安行散策 #8

諦めが悪いというか貧乏性というか、とにかく時間が余っているので更に散策を続けます。
先ほどの峯八幡バス停が懐かしの場所なら、峯八幡の一つ川口駅よりのバス停及びこの路線の経由が「新郷支所」でした。その新郷といえば有名なのが「新郷貝塚」です。
「新郷貝塚」の名は確かに知っていましたが、勿論訪れたことはありません。
次はやはり懐かしシリーズ第2弾とでも言いましょうか、「新郷貝塚」を訪れます。

新郷貝塚

場所は昨日訪れた「安行原の蛇造り」から南下して5、6分程度の距離にありますが、その道から奥に入ったところなので判りにくいところではあります。
現在は、「新郷若宮公園」として整備されている中にあるようです。

新郷貝塚 綺麗に刈り込まれた生垣と、樹木で覆われているところが「新郷若宮公園」です。

埼玉県指定史跡 新郷貝塚 (大正12年3月31日指定)
新郷貝塚は川口市内で最大規模のものであり、原形を留める数少ない遺跡です。貝塚は東側から入り込む谷の最奥部を囲むように存在し、4地点の貝塚(A地点・B地点・C地点・D地点貝塚)が馬蹄形をなしているものです。貝塚は東西約120m、南北約150mの広がりを持ち、厚さはA地点貝塚で1m以上の堆積をしています。発掘調査の歴史は古く、1893年に鳥居龍蔵により調査が実施され、その後、1927年秩父宮御台臨に際して柴田常恵が、1931年には県史編さん事業として、さらに1933年には東京帝国大学医学部解剖学教室が発掘調査を実施しています。これらの調査によって、3軒の住居址と伸展葬3体を含む5体の人骨が検出され、縄文時代後期称名寺式・堀之内式・加曽利B式・後・晩期安行式土器が出土しました。他に土偶・土版・耳飾等の土製品や石鏃・石斧・石棒等の石器類、貝輪や貝刃が出土しています。川口市教育委員会
(現地案内板説明文より)

新郷貝塚 貝塚の規模と4地点の位置関係はこのようになります。

A地点貝塚 先ずはA地点を散策します。

A地点貝塚
新郷貝塚を構成する地点貝塚のなかで最も規模が大きく、貝塚の大きさは東西約25m、南北約78mを測り、中心部の広場を囲む三日月状を呈しています。 また、貝塚はボーリング調査の結果、厚さ1m以上堆積していることが判明しました。 これは、長い年月をかけて築きあげた縄文人のモニュメントと言っても過言ではありません。
貝塚の中央には、1927年10月の秩父宮御台臨を記念した石碑が立っています。 このA地点貝塚は、過去数回の発掘調査がなされ、その際、竪穴住居址や縄文人の骨が発見されています。皆さんも足元に縄文人の息吹が感じられることと思います。川口市教育委員会
(現地案内板説明文より)

A地点貝塚 貝塚には現在でもかなりの貝殻を散見することができますが、素朴な疑問としてこの貝殻が古の貝殻だとしてもあまりに綺麗過ぎるのではないのかな、と考えてしまうほど綺麗な貝殻です。

特に地上に現れているのは風雨に曝されているのですから、もっと汚れていても良いのではないかと余計なことを考えてしまいます。

新郷貝塚 中央には、説明にあった記念の石碑があります。

新郷貝塚 この石碑には昭和2年にいらしたようですが、その時の写真がこれです。
《写真:(C)國學院デジタルミュージアム》

この写真は國學院大学が所有している写真を掲出(無断ですので問題あれば削除いたします)させていただきました。
これは先の説明にも記載されていた、明治後半から昭和前期にかけて活躍した考古学・文化財保護行政の専門家である柴田常恵氏の写真で、氏の残した調査関係資料が死後、國學院大学の所蔵となったものだそうです。
そして、この写真は貝塚の前での1ショットで左が秩父宮殿下、中央が柴田常恵のようです。

新郷貝塚 また、当時発掘された縄文人の人骨も写真として残っています。
《写真:(C)國學院デジタルミュージアム》

このほかにもまだ数点貝塚関連の写真もあり、またそれ以外にも貴重な写真が数多くある非常に貴重なデータベースです。

参考:【國學院デジタルミュージアム柴田常恵写真資料 http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/dbSearchList.do;jsessionid=5BCAB6742C31017B371F273C00440390?class_name=col_fsj&startNo=1&search_condition_type=1&db_search_condition_type=1&View=1&hdic_maxcls_select=9

次にB地点に移動してみます。

B地点貝塚
東側に広がる貝塚がB地点貝塚です。B地点貝塚は、新郷貝塚のなかでは最も南側に位置し、馬蹄形貝塚の東側先端部分にあります。 貝塚の大きさは東西約50m、南北約30mであり、東側に緩やかに傾斜する部分に楕円形状に貝が散布しています。 この貝塚はA地点貝塚に比べ貝の散布がまばらで、厚さも薄いようです。 この地点とA地点貝塚とは標高で約1m程差があり、いかにA地点貝塚の高まりが高いかわかることと思われます。川口市教育委員会
(現地案内板説明文より)

AB段差 A地点から来る途中の小道でその高低差が理解できます。

B地点貝塚 B地点はまさに公園の先にあるのですが、生垣と樹木で殆どそ遺構は判りません。

次はC地点に廻ります。

C地点貝塚
新郷貝塚を形成する地点貝塚のなかで最も北に位置します。 この貝塚は、台地の縁辺部から斜面部にかけて形成された小規模なもので、東西約10m、南北約20mの大きさを測ります。 この地点は1985年、保存整備のために発掘調査が実施され、調査の結果、崖線下のローム平坦面より竪穴住居址や小竪穴が確認されました。 このことは縄文時代の生活の舞台が貝塚のある台地上だけでなく、低湿地に面する台地下にまで進出していたことを物語っています。
現在、斜面部には土砂流失を防ぐ工事がなされており、斜面の貝塚は保存されています。川口市教育委員会
(現地案内板説明文より)

C地点貝塚 奥には入れないので状況はわかりませんが、このように斜面になっており近くでも貝殻が散見できます。

そしてそのすぐ近くがD地点です。

D地点貝塚
D地点貝塚は、C地点貝塚と同様に台地の縁辺部から斜面部にかけて形成されたものです。 大きさはC地点貝塚と同じく小規模のものと考えられますが、詳細な調査はなされておらず、規模は不明です。 斜面廃棄型の地点貝塚として、隣のC地点貝塚と一体となる可能性もあります。 新郷貝塚の立地する台地上で生活を営んでいた縄文人は、生活の糧を眼前に広がる広大な低湿地に求めていました。 魚介類の採集や加工の場として水辺は生活の重要な舞台であり、ここを拠点に彼らは丸木舟を操り、海へと乗り出して行きました。  川口市教育委員会
(現地案内板説明文より)

D地点貝塚 写真では判りにくいのですが、D地点もかなり貝殻が散見できます。

ここから海へ乗り出していったというイメージは、現在のこの住宅地の中では想像の難しい光景ですが、まさに古代浪漫といったところでしょうかね。

チューリップ畑 帰りがけに見た小さなチューリップ花畑がふと現実に引き戻されましたが、これだけ整備され保存状態の良い遺跡とは思いませんでした。

峯ヶ岡八幡神社同様、思ってもみなかった貴重な史跡が川口市にあったものです。

九重神社

「新郷貝塚」からはちょっと離れた東方向にある「安行出羽公園」に向う予定でしたが、昨日場所がよくわからず寄らず仕舞だった「九重神社」に立ち寄りました。
この「九重神社」は昨日訪れた「密蔵院」のすぐ隣にありながら、灯台下暗しでその場所がわからず引き揚げてしまった神社です。

看板 途中、道沿いにこんな看板を見つけました。
何と植木屋の看板で360年の歴史も驚きですが、この看板のイラストも驚きです。

安行でなければお目にかかれない看板でしょう。

再び訪れてみればなんと言うことはなく、全く歩いて1分もかからない隣にあるのに、妙に車で探したものだから判らなくなったということが・・・、判りました。
という事で「九重神社」に到着です。

九重神社 石段を上がったところに一の鳥居と社号標があります。

一の鳥居のすぐ先に二の鳥居があります。一の鳥居は鹿島鳥居系で、二の鳥居は明神鳥居系でしょう。

社殿 そしてそのすぐ先に社殿があります。

社殿としては特に一般的なものですが、なんと言ってもそのピンク色の彩色が物珍しい社殿といえるでしょう。

本殿 それに比べ本殿は小さな一間社で全くノーマルな造りです。

おみくじ また、社殿で特に目を引くのは、そのおみくじの種類です。

恋みくじ、天然石おみくじ、とんぼ玉おみくじ、血液型おみくじ、招き猫おみくじ、おりがみおみくじ、おみくじ、水みくじ、こどもおみくじといったように9種類ものおみくじがあるのです。
まるでゲームコーナーのような賑わいで楽しそうな雰囲気です。

保存樹木スダジイ 社殿の左側には保存樹木であるスダジイが聳えています。

樹齢500年以上のご神木で幹周りが6,5メートルあり、記録されているシイの大木では埼玉県第一の規模のものだそうです。
このスダジイは新潟県から福島県あたりを北限とする暖地性の木で、スダジイとツブラジイを合わせてシイノキとよんでいるのだそうです。秋にはドングリがなり甘みがあってそこそこ美味しいそうで、昔の人はこれを食用として重宝したそうです。

道標 そして、そのスダジイの前に「御嶽山、安行で一番高い山(海抜32メートル)」と書かれた立て札があります。

御嶽山登山口 という事でここからが登山口のようですが、右側に御嶽山と刻まれた石碑があります。

御嶽山頂上 また、頂上には三笠山、御嶽山、八海山と刻まれた石碑があります。

恐らく山岳信仰の一つである御嶽信仰のものでしょう。
一般的に「富士山・白山・立山」が山岳信仰の日本三霊山といわれているのですが、白山または立山を御嶽山と入れ替えて三霊山とする説もあるようで、それだけ御嶽信仰が篤いということでしょう。

御嶽山眺望 その安行で一番高い場所からの眺望です。

手前に見える墓地は密蔵院の墓地で、密蔵院での八景で「久保山と密蔵院」とあったのは、密蔵院から九重神社の辺りのこの小高い周辺が久保山だからなのですね。今、やっとわかりました。
安行でもなかなか珍しいところで、立ち寄った甲斐があったというところです。

安行出羽緑道

「九重神社」から何故「安行出羽公園」へ向うかといえば、「興禅院」を訪れた際に「ちい散歩」で取り上げられたと知ったからです。
つまりミーハーな気持ち以外の目的は無いということです。
桜の名所でもあるようですが、残念ながら花見の時期はとうに終ってしまっていますし…。

安行出羽公園 「安行出羽公園」は綾瀬川の支流である伝右川沿いにある公園で、伝右川の先はもう草加市です。

ここは元々低地の湿地地帯で、安行の植木といわれた江戸時代においても開発の取り残された地域だったようです。
しかし、昭和になって徐々に開発されていくなかで無秩序な開発が多くなり、川口市安行出羽特定土地区画整理組合が発足し、道路、公園、緑道水路、上水道などが整備された結果造られた公園なのだそうです。

出羽タワー 結構、広い公園で中央にはアスレチック風の遊具である通称「出羽タワー」が聳えています、って程ではないですが、まるで忍者のように子供が飛びついています。

モニュメント 一画にはモニュメントがあり、先の土地区画完了を記念したもので「人」の字を表しているのだそうです。

安行出羽緑道 そして公園の北側に安行出羽緑道がはじまっています。

細い水路が石垣と樹木で綺麗に整備されています。ここを辿って散策してみます。

ときめきランド ちょうど出羽公園から離れるところから「ときめきランド」と書かれたゲートが立っています。

水路の名前もあり「しあわせがわ」だそうです。
ときめきランド ここからは緑道の幅も随分広くなっています。

ときめきランド 暫く進むと橋で道路と交差し、その先が桜並木になっています。

殆ど葉桜ですが見ごろの頃は息を呑む美しさとか・・・。

ときめきランド ときめきランドはまだまだ続きますが、最終は先に見える外環道路までのようです。

車を出羽公園に止めてきたので、ここで戻りますが今日のように天気の良い日は散歩には実に気持ちの良い緑道です。
くれぐれも悪臭を放つような水路にはなって欲しくないですね。

源長寺

今回の散策のラストは、昨日赤山城址を訪ねた時に知った伊奈家の菩提寺である「源長寺」です。
やはり、赤山城址を訪れてここを訪れないのも片手落ちでしょう。

源長寺 間口の狭い山門を入ると奥はかなり広そうな境内です。

関東郡代・伊奈氏と源長寺
源長寺は、関東郡代伊奈忠治によって、元和4年(1618)に、伊奈家の菩提寺として再興された。当時の赤山陣屋を描いた「赤山鹿絵図」にも源長寺の名が読み取れる。また、寺領47石を有し、寺の総建坪が108坪に及んでいた当時の様子は、「源長寺間取絵図」からもうかがえる。
寛政4年(1792)、12代伊奈忠尊が関東郡代を罷免され、伊奈家は改易、赤山陣屋は取り壊しとなった。これに伴って、源長寺は伊奈家という最大の檀家を失うことになり、寺領も47石から11石余りにまで減らされ、急速に衰退していった。
まさに伊奈家と運命をともにしたといえる源長寺が、現在の姿に復興するまでには、その後約200年を要したことになる。

源長寺の再建
明治の終わり頃の源長寺はかなり荒廃していて、「源長寺絵図」に描かれている築地塀や広間・供部屋のある庫裏などは、あとかたもなかった。その後、大正6年(1917)、この状況を憂えた関係者から本堂再建の声があがり、完成予想図までも描かれたが、寄付金が集まらず、実施にはいたらなかった。
昭和9年(1934)頃の源長寺は、むしろ4畳、たたみ8畳の部屋の奥に本尊がまつられているだけの状態だったという。また、壇信徒が離れていったため墓所も荒れてしまったが、伊奈家頌徳碑や伊奈家代々の墓は、かろうじて残されていた。
そして昭和63年(1988)現在の本堂が建立された。川口市教育委員会
(現地案内板説明文より)

権力と結びつくと興隆も早いが、突如として没落していくケースは多いものです。源長寺もその一つで典型的な例といっても過言ではないでしょう。
再興まで200年以上かかったということですが、逆に良く再建できたものと、それのほうが驚きです。
寺院ながら天国と地獄を見たといったところでしょうか。

境内には、幾つかの文化財があるようです。

源長寺で見られる文化財
寛文13年(1673)、6代住職の弟子の一人が21歳で亡くなり、その菩提を弔うため、募金30両を投じて本尊・阿弥陀如来座像と光背が造立された。これが現在の本尊及び光背である。また、同年6月13日には、伊奈家5代・忠常によって、初代忠次から4代忠克に至る伊奈氏の事績を刻んだ伊奈家頌徳碑が建立されている。
また、境内には、中世の人々が追善供養や生前供養のために建てた板碑がある。その年代は、鎌倉時代後期から室町時代後期までの203年間にわたっており、境内とその周辺から発見されたものである。中世の人々の信仰生活を知る上で貴重な資料である。川口市教育委員会
(現地案内板説明文より)

源長寺板碑群 これがその板碑です。

比較的小型の板碑ですが、このようにキチンと保存されると一般の人にも判り易いホスピタリティな配慮です。

涅槃像 板碑の反対側には、大きな涅槃像があります。

釈迦如来像は一般的には誕生像、 苦行像、降魔像、説法像、涅槃像に造形化されているそうで、これはその一種ということになります。
釈迦は80歳で沙羅双樹のもと、身を横たえて入滅したのですが、そのときの姿が涅槃像で、頭は北向きで顔は西向き、横臥する姿勢で右手を手枕にしている構図ですが、この作法から死者は北枕となったのです。

本堂 本堂で参拝を済ますと、先ほどの文化財である本尊の説明があります。

川口市指定有形文化財 彫刻 源長寺の阿弥陀如来坐像 昭和53年4月5日指定
阿弥陀如来とは、無量光如来(無限の光をもつもの)、無量寿如来(無限の寿命をもつもの)とも言われています。また、阿弥陀如来は一切の衆生救済のために王位を捨てて出家し、人々を救い浄土の往生させたいと48の誓願をたて、長い間修業の後、西方極楽浄土の教主となった報身仏と説かれています。
当寺の本尊である阿弥陀如来坐像は、温顔で体躯は丸みを帯び、江戸時代初期の作品と考えられます。様式的には、藤原期に盛行した定朝様式が忠実に表現されています。木造寄木造で、法量は像高88.5cm、肘張り54,6cm、膝張り72,0cm、光背高142,0cmを測ります。
像の背面には「聖蓮社冏誉蘆含和尚」の朱字銘が記されています。冏誉蘆は源長寺6世天冏の弟子で、寛文13年(1673)5月5日に僅か21歳の若さで入寂しています。また、この銘には、彼の菩提を弔うために30両が寄進され、これを基にして本尊と光背が再興されたことが記されています。蘆含に関する詳しいことは不明ですが、源長寺を再興した関東郡代伊奈氏の一族であろうと推測されています。川口市教育委員会
(現地案内板説明文より)

ここに説明のある定朝様式とは一体どんな様式なのかと調べてみると、定朝とは仏師の名前だったのですね。てっきり朝廷における流行の様式という意味かと思いました。
そこで、その定朝様式を調べて見ると、大別して3つの特徴があるようです。
1.定朝様:平安時代以前の中国の影響を受けた古代彫刻の余韻を残しながらも、神秘的・威圧的な唐風から抜けだし、彫りが浅く平行して流れる衣文、瞑想的な表情などといった和様の仏像彫刻であること。平明で優雅な仏像は、「仏の本様」と称されたそうです。
2.寄木造:それまでの1本の木を素材とする一木造から、数本の木を組み合わせて作る寄木造の手法をあみだし、多数の仏師が同時に製作にかかれ、大量生産や巨像造りが可能となる分業制を作り上げたこと。
3.仏師・仏所:それまで寺院に所属して造仏してきた仏師を独立した仏所を設けて集め、徒弟制度や世襲・流派などのシステムを作りあげ、大規模仏所を運営したこと。
といったところが定朝及び定朝様式といわれる由縁のようです。
様々な作品を残していると言われているのですが、定朝の確実な遺品は、宇治平等院鳳鳳堂の阿弥陀如来坐像だけだそうです。
確かに分業制を作りあげたわけですから、作者の見極めは難しいのでしょうね。これも痛し痒しでしょうか・・・。

最後に伊奈家墓所を詣でます。

川口市指定有形文化財 歴史資料 伊奈家頌徳碑 昭和48年5月24日指定
「頌」とは、褒め称える、人の功績を称えるという意味があります。
この石碑は、寛文13年(1673)に伊奈家5代半十郎忠常が初代半左衛門忠次から4代半左衛門忠克に至る伊奈家4代の功績を称え、その数々の事跡を後世に伝えるとともに、その徳を称えるために、菩提寺である周光山源長寺の境内に建立したものです。
碑には根府川石が用いられ、碑台の正面には亀跌が彫られています。跌とは「足の甲」の意味で台石を表し、宋代には亀は「贔屓」であるとの伝説があります。贔屓は龍の九つの子のひとつです。中国ではこの時代、皇帝は親としての龍であり、高位高官の者を子として贔屓に見立てたといいます。この頌徳碑が亀跌碑であるということは、江戸幕府にあっていかに伊奈氏代々が重用されていたかを物語っています。
碑文は、弘文学士院林之道甫(林羅山の子鷲峯のこと)の撰により、漢文1,928文字が刻まれています。その内容は、初代忠次が東照神君(徳川家康のこと)に従って数々の勲功や開墾に努め民政上の功績、2代忠政が大坂の役における功績、3代忠治が武州7,000石を領しての功績、4代忠克が治水事業といったように、伊奈家代々の事跡が克明に記されており、関東郡代伊奈氏を知る上で貴重な資料となっています。
その後、伊奈家は、寛政4年(1792)12代忠尊が改易に処されるまで、代々関東郡代職を歴任し、幕政に寄与しました。川口市教育委員会
(現地案内板説明文より)

伊奈家頌徳碑 こちらがその「頌徳碑」と墓所です。

この墓所は4代忠克以降の代々の墓です。初代・忠次、2代・忠政、3代・忠治の墓は、当時陣屋が小室にあったことから鴻巣市の勝願寺にあります。
以前【第12回コスモスフェスティバル】で鴻巣市を訪れた時に勝願寺の墓所を参詣しました。
さすがに代々の関東郡代ですから、埼玉県や東京都ではその功績も大きく評価されているようです。
流石に伊奈家の菩提寺だけあって中央の歴史につつまれた興味深い寺院でした。

以上、今回は2日に渡って散策を繰り広げましたが、さすがに故郷は懐かしい気持ちで一杯になります。確かに故郷というのはおこがましいものの、それはそれで故郷の新しい発見でもあり、故郷がそれだけまた魅力的な場所だったということでしょう。
原風景とまでは言えないまでも、そこはかとなく江戸時代の香りを残しているような魅力的な安行でした。

2011.05.01記

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