安行散策 #6

「樹里安」「植物取引センター」「金剛寺」と安行の謂わば産業のメインストリートを巡ってきた形ですが、この後は安行の歴史を再び辿ります。

密蔵院

「金剛寺」のあとは車で10分ほどの場所にある「密蔵院」に向かいます。
「密蔵院」は安行桜の名所として知られている寺院です。恐らく見頃は過ぎてしまっているでしょうが名残でもあればラッキーです。

密蔵院参道入口 密蔵院参道入口ベンチ 密蔵院参道入口と刻まれた大きな石碑から参道が始まり、その脇には可愛らしい動物をあしらったベンチが置かれています。

参道の安行桜 参道を少し進むと、その安行桜が並んで植えられていますが完全に葉桜です。
名残も何もありませんでした。

傍らの掲示板によるとこのように記載されています。

安行桜
沖田雄司氏の研究改良によるもので、又の名を沖田桜とも呼んでいる。
一般の桜の開花期よりも早く咲き出し、赤味を帯びた花色は艶やかでその華麗さは人々を堪能させて余りあり、密蔵院に詣でる善男善女を楽しませている。
(現地案内板説明文より)

来年のお楽しみというところでしょうが、安行桜という品種も珍しいので密蔵院のサイトの写真を拝借です。

参道の安行桜 参道の安行桜 《写真:(C)密蔵院》

なお、密蔵院のサイトでは、この安行桜の生みの親の沖田氏にインタビューしていますので参考に。

参考:【密蔵院安行桜の生みの親 http://www.mituzoin.jp/presen_sakura_talk.html

安行八景 更にその近くの参道脇には、もうお馴染みになりかけた「安行八景「久保山と密蔵院」昭和62年4月18日選定 安行観光協会」看板が掲げられています。

本日3ヶ所目の安行八景で、久保山という意味がよくわかりませんが安行桜だけでもその価値はあるでしょう(写真を見ただけですが)。

密蔵院境内 密蔵院山門 参道をもう少し先に行くと「密蔵院」と刻まれた寺号標があり、その先に山門があります。

山門由来
明治17年(1884)時の第三十世住職三池照鳳大僧正(後の成田山新勝寺第十四世貫主)によって薩摩藩島津家江戸屋敷の門を移築したものである。
薩摩藩は往時「上屋敷」を芝三田に(現、港区芝5丁目のNECの敷地)、「中屋敷」を外桜田(現、千代田区内幸町1丁目の帝国ホテル附近)、「下屋敷」を芝高輪南町に(現、港区高輪3丁目のホテルパシフィックの敷地内)、又、「蔵屋敷」と称して芝田町一丁目(現港区芝4丁目)の海ぎわに有していた。
この内、当山の山門は「中屋敷」の「中門」であってその当時より「中屋敷」の「中門」はどれも「黒門」であったという。そして、この中屋敷は薩摩藩主が江戸へ下向したとき必ず使用した所である。
正面の大門は黒門の代表的構築として、国宝に指定され保存されていたが昭和20年(1945)おしくも空襲により焼失した。
「中屋敷」の遺講中、現在確認できるのはこの山門のみであり、まことに貴重な文化財と言えよう。合掌
(現地案内板説明文より)

中屋敷のあった外桜田は桜田門外の変のあった周辺で、元々はここが薩摩藩の上屋敷だったそうですが、手狭になったために三田に上屋敷を構え、ここは中屋敷となったそうです。
三田の上屋敷は、西郷隆盛と勝海舟の会見の場として現在でも有名ですが、ここ中屋敷は藩主が登城する際の仕度をする場所として、この屋敷を利用する程度のものだったので屋敷自体の知名度はありませんが、その後の明治になってこの中屋敷跡に鹿鳴館が建てられたことで知られるようになる程度です。ちょうど鹿鳴館の建てられた明治16年の翌年に移築されたということでしょう。
したがって現在では何の遺構もない薩摩藩邸中屋敷の黒門ですから、文化財に指定されていないとしても大変貴重な文化財といえるでしょう。

お砂踏み 山門を抜けて本堂前に至る参道の踏み石に四国八十八ヶ所が刻んであります。

所謂、お砂踏みですね。正式な踏み方というものがあるそうで、利き足を一歩踏み出して次いで残りの足を添え、弘法大師の名号「南無大師遍上金剛」と唱え、これを繰り返すのだそうです。ただ踏んで歩けば良いっていうわけではないのですね。

庭園 参道の右側は綺麗に整備された庭園になっています。

本堂 本堂で参拝を済ませます。

特に詳細な由緒などがないので、オフィシャルサイトからの引用です。

五百五十余年の歴史と格式
文明元年(1469年)に中興された密蔵院は、自然の息吹に溢れた川口市安行の緑の里にあり、550余年の歴史と、風格を醸し出しています。
御本尊は、平安時代藤原期に創られた地蔵菩薩像で、明治初期までは京都醍醐寺無量寿院の末として、本寺の寺格と御朱印十一石、四十四ヶ寺の末寺を有し、川口、浦和、草加、越谷、大宮などの各寺院に影響をもたらした川口市内有数の古刹です。
(密蔵院オフィシャルサイトより)

中興されたのが室町時代ですから、開基はやはり本尊と同じ平安時代だったのでしょうか。
金剛寺と勝とも劣らないといったところの「密蔵院」です。

本堂の左側には3つの堂宇があります。

不動堂 1つは「不動堂」です。
不動明王像以外に秘仏の文殊菩薩があるそうで、数世紀の間秘仏として祀られているそうです。

大黒天 もう1つは「大黒堂」で、網掛け大黒天ともよばれているそうです。

川口七福神の1つで、この大黒天像は脇侍の狛犬と共に左甚五郎の作と伝えられていて、この狛犬は入魂の出来映え故に、夜ごと出歩くようになったそうです。
そこで心配した住職が出歩かないように尊像の前に網をかけたところから「網掛け大黒天」と呼ばれるようになったからです。

鐘楼 もう一つが手前の「鐘楼」です。

鐘楼堂写佛天上画
古来写佛は佛道修業の一つと言われております。
今回、鐘楼堂天上に取り付けられた仏画は当山写佛教室の生徒各氏が、故星野雅秋先生、河北秀真師の指導を多年受け、茲に1つの区切りとして完成したものであります。
また、写佛教室は月1回、更に春秋の彼岸中日に開催され、多くの方々が研鑽に励んでおります。
皆様方のご参加をお勧めいたします。
一佛礼拝 謹鐘一打
平成22年 春彼岸
(現地案内板説明文より)

鐘楼堂写佛天上画 その天上画がこれです。

よくこういった天上画は見かけますが、一般の人のは珍しいのではないのでしょうかね。

堂宇を巡ってから、本堂の裏に回ってみます。
本堂の裏手はまさに秘密基地のように、様々な興味深いものが祀られています。

茶筅供養塚 一般的には珍しくないのかもしれませんが、私は初めて見ました「茶筅供養塚」です。

密蔵院でお茶会が開催されるたびに供養しているそうです。

十六羅漢像 通り沿いにずらりと並んでいるのが「十六羅漢像」です。
最高位の修行に達した聖者達です。

板碑群 「十六羅漢像」の脇の階段を上ったところにあるのが「板碑群」です。

埼玉県には非常に多い板碑ですが、これらもこの辺りに残されていたものでしょうか、これだけでも貴重なものです。

平将門供養塔 更にその上にあるのが「平将門供養塔」です。

平将門供養塔
当山本尊は慈覚大師作(平安時代・藤原期)とされる延命地蔵菩薩にして平将門守護仏として伝承されている。
将門は平安の浪漫を秘めた雄大な叙事詩としてその人物像は多くの人々を魅了している。
当山ではここに平将門供養塔を建立しその本尊縁起を後世に伝えんとするものである。
(現地案内板説明文より)

「平安浪漫を秘めた雄大な叙事詩」とは実にキャッチーなコピーなのですが、将門という人のイメージは何となくおどろおどろした感は拭えません。それは数々の伝説が残されているからだと思えます。
例えば、【2011年、初春風情】で訪れた成田山の調伏伝説をはじめ、将門が建設した都の伝説である王城伝説、晒しものの首が目を見開いたり、胴体を求めて東国に飛ぶ首の伝説、影武者に関する七人将門の伝説など数多くの伝説が残されています。
その伝説の一つとして、将門を祀った神社という祭祀伝説の一つとして、この本尊縁起となったのかもしれません。
その本尊との結び付きを表すものが、この供養塔と本堂が綱(これは宝布というらしいのですが)で繋がっているいることです。つまり将門供養塔は本尊のある本堂と常に向き合っているという配慮がなされているからなのです。
千葉県香取市にある真言宗の観福寺もまた、寛平2年(890年)尊海僧正の開基で、本尊は平将門の守護仏とされる聖観世音菩薩としている寺院だそうです。 神社では祭祀伝説も多いようですが、寺院では珍しいのかもしれません。

宝布 その将門供養塔から伸びている宝布の先の本堂には小窓のようなものがあります。

本堂の小窓 この窓からは「みかえり地蔵尊」が参拝できるようになっているらしいのですが、スモークフィルムが貼られていて拝見することができません。

「見返り」といえば菱川師宣の「見返り美人」が一番先に思い浮かべられ美をあらわす構図としての見返りですが、見返り仏としては、迷える人々を救わんとする心、自らの行動を振り返る心、思いやり深く回りを見つめる心、人々を導かんとする心を表しているのだそうです。
これは現住職の発願により、重要文化財でもある京都永観堂の本尊である「みかえり阿弥陀仏」像を模した新しい尊像なのだそうです。

といわれても結局拝むことができないのですが、何故か間近で写真に撮るとはっきり見ることができました。

みかえり地蔵尊 綺麗な彩色をされた艶やかな姿です。

非常に貴重な仏像なので直接拝むことはできないのでしょうかね。
でも何故近距離だと写真に写るのでしょうか…。

阿弥陀三尊と大日如来 将門供養塔の反対側は墓地になっていますが、墓地入口には阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩の所謂、阿弥陀三尊像が祀られ、奥には大日如来像が祀られています。

実に荘厳な雰囲気です。

古刹ではあるものの、堂宇も新しく伽藍自体が整備され美しく保たれています。荘厳・華麗な寺院といっても良いかもしれません。
安行桜と密蔵院の取り合わせは、流石に安行八景に相応しいといえるでしょう。…久保山は!?

安行原の蛇造り

「密蔵院」を後にして最後の散策地である「慈林寺宝厳院」を訪れる予定でしたが、途中に樹里安でみた安行原の蛇造りのある場所が近いようなので立ち寄ってみることにしました。

安行原の蛇造り 住宅地の一画にポカンと空いた地に蛇造りはありました。

安行原の蛇造り
所在地:川口市大字安行原
この祭は、毎年5月24日に行われ、五穀豊穣・天下泰平・無病息災なども祈願するため、長さ約10メートルの蛇をつくることから始まる。
午後3時頃、出船のドラに似た鐘の音を合図に安行原のうち、清水、半縄、向原、中郷の四つの字の村人が藁をもち集まってくる。
先ず、この一年間欅の大木につけられていた蛇をおろし、次に各人がその蛇をみながらそれぞれ協力して昨年と同様な蛇のかたちをつくり上げていく。大蛇の頭部は、木の枝で枠をつくってこれに藁を組み合わせたものを二組み作り、それらを重ね合わせて片方が上下に開くようにする。これが大蛇の口であり、その中に舌をつけ、密蔵院の住職によって書かれた祈願文をしっかりと結びつけ、耳、鼻、ひげ等が順次編まれて、これらを所定のところにつけて蛇の頭ができあがる。
次に、胴は藁をねじりながら三つ編みにして約10メートルの長さにつくり、最後に頭や胴等が全て組み合わされて蛇造りが終わる。
出来上がると、大欅の股のところに頭を、胴を幹に巻き付けて安置し、百万遍の行事を行って、この祭は終わる。
昭和58年3月 埼玉県
(現地案内板説明文より)

所謂、町に疫病や災害が降りかからないように祀られるもので、庚申塔などと同じような信仰での祭りといえるでしょう。

安行原の蛇造り 木の横に高い台の上に載せられているのが大蛇です。

こちらは樹里安のレプリカと違い、風雨にさらされていますので色といい形といいにじみ出る迫力を感じます。
先ほど訪れた密蔵院の住職の祈願文を付けていることから、そもそもは密蔵院での祭祀だったものなのでしょうか、それとも地区内の寺院だったからでしょうか。それにしても、このような神事が神社ではなく寺院が司っているのは珍しいのではないでしょうか。

最後の百万遍の行事というのは、役目を終えた昨年の蛇を空き地の中心に火を焚いて燃やし、その周りに長さ8メートルの麻縄に通した数珠玉によって作られた数珠を持って輪になります。数珠を回しながら掛け声をかけて数珠を引っ張ります。このとき引っ張られた麻縄が切れて数珠玉が飛び散ると、その年は稲も元気に育ち豊作となるといわれている行事なのだそうです。
これらを含めて、現在この「安行原の蛇造り」は川口市の指定無形民族文化財となっています。
実際に見る機会はそれほどないので、詳しく見せてくれるサイトがありましたので掲載しておきます。

参考:【OJerBlog】http://ojerblog.web.fc2.com/22Blog/2008-2/2008-05-24Jazukuri.html

安行原の蛇造り 奥には、またまた見慣れた看板が設置されています。「安行八景「蛇づくりと地蔵さん」昭和62年4月18日選定 安行観光協会」とあり、本日4ヶ所目の八景地です。

文化財ということで年一回の八景ですが、風物詩として貴重なものなのでしょう。

安行原の蛇造り 隣にあるのがその地蔵尊と庚申塔です。年代等は分りませんがやはり結構古いもののようです。

蛇造りが江戸時代から行なわれている祭りですので、やはりそのくらいの歴史を持っていると考えられる地蔵尊です。

宝厳院

安行散策の最後は「宝厳院」です。地域では慈林薬師として親しまれているようです。
ここを最後としたのは時間的なものもありますが、この寺院が川口市最古の寺院ということから最後にふさわしく(って、余り整合性は無いのですが…)訪れることにしました。
「安行原の蛇造り」からやはり10分くらいでしょうかね。

慈林薬師 道路に面した広い駐車場の一画に参道があります。

安行八景「慈林薬師」 山門の脇にはこれで5ヶ所目の安行八景プレートがあります。
「安行八景「慈林薬師」昭和62年4月18日選定 安行観光協会」です。

慈林薬師参道 参道沿いにはやはり安行らしい数々の植木が植栽されています。

宝厳院仁王門 宝厳院仁王門 参道をしばらく進むと石段がありその上に「仁王門」があります。

川口市指定有形文化財 建造物 宝厳院仁王門 平成13年3月21日指定
築造年代は不明ですが、元禄11年(1698)7月銘と文政9年(1826)9月銘の二つの棟札が発見されており、斗と、虹梁の若葉文様、獅子頭、拳鼻の製作手法などから、文政9年に再建されたものと考えられます。その後、記録によると明治18年(1885)に屋根瓦葺、昭和59年(1984)に本瓦葺型の銅瓦葺に葺き替え修理を行なっています。なお、仁王門の横に据えられている鬼瓦等は、明治18年の改修の際に取り外されたものです。
この仁王門は、江戸時代化政期(文化文政期:1804から1830)の建築様式の特色を色濃く残し門柱の前後に控柱を左右4本ずつ据えた典型的な三間一戸の「八脚門」として貴重な建造物です。屋根は切妻造りの銅瓦葺、桁行は7.802m(25.75尺)、梁間は4.636m(15.30尺)、棟高は8.939m(29.50尺)を測ります。
正面には阿吽の金剛力士像が、また、背面には風神像、雷神像が安置されています。なお、仁王像は像内から発見された札によると、元禄5年(1692)に江戸馬喰町の仏師・市衛門が彫ったものと伝えられています。川口市教育委員会
(現地案内板説明文より)

仁王像 仁王像 左の写真が吽像で、右の写真が阿像です。

保護の為ガラスで仕切られているので、若干分りにくいかも知れませんが、歴史と気迫を感じさせる重厚感溢れる「阿吽像」ですが、一部の彩色が非常に綺麗で、コントラストの強い像です。後の時代に彩色されたものでしょう。

風神・雷神 金剛力士像の後ろには風神・雷神像があります。

欅の一刀彫だそうで、木の色艶が非常に綺麗ですから、結構新しいものかもしれません。

鐘楼 本堂 重厚間ある仁王門を抜けると、左側に「鐘楼」があり、右手に「本堂」があります。

宝厳院
宝厳院は、真言宗智山派の寺院で三勅山慈林寺と号し、かつては慈林薬師堂の別当寺であったため、地元では慈林薬師の名で親しまれています。もとは醍醐三宝院(京都市伏見区所在)の直末寺で、寛永19年(1642)に三大将軍徳川家光より30石安堵の朱印状を賜っています。
寺の縁起によると、薬師堂は平安時代、天平13年(741)に45代聖武天皇の勅願により行基がこの地を訪れ、光明皇后の病気平癒のために伽藍を配し、薬師仏を造作し祀ったと言われています。また、55代文徳天皇の勅願にて円仁(慈覚大師)が再興し、56代清和天皇より寺領を賜り、これにより三勅願寺とも称されました。
薬師堂内にあった厨子の中仕切り板には、応仁元年(1467)に諸堂が焼失し、文明3年(1471)の十穀阿吽和尚が再建を目指しましたが、応仁の乱により中断し、文明15年(1483)に地頭、別当、代官などによって再建されたとの墨書銘が記されており、これには、再建に携わった大工や小工の名前も書かれています。
現在、境内には不動堂、地蔵堂などが配され、武蔵国新四国八十八ヶ所霊場の最終札所、足立百不動尊の三十一番札所となっています。
(現地案内板説明文より)

薬師堂は1270年の歴史をもつという古刹です。川口市内は当然ながら、埼玉県内でも古さでは何本かの指に入るのではないでしょうか。ただ、残念なことに堂宇が仁王門以外はすべて昭和時代の再建であるということですね。
しかしながら本堂はかなり立派で、造りも一般的な寺院の造りとは違うようです。また、一般的には三重塔や五重塔にある相輪が、本堂にあるというのも珍しいのではないでしょうか。
因みに説明にある小工というのは初めて知りましたが、大工の下にあって、建物の修理・営作を司る技術者のことだそうです。
大工と小工とは洒落みたいですが、実際にあったのですね。

薬師堂 本堂の先にあるのが「薬師堂」です。

ここがまさにその歴史を司った薬師堂なのです。これだけの歴史を持つだけに「朝日薬林寺の岡の薬師」と「領家光音寺の薬師」とともに川口三薬師といわれているようです。
伽藍に歴史を偲ぶものは少ないのですが、この周辺の地名が安行慈林と言ったところが市内最古の名刹といわれる所以なのでしょう。
市内最古の古刹として、安行八景に選ばないわけにはいかないでしょうね。

川口市は故郷ながら、これほど見所が多いところとは思いもよりませんでした。
最も今回の散策を小・中学生の時に行っても決して面白いとは感じないと思いますが、まあ、年を重ねてから訪れる場所としては非常に興味の湧いてくる歴史ある町でした。

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