこできっとごほうびをいただけると思っていたのに、はからずも、あらぬ告げ口によって大きな手柄もほめてはいただけなくなりました。私、義経は、手柄こそたてましたが、ほかに何も悪いことを少しもしてはいませんのに、お叱りをうけ、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。あらぬ告げ口に対し、私の言い分すらお聞き下さらないで、鎌倉にも入れず、従って日頃の私の気持ちもお伝えできず数日をこの腰越で無駄に過ごしております。あれ以来、ながく頼朝公のいつくしみ深いお顔ににお会いできず、兄弟としての意味もないのと、同じようです。なぜかような不幸せな巡り会いとなったのでしょう。”

基本的には、告げ口によって誤解を受けているということを中心の論点にしているようですが、頼朝に言わせれば「本質がわかっていない」とでもいうのでしょうか。

“(中略)・・・わが国は神の国と申します。神は非礼を嫌うはずです。もはや頼むところは、あなたの慈悲に頼る以外は無くなってしまいました。情けをもって義経の心のうちを、頼朝殿にお知らせいただきたいと思います。もしも疑いが晴れて許されるならば、ご恩は一生忘れません。
ただただ長い不安が取り除かれて、静かな気持ちを得ることだけが望みです。もはやこれ以上愚痴めいたことを書くのはよしましょう。どうか賢明なる判断を。 義経”

このように締めくくられているのですが、頼朝にとっては確かに愚痴としか思えなかったかもしれませんね。

そこで疑問になるのが「何故下書きなのか」、「本物は一体」、ということですね。
そもそも腰越状自体が残っているという事実はありませんが、平家物語・吾妻鏡・義経記等には、全文が記載されているので書かれた時期には存在していたということです。
本物は、鎌倉の大江広元宛てに渡されたので、大江が保管していた可能性もあるのですが、今となっては不明です。

ではいったいこの下書きとは、どいったものであろうか。
これは江戸時代末期の年に作られ木版で刷られたもので、弁慶が書いた書状に義経自らが筆をとって「敵のために命を亡はんことを顧みず」という一文が付け加えられたため、下書きとして残されたものと言われています。
江戸時代にこの木型が作成された時点で、下書きが存在していたのかもしれませんが、これも今となっては不明です。
まあ、いづれにしても江戸時代時には何らかの根拠があったということでしょう。

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それ以外にも興味深い展示品があります。

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また、中々凝った和室もあり一見の価値は十分ありそうです。

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もう一つの見どころが本堂。
義経所縁の寺院らしく、本堂の襖には義経の生涯を描いた『襖絵』が表裏2面にあります。まさに義経のギャラリーともいうべき襖絵はそれだけでも圧倒的な光景です。
更に、この襖絵は鎌倉の伝統工芸である“鎌倉彫”の技法を取り入れた漆画で描かれているのです。

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「腰越状」をはじめとして“弁慶の立ち往生”、“平泉への旅”、“残照の中の義経”、“静の舞”など、力強さと繊細さを併せ持った感動の襖絵です。

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これらは、1981~1985年にかけて漆画家宮本忠氏が手がけた作品で、江ノ電の腰越駅でも紹介されてるほどの傑作と云われているようです。

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更に位牌堂では、天井に描かれた龍や、48種の花々が同じように鎌倉彫で描かれています。
伝統工芸の鎌倉彫をも十分堪能できる満福寺なのです。

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満福寺周辺の腰越や江の島は“生シラス”で有名。
この満福寺の近くにもシラスを食べさせる有名な店がいくつかあるのだが、実はここ満福寺境内にもシラスの食べられる店があるというのだから驚き。
境内の更に小高い墓地の中にあるという、その名も『茶房 義経庵』である。ただしギケイアンと呼びます。
まさか三越、と思うようなライオンの前を通って上ると、確かに墓地の中に義経庵があった。
たしか満福寺の案内看板にもあった。

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それほど大きくはない店内ながら、小ざっぱりした清潔感は女性オーナーの心使いであろうか。

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「本日シラスあります」の看板に、当然オーダーは“生シラス丼”である。
獲れたてプリっぷりの生シラスは、さすがにご当地名物だけあって美味は当然ながら、贅沢な気分にさせてくれるから不思議。

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更にサプライズは、土日祝日だけですが、ピアノの生演奏付である。
ピアニストは、業界では知る人ぞ知る石井秀憲氏で、ゴージャスな生シラスが、さらにゴージャスになるのがうれしい。
この日はすいていることもあり、「リクエストもいいですよ」と言われ、思わず江の島らしくサザンオールスターズをお願いしたら曲も弾いていただきました。
これ以上、江の島区分に浸れるものはありませんね。

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そして帰りがけに墓地から見る光景もまた、素晴らしい。まさに江の島三昧といったところであろうか。
味覚・聴覚・視覚三拍子の義経庵は、満福寺で満腹という落ちまでついて帰路に付くのである。

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最後に、頼朝から許しを得ることができなかった義経は一体どうなったのでしょうか。
多くの方がご存知のように、義経は一旦京に戻り、そこから奥州藤原秀衡を頼って姿を消し、4年後、藤原氏4代目・泰衡の裏切りによって命を落としたのです。

義経の首は美酒に浸して黒漆塗りの櫃に収められ、新田冠者高平を使者として43日間かけて鎌倉に送られた。
1189年6月13日、首実検が和田義盛と梶原景時らによって腰越の浦で行われ、伝承ではその後、首は藤沢に葬られ祭神として白旗神社に祀られたとされ、胴体は栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと伝えられていいます。

義経にとって腰越の地は、絶望に明け暮れた地であったようです。

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2015.09.13記
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コメント

  1. こんにちは。

    江戸時代に書かれた紀行文には腰越状を見に満福寺に寄ったと書いているものがたくさんありますし、徳川光圀が編纂させた「新編鎌倉志」にも満福寺がその下書きを持っていると書いていますから、その頃にはあったのは確かでしょうね。もっとも、「新編鎌倉志」は弁慶の筆跡とする言い伝えには疑問を呈していて、当時から由緒についてはいろいろ言われていた様です。

    ( 09:25 )

  2. 薄荷脳70 | -

    kanageohis1964さん、ありがとうございます。

    kanageohis1964さん、お読みいただき、更にはコメントまでありがとうございます。
    情報ありがとうございます。
    鎌倉志にも記載があったとは、非常に興味深い事実ですね。確かに、弁慶が、、、とは思いにくいですが、まあ、歴史ロマンでしょうかね。
    丁度、鎌倉志を色々調べてみようかなと思っていたところでしたので、大変貴重な情報をいただき感謝、感謝です。

    ( 18:50 )

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