増上寺から移築された三門の文化財を見学し、本堂を参拝すると概ね境内の半分です。
後編は、境内の東半分を散策します。

弁天堂

本堂の横の石段を上がると『弁天堂』が見えてきます。

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それなりの由緒の有りそうな弁天堂です。

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この弁天堂は滋賀県彦根市古沢町の清凉寺にあった経蔵で、井伊直孝の息女が直孝の追善供養の為に建立したものです。
1659~1693年の間に建てられたと推定され、1948年に移築され弁天堂になったものです。
祀られた弁財天は上野不忍池弁天堂の本尊から勧請されたもので、このあたりにも西武グループの力を感じます。

弁天堂の脇には1つの燈籠といくつかの石仏があります。

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その中の燈籠には「増上寺 桂昌院殿」と記載されています。

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桂昌院は、3代将軍・徳川家光の側室で5代将軍・綱吉の生母で、この石灯籠も増上寺から移築されたものなのです。

鐘楼堂

弁天堂の手前にあるのが『鐘楼堂』。

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元々は奈良県の興福寺から京都府の高田寺鐘楼として移築され、それを再移築したのもです。

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元々興福寺にあったということから、それなりの由緒があったのもかもしれませんが、この鐘楼堂がどのような経緯でここに移されたのかは不詳ですが、明治期の廃仏毀釈の影響で興福寺も一時は廃寺寸前にまで追い込まれた歴史があったので、そのあたりに理由があるのかもしれませんね。
全くの推測ですが。

どちらかと云えばあまり装飾もない素朴で質素な鐘楼堂ですが、「山寺の春の夕ぐれ来て見れば 入相の鐘に花ぞ散りぬる」と寂然法師の歌が掲げられているのが目を引きます。

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狭山不動尊では、鐘はこの世の中で一番大切な宝物・文化財として昔竜宮城から人間の世界へ持って来たと考えており、鐘の音が、すべての善神を招いて、すべての悪魔を追放するものと考え、志によりいつでも鐘をついて良いとしています。
そう言った鐘を象徴した唄が掲げられているようですが、梵鐘が竜宮城からやって来たものだとは、初めて知りました。

大黒堂

鐘楼堂の左手の一段高いところにあるのが『大黒堂』。

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この堂宇は、柿本人麿所縁の地である奈良極楽寺境内に建立されていた人麿の歌塚堂で、当時の歌人たちが歌会を開いた堂宇と伝えられています。
昭和38年にこの地に移転され、大黒天を祀った大黒堂となったのです。
祀られた大黒天も上野寛永寺参内の見明院に奉安されたものを遷座したのもだそうです。

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先の弁天堂同様に別の意味での西武グループのパワースポットと云えるかもしれません。

羅漢堂

大黒堂の右手にある石段を上ると由緒ありげな『羅漢堂山門』があります。

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見た目は意外と質素ですが、やはり葵の紋が目を引き付けます。

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この羅漢堂山門は、昭和29年に虎ノ門の元田中平八邸から移築した門です。
田中平八とは、明治期の実業家で生糸・為替・洋銀・米相場で巨利を得て“天下の糸平”と呼ばれた豪商です。
没後、墨田区の木母寺に伊藤博文の揮毫による「天下之糸平」の石碑が建立されたほど、名声があったのは確かですが、それにしても門の葵紋は解せませんね。
“天下の糸平”と呼ばれた頃は江戸時代末期の慶應年間ですが、すでに徳川家の力はない頃です。しかも糸平の若い頃は“天狗党の乱”に加わったほどの尊王攘夷派ですから、徳川家の威光をありがたがるとも思えませんし。。。 

羅漢堂山門があれば羅漢堂があるのですが、残念ながら囲いがあって中には入れません。

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しかし囲いの隙間から除くと、境内随一ではないかと思われる景観を目の当たりにします。

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このずらりと並んだ灯籠は『唐金灯籠』で、やはり芝増上寺の台徳院(秀忠)霊廟に建てられたもので、全国の大名から献納されたものです。
重厚感、バランス見事な光景に時の立つのも忘れそうです。

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そして中央にあるのが『羅漢堂』です。

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明治の元勲井上馨が還暦祝賀の際に、明治天皇・皇后からの下賜金を基として明治28年内務大臣の時、井上馨邸内に建立されたものです。
発起人が山縣有朋・伊藤博文・大隈重信等で、三井・鴻池・住友・岩崎その他の財界の名士により寿象と共に奈良二月堂の経堂を模倣し、名工根本茂樹によって造られたものだそうです。
その後、昭和20年の戦災でこの堂宇だけが残ったため、当時の当主井上三郎氏が寄贈し、ここに移築されたのです。

銅板葺きの構造が唐金灯籠とよく合っています。

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いずれにしても門、燈籠、本堂と各地から由緒あるパーツを集めた見ごたえのある羅漢堂なのです。

第二多宝塔

大黒堂や羅漢堂のあるエリアの左側の一角にあるのが『第二多宝塔』。

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室町時代中期の1535年、兵庫県東條町天神の椅鹿寺に播磨国守護赤松満男教康が建立したものだそうです。

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赤松教康とは、室町時代中期の武将で、父赤松満祐と共に室町幕府6代将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱の中心的な人物で、後の応仁の乱にも深く関わるなど戦国時代の到来の一因を作った人物なのです。

史実から見ても戦国時代到来を偲ばせるような多宝塔と云えば聞こえが良すぎるでしょうか。

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康信寺

第二多宝塔の左手にあるのが『康信寺』。

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元々この堂宇はユネスコ村の時代に孔子廟として建立されたものだそうです。

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論語の中にある孔子の徳を仰ぎ見るという意味の“仰高”の扁額が当時をしのばせます。
しかし、ユネスコ村無き後の仏教寺に孔子廟はおかしいとのことで、“清浄院釈康信”という堤康次郎の戒名から康信寺と命名されたのです。
当時は、孔子・孟子・子思子の3聖像があったそうですが、現在は寺内に安置されているものと思われます。

桜井門

第二多宝塔と康信寺の前の参道を進むと両側にずらっと石灯籠が並んでいます。

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今まで見てきた石灯籠と同様、芝増上寺から移転された石灯籠群です。
主には清揚院宛が多いようで、両側に対のものとして残されているのもあるようです。
ここだけでも十分重厚感が漂います。

石灯籠の先にある門が『桜井門』。

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この門は奈良県十津川の桜井寺の山門として建立されたものだそうですが、桜井寺は幕末天誅組本陣として利用されたこともある歴史ある寺院です。
天誅組とは、江戸時代の末期の尊王攘夷志士の一派で五條の変を起こしたのですが、1か月余りで壊滅した組織でした。

以上、見てきたように『狭山不動尊』は、寺院自体の由緒はわずかながら、堂宇を参拝するだけで歴史や文化財としての価値を見出すことのできる仏閣の見本市のようなものです。
西武ライオンズの必勝祈願寺として名高いことから、初詣にも多くの参拝客があるそうですが、一度、「お寺の明治村」を訪ねてみてはいかがでしょうかね。

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2016.02.14記

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