萩日吉神社 流鏑馬祭

時刻はPM1:30過ぎで、PM3:00からの流鏑馬まではまだ時間がありますが、ぼちぼち萩日吉神社に出かけます。
この「やすらぎの家」から歩いても10分程度ですので、大変申し訳ない事ながら、車を停めさせていただいたまま徒歩で神社に向います。
気温もかなり下がってきましたが、まあまあの天気なので流鏑馬を見学するには何とか持ちこたえられる気候でしょう。

萩日吉神社

建具会館前を通り過ぎてその先の交差点を右折します。
この交差点を左折すると午前中訪れた慈光寺に向う道です。

ギャラリー 四万十 ちょうど交差点の角に「ぎゃらりー四万十」なる骨董店があります。
ちょっとそそられるお店ですが、今日は寄り道せずに神社に向います。

交差点を右折して少し進むと小さな橋があります。
都幾川 この橋の下を流れているのが、町の名前となった都幾川です。かなり上流に近いので深さも幅もそれ程なく、サラサラ流れる小川といったほうがふさわしいかも知れません。

参道入口 橋を渡ってまた暫く進むと、カーブしている道から細い路地のような道の入口に大きな幟が立っており、先にはテントや露店などが見えます。
ここが萩日吉神社の参道入口なのでしょう。

参道入口を入ったすぐ左手にテントや今回奉納される流鏑馬の馬がつながれています。
大河郷陣場 こちら側が「大河郷陣場」で、反対側が「明覚郷陣場」だそうです。陣場とは所謂待機所といたところです。

・・・郷は文字通り地名を表すようで、大河郷は小川町にあるエリアで、明覚郷というのがときがわ町にあるエリアのようです。JR八高線に駅名を見れば、明覚駅と小川町駅があることでも理解できます。
毛呂山の流鏑馬でも見たように、朝から出発して地区を回り陣場に到着して、朝まとう、夕まとうの行事を行うのは同じようです。したがって朝出発した両郷が、朝まとうを終了し、現在、夕まとうまで待機しているといったところでしょう。

大河郷陣場 サラブレットというよりは道産子タイプの馬力のありそうな馬です。

明覚郷陣場 明覚郷陣場 「明覚郷陣場」の馬の前にはかわいらしい格好をした男の子がいますが、この児を「矢取りっ子」といい、流鏑馬では先導役として活躍するそうです。
また、騎手も何か打ち合わせをしているようです。

始まる前の期待感が沸いてくる光景です。

参道の露店 幾つかの露店を通り過ぎると、2つ目の幟が見え、その先に神社の鳥居が見えてきます。

参道 流鏑馬特設馬場 そして更に進むと前方にはっきりと萩日吉神社の鳥居が見え、右手には紅白の垂れ幕が目に付き流鏑馬の特設会場をうっすらと見ることができます。

昨年訪れた毛呂山町の【出雲伊波比神社やぶさめ祭】では、境内に流鏑馬馬場がありましたが、こちらは3年に1回ということもあり、境内外で行われるようです。

萩日吉神社 二股に分かれた道の真中に鳥居があります。鳥居の先は鬱蒼とした樹木に被われているようです。

境内に入るとすぐ右手に大きな杉の木があります。
児持杉 注連縄が張られているので御神木でしょう。

児持杉 村指定天然記念物
男杉と女杉があり男杉の根回り6.4mで三本に幹が分かれている。女杉は根回り8.89mあり24本に分かれている。
二本とも樹高が約40mあり樹齢はおよそ800年位といわれる。なお、この杉は古来よりニ樹を祈念する時は幼児を授けられるとの伝説あり、遠近男女の信仰があつい。
昭和56年4月1日 都幾川村教育委員会
(現地案内板説明文より)

児持杉 まあ、確かにすごい杉の木です。
ちょうど男杉と女杉の間には小さな祠があり、まさに霊験新たかな雰囲気があります。

写真では撮りきれないほどの巨木ですが、何本も枝分かれした大木が神秘性をかもし出しています。まさに現在でいうところのパワースポットでしょう。

境内を先に進みます。
二の鳥居 更に薄暗い中を進むと二の鳥居が現れます。
こちらが木造で扁額の字が読めないほど劣化していますが、歴史ある鳥居なのでしょうかね。

途中に由来に関する案内板がありました。

萩日吉神社の由来
「平の山王様」「萩の山王様」と親しまれるこの萩日吉神社は、社伝によると欽明天皇6年(544)12月に蘇我稲目により創建されたと伝えられます。当初は、萩明神と称されましたが、平安時代初期に慈光寺一山鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山麓にある坂本の日吉大社を勧請合祀して、萩日吉山王宮に改称したといわれています。源頼朝は文治5年(1189)6月、奥州の藤原泰衛追討に際し、慈光寺に戦勝祈願しその宿願成就の後、慈光寺へ田畑1200町歩を寄進しましたが、同時に当社へも御台北条政子の名により田畑1町7畝を寄進しています。以降社殿の造営が行われて別格の社となり、元禄10年(1696)以降は牧野家の崇敬が厚く、「風土記稿」には「山王社 村の鎮守なり」と記されています。明治元年(1868)の神仏分離令により、現在の神社名「萩日吉神社」となりました。
当社の本殿は、村内神社の中では最大規模であり、堂々とした荘厳な建物です。そのほか境内には境内社の八坂神社や神楽殿などがありますが、これらの建物を包み込むように広がる社叢は、平成3年3月に県指定天然記念物に指定されています。神社入口には御神木の児持杉もあり、この杉に祈願すれば子供が授かるといわれ、近郷近在の人々より厚く信仰されています。また、当社の使いである猿にちなみ、戦前まで流鏑馬祭りの日に「納め猿」という木彫りの猿像を神社の参道で売っていましたが、この納め猿とともに渡す縫い針も病気の治癒に効能ありと言われていました。現在、1月の例大祭の日に本殿いおいて「納め猿」のみが有償で求められます。
平成17年3月 都幾川村教育委員会
(現地案内板説明文より)

先ず最初に蘇我稲目なる名前をはじめてきたのですが、蘇我馬子の父だったのですね。祖は武内宿禰ということらしいのですが、具体的な活動としての記載においては、蘇我氏ではこの稲目が最初のようです。渡来人とも言われているようですが、このころから天皇の外戚という権力を持っていたので、対抗勢力の物部氏との争いも一歩リードしていて、大化の改新までの時代を、蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の4代直系一族による独占体制で権力をほしいままにしていたのです。
その様な稲目が何故東国でとも思えるのですが、それはその伝承の面白さでしょう。
関東で蘇我氏由来というのも珍しいのでしょうね。

それにしても猿が使いとはこれも珍しいですが、ウサギや鯉が使いの神社もありましたから、特に驚くにはあたりません。
狛猿 しかしながらこの先の参道脇に狛犬ならぬ狛猿が祀られているというのは実に面白い光景ながら、若干の不気味さも感じます。

二の鳥居の先の階段を上がると社殿です。
社殿 左手に社殿があります。それ程大きくはない社殿ですが、歴史を感じることはできそうです。
本殿は完全に覆い屋に囲われているので見ることはできません。とにかく拝殿で参拝を済ませました。

社殿の後ろに案内板が掲出されています。

萩日吉神社の祭り
萩日吉神社ではこれまで、1月15日、16日に例大祭、4月26日に春季大祭、10月17日に秋季大祭の行事が行われてきました。
1月の例大祭には流鏑馬祭りと神楽が奉納されます。流鏑馬は馬を馳せながら弓で的を射る行事で、中世武士の間で盛んに行われましたが、県内でも現在毛呂山町出雲伊波比神社と当社の2ヶ所のみとなり、その貴重さが認められて平成17年3月に県指定無形民俗文化財に認定されました。当社の流鏑馬は、天福元年(1233)に木曾義仲の家臣七苗によって奉納されたことが始まりと伝えられています。その七苗とは、明覚郷の荻窪、馬場、市川氏、大河郷(現小川町)の横川、加藤、伊藤、小林氏です。現在は、三年に一度の1月第3日曜日、それぞれの郷から流鏑馬が奉納されています。
神楽は、昭和52年に県指定無形民俗文化財に指定されました。1月例大祭には小神楽が、4月29日の春季大祭には太々神楽が神楽殿で舞われ、その厳かな調が神社の森に木霊します。
境内社の八坂神社の祭礼は、7月15日に近い日曜日に行われます。神輿の渡御があり、氏子各組より担ぎ番、行事、世話方が選ばれ行事を執り行います。この祭礼のとき、西平・宿地区では屋台囃子が奏でられます。
また、西平・上サ地区氏子の行事として、10月17日に近い日曜日に、ささら獅子舞が奉納されます。屋台囃子もささら獅子舞も、それぞれ村指定無形民俗文化財に指定されています。
平成17年3月 都幾川村教育委員会
(現地案内板説明文より)

先ほど見た陣場の大河郷と明覚郷は、この七苗に関連しているのですか。
といって調べては見たもののついに七苗に関する事項は何一つ判りませんでした。今井兼平、樋口兼光、根井行親、楯親忠という義仲四天王というのはいたようですが。

神楽殿 小神楽 社殿の左手の方にある神楽殿では神楽が舞われています。
この神楽が小神楽なのでしょうが、なかなかこういった機会が無いと見られないのもまた事実です。相変わらず神楽の内容は良く分からないのですが・・・。

甘酒休憩所 最後に社殿の右奥で甘酒を振舞っていたのでいただくことにしました。
といっても私は酒粕が全くダメなので遠慮しておきましたが、家内が1杯いただきました。

体もあったまり(私は寒いままですが)、いよいよ流鏑馬に向います。

流鏑馬祭り

萩日吉神社から流鏑馬特設馬場に移ります。
何かの工場の前に杭と柵で囲われた馬場を作り、紅白幕で一部覆った特設の馬場で、ちょうど工場と神社の間にある配置となります。

特設馬場 観客は馬場の神社側となり、観客席から右側に見える建物が小学校で、左側に見える樹木は神社の社叢です。

紅白幕が馬場の半分しかないので、左側が入場口になるのでしょう。

さていよいよ流鏑馬開始の時間となったようです。

先ずは入場のようです。
入場 学校側の右手から神主を先頭に「明覚郷」「大河郷」が並列して入場です。

お清め お清め 入場 馬場の途中で立ち止まり、お払いをして馬場を清めているようです。

的位置決め 的位置決め 入場が終了すると、何故か的の位置を決めているようです。
何となくアバウト・・・的な決定に不安になります。

四方固め 一応的の位置も決まり、いよいよ流鏑馬と思いきや、左側の馬場出発点で矢を四方八方に放っています。
要するに人のいる方に向って矢を放っているのです。これって一体・・・。

これは「四方固め」という行事で、東、西、南、北、中央と矢を射ち、この矢を拾うと蚕に当たる(蚕が良く育つ)という故事にならったものだそうです。つまり嘗て養蚕が盛んだったころ、この矢を拾うと吉兆であるという願掛け的な行事だったようです。
結構な本数を射ていたようですが、こちらまでな届かないようでした。したがって馬場の的よりも馬場入口の方が人が多かったのはこういったことがあるからなのでしょう。

「四方固め」が終わるといよいよ流鏑馬です。

矢取りっ子 颯爽と飛び出して来たのは、馬ならぬ「矢取りっ子」です。一生懸命猛ダッシュしている姿は実にカワユイものです。

騎射 騎射 騎射 そして今度は本当に騎射です。

騎射は3回行われます。
今回の一の馬である大河郷は1回目で一の的、2回目で二の的、3回目で三の的を射るのですが、二の馬である明覚郷は1回目から3回目まで一の的から三の的まで全ての的を射るのです。
なかなか的を射るのは難しいようです。特に二の馬は、最初に不安視していた的の間隔が短いので、ほぼ三の的まで当てる当てには別として射る準備ができずに通り過ぎるという、やはり間隔が短すぎたのではないかと思われる騎射でした。

四方固め それでも3回の騎射の間は全て「四方固め」が行われて、騎射よりも時間的に費やされていたので、この「四方固め」がこの流鏑馬ではメインではないのかなと思われるほどです。

矢が飛ぶたびに歓声があがり、飛んだ先では矢の取り合いといった光景がみられ、観客も参加しているような一体感とともに皆楽しんでいるようでした。

矢取りっ子 そしてその間に「矢取りっ子」が走るといった演出(本当はこれも意味のある儀式なのでしょうが)も実に微笑ましいものでした。

勿論、儀式としての流鏑馬の荘厳さを残しながら、単なる奉納のみならず庶民に溶け込んだ行事でもあるようでした。

奉納 3年に1回は少ないように思えますが、それがまた神事としても威厳を保っているのかもしれません。

毛呂山の流鏑馬とはまた違った良さを持った流鏑馬儀式でした。

とにかく流鏑馬も含めて県内では一、二を争う歴史と伝統を感じさせられるところではないでしょうか。
悠久という言葉がまさに良く似合いそうなときがわ町でした。

2011.02.12記

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