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近世、中山道を旅する #1

若田光一氏 若田光一は、1963年夏建設省(現・国土交通省)に務める暢茂さん(1998年死去)と電電公社(現NTT)勤務のタカヨさん(77)夫婦の長男として大宮市(現さいたま市)に生まれました。

漠然と宇宙への憧れを感じたのが、多くの少年、少女達もそうだった様にアポロ11号の月面着陸だったそうです。
日本時間の1969年7月、小さな一戸建ての若田家でも家族揃ってテレビを見ていて、母親は驚嘆の色を隠せない5歳の息子をはっきりと憶えているそうです。

当時から両親の実家のある九州へ飛行機で行くのが大層好きだったようで、飛行中は勿論のこと宮崎空港に到着しても機内から出ようともせずに、じっと窓の外を眺めていた子供だったようです。
そして、当時の大宮市立宮原小学校1年時の文集には、将来の夢はズバリ「パイロット」と記していたそうです。当時1、2年時の担任によると、休み時間の度にリーダーとなって校庭に飛び出して行くような活発な少年で、野球の組み分けやポジション決めなど、何でも中心となっていたそうです。更に下校すると2才下の弟瑞穂さんや友達と近所の林でカブト虫を採ったり、川や沼でザリガニ釣をして家で毎日のようにザリガニを観察していたことから、父親はザリガニ博士と呼んでいたそうです。
小学校4年の時にはリトルリーグに入っていたそうなので、よほど野球が好きな少年だったのでしょう。一方では野球、一方では生物といったように、文字通り学問もスポーツもできるといった小学生像が浮かんできます。

さいたま市立宮原小学校

当時(現在も?)の住まいが何処だったのかははっきりわかりませんが、母校はしっかり存在しています。

さいたま市立宮原小学校 ここが若田氏の入学したその宮原小で、正式名はさいたま市立宮原小学校です。

明治6年に加茂学校として開校して以来、139年目を迎える歴史と伝統ある学校で、生徒数は総勢1200人、35学級というマンモス学校のようです。
校舎は綺麗なので建て直された校舎なのでしょう。長い3階建ての校舎がそのマンモス振りを表しているかのようです。

さいたま市立宮原小学校 時に若田氏に関連したようなものはありませんが、こちらの校庭でいつも野球をしていたのでしょう、きっと…。

中山道とさいたま市立宮原小学校のセンダン 正門の前の道路は、江戸時代からの五街道の一つである旧中山道で、古の多くの旅人が往来をしていた歴史ある街道です。

さいたま市立宮原小学校のセンダン その旧街道沿いの校庭内に「せんだんの木」があります。

大宮市指定文化財天然記念物 宮原小学校のセンダン
所在:大宮市宮原町4-102-6 宮原小学校 指定:昭和43年8月3日
海辺の山地に生える暖地性の落葉高木で、成長が早く、樹高30メートルにも達する。樹皮は、灰黒色及び暗褐色で縦に裂ける。葉は互生で、2、3回羽状複葉であり、一見小枝と見間違う。花は5月から6月にかけて、淡紫色の美しい香気のある五弁花をつけ、10月には果実が成熟し、黄褐色となり数個ずつ下垂する。この実は根皮とともに薬用にされる。分布地として国内では、本州西部、四国、九州、沖縄で、他に中国、東南アジア、インドなどである。
古くは「アフチ」という名称で呼ばれ、万葉集にもその名が見える。また、「センダンは双葉より芳し」の諺は、本種ではなくビャクダン科のビャクダンのことを指している。
宮原小学校のセンダンは、同校の開校当時、教鞭をとっていた一教師が帰省した折、郷里の高知より苗木を持参し植えたものといわれている。
枝張りは、切られたりして不均衡な樹冠を呈しており、樹勢も芳しくないが、今なお、校歌にも詠まれ同校のシンボルとして親しまれている。
樹齢100年、樹高15メートル、根回り3.60メートル、目通り(幹回り)3.02メートル
昭和55年3月 大宮市教育委員会
(現地案内板説明文より)

現在では樹齢130年というところでしょう。本来は暖地性なのでこの埼玉県あたりでは珍しいことから記念物に指定されているのかもしれません。若田さんもまた、この木を見ながら同じように育っていったのでしょう。

さいたま市立宮原小学校 センダンの木の隣にはミカンとバラ(だと思うのですが・・・)の木があります。妙な取り合わせですが、これはこれで何となく癒されそうな光景です。

もう一つ宮原小と関連のある名所があります。

宮原小の前には先ほどの旧中山道と交差するように国道16号線が走っており、その16号線をくぐるトンネルが通学路になっています。
さいたま市立宮原小学校通学路のガリバートンネル このトンネルをガリバートンネルと呼んでいるそうなのです。

ガリバートンネル
この地下道の壁面は、大宮市立(現さいたま市立)宮原小学校の6年生22人全員が、明るく楽しい通学路とするための卒業記念事業として、建設省の援助と大宮市教育委員会、宮原小学校の指導のもとに「ガリバーの冒険」と題して、およそ2ヶ月をかけて製作し、平成元年9月に完成したものです。
落書きなどで暗いイメージの地下道も、子ども達の力によって美しくなりました。この壁画をいつまでも大切にしましょう。
(現地案内板説明文より)

さいたま市立宮原小学校通学路のガリバートンネル トンネルの入口には城のイメージ画が描かれ、トンネル内はガリバーの冒険のストーリーが描かれているようです。

これはこれで見事なものですが、これが描かれたのが平成元年の1989年ですから若田氏初飛行の1996年の7年前でした。初飛行後であれば宇宙への憧れとでも題された壁画になっていたかもしれませんね、母校なのですから。

ここからは江戸庶民の旅した中山道を散策します。

加茂宮周辺

宮原小学校を後にして、大宮駅方面に向けて旧中山道を南下します。
宮原村道路元標 小学校の直ぐ隣にあるJA宮原支店の敷地内に「宮原村道路元標」が立っています。

当時の北足立郡宮原村は明治22年加茂宮村、吉野原村、奈良瀬戸村、大谷別所村が合併した際に、加茂宮の「宮」と吉野原の「原」を合わせて付けられた村名で、文字通り宮原村の起点となるところです。
その後、宮原村は昭和15年に大宮町や日進村と合併し大宮市となったので、道路元標としての機能はなくなりましたが、歴史的に貴重といえるものでしょう。
明治の頃の割には比較的綺麗な道路元標でした。

リュプケ大統領記念植樹 その横に聳えている木は昭和38年に当時のドイツ連邦共和国のリュプケ大統領が宮原農業協同組合を視察された際に記念して植樹されたものだそうです。

リュプケ大統領とは、1933年にナチにより公職追放を受け、1944年まで牢獄生活を送り、1959から69年まで第2代の連邦共和国大統領となったそうです。
当時の来日は表敬訪問(ドイツ大統領には政治的権限はそれほど持っていない)的な意味合いのようで、日本の総理は池田総理大臣だった頃です。
さいたま市北区の盆栽町にある九霞園という盆栽園を訪れていて、そのときの貴重な写真がサイトに掲載されています。

参考:【九霞園】 名士録http://www.iris.dti.ne.jp/~kyukaen/celebrities/celebrities-top.htm

どちらが後先かは分りませんが、農業や草花(盆栽)などがお好きだったのでしょうか、それが当時の大宮市を訪れた理由だったかもしれません。
因みにこの九霞園には吉田茂、鳩山一郎、岸伸介・佐藤栄作の兄弟、池田勇人などの歴代各首相や、高松宮喜久子妃殿下等の皇室のほか、岩崎小彌太や志賀直哉などなど錚々たる人たちが訪れているようです。
盆栽村へは【大宮氷川神社】で2009年の1月に訪れましたが、確か九霞園は予約をしないといけないので訪れなかった覚えがありますが、一度は見たいものですね。

馬頭観音 道路元標と記念樹とは中山道を隔てて反対側に2基の馬頭観音があります。

やはり街道沿いですから旅の安全を祈願するといったこともあって建立されたのかもしれません。

金山権現社 馬頭観音の前の路地を中山道とは反対に西にホンの少し進み、最初の路地を右折すると左手に小さな社が見えます。「金山権現社」です。

ある意味味気ない祠のこじんまりとした神社ですが、何気に文化11(1814)年の石燈籠が置かれています。
金山権現社とは鉱山や鉱業、鍛冶などの金属に関わる神である金山彦神を祀る神社です。鋳物の街として知られる埼玉県川口市には金山神社がありましたが、当時、中山道西側一帯のこの辺りは鍛冶村と呼ばれ、鎧造りの職人が多く住んでいたそうです。その関係から鎧職人が祀ったのがこの「金山権現社」だったようです。

金山権現社石燈籠 そして鳥居の後ろにある石燈籠を見ると3面にそれぞれ「石尊大権現」「金毘羅大権現」「秋葉大権現」と刻まれています。

「石尊大権現」とは神奈川県伊勢原市にある大山の頂にある阿夫利神社本社に祭られている霊石のことで、雨乞いの神として信仰を集めた大山祇大神のことです。
江戸時代においては、五穀豊穣や雨乞いの神としての信仰を受け、関東地方各地で「大山講」が組織され多くの参詣者を集めるようになったそうです。
「金毘羅大権現」は琴平山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神で、江戸時代には「金毘羅講」が組織され参詣されたのでした。そして「秋葉大権現」もまた秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神で、同じように「秋葉講」が組織され参詣されたのです。
これらの「講」が集まってこの石燈籠を奉納したのでしょう、当時のこの周辺の信仰の篤さがうかがえる「金山権現社」でした。

「金山権現社」からは中山道に戻り南下を続けます。

加茂神社

中山道を進み国道16号線の下をくぐって進むと左側に「加茂神社」があります。

加茂神社 中山道沿いに社号標があり、社叢に囲まれた静かな佇まいの神社です。

鎮守 加茂神社
鎮座地 大宮市宮原町4-48-1
御祭神 別雷命 倉稲魂命 伊弉諾神 伊弉冉神 菅原道真公
境内に別に伊弉諾神・伊弉冉神を祀る三峰神社があり、素戔男尊(俗に天王さま)を祀る神楽殿があり御神輿が納められています。

御由緒
当神社の御創立は文化7年徳川幕府によって作られた新篇武蔵風土記稿にも「加茂社、加茂宮村の鎮守にして社辺に古杉数株あり、土地のさま旧社と見ゆれど勧請の年代詳かならず」と記されているが社前に宝暦3年4月、弘化2年12月と刻まれたもの又、文政10年8月御宮と刻まれた石灯篭もあるので相当古い御鎮座であることがわかります。その昔京都の上賀茂神社を勧請したものと伝えますから別雷の神を祀って五穀の豊穣と萬物を生みなし育てる神として祈り崇められて来ました。幕府の参勤交代の時代、加賀の堀丹波の守が仲仙道を往来の砌りその妻女が遽かに産気を催したので当社に立寄り御加護を祈願したところ、産気治まり無事国許に帰着の後、玉の如き男子の出生を見たと云う。安産御札の為奉納したという幣帛は現存しています。昔から生産、安産守護の神として信仰が厚く、上加茂宮村、加茂宮村、鍛治村を始め近郷からの参詣も多い。明治41年附近数社を合祀して翌42年神饌、幣帛供進の神社として改めて村社に指定されました。
祭神の合祀により衣食住の神、延命長寿の神、学問の神、災難守護の神等が加え祀られ御利益も増えました。大正8年不幸拝殿を焼失しましたが本殿は御神威により御安泰であったので当時の氏子等は力を協せ直ちに拝殿を再建し同時に社務所をも新築しました。以来60年、神楽殿も古びて危険となり、そのうえ社務所も時代の進展につれ手狭で不便となったため此の度氏子総代理人等相謀り氏子一同の賛意を得てここに昭和の大造営が遂行された次第であります。
昭和55年4月
(現地案内板説明文より)

加茂神社 参道を進んで左90度に参道が曲がりますが、そこに狛犬と「村社加茂神社」と刻まれた社号標が建てられており、更にその後ろに石造りの一の鳥居と朱の木造の二の鳥居が並んでいます。

そして一の鳥居の手前、一と二の鳥居の間、更に二の鳥居の後ろにそれぞれ一対の灯籠が並んでいます。

加茂神社石燈籠 加茂神社石燈籠 一の鳥居の手前の灯籠には「文政10(1827)年…」と刻まれています。

加茂神社石燈籠 一と二の鳥居の間の灯籠は年号を判読できませんでした。

加茂神社石燈籠 加茂神社石燈籠 そして二の鳥居の後ろの灯籠には「宝暦3(1753)年…」と刻まれているので、中間の灯籠に「弘化2(1845)年…」と刻まれていたのでしょう。

加茂神社手水舎 このように江戸時代の古い灯篭が残されているようですが、右手にある手水鉢の方が享保11(1726)年なのでもっと古いものだそうです。

加茂神社神楽殿 参道の左手にその改修された神楽殿があります。

加茂神社拝殿 そして正面に拝殿が鎮座していいます。

改修されたものなので小綺麗にはなっていますが、それほど凝った造作でなく比較的簡素な拝殿です。

加茂神社 本殿 それに比べると本殿は歴史の重みを感じると共に見事な彫刻が施されています。

この彫刻は「くらべうま」というもので、競べ馬(または比べ馬)とは2頭または数頭で一定の距離を競争して勝敗を競う乗馬競技のことで、奈良・平安時代には宮中儀式の一つでもあったくらいのもので、特に京都・上賀茂神社の競べ馬は有名なのだそうです。
加茂神社 本殿彫刻 右 加茂神社 本殿彫刻 中 加茂神社 本殿彫刻 左

そういった関連もあって、本殿の彫刻に競べ馬が彫られているのでしょう。

境内社 三峯神社 最後に境内社の「三峯神社」を参ってから再び中山道に戻ります。

この加茂神社と中山道の風景はは、江戸時代に渓斎英泉によって描かれて、それがこの「木曽街道六十九次」の絵の一枚です。

木曽街道六十九次 上尾宿 加茂神社と中山道 現在の写真と並べてみました。

タイトルは「木曾街道 上尾宿 加茂之社」で、上尾宿とはなっていますが、上尾宿とその手前の大宮宿との中間に位置する加茂神社と加茂宮村が描かれているのです。中央に立場茶屋と呼ばれた茶屋があり、その隣に加茂神社が描かれているという構図なのですが、当時の立場茶屋はもう少し加茂神社とは離れていて、同一のフレームに収まる距離ではなかったとのことです。
更に街道沿いのしかも神社の境内前で唐箕(脱穀したイネの殻を吹き飛ばす道具)を使って農作業をすることはありえない光景でもあることから、この絵は上尾宿と大宮宿の中間にある加茂宮村のエッセンスを凝縮した絵といえるようです。更に加茂宮神社の幟に書かれている「いせり」は、この絵の版元の名前なのだそうです。
このように、当時の上尾宿でもなく、構図も良いところ取りでしかもユーモアを絡めた、作者の遊び心満載の作品と言えるものでしょう。

その様な意味においては、この加茂宮では古くからここ加茂宮神社が鎮守としてシンボリックな場所の証でもあるかもしれません。
嘗て若田氏が初詣に来ていた加茂・・・、かも知れない古刹でした。

天神橋

折角知り得たのですからこのまま進んで立場茶屋を探します。

天神橋バス停 ちょうど加茂神社からバス停1つ分の距離ですから約300メートルほど南下したところにバス停「天神橋」があります。
このあたりに当時の立場茶屋があったそうです。

立場とは江戸時代の五街道やその脇街道に設けられた施設で、継立場、あるいは継場ともいうそうで、次の宿場までが遠い場合や、峠のような難所がある場合に休憩所、避難所として設けられたものです。
俗に言う「峠の茶屋」なども立場の一種で茶屋や売店が設けられ、馬や駕籠の交代を行なうこともあったようです。

天神社 天神社 バス停前には「天神社」があります。
境内は広いですが社殿はコンパクトな造りです。

梅と天神社 やはり天神社と梅はよく似合います。

天神橋 欄干 天神橋 欄干 そして「天神社」の前の中山道沿いに嘗ての「天神橋」の石の欄干が残されています。

天神橋 欄干 また、道路の反対側にも欄干のようなものが残されています。

天神橋 立場 ちょうど天神社から見ると両側の欄干はこのような位置関係にあります。

そこで現在この辺りに川は?、と地図を調べてみると、この地からJR高崎線を越えて西方に鴨川の支流が残っていますので、このあたりの川は現在暗渠になっているようです。

恐らく宿駅の中間地点(大宮宿と上尾宿)であることから立場茶屋が開かれたのでしょう。特に当時の茶屋としては島屋と福島屋という2軒が有名だったようです。
当時この辺りは現在よりも更に賑わっていたのかもしれません。

吉祥院

ここから一旦中山道から外れます。

吉祥院 「天神橋」のバス停から東に進み国道17号線を越えた先に「吉祥院」があります。

住宅街の中にひっそりと佇む寺院ですが、参道からは存在感を十分アピールするような煌びやかさを感じます。

吉祥院 ペット供養塔 参道を入ったすぐ左手に変わった墓所があります。
どうやらペットの供養碑のようです。

碑の回りにはかわいらしい動物の石像が置かれています。昨今のペットブームを繁栄したものでしょう。

吉祥院 比較的新しそうな山門の横には何の木なのか分りませんが、白い花がたくさん咲いています。
とりあえず春近しなのでしょうか。

吉祥院 本堂 山門を抜けると正面に本堂が鎮座しています。

吉祥院の開山は不詳のようですが、中興開山の栄秀が9代目で、宝永3(1706)年に入寂したということですから、200から300年前には開山していたのではないかと考えられています。

特筆すべき事項としては明治5年の学制頒布により吉祥院を借りて校舎とし、そして明治6年宮原小学校の前身である加茂学校が開校されたそうなのです。
初代校長は中澤玄次郎という人で、埼玉苗字辞典によれば、『足立郡加茂宮村(大宮市) 私塾師匠元忍藩士中沢玄次郎・明治二十七年没あり。』と記載されています。元忍藩士とあるので現在の行田市出身だったのでしょう。
その後、明治16年に現在の地に移転して仮校舎を創設し、明治22年に正式に宮原小学校となり、明治22年5月30日を開校記念日としているようです。
この吉祥院は、このように若田氏の通った宮原小学校の前身だけでなく、先ほどの初代校長の中澤玄次郎、及び三代目校長の田島道蔵の墓所があるそうです。

田島道蔵 墓所 初代校長の中澤玄次郎翁の墓所は見つからなかったのですが、三代目校長の田島道蔵校長の墓所はありました。

因みに田島道蔵で検索してみると、全くプロフィールは分りませんでしたが、石川啄木が盛岡中学5年級の際の担任が、修身・国語・歴史を教える田島道蔵と検索されるのですが、偶然の同姓同名なのか、それとも…。

何か妙に掘り下げてみたくなる吉祥院でした。

吉祥院から再び中山道に戻り、南下を続けると宮原駅入口交差点となり、ここを右折するとJR宮原駅となります。
若き日の若田氏もこのJR宮原駅を利用していたのでしょうか、それともニューシャトルを利用していたのでしょうか。

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