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近世、中山道を旅する #2

「しらかば通り」を一旦中山道まで戻り、ここからは再び中山道を南下します。
嘗ては多くの旅人達が往来した中山道ですが、現在は旧道としての面影は大分薄れてしまっているようです。

南方神社

5分ほど進むと左側に「南方神社」があります。
南方神社 中山道の街道沿いに朱の鳥居と社号標が立っています。結構新しい鳥居です。

今回の散策でも、今までの散策でも嫌というほど鳥居を見てきましたが、素材や順番(一の鳥居など)、そして色などで表現していたのですが、漫然と見ていただけで、種類について全く知識が無かったことに気付きました(今更ながら・・・)。
そこでこのような機会なので鳥居について調べてみました。
そもそも鳥居とは神域を表す門で、ここからが神域(境内)ですよという意味合いを持っています。これは鳥居が、古代の貴族や豪族が設けた門の遺風が進化したものだからだそうです。
鳥居が使用されるようになったのは奈良時代からで、神殿建築の変遷と同じように様式の変化と種別が発生してきたのだそうです。
しかし、奈良時代にあっては原則として本殿様式と一致した調和でなければならないという決まりがあったようです。

鳥居構造 歴史を追って鳥居の種類を見てみますが、基本的な鳥居の構造と名称です。

黒木鳥居 ◇黒木鳥居
《写真:(C)安斉管鉄》

最も原始的な鳥居で、2本の柱と1本の笠木と貫で組み立てられたもので、用材は皮付きの丸太のままで掘立柱のもです。黒木の皮を剥いだものは皮剥鳥居とも呼ばれていたそうです。 なお、笠木とは、一番上の横棒のことで、貫とは下の横棒のことです。

神明鳥居 ◇神明鳥居
《写真:(C)安斉管鉄》

黒木鳥居の進化したもので、用材は加工して削り、笠木が円形で貫が長方形なのが靖国鳥居、笠木が五角形なものは伊勢鳥居と呼んでいます。柱は元の木のように上方に行くほど自然に細くなっているのが特徴です。

鹿島鳥居 ◇鹿島鳥居
《写真:(C)安斉管鉄》

神明鳥居の一種なのですが、この種類だけ貫が両柱を貫いていて、鼻が突き出したものです。

以上が奈良時代における鳥居の主流で大分類で「神明系」と呼ばれる鳥居です。直線式掘立柱の素木で原始的なつくりで、大社造・神明造の本殿には調和した鳥居であるといわれているそうです。

そして平安時代になると寺院建築の影響が加わった平安様式の鳥居となるのです。

春日鳥居 ◇春日鳥居
《写真:(C)安斉管鉄》

鹿島鳥居がいっそう複雑化した様式で、島木(笠木の下にある同じ横木)・額束(ぬかづか=島木と貫との間にある中央の束)の前に額を置く場合が多くある鳥居です。楔(くさび=貫の両端の内外より施したクサビ)を増加し総体朱塗りとするものもあります。
代表的な鳥居は京都平安神宮のコンクリート製の大鳥居。

八幡鳥居 ◇八幡鳥居
《写真:(C)安斉管鉄》

春日鳥居の笠木及び島木の鼻が斜め内方に切られている点が異なっている。

明神鳥居 ◇明神鳥居
《写真:(C)安斉管鉄》

八幡鳥居の変化したもので、笠木・島木が反転し、鼻は垂直又は斜めに内方に切ったものです。 亀腹と称して礎石の上に建てるようになり、これは流造等の曲線様式の本殿に適しているといわれ、この鳥居の一種に中山鳥居というのがあります。鳥居の礎石は、鎌倉時代頃から行われたといわれています。
現在一番ポピュラーな鳥居です。

稲荷鳥居 ◇稲荷鳥居
《写真:(C)安斉管鉄》

明神鳥居に台輪を増したもので、円盤が島木の下にあって台輪鳥居ともいわれています。

以上の他に、藁座鳥居、合掌鳥居、奴禰鳥居、住吉鳥居、三輪鳥居、三柱鳥居、唐破風鳥居、両部鳥居など等多くのバリエーションがあるのですが、これらを総称すると「明神(島木)系」と呼ばれる系統の鳥居となるのです。
実際に鳥居を作られている企業があります。珍しい施工写真などがありますので一度見ておくのも良いでしょう。

参考:【安斉管鉄】 鳥居 http://www.anzaimcs.com/torii/index.html

こうしてみると今まで見てきた鳥居は細かいバリエーションは別として、この南方神社は明神系で、武国神社は神明系、そして加茂神社はなぜか神明系と明神系が両方といった区別になるわけですね。
上っ面だけですが、これで少しは理解ができるようになりました。

参道の横には由緒が掲載されています。

南方神社由緒
当社は往古、信濃国一之宮諏訪大社の大神を吉野原の村人が村の鎮守として勧請したものであると伝える。鎮座地の地名「鈴木」は中山道の側にあり樫が鬱蒼と生い茂ることから、夏も涼やかな風の通る涼木に由来する。主祭神は『明細帳』に「建御名方命」と載る。社名「南方」は主祭神建“御”“名”“方”命(たけみなかたのみこと)にちなむものであるとともに諏訪湖を表す「水潟」にゆかりがある。
境内にある手水鉢の銘文には「武州足立郡吉野原村字鈴木惣氏子中文政十三寅年(1830)七月吉日」とある。これは寅と申の年、すなわち7年目ごとの寅と申の年に行われる諏訪大社式年造営の御柱祭に合わせて造ったものである。
別当は『風土記稿』に「不動院持ち」とある。不動院は、村内の真言宗清浄院門徒で、同寺住職の隠居寺であった。
造営は、文久年間(1861から1864)に社殿の改修が行われた。このとき本殿・拝殿の形式を整えるために、覆屋を拝殿とし、更に、参拝者の便に供するために唐破風屋根を付けた。
明治40年5月22日、『明細帳』によると、大字吉野原神山無格社の愛宕雷電稲荷合社と境内社八雲社・明神社・女神社、大字大谷別所字山王前の無格社八雲社、字神明無格社の神明社、字稲荷村社の稲荷社と境内社雷電・金山・竈神合社・浅間社を当社に合祀し南方神社とした。平成3年3月には、御大典を記念し、氏子の浄財をもって当時の拝殿を残し、新たに幣殿と本殿、平成21年伊勢式遷宮に合わせ鳥居・境内整備の造営を加える。
(現地案内板説明文より)

日本で2番目に多いとされている鈴木姓は、物部氏族穂積氏の後裔で紀伊国熊野の豪族・鈴木氏が熊野神社勧請により、熊野神社の末社の分布が濃い東北地方や関東地方に広まったのがルーツですが、ここでの地名の場合は涼木という何とも爽やかそうな由来であったり、御名方(ミナカタ)=水潟(水神)=南方という由来などにプチ感動を覚えます。特に日本全国諏訪神社は多いのですが、南方神社と呼ばれる神社はほぼ鹿児島県特有といっても良いほどのようで、鹿児島県以外での南方神社はここと、長野県戸隠村の南方神社の僅か2社しかないようです。
そういった意味では実に珍しく貴重な神社ともいえるのでしょう。

南方神社 手水舎 南方神社 手水鉢 この案内板の隣にその手水舎があります。

確かに手水鉢には、その銘文が刻まれているのを見て取ることができます。
歴史的にもなかなか興味深い神社のようです。

参道は左に90度曲がっていますので、もともとの鳥居は別なところにあったのではないでしょうか。
ちょうど加茂神社と同じようなレイアウトだったのかもしれません。

南方神社 拝殿 南方神社 幣殿 それ程大きくもない拝殿ですが、朱の着色と唐破風屋根によって何とも存在感のある威風堂々といった趣です。

南方神社 本殿 拝殿、幣殿は瓦葺きですが、本殿は銅葺きで非常にシンプルです。拝殿とのコントラストが印象的です。

案内板にあるように明治になって近隣の社を合祀したことから、実に祭神が多いのです。
建御名方命(主祭神)、軻遇突智命(火の神)、大雷命(雷の神)、倉稲魂命(穀物の神)、素箋鳴命(習合の神)、天照大御神(太陽神)、手力雄命(力の神)、金山彦命(鉱山の神)、火産霊命(=軻遇突智命)、木花咲耶姫命(火の神)といった豪華キャスティングなのですから、ご利益は数知れないなどと考えるのは甘いでしょうか。

神紋 殻の木 社殿の左手前に柵で囲われたご神木のようなものがあります。
「神紋 殻の木」と書かれています。

梶の葉 「殻の木」って一体何の木と調べてみれば、「梶の木」のことのようです。

何故「殻」の漢字が使われているのかは判りません。
諏訪大社神紋 これは「梶の葉」が諏訪大社が神紋(家庭での家紋にあたる)であることから、この南方神社の神紋でもあるということのようです。

「南方神社」の隣は「諏訪公園」という広い公園となっています。
南方神社がお諏訪さまと呼ばれていることから、親しまれるようにこの公園名がつけられたのでしょうか。

若田氏ももしかすると通学路かもしれないので、立ち寄っていたかもしれませんね。

さいたま市立宮原中学校

「南方神社」からホンの2,3分中山道を南下した左側に入ったところに若田氏の母校である「宮原中学校」があります。
最初に訪れた「宮原小学校」は眼と鼻の先です。これで凡そ宮原小学校をスタートして、中山道、及び中山道の西側をグルッと散策してきたことになります。

さいたま市立宮原中学校 見た目にはどこにでもあるような極々一般的な中学校です。

宇宙飛行成功記念のモニュメント 宇宙飛行成功記念のモニュメント 校門を過ぎて少し行くと、右側に極々一般的な中学校には絶対に無いモニュメントがあります。
タイトルは「夢ひとすじに」と題された若田氏の宇宙飛行成功記念のモニュメントです。

本校宮原中学校の昭和53年度卒業生「若田光一さん」はスペースシャトル「エンデバー」に搭乗し、1996年(平成8年)1月11日から20日の9日間地球を142周し日本初のミッションスペシャリストの宇宙飛行士として成功をおさめました。ここに、その記念として本校在校生徒にモニュメント図案を公募しました。
モニュメントの思いは、本校宮原中学校の生徒がいつも夢を大切にし夢をめざして「夢ひとすじに」、3本<希望と努力と強い心>の「柱で、中心の夢(宇宙)を支えることを意味し、学び鍛え励む生徒であることを願うものです。
1996年(平成8年)4月吉日
大宮市立宮原中学校同窓会・大宮市立宮原中学校PTA・大宮市立宮原中学校生徒会
(現地モニュメント説明板より)

宇宙飛行成功記念のモニュメント モニュメントにしてはしっかり意図が伝わってくる非常に理解し易いものです。
高名な・・・、よりも公募であったのも実に好感が持てます。
いつまでも誇りと思えるモニュメントとなるでしょう、きっと。

校舎 先に進んでみると校舎が見えてきます。

タイムカプセル 校舎の手前には巻貝のようなモニュメントがこちらにもあります。

これは1974年、創立25周年記念事業の一環として作成されたモニュメントだそうで、台座の部分にはタイムカプセルが埋め込まれているそうです。
中に入っている歴史資料は、当時の在校生全員の作文、PTA新聞、当日の式典の記録、当日の三大新聞、当時の職員一覧並びに給料表などが入っているそうです。給料表一覧とはまた思い切った歴史資料です。
そして1999年11月7日開扉と明記され、実際にその日開けられたそうです。
その後モニュメントが修復され、新たな資料が加えられ25年後の2024年の開扉まで封入されているそうです。
カプセル封入が1974(昭和49)年ですから、一足遅く若田氏の作文は入れられなかったということですね。

部室棟 学級校舎の先には各クラブの部室棟があります。

中学時代の若田氏は「理科が好きだから」と科学部に入っていたようです。しかし、宮原中学3年の時に見た映画「スターウォーズ」には衝撃を受けたようです。公開初日は期末テストの前だというのに見に行き、その感動を「度肝をぬかれてしまった。まったくこの映画の興奮はもう口では言い表せないほどなのだ」と卒業文集にも書いたそうです。
こうして多感な時代を過ごし県内トップの浦和高校に進学したのでした。

浦和高校では、宇宙に憧れ、飛行機のエンジニアになることを目標に、小学校時代の野球少年の血が騒いだのか甲子園を目指す球児でもあったようです。
現在宮原中学校校舎内には宮原中学校宇宙科学館と題された、若田氏を初めとした日本の宇宙飛行士の展示がされているようです。一般にも見られると良いのですがね。

参考:【宮原中学校】 宮原中学校宇宙科学館 http://miyahara-j.saitama-city.ed.jp/utyukan.html

清浄院

清浄院 ここからは中山道を後にして、南東方面に進んだところに「清浄院」があります。
非常に綺麗に整備された参道が駐車場前にあります。

絹本着色両界曼荼羅 碑 そして参道前に案内板と共に石碑があります。

石碑には「埼玉県指定有形文化財 絹本着色 両界曼荼羅 二幅 昭和33年3月20日指定 長松山清浄院」と刻まれています。

埼玉県指定有形文化財 絹本着色両界曼荼羅
昭和33年3月20日指定 所在地:大宮市吉野町1-36-2 所有者:清浄院
曼荼羅という言葉は梵語から出ています。本来の意味は祭壇・道場(悟りの場)等を指していますが、それが転化して、祭壇上に祭られている諸仏の集合の様子、悟りに到達した世界の様子、またその境地にあらわれる功徳などを示した絵画をいうようになりました。神秘的・象徴的な密教の宇宙観を物語る仏教絵画です。
両界とは金剛界と胎蔵界のことで、この二つを合わせて両界曼荼羅といいます。図は共に、密教の最高至上仏である大日如来を中心に諸仏諸菩薩等が整然と配列されています。金剛界は大日如来の知徳を教え示したもので、九会から成り、1461尊の仏菩薩等が描かれています。胎蔵界は大日の慈悲の徳をあらわしており、図様は13院から構成され、414尊の仏菩薩等が配されています。これらは表裏一体の関係にあって、真言密教の根本教理をあらわす重要な図像です。古くは壇上に置いて加持祈祷の儀式に用いられました。
清浄院に伝わる曼荼羅の伝来は明らかでありませんが、古く廃寺となった市内今羽の三明院に伝わっていたものを、当院に移して今日に伝えたものともいわれています。現状で縦95センチメートル、横76センチメートルを計ります。
絹地に諸尊・密教法具等が極彩色で描写され、古色のうちに優雅な品位を備えています。各尊の面相はいたんでいますが、像容の輪郭はよく残っており、すぐれた描写の筆跡がみられます。表装は嬬子地に金泥の描表装で、輪宝や羯磨等の仏具が描かれています。図柄や絹地からみてその製作年代は南北朝時代と推定され、埼玉県下の曼荼羅のうちでも比較的早い時代の作品として貴重な存在です。
昭和59年9月23日
埼玉県教育委員会・大宮市教育委員会・長松山清浄院
(現地案内板説明文より)

絹本着色両界曼荼羅 案内板にその絵画が掲出されているのですが、かなり色褪せているため不鮮明ではあるのですがこんな感じのものです。

清浄院 山門 参道を進むと左側に山門があります。

清浄院 サルスベリ 山門を抜けると右手に鐘楼があり、その手前に「サルスベリ」の木が植えられています。

大宮市教育委員会指定 天然記念物 清浄院のサルスベリ 1本
昭和61年2月7日指定  長松山清浄院
清浄院のサルスベリは近郷近在は勿論のこと県内に於いても稀に見る古木大樹にして他に類例を見ない。枝振りも四方に広がり均整のとれた樹形は威風堂々として品格をそなえ実に壮観である。花期には紅紫色の見事な花をつけ広く市民が鑑賞するに値する樹木である。
樹齢:300年余、樹高:9.5メートル、目通り:1.35メートル、枝振り:東・4.5メートル、西・5.5メートル、南・3.8メートル、北・6.9メートル
(現地石碑碑文より)

季節になれば百日紅の名前通りピンクの綺麗な花が見られるのでしょうが、季節はまだ冬に近い春ですので花どころか葉さえも見ることができません。
それでも樹齢300年の古木は現在も樹勢を誇っているかのようです。

清浄院 閻魔堂 清浄院 本堂 参道の反対側には閻魔堂があり、正面に本堂が鎮座しています。

詳細な縁起はわかりませんが、「埼玉苗字辞典」にはこのように記載されています。

風土記稿吉野原村条に「清淨院の草創は、当村の岸将監といへる人ありて、己が屋敷に庵室を結ぶ。其後天正二年村民等相謀てここに移せりと云ふ。将監は村の庄屋を勤しゆへ土俗庄屋坊と呼ぶ」と見ゆ。
(埼玉苗字辞典より)

岸将監という人が自分の屋敷内に行基作といわれた阿弥陀仏を安置したのが始まりで、その後天正2(1574)年に現在地に移され、当時は寺号がなかったので、庄屋だったことから庄屋坊と呼ばれたようですが、そのときの住僧の寿伝が現在の寺号を定めたのだそうです。
そして本尊の不動明王像は宝永2(1705)年に領主の戸田中務大輔が寄進したものだそうです。
現在でも墓地の半分は岸家代々の墓が半分を占めているようですので、岸家の菩提寺といっても良いのでしょうが、いずれにせよ安土桃山時代以前の創建ではあるようですから、まさに古刹といえるでしょう。

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