安行散策 #7

「宝厳院」を後にして帰宅したのですが、安行八景のうち5ヶ所も回りながら最後まで回れなかったのが妙に悔しいやら勿体無いやらで、思い起って翌日の17日、日曜日に再度安行に出かけたました。
この日は、午後から用事もあり、基本的に安行八景の残りの3ヶ所を廻るだけですから昼までには帰るつもりで朝早めに出発しました。

持宝院

本日最初の散策は「持宝院」からです。

持宝院 当然あるのです、あの看板が。「安行八景「俳句と持宝院」昭和62年4月18日選定 安行観光協会」という事で6ヶ所目です。

第一印象は綺麗な境内ですが、それ程広そうではない寺院のようです。

持宝院句碑 境内に入るとすぐ右手に句碑があります。

「倒連今り 萩乃中なる女郎花」柳家、「墓原乃隅の 空地や 萩の花」麦圃、「馬下りて休む 小道や 萩乃花」福吉という3句が刻まれています。
この句がいつの頃のものなのか、そして作者がどういった俳人なのかは全く判りませんでした。また、この句がこの寺院、あるいは安行との関わりなどが全く判らないだらけなので、この句の価値あるいは八景としての選定理由に今ひとつ理解に苦しむところではあります。

震災で倒れた燈籠 句碑の先の参道の両側にある燈籠は無残にも倒れています。これも先の東日本大震災によるものでしょう。

今回の被災地の東北に全く無関係ではないので、特に被災地の人たちの気持ちが思いやられます。

六地蔵 境内の左側には六地蔵他の地蔵尊が並んでいますが、どの地蔵もカラフルないでたちです。

檀家の方が作られたのでしょうか、温かな気持ちは伝わってきますが、そろそろ衣替えの季節でしょう・・・・

古い庚申塔 その背後には幾つかの庚申塔があります。

その一つには「文政二己卯年二月・・・」と刻まれていますので、1819年、江戸時代後期の庚申塔です。

詳細は不明ですが、「持宝院」の開山は天正元(1573)年で、天和2(1682)年の栄慶が中興の祖といわれているそうです。
安土桃山時代の創建ですから古刹といえるでしょうが、その歴史を偲ばせるものはこの庚申塔だけのようです。

本堂 本堂で参拝です。

それ程大きな本堂ではありませんが、綺麗で新しいのは再建されたのが比較的新しいからでしょう。

庭園 特に目を見張るような興味深いものはありませんが、庭園はさすがに安行というだけあって綺麗に植木が植栽され手入れされています。

しっとり落ち着いたこじんまりとした境内に癒されるかもしれません。

安行氷川神社

「持宝院」の後は車で5分程度の距離にある「安行氷川神社」を訪れます。

安行氷川神社 この日2ヶ所目、通算7ヶ所目の八景地である「安行八景「ふるさと歩道安行氷川神社」昭和62年4月18日選定 安行観光協会」です。

このふるさと歩道というのは、かつて埼玉県の単独事業として約30コース程度が整備されていたもので、現在は各市町村に管理権限が委譲されているのですが、権限を引き継がなかった市町村のコースは整備が打ち切られているそうなので、ここも現在は管理されていないふるさと歩道だったのかもしれません。
また、ルートははっきりわかりませんが、日本ウオーキング協会の「美しい日本の歩きたくなるみち500選」として、「植木のさと安行・緑と歴史をたどるみち」と紹介されていますので、散策やウォーキングに相応しい場所であるということは間違いないのでしょう。

境内はかなり小さい部類でしょうが、参道両脇には杉の木が並んでいます。
氷川社といえば埼玉県、東京を中心とした地域に多く、さいたま市(旧大宮市)の氷川神社が武蔵国一の宮ですから、各所に勧請されているのは当然で、現在は250社以上あるようです。

江戸・安行植木業者献碑 参道を進むと幾つかの石碑がありますが、中に割れてしまった部分を縄で押さえている石碑があります。

これは江戸・安行植木業者献碑という石碑だそうで、文久3(1863)年9月に建立されたもののようです。
建碑者の銘には江戸や上駒込村の名前が確認できることから、吉田権之承をはじめとした安行の植木屋と江戸近隣の植木屋との交流の証といえる貴重な石碑といえます。

拝殿 正面が拝殿です。
綺麗な朱色ですので、ここも最近修繕されたのでしょう。

本殿 祭神は素箋鳴尊で、本殿もまた新しく綺麗です。

本殿裏のクスノキ 本殿の後ろにそびえている樹木が川口市の保存樹木であるクスノキです。

クスノキは、各地で天然記念物になっているほどの古木・大木は枚挙にいとまないほどの樹木なので、50、60年の樹齢ではホンの駆け出しのようなものですが、それでも存在感ありありです。
これからも安行氷川神社のシンボルとして、何千年も生きていくのでしょうかね。
山椒は小粒でも・・・、の喩えどおり、小さくても貴重な財産をもつ神社でした。

そして周辺を散策すると、確かにこの周辺は植木屋が多いようです。
植木業社 植木業社 植木業社

このように幾つかの植木屋が多くある地区のようです。
ある意味その分自然が多いという環境にも良い町なのです。

自然溢れる安行氷川神社周辺と考えれば、確かに安行らしい風景とも言え、安行八景としても相応しいといえるでしょう。

平岡坂のケヤキ並木

平岡坂のケヤキ並木 ここまでくれば行き着くところは一つで、当然最後は「安行八景「安行街道平岡坂のケヤキ並木」昭和62年4月18日選定 安行観光協会」です。

安行街道とは現在、正式には「埼玉県道・東京都道103号吉場安行東京線」といい、さいたま市緑区の東浦和駅前を起点に、さいたま市、川口市、草加市を経て東京都足立区にいたる街道です。
特に由来があるわけでもない街道ですが、このケヤキ並木は170、180年前に地元の平岡氏という方により、防風林として植林されたもので、嘗ては道路(街道)の両側にあったそうですが、現在では片側に10本ほどのケヤキが残っているのが名残のようです。

平岡坂のケヤキ並木 平岡坂のケヤキ並木 八景としてはただこれだけなので若干拍子抜けの感もあるのですが、実際にケヤキ並木を目の当たりにすると、その大きさに目を奪われます。

人や車と比較するとわかりやすいですが、とにかく大きな樹木なので、そこだけをクローズアップすれば十分八景にも耐えられる光景といえるかもしれません。

ここで余談ながら、安行街道の「平岡坂」と名前の付いた平岡氏というくらいですから、恐らく当時の名家だったのではないかと推測される「平岡」氏を調べてみました。

平岡 足立郡原村(川口市) 前項の甲斐国御代官平岡七兵衛の後裔説は附会なり。
風土記稿原村条に「旧家七兵衛、氏を平岡と称す。家譜及び古文書を蔵す。其の譜によれば此の家・山内の上杉より出でたり。上杉憲房が子憲寛が時に至り、二男某・家名を鶴岳と称せしが、其の孫対馬守義政・平岡氏に改めしより、三代の孫七兵衛光長・当村に住せし後、子孫連綿して、今の七兵衛まで七代爰に住する由を載す。されど此の家系は全く後人の手に成しものにて、ことごとく信ずべきものにあらず。按ずるに系譜に載たる憲寛が二男は鶴岳三郎左衛門と云しにや、此の人・文書によれば、永禄の頃、下総国小金の城主高城下野守胤辰に仕へ、同国葛飾郡矢切村を領せし人と見ゆ。又其の後は太田三楽の家人となりしにや、資正が文書に平岡孫六殿と載せたるあり。この孫六は前に出したる義正が子にして、家系には孫六郎義行と見えたり。
当時のものなりとて、朱札の具足一領、阿字の捺物、及び古文書などを蔵す。これ等によりても、古き家なることは知るべし。されどこの家一度御当家へ召出され御代官など勤めしが、後故ありて子孫当村に土着せしにや。寛永十一年酒井因幡守へ甲州に於て千石賜はりし時、御勘定奉行より同国を支配せし御代官へ出せし證状あり、其宛に平岡二郎右衛門、同七兵衛、松木七郎兵衛と見ゆ。これによれば当村に来り住するは寛永より後なるべし」と見ゆ。
平岡文書に「太田三楽斎資正は、家臣平岡孫六の長瀬における戦功を賞す」。「戊子四月十八日(天正十六年)、飯塚不作の田畠の事、七年荒野に相定め候、屋敷ともに何事も不入にて出し申し候。ひらおか対馬守殿、松千代丸印」とあり。
平岡氏は原村出身の出稼衆にて岩槻領飯塚村に屋敷を構えて、同村鶴岡氏宛ての永禄九年文書は姻戚関係などにより平岡氏所蔵となったのであろう。岩槻落城後は原村へ帰農す。立野村西福寺弘化三年百番観音に原村平岡七兵衛。明治九年戸長平岡七兵衛・天保三年生。明治二十九年地租二百五十円以上大地主名簿に平岡七兵衛。貴族院多額納税者議員互選人名簿に明治四十四年農業平岡賢三郎・明治十二年生・国税八百八十三円・県下七十四位、大正十四年平岡賢三郎・国税千八十二円・県下百六十八位あり。九戸現存す。
(埼玉苗字字典より)

足立郡原村は明治までは存在していたようで、1889年(明治22年)町村制施行に平行して安行、赤山領領家、原、慈林、北谷、苗塚、小山、花栗、藤八新田、吉蔵新田の8ヶ村2新田が合併し安行村となったようです。その後、1956年(昭和31年川口市に編入され、安行村は消滅したのですが、現在ちょうどこのケヤキ並木のある地番は「川口市大字安行原」なので、恐らく山内上杉家の家系の平岡氏ではないかと考えられます。
山内上杉家といえば、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつで、足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる由緒ある家系です。
その家系ですから、この安行にあっては大変な名家であったということから、街道もここを通過しているのかもしれません。
違った意味で由緒あるケヤキ並木といえるでしょう。

峯ケ岡八幡神社

これにて当初の目的であった「安行八景」を散策し終わったのですが、昼までにはかなり時間が有るのでもう少し散策を続けました。
先ほどのケヤキ並木のある安行原から南に進むと県道34号線に交わり、34号線を東に進むと草加市花栗となり、嘗て私の通っていた大学に行き着くのです。
大学への通学は川口駅から国際興行バス、あるいは東武バス(2社相乗り経路だった)でこの県道34号線を通っていたのを思い出しました。
その中で妙に憶えているのが峯八幡というバス停で、そのバス停名は「峯ケ岡八幡神社」から来ていたことから、折角なので寄ってみる事にしました。30、40年後にはじめて訪れる神社です。

峯ヶ岡八幡神社参道 県道34号線から続いている長い参道の両脇には燈籠がずらりと並んでいて壮観です。

峯ヶ岡八幡神社二の鳥居 暫く参道を進むと朱の鳥居が表れますが、実際には二の鳥居で、一の鳥居は34号線沿いにあったようです。

神門 石段を上がって鳥居を抜けて進むと神社門があります。

峯ヶ岡八幡神社
所在地:川口市大字峯1304
峯ヶ岡八幡神社は、平安時代の天慶年間(938から947)に源経基の創建と伝えられ、かっては足立郡谷古田領三十二か村(川口市新郷、安行の一部、草加市の一部)の総鎮守に列せられた由緒ある神社である。
御神体の木造僧形八幡坐像は、檜材寄木造りで、木造のしとね(敷物)の上に座し、袈裟をかけ、左手に経巻、右手に錫杖を持った高さ24センチメートル、肩幅12センチメートルの像で、胎内をえぐり頭部ははめ込みの方法をとった鎌倉時代のすぐれた木造彫刻である。胎内には、造像時の願文や経文等の36点が納められている。
胎内願文は、弘安5年(1282)7月23日に書かれたもので、「なもはちまんたいほさつ こんしゃうあんをん らいしゃうかならずみちひかせたまえ 弘安5年7月23日 清原光兼」(大きさ縦12センチメートル、横6センチメートル)とあるように、小紙片に子孫繁栄、病気全快、現世安穏、往生極楽等切実な願いを記したものが多い。いずれも当時の人々の安穏な生活を願う姿を偲ばせるもので、人々の心を知る貴重な資料である。
昭和58年3月 埼玉県
(現地案内板説明文より)

平安時代の創建とは驚きです。これについてはもう少し詳細があるようです。

峯ヶ岡八幡神社建立の歴史的背景
平安時代末、武蔵の国司には源経基や義家など、当時勢力のあった家柄の者が多く派遣されていましたが、次第に地元荘園領主達は源氏に土地を寄進したりして主従関係を結ぶようになりました。このようにして勢力を拡張した源氏は、東国の各地に氏の氏守である八幡神社を建立し、主従関係にあるものを氏子として寄らしめました。当神社もその一つで、社伝によると、天慶年間(938から47)に源経基が建立したとあります。経基は相次ぐ戦乱のおり、同社に詣で戦勝を祈願したと伝えられています。
治承4年(1180)、源頼朝は平氏を討つため伊豆に挙兵、当時奥州藤原氏のもとにいた弟義経も兄の挙兵に参加するため鎌倉へと赴きました。途中、こかわぐち(現在の川口)の渡しで兵をあらためたことが『義経記』には記されています。
鎌倉幕府成立後は、以前からの体制である知行国・荘園制度を温存させながら、新たに御家人を守護・地頭としてこれら勢力の中に割り込ませることにより、幕府と御家人の主従関係を強めていきました。かつては、足立郡谷古田領32ヶ村(新郷・安行の一部及び草加市の一部)の総鎮守でした。
(現地案内板説明文より)

ここには「武蔵の国司には源経基や義家など」と一括りで記載されていますが、もう少しこの歴史的背景をかみ砕いてみます。

源経基 先ずは唐突にあらわれた源経基についてですが、基本的には清和源氏の初代という大変な人なのです。

源経基の祖父は第56代の清和天皇なのですが、その天皇の孫が何故源氏となったかというと、これは平安時代以降の臣籍降下によるものなのです。
奈良時代の天皇の血筋が断絶したことを教訓として、平安時代には安定した皇位継承のため多くの皇子をもうけるようになったのですが、実際に皇位継承できる皇子は極少数に限られ、平安前期から中期にかけて皇位継承を閉ざされた皇族が多数発生する事態となりました。こうなると皇位継承もできない皇子への所得で皇室の財政が逼迫し、更に皇子が就任できる官職が限定的となり安定的な収入が得にくいということもあり、所謂、庶民になったほうが余分な支出を抑え、安定した収入が得られるという判断から臣籍降下が行われたのでした。ただ、庶民といっても1、2代目は権限こそなくなったのですが、上流貴族としての朝廷での地位は保証されており、実際には3代以降が没落して地方に土着したようです。
臣籍降下の概念が明確でなかった頃は、臣下であることを表す幾つかの氏及び姓が与えられたのですが、嵯峨天皇が815年(弘仁5年)に臣籍降下させた際に皇室と祖を同じくするという名誉の意味をこめて「源」を与えた事から源氏が始まります。一方、825年(天長2年)、桓武天皇が築いた平安京に因んだ氏が「平」で、これが平氏の始まりで、これ以降、臣籍降下は源平のどちらかに固定されるようになったそうです。

そのような背景の中で源経基とは、祖父が清和天皇で、父は清和天皇の第6皇子の貞純親王で、その貞純親王の長男、経基王として生年不詳ながら生まれました。当時は父の貞純親王が第6皇子だったことから皇族に籍していたときには六孫王と名乗ったとも言われているそうです。
父が第6皇子であったことから、当然皇位継承は殆どないため、この経基王が臣籍降下の際に名乗ったのが「源経基」だったのです。
したがって後世言われている清和源氏の初代がこの「源経基」ということになるのです。

この源経基が臣籍降下して得た官職は、武蔵介という当時の武蔵国の国司で、早速、承平8(938)年現地に赴任したのです。現在、埼玉県鴻巣市には伝承ながら源経基館跡があるので、この辺りに落ち着いたのではないかと考えられているようです。
着任早々、同じく赴任した武蔵権守興世王とともに武蔵国(現在の埼玉県・東京都の大部分と神奈川県の一部)の豪族である足立郡司で判代官の豪族、武蔵武芝に貢物や賄賂を要求したのでした。この辺りは臣籍降下といえども1、2代目は上流貴族としての特権は持ち合わせていたようです。しかし、この要求を武蔵武芝に拒否されたため、経基らは兵を繰り出して武芝の郡家を襲い略奪を行ったのです。
この話を聞きつけた平将門が私兵を引き連れて武芝の許を訪れると、経基らは妻子を連れ、軍備を整えて比企郡の狭服山へ立て篭もります。しかし将門の仲裁によって一旦は和解するものの、その最中に武芝の一派が経基の営所を包囲すると、経基は将門らに討たれると思い京都に逃げ帰り彼らの謀反を朝廷に訴えています。
この時の行動を将門記では「介経基、未だ兵の道に練れず」と記載しているそうですから、「源」姓もまだ名前だけといったところでしょう。その後、将門らの謀反の申し開きが認められると、逆に経基は讒言の罪によって拘禁されたのでした。
しかしながら将門の乱が勃発すると経基は放免され、将門追討の副将となるものの追討されたことを知り帰京するのでした。更に藤原住友の乱でも平定に向うのですが、これも先に平定されてしまい後始末をする程度の活躍しかできなかったようですが、それでもやはり貴族であることから最終的には鎮守府将軍にまで上りつめたそうです。
応和元(961)年没で、京都の六孫王神社に経基のものと伝える墓があるそうです。

この様に華々しい活躍は見られませんが、なんと言っても源氏の祖としての歴史上の立場は重要で、この後、源経基、満仲、頼信(河内源氏祖)、 頼義 、義家 、 義親 、為義 、 義朝 、頼朝と続く源氏の本流の祖となるのですから子孫によって名を残したと言っても過言ではないかもしれません。
このような源経基建立の神社ですから、八幡社としてはかなりの由緒をもった社と言えるでしょう。

ここにはもう一つ本尊についての詳細も説明があります。

埼玉県指定有形文化財 木造僧形八幡坐像(付 紙本墨書造像願文等三十七点) 昭和39年3月27日指定
この像は、当神社の神体として安置されています。像は応神天皇の霊といわれる「八幡神」が仏(菩薩)の姿に表現されたもので、八幡大菩薩とも呼ばれます。このような仏の姿の神像は、奈良時代から神と仏は同じもので、神は仏が姿を変えてあらわれたとする考え方が生まれ、以降その様な説が広められたことにより造られました。(以下省略)
(現地案内板説明文より)

木造僧形八幡坐像 その坐像の写真が案内板に掲出されています。

仏ですから八幡という武勇の神としての荒々しさは全く感じません。むしろ平和を祈願するといった穏やかさが滲み出ているようです。
それはそれで良いのかもしれません。

社殿 神門を抜けて拝殿で参拝を済ませます。

本殿 本殿も、本殿を囲う垣も輝きがまぶしいくらいの朱色で彩色がされていて、遠くからでも強いインパクトがあります。

峯ヶ岡八幡神社の社叢 そして社殿を囲うように樹木が鬱蒼と茂っています。

川口市指定天然記念物 峯ヶ岡八幡神社の社叢  (昭和51年2月19日指定)
この神社の森は、シイ、シラカシ、タブノキなどの大木が多く、川口の自然植生である照葉樹林のおもかげを濃く残している社叢です。
境内にあるケヤキ、シイ、タラヨウ、イチョウは、市の保存樹木にも指定されており、この他にムクノキ、スギなどの大木もあります。特に社殿右手にあるイチョウは、目通り(地上より1.5mの高さの幹周)8m、推定樹齢600年という県内有数の巨木です。また、大木の幹にはノキシノブが着生し、林内にはムラサキシキブ、ガマズミなどの低木やベニシダ、ヤブミョウガ、ノブキなどの草木が生育しています。
この社叢は、峯ヶ岡八幡神社の歴史的意味も含めて、川口の本来の自然を伝えるものとして保存的価値が高いと思われます。
川口市教育委員会
(現地案内板説明文より)

保存樹木イチョウ 社殿右手のこのイチョウは川口市の保存樹木にも指定されています。

社のご神木かもしれませんが、伝説によると昔この神社に参詣した年令800才になりながら15、6歳の美しさを保っていた若狭の尼僧・八百比丘尼がひと休みしたあと置き忘れていった杖が根付いて成長したものといわれています。
樹齢600年ともなれば何を言っても嘘にはならないでしょう。

かつて名前だけは毎日のように聞いていた「峯ヶ岡八幡神社」ですが、このような歴史を持っていたとは大変な驚きとともに非常に興味深い神社でした。
それにしても目と鼻の先に将門を祀った「密蔵院」があるのですからこれも歴史の妙でしょうか。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks