FC2ブログ


1975(昭和50)年に建立された『狭山不動尊』の歴史は、寺院としては大変新しい部類です。
それでありながら境内の伽藍にはいくつかの文化財や歴史ある堂宇がひしめいている摩訶不思議な寺院で、さしずめ愛知県にある“明治村”のお寺版と云っても過言ではないほどです。
一体、どうしてこのような寺院が存在するのか、そのキーワードが《増上寺と西武ライオンズ》なのです。

狭山不動尊の歴史

『狭山不動尊』の正式名称は「狭山山不動寺」です。実にストレートな名称は、味気ないと共にある意味昭和世代の合理性かもしれません。
そして何よりも重要なポイントが開基が堤義明氏であること。ご存じの通り堤義明氏は、西武鉄道グループの元オーナーで、父は西武グループを一代で築き上げた堤康次郎氏、兄は元西武百貨店会長・小説家の堤清二氏です。

話は太平洋戦争前の時代に遡ります。
創建は不詳ながら現在の芝増上寺は、室町時代の1393年に、当時現在の麹町あたりにあった光明寺が浄土宗に改宗した時が実質的な開基と云われています。
そして入府の折に増上寺前を通りかかった家康が、当時の上人と対面したのがきっかけとなり、その後、増上寺は徳川家の菩提寺として繁栄し広大な境内を有することとなったのです。

当時の境内を見ると一目瞭然ですが、中央にあるのが現在の本堂で、左側に2代将軍・台徳院(秀忠)とその妻・崇源院(江))が埋葬されている「南御霊屋」、右側が家宣、家継、家重、家慶、家茂が葬られていた「北御霊屋」です。

0001_sayamahudo_01_img01.jpg

0002_sayamahudo_01_img02.jpg

明治時代になると徳川幕府の崩壊と明治維新後の神仏分離の影響により規模は縮小し、境内の内の広範囲が芝公園となったのです。
それでも太平洋戦争前には、台徳院(秀忠)霊廟、崇源院(江夫人)霊牌所、文昭院(家宣)霊廟、有章院(家継)霊廟が旧国宝(建造物)に指定されており、その壮大さは日光東照宮に引けを取らないものだったのです。

0003_sayamahudo_01_img03.jpg

0004_sayamahudo_01_img04.jpg

0005_sayamahudo_01_img05.jpg

0006_sayamahudo_01_img06.jpg

しかし、太平洋戦争で昭和20年の2度の空襲により、本堂をはじめとして北廟68棟、南廟28棟が被災し、その建造物のほとんどを焼失しました。
多大なる被災により増上寺の再建は極めて困難となり、その再建に尽力したのが当時堤康次郎氏率いる西武グループで南北御霊屋を西武グルーブに売却したのです。
この売却に先立ち霊廟に祀られていた遺体は、昭和33年(1958年)調査発掘され、その後桐ヶ谷斎場にて火葬された後、現在の増上寺安国殿裏手の徳川家墓所に埋葬されたのです。
そして、かつての南御霊屋には1964年の東京オリンピックに合わせて東京プリンスホテルが建てられ、北御霊屋は芝ゴルフ場、芝ボーリング場などのエンタテイメント施設が造られたのですが、後に芝ゴルフ場、芝ボーリング場は廃止となり、現在のザ・プリンスパークタワー東京となっています。

この時戦災をまぬがれて、かろうじて残った建物群がありました。
台徳院霊廟の門4棟と有章院霊廟二天門、文昭院霊廟奥院中門(鋳抜門)、そして崇源院霊牌所の一部だけが残っていたのです。
そこで堤氏は文化財保存の意味をこめて、これらの焼け残った建造物を移築したのです。
台徳院霊廟の惣門は、ザ・プリンスパークタワー東京内に、有章院霊廟 二天門は東京プリンスホテル内に残されたのですが、台徳院霊廟の残りの勅額門、丁字門、御成門3棟と増上寺にあった燈籠などが、1951年に西武が開いた遊園地《ユネスコ村》のあった所沢に移築されたのです。因みに崇源院霊牌所の一部の唐門は、鎌倉の建長寺に移築されました。
遊園地とは云ってもユネスコ村は、現在の東武ワールドスクエアのような世界各国の建物を集めた当時としては画期的なテーマパークで、その日本の代表的な建造物として先の3門が移され、同時に文化財保護のために保存されたのです。
そしてユネスコ村の一角に昭和50年狭山不動尊が建立され、当時のユネスコ村はその後、廃止され現在はユリ園になっています。

狭山不動尊の境内

ユネスコ村にあった建造物が、どのような経過で狭山不動尊の建立に結びついたのかは分かりませんが、当時の西武鉄道グループのオーナー堤義明氏が、親しかった上野寛永寺の助力により天台宗別格本山として建立されたのです。
そしてこの建立に当たって、先の3門以外にも境内の堂宇がほとんど移築されたものであったのが、現在に至っており、これが狭山不動尊が寺版“明治村”と呼ばれる所以なのです。

0007_sayamahudo_01_DSC_4270.jpg

そしてユネスコ村の前に1963年に竣工したアマチュア野球用の《西武園球場》を立て直し、1979年にできたのが現在の西武ドーム球場で、現在、西武ライオンズの必勝祈願の寺院として知られています。

勅額門

狭山不動尊の山門とも云えるのが『勅額門』で、西武ドーム球場の目と鼻の先にあります。

0008_sayamahudo_01_71735.jpg

0009_sayamahudo_01_DSC_4422.jpg

この『勅額門』が、先の増上寺からい移築された三門の内の一門です。
『勅額門』は、増上寺の台徳院(徳川秀忠)廟に建立されていたもので、寛永9(1632)年、孝養報恩の志をのべたいと三代将軍徳川家光が建てたものです。
構造は、江戸時代初期の四脚門で切妻造り銅板葺きで、「台徳院」と書かれた額が、後水尾天皇の筆によるものなので勅願門という名前であり、現在は《旧台徳院霊廟勅額門》として重要文化財に指定されています。

0010_sayamahudo_01_DSC_4384.jpg

大分、老朽化して色柄も多少褪せていますが、往時の絢爛さを偲ぶには十分でしょう。

0011_sayamahudo_01_DSC_4403.jpg

0012_sayamahudo_01_DSC_4415.jpg

0013_sayamahudo_01_DSC_4398.jpg

0014_sayamahudo_01_DSC_4417.jpg

勅額門の隣にあるのが『ご神木』。

0015_sayamahudo_01_DSC_4382.jpg

イチョウの木ですが、江戸城を築いた太田道灌が構えていた城山城跡にあったもので、江戸時代から崇敬され、関東大震災時に、この大樹の下で多くの人々が難を逃れた名木です。
区画整理の際、樹齢500年の大木を伐採せず、社会科の教材としてここに移植して保存されているのです。

御成門

勅額門を抜けて石段を上がると『御成門』があります。
これも三門の内の一つで、こちらも《旧台徳院霊廟御成門》として重要文化財です。

0016_sayamahudo_01_DSC_4343.jpg

勅額門と同じ寛永9(1632)年に家光により台徳院(徳川秀忠)廟に建てられたもので、こちらは飛天の彫刻や絵画が描かれているのが特徴で、格天井の中央に丸い鏡天井が設けられており朝鮮渡来の天人門と云われているそうです。

0017_sayamahudo_01_DSC_4344.jpg

0018_sayamahudo_01_DSC_4359.jpg

0019_sayamahudo_01_DSC_4349.jpg

不動寺本堂

御成門前から左手に進むと不動寺本堂となりますが、その前には不動寺の『総門』が鎮座しています。

0020_sayamahudo_01_DSC_3216.jpg

0021_sayamahudo_01_DSC_4447.jpg

直線を組み合わせた総けやきで作られた総門は、長州藩主毛利家の江戸屋敷に建てられていた門を移築したものです。
武家屋敷の門にふさわしい質実剛健、威風堂々たる姿です。

その奥が『不動寺本堂』です。

0022_sayamahudo_01_DSC_3190.jpg

0023_sayamahudo_01_DSC_3211.jpg

0024_sayamahudo_01_DSC_3208.jpg

この本堂、よく見ると結構新しくきれいです。
元々、本堂は京都東本願寺から移築された七間堂でしたが、不審火で焼失し2001年に再建されたものなので新しいのです。

目を引くのがそのご利益の多さで、本尊の不動明王のご利益がこれほどまでとは。。。

0025_sayamahudo_01_DSC_3188.jpg

0026_sayamahudo_01_DSC_3187.jpg

新しい本堂ながら、その本堂をぐるりと囲う石灯籠は年代ものです。

0027_sayamahudo_01_DSC_3205.jpg

0028_sayamahudo_01_DSC_4324.jpg

それもそのはずで、周囲の石灯籠はすべて三門と一緒に増上寺から移設したものだからなのです。

0029_sayamahudo_01_DSC_3196.jpg

「清揚院」とは、甲斐甲府藩主徳川綱重のことで、三代将軍家光の三男ですから五代将軍綱吉の兄で、六代将軍家宣の父です。
宝永7(1710)年9月14日と刻まれており、綱重が亡くなったのが1678年9月14日ですから33回忌の折に奉納されたのもののようです。
このように本堂の周りには清揚院の石灯籠9基の他、桂昌院(3代将軍家光の側室・5代将軍綱吉の生母)が10基、文昭院(6代将軍家宣)が7基、そして惇信院(9代将軍家重)が1基、計27基の石灯籠が配置されているのです。

増上寺には、大名寄進の石灯籠が最多時1000基を超えたと云われ、天災・空襲などで相当数が破損・消滅したものの大半が現在の西武ドーム球場付近に運ばれたのです。
その後、1977年までに計641基を寄進の形で移設し、ここから先の寄進先は、北は北海道、南は静岡まで多岐にわたっていますが、プライバシーの問題と再移転もあり西武側からの寄進先の公表はされないままです。
港区教育委員会の独自調査によれば460基が確認され、愛好家の調査では500基以上の所在が確認されたと云われています。

ある意味では、増上寺の土地取得においてのキナ臭い話もありますが、600基以上の石灯籠を壊すことなく、兎にも角にも500基以上の文化財とも云える石灯籠が残っているのですが、西武様々と云えなくもないでしょう。

第一多宝塔

本堂の右手にあるのが『第一多宝塔』。

0030_sayamahudo_01_DSC_3193.jpg

0031_sayamahudo_01_DSC_3203.jpg

弘治元(1555)年大阪府高槻市梶原にある畠山神社に建てられていたもので、美濃国の林丹波守が建立したと伝承されています。
慶長2(1607)年の墨書がある桃山時代の建物で、埼玉県の有形文化財に指定されています。

この多宝塔の前にある2基の石灯籠は、「台徳院」つまり二代将軍秀忠の霊廟に寄進されたものです。

0032_sayamahudo_01_DSC_3192.jpg

0033_sayamahudo_01_DSC_3201.jpg

多宝塔の後ろにあるのが『桂昌院宝塔』で、増上寺から移設されたものです。ただし、現在の墓所は増上寺で、ここにあるのは塔のみという事になります。

0034_sayamahudo_01_DSC_3198.jpg

丁子門

本堂の裏手にあるのが、三門の内の最後の一門である『丁子門』。

0036_sayamahudo_01_DSC_4301.jpg

二代将軍秀忠の正室で、三代将軍家光の生母である崇源院(江)の廟所である崇源院霊牌所の通用門です。
他の三門とおなじ寛永9年に家光が建立したもので、極彩色の彩色と彫刻が見事で重要文化財です。

0037_sayamahudo_01_DSC_4305.jpg

0038_sayamahudo_01_DSC_4314.jpg

0039_sayamahudo_01_DSC_4317.jpg

0040_sayamahudo_01_DSC_4320.jpg

その先には書院『清明閣』があります。

0041_sayamahudo_01_DSC_4292.jpg

0042_sayamahudo_01_DSC_4291.jpg

これはは開山後の昭和52(1977)年に建てられたもので、狭山不動尊で数少ない新築の建造物です。
とはいっても30年が経過していますので、それなりの風格はあるようです。

狭山不動尊の知られざる歴史は後半につづきます。

0043_sayamahudo_01_DSC_4332.jpg

2016.02.06記(後編につづく)

関連記事
スポンサーサイト





コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks