建具の里、霊山院

悠久の歴史を刻む「慈光寺」を後にして、車で10分ほど離れた「霊山院」に向います。
「霊山院」は都幾山山中にあり、慈光寺の塔頭として創建された寺院です。したがって車での移動でも山道を進むことになります。決して車でも通りにくいといった道ではなく、極普通に運転できる道ですので何の不安もありませんが、古の僧や信者達がもしここを往来したのだと考えると、恐ろしく大変であろうと、思わず身震いをしてしまいそうです。
現代は本当にコンビニエンスで、つくづく有り難いものだと感じてしまいます。そんなことを考えつつ「霊山院」に到着です。

霊山院

駐車場の前が「霊山院」参道となりますが、非常に綺麗に整備されていて、心も癒されます。

霊山院 一休さん碑 癒されるといえば、この参道入口に何故か置かれている一休さんの石像です。

一休さんとは直接の縁があるわけではないようですが、一休宗純が臨済宗だったことから親しみ易いと奉納されたものなのかもしれません。

霊山院 霊山禅寺と刻まれた寺号標の前の石畳を踏みながら山門に向いますが、山門は閉じられています。

この規模の伽藍にしては大きな山門のようで、しっかりした綺麗で立派な造りです。

霊山院 勅旨門 近づいてみると「勅旨門」と立て札があります。

立て札には、建久8年創建、宝暦6年改修。平成9年屋根銅板葺き替え改修と記載されています。1197年に創建されその後550年以上改修せずに使われていたとは大変な耐用性です。そして平成9年の改修でちょうど800年という歴史が流れているのです。それだけでも息を呑む思いです。
そしてこの門は文字通り律令制における天皇の命令書である公文書、いわゆる勅旨を携えたものだけが通行する門なので、一般の僧・信者などは通れない門なのです。門には拈華山と刻まれた山号額が掲げられ、屋根の上には菊の紋が付けられていて、如何にもといった風情です。
現在でも皇室関係以外開けることは無いのでしょうから、殆ど開かずの門といったところでしょうか。

霊山院 勅旨門と山門 霊山院 山門 ということで庶民の私たちは、勅旨門の隣の山門から入るのですが、こちらにも山号額は無いものの、菊の紋だけは付けられていて、その威容だけは誇っているかのようです。

霊山院 庭園 右手には綺麗に整えられた庭園が見事な景色を織り成しています。もう少し木々が色づく季節であれば、より一層美しい庭園を見ることができるでしょう。

山門の前には案内板が立てられています。

霊山院の文化財
当寺は、山号を拈華山と称し、建久8年(1197)に臨済宗の開祖、明庵栄西の高弟栄朝によって創建された。以来禅修行の道場として多くの名僧を輩出し、禅宗寺院として、関東で最も古い寺と伝える。明治5年(1872)に京都花園の妙心寺所轄となり現在に至っている。当寺には、「開山栄朝禅師の木像」「五色の払子」「インスの香炉」や徳川将軍家(五代将軍綱吉公)より拝領の「蒔絵の硯箱」など多くの寺宝を伝えているが、なかでも次の2件は県の文化財指定を受けた優品である。

県指定有形文化財 板石塔婆 1基 昭和40年3月16日指定
ふくらみのある美しい蓮座上に、阿●如来を示す種子ウーンを深い薬研彫りで表し、下部中央には、「為造立浮図并千部妙経生々父母法界」「永仁四季丙申二月日」の銘文、また両側には、随求真言を刻む。
浮図は塔婆を意味し、千部とあるのは法華経1000部のことで、永仁4年(1296)に父母のために法華経を1000部読誦し、塔婆を建立したことがわかる。
鎌倉時代の形の整った美しい板石塔婆として、本県を代表するものであり昭和16年には国の重要美術品の認定も受けている。高202センチ、幅47センチ、厚さ8.5センチ。

県指定有形文化財 鉄造阿弥陀如来坐像 一体 昭和48年3月8日指定
この像は、彫刻では数少ない鉄を用いて鋳造したものである、写真で見るように、両肩にかかる納衣をまとい、手は膝前で定印を結び結跏趺坐する阿弥陀如来である。
全体に鉄仏特有の荒々しさがあるが、素朴で古様を帯びた像形は、深い味わいを持つ。
造立年代を知る銘や資料は無いが、鎌倉時代の制作と推定される。
像高34.1センチ。
昭和58年3月
埼玉県教育委員会・都幾川村教育委員会・霊山院
(現地案内板説明文より)

創建は先の勅旨門でも知ったように、まさに鎌倉幕府開幕とほぼ時を同じくし、800年以上の歴史を持つ古刹なのです。
そもそも「霊山院」は慈光寺の塔頭として創建されたそうです。この塔頭とは、本来の意味では禅寺で、祖師や高僧の死後、その弟子が師の徳を慕って塔(祖師や高僧の墓塔)のほとり(頭)、または、その敷地内に建てた小院を言うのですが、転じて寺院の敷地内にある高僧が隠退後に住んだ子院のことも塔頭と呼んでいるようです。

この塔頭創建は後鳥羽天皇からの勅命だったそうで、このような勅命によって創建された塔頭なので勅旨門があったのでしょう。
そしてこの勅命を受けて開山したのが臨済宗開祖・栄西の高弟である栄朝だったのです。この栄朝が勅命を受けた際には後鳥羽天皇から「東関最初禅窟」(東日本最初の禅寺)の勅額を賜ったそうなので、実に名誉なことだったのでしょう。
この後、栄朝は群馬県世楽田の長楽寺を創建するため、霊山院を出たそうです。
栄朝の跡を継いだ第2世住職の良空は、禅の布教を図るため、正法寺、全長寺、皎円寺(現ときがわ町)を開き、更に歴代の住職が末寺を創建したことから、ときがわ町と小川町に15ヶ寺(現在は6ヶ寺)を数えるほど隆盛を極めたようです。
しかし、江戸時代になると霊山院は徳川幕府から慈光寺へ与えられた寺領100石の朱印の内13石を配分されたのだそうですが、寺院としての維持が苦しい時代だったようです。
そして明治5年(1872)に明治政府の布令により妙心寺派の所轄になったのです。妙心寺は京都の臨済宗妙心寺派の大本山で、現在、塔頭46ヶ寺、末寺は日本をはじめ世界各国にわたり3,400ヶ寺余り、在籍僧数は約7000人を数えているそうです。

歴史ある古刹ですが、やはりその歴史を維持していくのも大変なのですね。
余談ですが、この史実を調べているなかで、栄朝が移って創建した群馬県世良田の長楽寺は現在東国の禅文化発祥の寺として、何と山門にあの「東関最初禅窟」の額が掲出されているのを見つけました。
東関最初禅窟 額 《写真:(C)Ronin's Soliloquy

長楽寺(国指定史跡 新田荘遺跡)  
東国の禅文化発祥の寺、長楽寺は、承久3年(1221)徳川氏始祖の義季が開基となり、日本臨済宗の開祖・栄西の高弟である栄朝を開山として創建されました。栄朝は名僧の誉れ高く、その名声を慕って長楽寺に学んだ僧侶も多く、世良田は全国の僧侶の憧れの地となりました。広大な境内には塔頭寺院が甍を並べて、最盛期にはあまたの僧侶が修行をしていたと伝えられています。
その後徳川家康が関東に入ると、徳川氏祖先の寺として長楽寺を重視し、幕府に信任の厚い天海大僧正を住職に任じました。天海は天台宗に改宗し、その復興にあたらせ、末寺700余ヶ寺を擁する大寺院となりました。
(太田市オフィシャルサイトより)

明らかに長楽寺創建は霊山院に遅れること24年後ではありながらも、「東関最初禅窟」の掲額があるというのも実に不可思議です。しかも太田市ではオフィシャルで東国の禅文化発祥の寺と記載しているのですから驚きです。
まあ、栄朝の功績ですから栄朝が持っていってしまったのか、はたまた末寺15vs700という勢力関係からなのかは良く分かりませんが、太田市としてもこれが観光資源の一つとなっているのでしょうから、今更とやかく言うのも野暮というものでしょう。
史実の取り合いは良くあることですから・・・。

鉄造阿弥陀如来坐像 文化財では、鉄造阿弥陀如来坐像の写真が案内板に掲出されています。

鉄は青銅器とともに日本に伝わったようですが、鋳造に関してはBC1世紀から造られた青銅器に比べ、鉄の鋳造は5世紀ころだったそうです。
しかしながら生産量が少なかったこともあり、11世紀ころまで鉄は非常に高価だったようです。こういった意味で鉄仏というのは珍しいのでしょう。

また、案内板にある「五色の払子」「インスの香炉」ですが、この2つの寺宝は栄朝が師の栄西とともに禅の奥義を求めて宋国に渡った際、当時の名僧の一人であった虚庵懐敵から悟りの境地を認められ、愛用の印証、法衣と共に拝領したものだそうで、払子とは煩悩を払う法具のことうを言うのだそうで、獣毛で作られているものだそうです。

板石塔婆 さて庶民用の山門を抜けると、早速、参道左手に先ほど説明のあった「板石塔婆」があります。

板石塔婆は結構見慣れていますので、特に感想ということも無く、文字通り「ウーーーーン」と言っておきましょう。

霊山院 本堂 正面に鎮座しているのが本堂です。

本堂と庫裏は1707年(宝永4年)に建てられたもので、1971年(昭和46年)の改築されたそうです。古刹のイメージはありませんが、重量感ある立派な本堂です。

本堂の前に立て札があります。「入定尊 叔山禅師行録」とありますが要約してみると、明治5年(1872)、朱印地が政府に強制的に没収されたため、この霊山院も朱印地として没収されてしまうとなった時に、第38世住職、叔山和尚が仏法を守り人々の信仰を揺るがないものとするために、この没収に抗議するために、明治6年(1873)5月28日に入定したのだそうです。
現在は恐らく行われてはいないのでしょうが、入定とは、所謂地中に入り飲まず食わずで死を遂げることですが、あくまで修行で自殺とは区別されているようです。そうしないと事件になってしまいますからね。推量ですが、恐らく明治時代での入定は最後のほうでしょうね、きっと。
この時の様子が時系列的に記載されているので、そこだけ抜粋してみます。

・・・廃仏毀釈の嵐は吹くまくり、壇信徒は動揺し信念を一転する者続出するを深く憂いて開山栄朝禅師の宗風が確固不動のものであることを示さんがためについに入定を決意す。 明治6年(1873)3月後事を門壇に託して予め塔地を定めて霊龕を造らしめ、七日忌前に龕中に静座して大禅定に入り賜う。時に明治6年5月28日 寿45歳 塔を建て「叔山塔」という。・・・
(現地案内板説明文より)

やがて叔山和尚の遺徳により、後に国から一部払い下げられ寺の復興の基となったそうですが、決死の思いだったのでしょう。
この入定に対して現代に生きる私たちが「頭に下がる思い・・・」とか「大変偉かった・・・」などと軽々しく言える状況をはるかに超越している修行ですから、ただただ合掌あるのみ、です。

水琴窟 最後に本堂の前にある「水琴窟」で気持ちを静めました。

慈光寺の塔頭らしい歴史に翻弄された驚きの史実を知ることができた「霊山院」でした。

やすらぎの家

ときがわ眺望 ときがわ眺望 「霊山院」からの帰り道では、ときがわの町が望めます。少し眺望を楽しんでから下山です。

すでに12:00をまわっている事から、先ずは昼食をとることにしました。
およそ30分くらいでしょうか、都幾山からときがわ町まで下りてきて「やすらぎの家」なるところで昼食をとることにしました。 ちょうど最初に到着した建具会館のすぐ近くです。
この「やすらぎの家」は、100年以上前に建てられた民家を移築した町営の農山村体験交流施設だそうです。いわゆるうどん打ち体験などができ、建物の一部がギャラリーになっているといった町おこし的な施設です。

やすらぎの家 駐車場から少し小高いところに施設があり、階段の上には民家らしい門があります。

階段の横に案内板があります。

旧岩田家住宅
この古民家は、ときがわ町大字大野岩田昭氏より寄付していただき、この地に移築しました。
この建物は、記録によると明治31年に建てられ、築100年をこえた木造二階建て、総床面積約100坪の大きな建物です。
太くて立派な柱とそれらが支える梁など、現代の建築では目にすることができない材料を当時のままに組み上げ、この地に移築し「やすらぎの家」として活用致しました。
西平には、慈光寺、霊山院など多くの観光拠点があり、これらを訪れる観光客の方々の案内所、休憩の場として活用を図るほか、やすらぎと潤いの場を提供し、地元に伝わる伝統的食生活を体験できる施設として、寄付により収集した、うす、石うす等古民具を利用し自分で伝統食を作る楽しさと食に対する安心感を味わってもらえるよう、都市住民のニーズに応える観光拠点として活用致します。
旧岩田家 木造二階建 移築前の面積
1階:191.98平方メートル(57.96坪) 2階:125.97平方メートル(38.00坪) 計317.85平方メートル(95.96坪)
(現地案内板説明文より)

こういった古民家というのは、良い材料を使い、かなりしっかりした造りなので耐用年数が長いのですよね。一皮剥けば新品同様にもなりますし、実にこのような古民家は再生利用しがいのある建造物のようで、各地の町興しにはうってつけのようです。

やすらぎの家 確かに立派な建物です。

やすらぎの家 やすらぎの家 館内 1階は食事処となっていて、30、40人は入れるでしょうか。

結構お客が多かったのですが、待つことも無く席につけました。
やすらぎの家 テーブルの上の箸入れも建具の里らしいオシャレな箸入れです。

やすらぎの家 やすらぎの家 オーダーはお店お勧めの肉汁付けうどんと期間限定のきのこうどんを注文します。
流石に祭りの日ですから観光客も多く、多少待たされましたが、うどんのコシもあり、なかなか美味なうどんをいただくことができました。

やすらぎの家 2階から見ると黒光りする太い柱と梁と、照明のシェードや天井の木目が対をなすコントラストの美しい造りです。
それでいながら重厚感を失っていないところが古民家らしいところでしょう。

食事と休憩をかねて「やすらぎの家」でしばしのんびりしていよいよ流鏑馬に向います。

どんぐり山 出掛けに見えた裏山が「どんぐり山」と命名されていました。
その隣に「どんぐり山を守る会の家」という建物がありますが、昨今の伐採問題とか・・・、何か紛争でもあるのでしょうか。

ちょっと気になる「どんぐり山」でした。

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