中世、鎌倉街道を走る

宮原小学校を後にして、中山道を南下してJR宮原駅まできましたが、ここからは南下せずに西に向います。
JR高崎線を越えて西方向へ鴨川方面に進みます。
鴨川は、埼玉県桶川市および上尾市、さいたま市、朝霞市を流れる荒川水系の一級河川ですが、やはり名前の響がいいですね。

三貫清水緑地

突き当りまで行き着くとそこが鴨川です。

鴨川 それ程大きな川ではなく、静かに流れている風情ある河川です。

聖学院大学チャペル 川の向こう側に見える円形の建物は聖学院大学のチャペルです。

長閑な田園風景にチャペルというのもまた風雅なものです。

その鴨川の流れの手前に「三貫清水緑地」があります。

三貫清水緑地 三貫清水緑地 三貫清水の由来となった場所がここで、三貫清水実在地の標柱が立っています。

三貫清水の由来
太田道灌がこの辺りに狩にきたとき、土地の人がこの清水を汲んで茶をたててだしたところ、とてもうまいといって三貫文の褒美をくださったのが、三貫清水の名の由来と伝えられている。「大宮市史5巻」より
(現地石碑碑文より)

三貫清水緑地 当時の三貫は現在で換算すると凡そ20、30万円という結構高額な金額ですから、太田道灌も太っ腹だったのでしょう。
基本的には湧き水なのですが、現在では枯渇する時期もありことからポンプで循環させているようです。

三貫清水緑地 ここから少し北側に向うとその湧き水の湧口があります。

ここから湧き出た水が水路を通ってこちらの湧水池に流れ込みます。
三貫清水緑地 さいたま市とは思えない自然あふれる光景です。

一般的にこのような場所ではゴミなどが放置されるケースが多いのですが、ここは非常に綺麗でゴミ一つありません。
それは「三貫清水の会」というボランティア団体が常に整備・管理しているからだそうです。
1992年から活動を続けていて2000年にはヘイケボタルが自然発生したそうですから、いかに綺麗になったのかが窺われます。

参考:【三貫清水の会】http://members2.jcom.home.ne.jp/s0810matsui/

このような地道な努力により我々がこのように楽しめることができるのですから、頭の下がる思いです。
若田氏が小学生のころはどうであったかは分りませんが、自然のままの清水だったのかもしれません。嘗てザリガニ博士と呼ばれた若田氏もこの辺りにザリガニを獲りに来たのでしょうかね。

鎌倉街道

鎌倉街道 「三貫清水緑地」の中に遊歩道のような道があるのですが、あの古の「鎌倉街道」なのだそうです。

埼玉県内には、鎌倉街道は所沢、狭山、毛呂山、嵐山、寄居、児玉を通る上道と、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻、幸手、栗橋を抜ける中道の2本の鎌倉街道が存在したように考えられています。
したがってこの鎌倉街道は、本線ではなく鎌倉街道の支線として上道と中道を繋ぐような街道で、鎌倉街道羽根倉道(奥州脇道)と呼ばれていた街道なのです。
したがってこの街道を南下すると上道に繋がり、北上すると中道に繋がるといったところが一般的にいわれているところのようです。

この鎌倉街道を当時の歴史に浸りながらのんびり歩いてみました。

鎌倉街道 鎌倉街道 ここも先ほどの三貫清水の会が整備・管理しているようで、こんな「どんぐり畑」もありました。

鎌倉街道 途中先ほどみた三貫清水の湧水池が反対側から見られます。当時の武士たちが喉を潤っていたかもしれません。

鎌倉街道 のんびり歩いても10分もかからずに大宮北高校の壁に突き当たり、鎌倉街道と三貫清水緑地は終わりとなります。

当時はこのまま北高校を突き抜けて北上していたのでしょう。

大宮北高校を迂回して鎌倉街道を更に北上します。

秩父・西国・坂東百箇所供養塔と馬頭観音 ちょうど大宮北高校の北側に東西に走る道路と鎌倉街道とが交差している辺りに石塔が2基立てられています。

秩父・西国・坂東百箇所供養塔と馬頭観音 秩父・西国・坂東百箇所供養塔 大きい方が「秩父・西国・坂東百箇所供養塔」で、小さい方が馬頭観音です。

秩父・西国・坂東百箇所供養塔は文化10(1813)年に立てられたもので、道標を兼ね「西、あきは道 東、阿けをみちいわつき道、ぢおんじ道 南、与野道」と刻まれています。
この供養塔の前を通る東西に走る道路を西へ向かうと「秋葉道」で、鴨川を渡りさいたま市西区の秋葉神社を通り川越に向かう道となります。
逆に東に向かうと上尾・岩槻(慈恩寺)方面に向かう道ですが、慈恩寺は三蔵法師の遺骨が分骨されている寺院として有名です。
南は今歩いてきた鎌倉街道を通過し与野方面に向かっていたのでしょう。このように供養塔でもありながら道標でもあったということです。
因みに百箇所供養塔とは、観音がこの世に生を受けたものすべてを救済するため、それに応えるよう33の姿を現すという観音信仰から各地に霊場を建てそこに参詣することが盛んとなり西国33所霊場巡礼が行なわれ、その後坂東、秩父に札所が成立し、秩父のみ34箇所となったことから、室町時代末期以来、江戸時代においてはこの3ヶ所100観音を巡礼するとが庶民に広まり、各地に百供養の石塔が立てられる様になったそうです。

今回は西でも東でも南でもなく、このまま北に向かいます。
先ほどの三貫清水緑地のような鎌倉街道の面影は全くありませんが、このあたりも嘗ての鎌倉街道だと思えば歴史好きにとっては涎物でしょう。

薬師堂 途中にはこのような「薬師堂」があります。

薬師堂の前には大きな地蔵尊と六地蔵が建立されています。年代はわかりませんが、かなり厳重な柵に守られていますのでそれなりの貴重な地蔵尊なのでしょう。

この薬師堂には、この近くにあった松林寺に祀られていた薬師如来が祀られていて、「眼を患う者立願すれば必ず験しあるなり」といわれ、かつては、5月8日の縁日は相当賑わったようです。
先の鍛冶村のたくさんの鍛冶師がいた頃に信仰を集めていたそうです。

別所学童保育所 眼と聞いてはお参りをしないわけにもいかないでしょう、とばかりにお参りを終えて、薬師堂をよく見ると、右奥には別所学童保育所と書かれた看板があります。

左手前には「NPO法人子育て支援キッズスペース:さいたま市放課後児童クラブ キッズスペース奈良」という看板も掲げられていました。
文字通りNPO法人子育て支援キッズスペースが放課後の保育を両親に変わって行う保育所のようです。

このNPO法人子育て支援キッズスペースは昭和56年にこの薬師堂を借りて学童保育所としてはじめたそうです。その後さいたま市内に数箇所を開所するほどになったようです。

参考:【NPO法人子育て支援キッズスペース】http://www.kids-space0038.org/faq.php

小子化、核家族化、共働き、母子家庭などなど、子供を取り巻く環境はある意味厳しくなる方向にあるのかもしれません。
我々オジサン世代には無かった学童保育などはこれから更に必要になってくるのでしょう。

竹林 鎌倉街道を挟んで薬師堂の向い側は竹林になっています。その中の小道はななかな良い風情を醸し出しています。

鎌倉街道に竹林、まさに歴史街道といった趣です。

更に北上し突き当たったところが「武国神社」です。
由緒などは詳しくはわかりませんが、そもそもは埼玉県に数多くある氷川神社の一つでしたが、明治40年、吉野町の鹿島社、金山社、天神社を合祀した時に「武国神社」と改めたそうで、「武国」とは大宮氷川神社=武蔵国一宮の分霊であることに由来しているそうです。したがって祭神は氷川神社と同じ素盞鳴命、大己貴命を祀っています。

武国神社 石段を上った処に狛犬と石造りの鳥居があります。

武国神社 社号標 鳥居の下の参道の先に拝殿がありますが、参道の途中に村社武国神社と刻まれた古い社号標が立っています。

その両側に燈籠がありますが、相当古い燈籠なのでしょうかフェンスで囲われていて、右側の燈籠は途中から折れてしまっています。
武国神社 倒れた燈籠 先日の地震によるものでしょうか、フェンスが折れ曲がっているのが見て取れます。

武国神社 拝殿 拝殿はそれ程大きくは無く、比較的簡素な拝殿ですが、神社様式においては瓦葺の社殿は非常に珍しいものでしょう。

本殿も小さな一間社のようですが、拝殿と同じように珍しい瓦葺の屋根ということもあり意外と存在感があります。
武国神社 本殿 本殿を囲う垣も瓦葺ですが、屋根は一部分崩れています。これも地震の影響でしょうか。

奈良瀬戸遺跡 奈良瀬戸遺跡 武国神社の境内の裏は嘗ては山林で、昭和36年から発掘調査が行われ縄文時代の遺跡が確認され、住居跡を初めとして様々な出土品があった「奈良瀬戸遺跡」と呼ばれる地域のようです。

神社境内の先は極端に低くなっていて、嘗ての大宮台地の谷であったそうですが、現在は、このように奈良町団地として新興住宅地として開発されていました。

この辺りに縄文人が暮らしていたとは、鎌倉街道の時代よりも更に想像しにくいほどの変わりようです。

さいたま市立大宮別所小学校

武国神社を後にして一旦北上せずに東に向ってホンの少し進むと「大宮別所小学校」があります。

さいたま市立大宮別所小学校の壁画 学校の塀には若田氏に関する絵がが描かれています。

50、60m位はあるでしょうか、これまでに若田氏は1996年、2000年、2009年と3回のミッションを成功させていて、そのたびにこの壁画が書き加えられているようです。

さいたま市立大宮別所小学校の壁画1 さいたま市立大宮別所小学校の壁画2 恐らく最初の壁画はこの「夢実現おめでとう」の部分から「若田光一さん別所から宇宙へ 1996.1.11一20」の部分でしょう。

さいたま市立大宮別所小学校の壁画2 さいたま市立大宮別所小学校の壁画1 そして一番左側には若田氏が小学校2年生時に描いた飛行機の絵が複写されています。

「2000年10月再び宇宙へ」とあるので2回目の飛行成功を祈念して描かれたものでしょうかね。

さいたま市立大宮別所小学校の壁画3 そして一番左側の絵が3回目の時のものでしょう、「…3度目の宇宙」と書かれています。

さいたま市立大宮別所小学校の壁画2 母校とあってなかなか壮観な壁画が描かれていますが、4度目はどうするのでしょうか、壁を作るのでしょうかね…。

それにしてもよくよく考えてみれば若田氏は宮原小学校に入学したはずなのですが、何故こちらの大宮別所小学校が母校となっているのか調べてみました。
宮原小学校は前述したように130年以上もの歴史をもつ小学校ですが、昭和40年代からの生徒の増加により昭和49年4月に宮原小学校内校庭に仮設のプレハブ校舎を建てて一部大宮市立別所小学校として開校したそうです。
そして同年6月新校舎(現在地)に移転し、11月校舎落成により開校式が行なわれたのです。恐らくこの段階で現在地(別所)に近い通学区の生徒達が新しい別所小学校に分離されたということでしょう。
若田氏はこの大宮別所小学校の第2回卒業生だったそうなので、分離したときは5年生だったものと思われます。こうして2つの小学校を母校に持つことになったようです。転校生でもなく2つの母校を持っているとは、当時は複雑な気持ちかもしれませんが、現在となっては珍しい経験、良き思い出になっているかもしれません。

さいたま市立大宮別所小学校 正門に回って入ってみました。
休日の日に学校に入るのは、特別悪いことをするわけではないのに何故か落ち着かないのは日頃の行いのせいなのでしょうか。

さいたま市立大宮別所小学校 校舎のエントランスには、「祝 若田光一宇宙飛行士4度目のチャレンジ」と書かれた横断幕が張られています。

大宮別所小学校の応援の入れ込みようはさすが母校というほど熱いものがあるようです。

「目標をはっきり持って頑張れ」 若田光一さんが母校の小学生に激励メール 2011.2.23 21:54
日本人として初めて国際宇宙ステーションの船長に就任することが決まった宇宙飛行士の若田光一さんに、母校のさいたま市立大宮別所小学校の児童がお祝いの手紙を電子メールの添付画像で送ったところ、若田さんから「みなさんも頑張って」とメールで返事が届き、児童たちは喜んでいる。
17日に若田さんの船長就任が決まったことを受け、同校では21日、6年生の4人が手書きで「母校の1人としてとてもうれしいです」「ぼくたちも先輩のように夢を実現できるように努力したいと思います」などと書き、その画像を米国にいる若田さんに送信。
翌日、若田さんから「国際宇宙ステーション飛行の成功に向けて仲間の宇宙飛行士たちといっしょに頑張っていきたいと思います。皆さんも目標をはっきり持って、それに向かって頑張ってください」との返信があったという。
(MSN.産経ニュースより)

さいたま市立大宮別所小学校 校庭の隅には「東経139度36分、北緯35度57分」という標識が立っているのもまさに母校らしい光景です。

さいたま市立大宮別所小学校 そして学校の沿革碑にもはっきり刻まれています。「平成13年1月22日 若田光一氏(宇宙飛行士)来校」と。

「我等が先輩」とはよく言ったものですが、別所小にみならず宮原小もどちらも誇るべき母校といえるでしょう。
ここからは再び鎌倉街道に戻り北上を走り続けます。

別所稲荷神社

別所稲荷共同墓地 武国神社から北上すること5,6分の住宅街の一画に突如現れた墓地、「別所稲荷共同墓地」というそうです。

ここは平家物語にも登場する武蔵7党の岡部六弥太忠澄が足立郡内に六カ所の「別所」村名を置いた一つで、大谷別所村と呼ばれていたそうで、この共同墓地にある阿弥陀堂は嘗て岡部六弥太忠澄の持仏堂であったという伝承が残っているようです。
そしてこの墓地の拡張整備工事により阿弥陀堂は現在地の隣に移されていて、更に工事の際には鎌倉時代から室町時代に至る192基の板石塔婆が出土したそうです。

別所稲荷共同墓地 墓地の一画にその板石塔婆の欠片のようなものがありますが、これらがその破片なのでしょうか。

現在その192基の板石塔婆は弘仁3(812)年、岡部六弥太忠澄により開基されたたという伝承の残る長福寺に保存されているそうです。
長福寺はここから1ブロック先にあるようなので、後で立ち寄ってみることにします。

別所稲荷神社 共同墓地の右隣にあるのが「別所稲荷神社」です。
石造りの鳥居と木造の朱の鳥居が並んでいます。

別所稲荷神社 鳥居をくぐって参道を進むと参道を中心に燈籠、手水舎、狛犬、そして社殿があります。

しかし、左側の燈籠が倒れているのはやはり先日の地震の影響なのかもしれません。

別所稲荷神社 阿弥陀堂 別所稲荷神社 阿弥陀堂 殆ど飾っ気のないシンプルな社殿ですが、これが先ほどの阿弥陀堂なのでしょうか 。
社殿の中に更に社があるので、これが阿弥陀堂なのかもしれません。

となるとそもそもの稲荷社はと境内を見渡すと、社殿の隣に「三神社」と呼ばれる境内社があります。

別所稲荷神社 三神社 別所稲荷神社 三神社 ここに祀られているのが稲荷=狐のようですので、この「三神社」が稲荷神社なのかもしれません。

どのような由緒を持っているのかはわかりませんが、地域のお稲荷様として長い間崇敬されていたのでしょう。

浅間神社 「別所稲荷神社」の右隣には「浅間神社」があります。

下浅間社 鳥居の横にある社は「下浅間社」で、本尊が富士山の「浅間神社」であれば、この鬱蒼と樹木の茂るこんもりした丘は富士塚ということになります。

富士塚とは文字通り富士信仰に基づいて富士山に模して造営された人口の山や塚で、実際に富士山の溶岩を積み上げたものと、すでに存在していた丘や古墳を利用した2種類の造営方法があるそうです。
ここの富士塚は高さ3m、直径16mの盛り土なので、もともとあった丘を利用したものなのでしょう。

富士塚 富士塚の登山口には「富士登嶽記念碑」と刻まれた石碑が立っています。

浅間神社 そして頂上には「富士仙元宮」と刻まれた祠があります。

江戸時代の人々は、山開きとともに何度もお参りしたと言われていますが、今も参拝されているのでしょうか。
それにしても、何かこのような住宅地に富士塚があると、異次元の世界のように思えてきます。

長福寺 浅間神社を後にして、北へ1ブロック進んだところに「長福寺」があります。

確かに「長福寺」ではありますが、ちょっと常識とは違うようです。
寺院が幼稚園を経営するケースは多いのですが、こちらの場合は幼稚園が寺院を管理しているといった面持です。

長福寺 何と文化財指定の標柱も園内の中央に立っているのですが、特に今日は日曜日なので園内には入れません。
勝手に忍び込むわけにもいかないので残念ですがこのまま後にすることにしました。

それでも、さすがに鎌倉街道の走る別所らしい興味深い伝承を知ることができました。

しらかば通り

鎌倉街道は長福寺を過ぎるといよいよ上尾市に入り、上尾市西宮下で東に曲がり国道17号線を横断して、蓮田市、菖蒲町を経て加須市大越で鎌倉街道中道に繋がっていくといわれていますが、今回の散策での鎌倉街道はこれで終了し、「別所稲荷神社」の南に東西に走る「しらかば通り」を東に向います。

長福寺から5.6分も進むと「しらかば通り」と中山道の交差点であるつつじヶ丘公園(西)交差点になります。

さいたま市宮原コミュニティーセンター この交差点の左角に「さいたま市宮原コミュニティーセンター」があります。

ここは財団法人さいたま市文化振興事業団が管理・運営している施設で、このコミュニティ施設のほか、文化施設、伝統文化施設、生涯学習施設、労働施設など28ヶ所の施設があるようです。その中の生涯学習施設には大宮駅前の「宇宙劇場」というプラネタリウムがあり、若田飛行士に関する展示コーナーもあるようです。

参考:【宇宙劇場】http://www.ucyugekijo.jp/

さてこの宮原コミュニティーセンターは、多目的ホール、レクリエーションルーム、調理室、音楽室、アトリエ・工作室、和室、書斎、窯室などがあり、市民の誰でもが利用できる施設です。
また施設内に「宮原図書館」が併設されているそうで、若田氏が小学生のころはコミュニティセンターは無かったでしょうが、図書館にはあるいは通っていたかも・・・、知れませんね。
さすがに県庁所在地のさいたま市ですから市の施設は充実しているようです。

そのまま「しらかば通り」を進むと右手に大きな公園があります。「つつじヶ丘公園」です。
つつじヶ丘公園 時期的には春真っ盛りで、晴天ではありませんがソメイヨシノも満開のようです。

つつじヶ丘公園 つつじヶ丘公園 ジョギングコース 満開の公園のエントランスを入ると、通路に「スタート 1周610m」と書かれている場所があり、ジョギングコースのスタート地点になっているようです。

土地区画整理竣功記念碑 その正面の石碑は土地区画整理竣功記念碑です。

ゲートボール場 右側はゲートボール場で、こちらも桜満開の様子です。

ペースメーカー 斜め左奥へ進むと変わったジョギングコースがあります。
決して魚眼レンズで撮った写真ではなく実際にこの様なコースなのです。

スタート地点には案内板がありました。

ペースメーカー 距離は線上の表示です。(75m、88m、100mの3コース)
ペースメーカーとは各個人が健康運動のために行う歩行・走行(ジョギング)に最適なペースを把握するための施設であります。
各コースを1周1分間のペースで最低3周を歩くか又は、走った後に心拍数の測定を行い無理をしない状態で、自分の最適ペースを正しく体得する施設です。
このペースを体得することにより、子供から高齢者そして運動に不馴れな人まで、安全で健康的なジョギングをすることが可能となり又、指導する場合も各人の能力に合わせて指導することができます。

※注意
通常の健全な男女の場合、歩行・走行における最適心拍数(脈拍数と同じ)は130回/分程度です。又、高齢者になるにつれて最高心拍数の上限は下がることから、おおよその目安として(180:年齢=運動時の1分間あたりの心拍数の上限)とするのが妥当とされています。
(現地案内板説明文より)

こういったものがあるとは実に至れり尽くせりですね。高齢者には実にグッドな施設です。

先に進むとテニスコートと野球場があります。
つつじヶ丘公園 テニス場 テニスコートは菜の花と桜に挟まれて風情のあるコートになっています。
春ならではの景色です。

つつじヶ丘公園 野球場 つつじヶ丘公園 野球場 その隣が野球場で、バックネットもある結構本格的な球場で、
兵どもが夢の後のような乱打戦のゲームスコアが残されていました。

若田氏は小学校4年の時からリトルリーグに加入していたそうなので、もしかしたら一度はここで白球を追っていたかもしれません。

つつじヶ丘公園 野球場 外野方向には桜並木がライト側に連なっており、センター方向にはこんもりした丘の樹木が目に止まります。

今シーズンのプロ野球開幕ももうそろそろですから、今年もまた球春の季節です。

つつじヶ丘公園 遊具 レフト側からグルッと外野方面に向うと、子供用の遊具が置かれています。

そしてちょうどセンターの後ろの先ほどの丘は、なんと富士塚で、この富士塚は高4m、直径18mで盛土溶岩で造られているものだそうです。
こんな公園にも富士塚があるとは、宮原地区には結構富士塚が多いのかもしれません。

つつじヶ丘公園 富士塚 手前に朱の鳥居があり、その後ろに登山道があります。

つつじヶ丘公園 富士塚 登山道沿いには石碑が並んでいます。鈴原神社、食行霊神、阿夫利祠、小室浅間宮・・・、などなどの石碑が並んでいます。

つつじヶ丘公園 富士塚 つつじヶ丘公園 富士塚 そして頂上に浅間大神の石碑がありますが、
ここにも先日の地震の爪あとが残っているようです。

つつじヶ丘公園 富士塚からの野球場 そして裏側が先ほどの野球場なのです。

こうして公園を散策しましたが、結構見所ある公園でした。

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