安行散策 #1

自宅から近いこともあってAM9:00過ぎに出発しました。
かつて安行方面は陸の孤島で、公共交通機関はバスしかありませんでした。しかしながら埼玉高速鉄道が敷設されてからは、東京から川口市安行及び岩槻、浦和方面へと直行できるようになりましたから随分と便利になったものです。
便利になったとはいえ、今回は散策の範囲が広いこともあり(と、いつもこの理由にしていて、当初の歩こうという目的が全く薄らいでいます)車で向かいました。
国道16号線を岩槻方面に向かい、途中から国道122号線を南下して40分ほどで安行に到着です。
今回は地理的に北から南へ縦断する散策の予定です。

西福寺

最初に訪れたのが「西福寺」で、三重塔で有名な寺院だそうです。
西福寺山門 到着してみるとかなり広い境内に驚かされます。

西福寺山門脇の石碑 境内入口右手には石碑、庚申塔、墓石が並べられていて、一番左の石碑は「藤波丈右衛門之碑」で明治10(1897)年、西南戦争で戦死した西立野村出身の陸軍二等兵の碑だそうです。

西福寺仁王門 かなり長い参道を進むと、参道の両脇に仁王像が立ってます。仁王門の代わりと言うことでしょうか。

江戸時代の石碑 その仁王像の左手前には、古そうな3基の石像物があります。

これは当時の山岳信仰の講中が立てたもので、月山・湯殿山・羽黒山と刻まれた江戸時代のものだそうです。

反対側に案内板があります。

西福寺
所在地 川口市大字西立野
西福寺は、真言宗豊山派の寺で、弘仁年間(810から824)に弘法大師が国家鎮護のため創建したと伝えられる古刹である。寺内には、三重塔と観音堂がある。
ここの三重塔は、三代将軍家光公の長女千代姫が奉建したもので、高さ約23メートルあり、県下では一番高い木造の建物である。棟札銘文によると、この塔は、元禄6年(1693)3月27日に建立完成されたもので、かっては、櫓を組んで塔の頂上まで参詣者に登らせたときもあったが、現在では廃止されている。塔は、鉄製の釘を一本も使わず細工によって作り上げてあり、構造は方三間で、一層の天井から真上に一本の柱をたて、その柱から二層・三層の屋根に梁を渡しバランスをとって、風にも地震にも耐えるように工夫されている。一層の天井付近にある「蟇股」には、十二支を表す動物の彫刻が刻まれ、方向を示している。
また、入口正面にある観音堂には、西国、板東、秩父札所の百の観音像が安置され、この一堂を参詣すれば、百ヶ所の観音霊場を参詣したと同じだけの功徳(御利益)があるとされ、春秋の行楽シーズンには、多くの参詣者で賑わうところである。
昭和58年3月 埼玉県
(現地案内板説明文より)

三代将軍家光といえば家光の母はあの「江」ですから、家光の娘千代姫は孫となるわけです。
そうであれば今年の大河ブームに乗って…、若干無理がありますね。

三重塔に話を戻すと釘を使わない建造物というのはよく聞く話で、最も古い木造建築である法隆寺などがその一例ですから、江戸時代に建てられたこの三重塔は極々当たり前のように釘を使わずに建てられたといえるでしょう。
分りやすい技法としては、鉄腕ダッシュのDASH村で山口君が柱に細工しているものといえば理解しやすいかもしれません。

参考:【大工の手仕事】http://www9.ocn.ne.jp/~kinoie/

確かに手間はかかるのでしょうが、それだけ頑丈に造られたものといった所でしょう。

西福寺三重塔 その「三重塔」が目の前にあります。

さすがに木造建築では県下一の高さを誇る「三重塔」だけあって、その重厚感は見るものを圧倒する…、程ではありませんが荘厳なイメージは強烈です。

西福寺三重塔 そして方角を表す十二支の彫刻がこちらです。

参道に面した方角に左から戌・酉・申 の順に並んでいますので、酉が西で、戌が北西で申が南西となるわけです。
こうしていくと、北は子、東が卯、そして南が午ということになることから、残り3面にある各3つの彫刻の中央に配置されるのです。
中々便利な磁石代わりかもしれません。最もこの十二支は子が0時というように時刻も表していますので、三重塔の影でそれが判れば時計代わりにもなるという…、訳にはいかないですね。

境内堂宇 鐘楼 先を見ると境内の両脇には様々な堂宇、石造物等があります。

右手には鐘楼、弘法大師供養塔、荒神社、百観音供養塔があり、左側には水屋、地蔵堂、石灯籠などがあります。
これらは江戸時代の信仰の篤さを物語っているそうです。

西福寺をめぐる庶民信仰
西福寺が地域の庶民の信仰生活と深く関わっていたことは観音信仰以外からも読みとることができる。
境内には、寺周辺地域の守り神であった地荒神の社、地蔵・閻魔・奪衣婆の三像を祀る地蔵堂、講中という字が見える石造物、西南戦争で戦死した兵士の石碑などがあり、境内から少し離れたところには西福寺が管理している稲荷社もある。昭和30年頃までは、住職による加持祈祷も行なわれていたという。
江戸から現代に至る庶民の信仰の諸相を知る格好の材料が、ここ西福寺には豊富に残されている。』(現地案内板説明文より)

荒神社 「荒神社」とは荒神信仰に基ずくもので、大別すると屋内に祀られる三宝荒神と、屋外に祀られる地荒神に分けられるそうです。

三宝荒神は不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、かまど神として祀られることが多く、地荒神は 山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格から、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものとして祀られる場合が多いようです。いずれにしても極々身近な神として庶民信仰となったのでしょう、特に江戸時代では火災が何より大きな禍でした訳ですから。

地蔵堂 一方、地蔵・閻魔・奪衣婆の三像を祀る地蔵堂とあるように、江戸時代においては地蔵と閻魔に二股をかけ極楽往生を願う地蔵・閻魔信仰と共に、一説では閻魔大王の妻であるという「奪衣婆」もまた疫病除けや咳止めに良いとされる民間信仰の対象となったのです。

地蔵堂の地蔵・閻魔・奪衣婆の三像 そこで地蔵堂では地蔵・閻魔・奪衣婆の三像が祀られることになるという、まさに庶民信仰の代表格といっても良い地蔵堂なのです。

石燈籠 台徳院殿銘の石灯籠 因みに地蔵堂の隣の石灯籠には、「台徳院殿 寛永9年7月…」と刻まれていますが、台徳院殿とはまさしく徳川2代将軍徳川秀忠の戒名で寛永9年1月に亡くなっていますので、それを弔う灯籠かもしれません。

まさしく千代姫においては祖父なのですから。

このようにして庶民信仰が盛んになると寺院及び界隈も賑わい、やがて信仰の場以外のエンターテイメントの場としても人々が集まるようになってきます。

江戸の日帰り行楽園
荒川を渡ってすぐの川口宿は江戸から約3里5丁(12.5km)、西福寺のある西立野まで足をのばしても、江戸人の足なら日帰りも可能な距離だった。途中の川口宿や鳩ヶ谷宿で1泊することもでき、当時の庶民の行楽の場としては手頃だったと思われる。
また、江戸から近いわりに山里の風情を残す西福寺周辺は、江戸の文人たちをひきつけていた。文化11年(1814)から刊行された『遊歴雑記』の著者・津田大浄も、西立野を訪れて百観音に参詣し、野点や連句を楽しんでいる。
西福寺周辺の路傍を注意してみると、当時の人々の往来を偲ばせるような、道しるべや庚申塔の類を多く見つけることができる。
(現地案内板説明文より)

ここに記述されている津田大浄は文化文政時代の人で、先祖が織田信長の甥にあたる津田隼人正を先祖とする僧侶だそうです。そのような家系だからこそ風雅を楽しめる余裕があるのでしょう。
庶民としては、現在私がしている散策と同じようなことをしていたのではないでしょうかね。

観音堂 そして参道の突き当たりに大変立派な「観音堂」があります。

百観音信仰
西福寺観音堂の本尊である如意輪観音の胎内には、西国・板東・秩父あわせた百カ所の観音像が納められており、このお堂に参詣することで、百カ所の札所をめぐったことと同じ御利益があるとされている。『新編武蔵野風土記稿』には、観音堂の再興は元禄3年(1690)と記されている。また堂内には、三重塔と同じく徳川三代将軍家光の娘・千代姫から寄進された金箔押しの百体の観音像が安置されている。
毎年8月9日の大護摩の日には、46,000日分の縁を求めて現在も多くの参詣者が訪れる。一カ所で100カ所分、一日で46,000日分の功徳が得られるこの日は観音信仰が盛んであった江戸当時も賑わったことだろう。明和2年(1765)に行われた三重塔修理の際には、百観音信仰の人気を裏付けるように、12,000人以上の庶民から寄進がありこの時の寄進者の名前を記した柿板が今も残されている

川口市指定有形文化財(彫刻) 木造如意輪観音坐像及び像内納入物  平成10年2月5日指定
当如意輪観音坐像は、西福寺観音堂の本尊で、高さは90cm、幅は55cmを測ります。この像を中尊として両脇に99体の観音像が安置されており、百観音と称されています。
『新編武蔵野風土記稿』によれば、観音堂は元禄3年(1690)の再興と記されており、この観音坐像も、腹内に納められている曲物製筒入りの99体の小観音像も、ともに同じ時期の作品と考えられます。像内納入仏に本体の如意輪観音坐像を加えると、都合100体となり現在本尊の両脇に並ぶ99体の観音は様式、手法から後の時期の製作によるものと思われ、この点から推して、あるいは当初この本尊と像内の99観音のみで「百観音」と呼んでいたのではないかと考えられます。
また、如意輪観音坐像は、江戸時代前期の彫刻としては出色の出来映えを示しているほか、像内に納入物を納める違例としても貴重なものとなっており、彫刻史、仏教史的な観点からも高い価値をもっています。 川口市教育委員会
(現地案内板説明文より)

観音堂 観音堂 残念ながら観音像などを拝むことはできませんが、由緒ある西福寺の観音堂ですから参詣する人は引きもきらないのでしょう。
ただ、観音堂の入口がサッシというのも若干興ざめです。

なで仏 堂の前には「なで仏」なる像が祀られています。

この像はビンドラ・バラダージャという釈迦の弟子で、十六羅漢の一人でもある菩薩だそうです。
日本ではこの名前を略して「おびんずる様」と呼び親しまれているそうで、病んでいる部位をなでると除病の功徳があるといわれています。
勿論、目を撫でできたことは言うまでもありませんが…。

川口市保存樹木の「チャボヒバ」 観音堂の右手には大きな樹木があります。

川口市保存樹木の「チャボヒバ」という初めて聞くちょっとユーモラスな名前の樹木です。
この「チャボヒバ」とは、ヒノキの園芸品種でヒノキに比べると枝葉が短くて密生する性質があり、その様子を短足のチャボに例えて名付けられたそうです。成長がゆっくりで庭木として多用され、洋風和風を問わないところに使いやすさがあるようです。
さすがに安行だけのことはあって、植木が神木になっているのは流石です。

観音堂裏手の石仏 まだまだ西福寺には見所が多いようで、観音堂の裏手にも古い石碑が並んでいます。

これらも江戸時代の石碑のようで、延宝、享保といった年号が刻まれているものです。

本堂 観音堂の右手にある堂宇が、所謂「本堂」で、本尊は阿弥陀如来だそうです。

埼玉県ときがわ町の慈光寺などもそうですが、観音霊場では観音堂が立派なのでついそれが本堂と思ってしまうのですね。

寺院の歴史の他に江戸時代の文化の一端も知ることができ、まさに江戸時代そのものといっても良い香りにつつまれた「西福寺」でした。

赤山城趾 山王三社

「西福寺」だけでも結構歴史を堪能できたのですが、これが最初ですから恐るべし安行かもしれません。

安行も広いのですが、今回は東京外環道路と首都高に挟まれたエリアを中心に散策をしていきます。
「西福寺」からは県道161号線を辿ると次なる目的地「赤山城趾」に到着です。

赤山城址入口 赤山城址入口道標 十字路の細い路地の角に「赤山城趾入口」と刻まれた道標が立っています。

路地は西の方向に延びており先に進むと右側に神社があります。「日枝神社」です。

日枝神社鳥居 ちょうどここも十字路になっていて左折したところに鳥居があります。
左右に走る通りが元々は参道なのでしょう。

十字路に赤山陣屋についての説明があります。

県指定旧跡 赤山城跡(赤山陣屋址) 昭和36年9月1日指定
赤山陣屋は、関東郡代伊奈氏が江戸幕府の直轄地を治めるためその任地に設けた役所の一つで、寛永6年(1629)頃伊奈家3代忠治によって創建されたものである。
陣屋の構は、右図の通りで、約24,000坪の広さがあった。陣屋の中枢部には、表御門・裏御門・御家形・御役家・御的場といった施設があり、北側と西側は二重の堀でかこまれていた。外堀には水があり、内堀は空掘りで、この内側には土塁が築かれていた。また、東側には山王三社と家臣団屋敷、南側・西側にも家臣団屋敷があった。この屋敷は、堀の内に17、外に41あり、そのほかに門番屋敷などもあった。屋敷の規模は1町前後のものが一番多かった。
陣屋の内外の道路はT字路で直角に曲がっているものが多く、その両側には家臣団の屋敷や社寺が配置され、赤山陣屋はあたかも小さな城下町のようであった。社寺には、山王三社といわれる山王社・八幡社・天神社と、伊奈家の菩提寺である源長寺があった。
なお、伊奈家は、寛政4年(1792)12代中尊の時、幕府政治の変化と家中の騒動がもとで改易され、赤山陣屋も廃止された。このため陣屋の建物や家臣団屋敷は取り壊されて畑地となり、今は空掘りと社寺を残すのみである。
昭和54年3月 埼玉県教育委員会・川口市教育委員会
(現地案内板説明文より)

日枝神社拝殿 すぐ横に社号標と拝殿があります。

赤山、山王神社界隈の風景
この山王三社は、学問の神様である天神社、武家の守護神である八幡社、そして徳川家に縁の深い山王社によって構成されている。三社は往時は、境内に各々鳥居を構え、別棟として建立されていたが、陣屋廃絶後幕末までは荒廃に任せていた。明治になり合祀し、赤山村の村社として祀り現在に至っている。今に残る築山は、空堀掘削時の廃土を盛り、築いたと伝えられている。
現在は、築山と参道を残すのみとなっているが、かつての社域は、参道の先に山王沼新田が広がっており、また、陣屋の守り神として鬼門にすえられた御陣山稲荷とともに、広大な陣屋の中での神域を構成していた。
八幡社は、伊奈家の守り神として赤山伊奈家三代忠常により創建された。宝永4年(1707)五代忠順は父母の報恩と伊奈家の繁栄を願い、宮域に松や杉を植えて整備し、安山岩小松石製の石祠を建立した。
(現地案内板説明文より)

山王社とは山王信仰に基ずく愛称で、山王信仰をはじめたのが大津市の日吉神社で、主に日吉神社、日枝神社が神社名称として使用されています。一般的に山王日枝神社と呼ばれることが多いでしょう。
日枝神社の拝殿自体が石段の上にありますので、ここ自体が築山なのでしょう。

八幡社石祠 境内を見渡すと左手にその八幡社である石祠があります。

川口指定文化財歴史資料 八幡宮石祠  昭和52年5月10日指定
伊奈半十郎忠順が宝永4年(1707)11月忠常の子(第2子)として、父母の報恩と伊奈家の繁栄を願って宮城を整備し、山王社の傍らに建碑した安山岩小松石製の石祠です。祠とは、ほこら・やしろ・みたまやなどの意味があることから、この石製の祠は八幡神のみたまやということになります。
裏面に刻まれた銘文は、次のように読み下すことができます。
「当初の八幡宮は、予(忠順のこと)の祖父忠常(伊奈家五代)が、寛文十三年(1673)七月剏て建立せし所なり、予はもとより慈母の願望有る故に、宝永四丁亥載秋九月其の宮境を清めここに松杉を樹し、以て経界と為し再び其の旧制に経営す。尚乎ば神助を以て子孫の繁栄せんことを。領主伊奈源忠順之を誌す。宝永四丁亥年十一月吉辰」
川口市教育委員会
(現地案内板説明文より)

何ともシンプルな祠ですが、このような石祠を見るのは初めてです。

境内の石碑 その他にも古い地蔵や石碑などが多く残されているようです。

日枝神社本殿 そして日枝神社の本殿に回ってみます。かなり高い築山ですが、その一番高いところに本殿があります。

川口指定有形文化財 建造物  赤山山王権現社本殿 付覆屋・狛犬
本殿は、赤漆塗りの一間社流造で、屋根は柿葺です。見社の規模は、桁行1.667m(5尺5寸)、梁間1.545m(5尺1寸)、向拝の出は1.424m(4尺7寸)を測ります。斗、虹梁、木鼻などに禅宗様式の特色が窺える一方、蟇股のの曲線や彫刻、虹梁の渦文様、木鼻の巧みな装飾や技法は、江戸時代初期の様式と技法を今に伝えており貴重です。
また、内部からは元禄6年(1693)墨書銘のある木製黒塗り金箔押しの狛犬一対が発見されました。本殿の創建時期を知る上で貴重な資料であることから、覆屋と共に付指定されています。
川口市教育委員会
(現地案内板説明文より)

「柿葺」と書いて「こけら葺」と読むのだそうで、「こけら=薄い木片」を重ねて敷き詰めた屋根のことを指すのだそうです。
劇場などの初興行を「こけら落とし」といいますが、この場合の「こけら」と「柿」は同じ意味で、舞台が完成した時に木屑を掃き落としたことに由来しているそうです。

日枝神社本殿 覆屋があるので本殿を垣間見ることもできませんが、覆屋を見るイメージからは到底想像もつかない美しい本殿なのでしょう。

更に金箔押しの狛犬というのも珍しいのでしょう、一見してみたいものです。

ここまで見てくると最後はやはり三社の最後の天神社を参拝しなければならないでしょう。

天神社 境内を見渡すと「日枝神社」拝殿の横に境内社として立っているのが恐らく「天神社」でしょう。

これで三社をお参りすることができました。

まさに伊奈家の鎮守といったとろでしょうか。

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